第二章「イマージュの再認について ― 記憶と脳」 第二節「運動と想起」

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは第二章第二節「運動と想起」(p.118 14行目−p.131 12行目)の内容を解説したものです。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています

もともとは、ブログ版の記事を加筆修正したものとなります

第二章第二節『運動と想起』(p.118 14行目−p.131 12行目)の出だしはこう始まっている

『II - <再認一般、イマージュ想起と運動について>』(p.118 15行目、<>内はテキスト傍点付き)

章の冒頭部分ではこの節をどうまとめてあったか、ここで再掲すると、

『II - 現在の対象の再認は、それが対象から生じるときには運動によって行われ、それが主体に由来するときには表象によって行われる』 (p.101 10-11行目)

と、ある。

二種類の再認について論じているようだと、まずは考えるべきなのだろう。ここまでの議論と 共通しているところは、一つの想起には運動が関わっている、もう一つは表象、もしくはイマージュ

では、本文を順を追って読んで行くことにしたい。例によってこの節も出だしは柔らかいのだけれども、論の構造は相当複雑になっている。

出だしから見ることにしよう。

『「既視感」(déjà vu)の感情を説明するには通常二つある。』(p.118 15-16行目)

と、われわれの誰もが経験したことがあるであろう感情・感覚から始まる。

『ある人たちにとって、現在の知覚を再認する事は、古い縁飾りの中に現在の知覚を差し込むことに存するだろう』(p.118 16行目-p.119 1行目)

これは言い方を変えると、

『再認する事は、現在の知覚に、かつてそれと隣接していた諸イマージュを連合させることであろう。(10)』(p.119 5行目-6行目)

(筆者注:引用文の最後の(10)は、本文中の参考文献の番号。この文章では、文献を引いてるというイメージがわかるようにするため敢えて番号を表示している。)

これをわれわれは、一番目の再認の説明と呼ぼう

続いてもう一つの説明がされる。引用しよう。

『しかし、正当な根拠を持って指摘されたように(11)、刷新された知覚が、はじめの知覚と同時的に伴っていた諸状況を示唆することができるのは、それと類似した現在の状態によってまず喚起されている場合だけである』(p.119 6行目-8行目)

同じようにこの考えを二番目の再認の説明と仮に呼ぼう。

ここまでを、もうすこし、わかりやすく説明したい。再認ということを、ジグソーパズルのピースを当てはめることに例えよう。うまく当てはめられれば、再認がうまく行ったということになる

一番目の説明は、まさにこれで、再認の時に、新しい知覚をジグソーパズルのピースを当てはめるような、そのような記憶の探し方をするだろう、ということである。しかし、二番目の説明では、いやいや、ピースを当てはめるには、すでに、あらかじめ周りのピースがそれなりに埋まってないとできないんじゃないか。では、すでにあるそのピースはどうやって当てはめられたんだい、というわけである

論を進めよう。ベルクソンの説明では、一番目の説明は二番目の説明にとけ込むことになるのだが(p.119 15行目-17行目)、その後に詳しく書いてあるので、それを追っていきたい

『今回前提とされているのは、現在の知覚が、記憶の奥底に、現在の知覚と類似している以前の記憶を常に探しに行くということであり、その場合、「既視感」の感情は、知覚と想起の並置あるいは融合から生じるだろう。深淵にも指摘されたように(12)、類似はおそらく、精神が接近させ、それ故すでに所有している諸項のあいだに、精神によって確立された関係であって、したがって、類似の感覚は連合の原因と言うよりむしろその結果である』(p.120 1行目-6行目)

つまり、似ているというのがわかるというのは、精神が何らかの関係を確立した結果である、ということだろう

『しかし、精神によって把持され引き出された一要素を共有することのうちに存する、この知覚された明確な類似とは別に、漠然とした、いわば客観的な類似があって、この類似はイマージュそのものの表面に広がり、相互牽引の物理的原因のごときものとして作用しうる』(p.120 6行目−9行目)

