第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第一節 「現実的作用と可能的作用」

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています。

ここでは、第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第一節 「現実的作用と可能的作用」(p.8 1行目−p.15 12行目)について解説します。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています

まず、第一段落(p.8 2行目−p.10 5行目)

『しばらくのあいだ、われわれは、物質の諸理論と精神の諸理論について、外界の実在性もしくは観念性をめぐる諸論争について、何も知らないふりをしてみよう』(p.8 2行目−3行目)

しばらくの間、さまざまな専門知識を置いておいてわれわれが持つ一般常識の範囲で物事を考えてみるということであろう

『そうすると私は、数々のイマージュ(image)と直面することになるのだが、ここでイマージュというのは、私が感覚を開けば知覚され、閉じれば知覚されなくなるような、もっとも漠然とした意味でのイマージュのことである』(p.8 3行目−6行目)

『これらのイマージュはその要素部分すべてにおいても、私が自然の諸法則と呼ぶところの一定の諸法則に従って、互いに作用と反作用を及ぼし合っており、これらの法則が知悉されるなら、おそらく、各々のイマージュの中で何が生じるかを計算し、予見することができるだろう』(p.8 6行目− 9行目)

まず、漠然とした『イマージュ(image)』という概念が提出され、われわれが知覚しうるものであるという定義がなされる。次に、これは、物理的な諸法則に従うという事が明示される

『したがって、イマージュの未来はその現在のうちに含まれているはずだし、現在に何も新たなものを付け加えないはずである。しかしながら、他のすべてのイマージュと際だった対比をなすようなイマージュが一つある。私はそれを単に外部からの諸知覚によって知るだけでなく、内部から諸感情(affection)によっても知る。そのイマージュとは私の身体である』(p.8 9行目− 13行目)

イマージュについて、物理法則に従うだけならば、イマージュと物質の区別はない。しかし、『外部からの諸知覚』よっても知ることができ、かつ『内部からの諸感情』によっても『知る』ことができるイマージュがある、とされている。おそらくこれはわれわれの身体であろう。『知覚』がここで外部から来る物であるものに対して『感情』は内部から起こり『感覚』を開いた時の『知覚』同様に『知る』事ができるとされているところが興味を引く。

『それらの感情が生じてくる際の諸条件を検討してみて気づくことだが、感情は私が外部から受け取る震動と私が実施しようとしている運動の間に常に入り込むのであって、それはあたかも、感情が多少なりとも不確定な影響しか最終的な歩みに及ぼすことがないかのようなのだ』(p.8 13行目−16行目)

ここからしばらくは、『感情』が、『知覚』器官からの『震動』とそれに対しての『運動』にどのように影響を及ぼすかなどが検討される。後でベルクソンは、脳を含む神経網を説明するにおいて『感覚』と『運動』をひとつの組とした理論を展開するのだが、そこでは『感情』は夾雑物として省かれることになる。以下はベルクソンが説明を詳しくして行くままに見て行きたい。

ところで、余談であるが、東洋、特に日本で江戸時代に発達した儒学の一派では感情もまた行動を決定する判断において「理性」と共に重要なものだとされてきた。例えば、伊藤仁斎の『論語古義』においては、そのような事柄は、「理」、「心」、「情」に分かれて説明されており、「理」を理性、「情」をここでベルクソンが言うような感情とし、「心」については「惻隠羞悪辞譲是非」の四つを本となすと言っている。ここでの「心」とは知性と感情の中間と言うよりも、それが一体となって判断する性質のものも確かにあるのだという事になるだろう。

『私の多様な感情を検討してみると、個々の感情はそれぞれの仕方で、行動する事への勧告を含んでいるが、同時にその勧告は、待機しても良いという許可や、更には何もしなくても良いという許可を伴っているように私には思われる。』(p.8 16行目−p.9 3行目)

ここで感情は『行動する事への勧告』という形で表現されている。それが以下、『完遂されているが開始されている運動』と結びつけられることになるのだが、それは、『同じ一つの感受性によって』、『種<エスペス>』(<>内はテキストのフリガナ)の保全に必要な役割、一般に言われる本能と言って良いと思うがそれが果たす役割、を果たしていると指摘している

『もっと詳しく見てみると、私は完遂されてはいないが開始されている運動を見出す。その運動は、選択を排除するような強制をではなく、多少とも有用なある決定を指し示している。自分の数々の想起(souvernir)を呼び起こし、それらを比較することで、私は、有機的世界の至る所で同じ一つの感受性がまさに次のような瞬間に表れるのを見ていると思ったことを回想する。』(p.9 3行目−7行目)

『その瞬間とは、自然が生物に空間の中を動く能力を与えた後である種<エスペス>を脅かす漠たる危険を感覚によってこの種<エスペス>に警告し、その危険を避けるために取るべき予防策は諸個体に委ねる、そのような瞬間である』(p.9 8行目−10行目)

以上、感情の検討が本能を元にするところまで進められたが、最後に意識との関係について述べられる。

『最後に私は、私の意識が感情の中で与えられている役割を、当の意識に尋ねてみる。すると、私の意識はこう答える。意識は、私が主導権を握っていると思っているすべての歩みに、感情あるいは感覚のかたちで立ち会っているが、反対に私の活動性が自動的になり、したがって、もはや意識を必要としないと宣するや否や意識はすぐに欠損し消え去るのだ、と。』(p.9 10行目−14行目)

ここでは、二点注目できる。まず、意識は『私が主導権を握っているすべての歩み』即ち意識的行動であろうが、当の意識は『感情または感覚のかたちで立ち会っている』と述べられている点が注目される。なぜなら、このあとの論では、基本的にはすべて『感情』は省かれ『感覚』と『運動』のセットにおいて語られるため、その分興味深い。また、二つ目には、『活動性が自動的にな』ると意識が消えると言っている点が注目される

『一体、すべての外観(apparance)は人を欺くものなのだろうか。それとも、感情的状態の到達点である行為はある運動からある運動が導出されるように、先行的現象から厳密に演繹される類のものでなく、そのためこの行為が何か新しいものを宇宙とその歴史に真に付け加えているものだろうか』(p.9 9行目−16行目)

ここでは、『外観』について簡単に考察される。すなわち、それは『人を欺く』ものなのか。それとも、知覚による『外観』がもたらすことから発生する行為は最終的に『感情的状態の到達点である行為』となるだろうが、物理的法則の因果律とは別に、『何か新しいものを宇宙とその歴史に真に付け加えているものだろうか』という意味であろう。

このような問いに対してベルクソンは『ここでは外観で満足しておくことにしよう』(p.10 1行目)と簡単に答えている。これは、われわれの行為が『何か新しいものを宇宙とその歴史に真に付け加えているものだろうか』という自由意志に関わる深遠な問いまでは考慮せず、単に『外観』が、『人を欺くものであるか』それともわれわれが何らかの自発的な活動を行う上で必要なものかという事についてのみ考察したいということであろう

それを受けて、この段落最後には、『私が感じるもの、見るものを端的に』次のように『定式化』している

『私が宇宙と呼ぶこのイマージュの総体のなかでは、ある特殊なイマージュ ―その典型は私の身体によって私に与えられている― を介することなしには、真に新しいものは何も生み出