上記二つの引用をまとめると、似ているというのが分かるかということが心の何らかの働きの結果であるのであるならば、そのメカニズムはどうなっているか、ということで、ここではベルクソンは『漠然とした、いわば客観的な類似があって』、『イマージュそのものの表面にひろがり』、『相互牽引の物理的原因のごときものとして作用しうる』と言っている。このことは、徐々に詳しく述べられることになるだろう


さて、ここからあと(p.120 9行目-p.121 3行目)、現代でもほぼ否定されているいわゆるおばあさん細胞についいて批判しているというのが専門的にはおもしろい

おばあさん細胞というのは脳細胞がそれぞれ専門化しており、自分のおばあさんならおばあさんを認識する専門の脳細胞があって、記憶はそのような形で蓄積されているという考え方だ。しかし、ベルクソンは明確にこれを否定している

『しかし、実際には、知覚と想起の連合は、再認の過程を説明するのに十分では全くない。というのも、再認がそのように行われるとすれば、再認は、古いイマージュが消失してしまったときにはおこなわれなくなり、これらのイマージュが保存されているときにはつねに生じるだろうからだ』(p.121 4行目-7行目)

ここでは、精神盲を例としている。精神盲とは、何らかの脳の異常のせいで記憶の想起は可能であっても、再認に問題がある病気のことである。下引用文では、再認と想起が別々の仕組みで起きていることを示唆する実験の例が挙げられている

『それゆえ、精神盲(cécité psychique)ないし、認知された対象を再認できないことは、視覚的記憶の抑制なしには進展しないだろうし、とりわけ視覚的記憶の抑制なしには進展しないだろうし、とりわけ視覚的記憶の抑制はいつも決まって精神盲を結果として引き起こすだろう。しかるに、実験[経験]はこれら二つの帰結のどちらも実証していない』(p.121 7行目-10行目)

『実験[経験]』というのは、一つは、ヴィルブラント[Hermann Wilbrand,1851-1935,ドイツの視神経学者]の研究例と、フリードリッヒ・ミュラー[Friedrich Müller, 1834-1898,ウィーンの言語学者]とリッサウラー[Heinrichi Lissauer,1834-1898,ドイツの神経学者]研究例である。(p.121 10行目-p.122 3行目)

これは、簡単に言うと、思い出すことはできるが、再認ができない、たとえば、その光景を絵に描くことはできるが、そこに行っても同じ場所かどうかを確認できない、という病気の方ががいるという例である

これから、ベルクソンはまず、『視覚的想起の保存は、それが意識的なものであっても、この想起に類似した知覚を再認するには十分でないのだ』と結論づけている。 (p.122 2-3行目)

ここまでを一旦、簡単にまとめると、おばあさん細胞のような想起の保存ならば、再認は知覚と同時に行われる。思い出すことはできるが、再認はできないなどということは起こりようがない、と言えるのではないだろうか


次に、一つ一つの具体的な対象物は再認できないのに、抽象的な概念だけを再認できる例が挙げられている

ベルクソンは視覚的イマージュの完全な消失について、シャルコー[Jean Martin Charcot,1825-1893,フランスの神経学者]の当時すでに古典的となっていた研究から、そのことが『知覚の再認すべてが廃棄されたわけではない』と言及している。(p.122 3行目-12行目)

これは、見慣れたはずの街並みや自分の家族は認識できなくても、そこが通りであったり、女性や子供である、ということは理解できるという症例である。

したがって、『廃棄されたのはそれゆえ、再認能力一般ではなく、ある種の再認であって、我々はそれを後で分析せねばならないだろう。結論を述べておくと、どんな再認もが古いイマージュの介入を含意しているわけでは必ずしもなく、諸知覚をこれらの古いイマージュと同定する事は成功できなくても、やはりこれらのイマージュに訴えることはできるのだ』(p.122 12行目-16行目)


ここまで再認について、様々な病例の研究を挙げて考察してきたわけであるが、

『結局のところ、再認とはいったい何なのだろうか。われわれは再認をどのように定義したらいいのだろうか』(p.122 16行目-17行目)

との自身の問いかけに、ベルクソンは、まず、『瞬間の再認』について説明する。これは、現在いわゆる条件反射という言葉で説明されているものである(p.123 1行目-9行目)ここの部分は、必要ならばまた後に戻ることとして説明は省略し、後の部分を見てみたい

『ところで、一方では、知覚はそれに伴う一定の諸運動をまだ組織しておらず、他方では、知覚と同時的に生じている諸運動は、私の知覚を無用なものにするほどまでに組織されているという、これら二つの極限的な状態の間には中間的な状態があって、そこでは、対象は認知されるが、この対象が、互いに結びつけられ、連続的で、相互に制御し合うような諸運動を引き起こすのだ』(p.123 9行目-13行目)

と言う。ここから数行難解な記述があって非常にわかりにくいので、ここではその結論として『再認の基盤には、まさしく運動性の秩序に属する現象があるだろう』(p.124 4行目-5行目)ということを覚えておけば良いだろう。言い換えればすなわち、条件反射という再認よりもっと高度な再認があって、そこにも何らかの『運動性の秩序に属する現象』があるだろう、と言っているのであろう。

このように、条件反射のようにまったく意識を必要としない再認と、完全に意識を必要とする再認との中間が存在し、そこには、『実に規則正しい運動の随伴、組織化された運動性反応の意識』が『なじみ深さの感情の基盤』となっている推測されると述べられている。ここから、『再認の基盤にはまさしく運動性の秩序に属する現象があることになるだろう』と指摘されている(p.123 16行目−p.124 6行目)

『日用品を再認することは何よりも、それを使うことができるということにある。(中略)日用品を使うことができるということは、すでにそれに適応する諸運動を素描することであり、ある態度を取ることである、とは言わないまでも、少なくてもドイツ人たちが「運動衝動」(<Bewegungsantriebe>)と呼んだものの効果によってある態度を採ろうとすることである。』(p.124 7-11行目、<>内はテキストイタリック)

『それゆえ、対象を利用する習慣は』、『最終的には運動と知覚をひとまとめに組織するようになり』、『反射のように知覚に後続する生まれつつある諸運動についての意識が、ここでもまた、再認の根底にあることであろう』(p.124 12行目-14行目)

(筆者注:この段落の引用は、テキスト上では一続きではあるが、理解の一助として、『』で意味のまとまりを分けてみた。)


このあとすぐに、こう始まっている。

『運動へと引き延ばされないような知覚は存在しない』(p.124 15行目)

ここからしばらくは、機械学習、とくにニューラルネットワークの勉強をした人がわかるだろうが、教師あり学習の話をしていると思われる。この本では、ベルクソンの先見性にしばしば驚かせられるが、これもその一つである。引用しよう

『リボー(21)[Théodule Armand Ribot, 1839-1916, フランスの心理学者]とモーズレー(22)[Henry Maudsley, 1835-1918,精神病理学者]はずっと前からこの点に注意を喚起していた。諸感覚の教育は、感覚的印象とそれを利用する運動とのあいだに確立された数々の結合の全体のうちにまさしく存している。印象が反復されるにつれて、結合は強化される。そもそもこの操作の機構は不可思議な点を何ら有していない。明らかに我々の神経系は、諸中枢を介して感覚の刺激と結ばれる運動器官の構築のために使われており、諸神経要素の不連続性、末端の樹上突起の多様性 ―これらの突起はおそらく様々な仕方で接近し合うことができる― は、諸印象とそれに対応する諸運動のあいだの可能的な結びつきの数を無制限に増加させている。』(p.124 15行目-p.125 6行目)

これは、ニューラルネットワークもしくは、ニューラルネットワークの一種であるパーセプトロンであることが証明されている小脳の働きをまさに言っていると思う。(ちなみに、このことは、Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/wiki/パーセプトロン)の記事の文章を引用すると、『1970年頃、デビッド・マー[2]とジェームズ・アルブス[3]によって小脳はパーセプトロンであるという仮説があいついで提唱された。のちに神経生理学者伊藤正男らの前庭動眼反射に関する研究[4]によって、平行繊維-プルキンエ細胞間のシナプスの長期抑圧(LTD, long-term depression)が見つかったことで、小脳パーセプトロン説は支持されている』とある。

以上が、いわゆる『運動』の仕組みであるが、『構築中の機構は、すでに構築された機構と同じ形で意識に対して現れることはできないだろう。何かが、有機体における強化された諸運動体系を根本的に区別して、明瞭に示している。この何かとはとりわけ、それらの体系の順序を変えることの困難さであるとわれわれは考えている』(p.125 6行目-10行目)

『それはまた、先行する諸運動の中で後続の運動が先形成されているということでもあって、この先形成ゆえに、部分は潜在的に全体を内包している。(中略)それゆえ、どんな日常的知覚もが、組織化された運動を随伴している以上、日常的再認の感情はこの組織化の意識のうちに根を張っているのだ。』(p.125 10行目-15行目)

つまり、われわれの日常の処理はどんな小さなものであっても、連続したものであるから、次の処理を先読みしてあらかじめある程度準備されている、と言い変えることができるだろう。現代の、たとえば、パソコンの中央演算装置(CPU)でも前処理としてこのような先読みがされている、と言えば、裏付けになるだろうか(複数のパイプラインと呼ばれる命令とデータの連続体に、CPUが処理するであろうプログラムをあらかじめ予測配置しておくということがなされている)

『つまり、通常われわれは、われわれの再認を思考するに先立ってそれを演じているのである。(中略)』そして『諸対象が現存するだけで、我々はある役割を演じるように促されているのである。』(p.125 16行目-p.126 1行目)

以上がこの節の基本的な内容である。テキストのこの節の残りはさらに詳細に検討されているだけであるので、残りは省略したいと思うが、運動図式とイマージュ想起との関係を補足しておきたい


『運動図式』とは、われわれがデッサンするときに線をつなげながら概略をデッサンしていくように、一連の繋がりを運動の形で記憶しているということをベルクソンは運動図式と言っている。該当例を引用すれば、

『つまり、図式〈シェーム〉をデッサンする運動傾向によってその視覚的知覚を補う習慣なのである。このことから、われわれがすでに告げていたように、そこ〔この習慣〕にこそまさに再認の第一義的条件があるのだと結論することができる』(p.130 12行目−15行目、〈〉内はテキストフリガナ)

というところが挙げられるだろう

以下興味深いところなので段落すべてを引用したい

『注意深い再認もまた運動から始まる。しかし、自動的な再認においては、われわれの運動はわれわれの知覚を引き延ばし、そこから有益な結果を取り出すことで、われわれを見られている対象から《遠ざけるの》だが、それに対して、ここでは反対に、われわれの運動は、われわれを対象へと《連れ戻し》、その輪郭を際立たせる。ここから、イマージュ想起が運動において演じている、もはや二次的ではなく主導的な役割が生じてくる。実際に、運動がその実利的な目的を放棄し、運動を引き起こす活動が、有益な反応によって知覚を継続する代わりに、後戻りをして知覚の顕著な特徴を描くのだと想定してみよう。その場合、現在の知覚に類似したイマージュ、これらの運動がすでにその形を生じさせているところのイマージュは、もはや偶発的にではなく規則的にこの〔現在の知覚という〕鋳型の中に流れ込むことになるだろう。ただ、この鋳型への参入を容易にするためにはたしかに、これらのイマージュの細部を放棄することは覚悟しなければならないのだが』(p.131 2行目−13行目)

要するに、『運動図式』によって活動が行われる代わりに、『後戻りをして知覚の顕著な特徴を描くのだと想定』する場合、イマージュはこの(細部は失われるかもしれない)『鋳型』の中に入ってくるという事になる。これが『イマージュ想起が運動において演じている、もはや二次的ではなく主導的な役割』と言うことではないだろうか




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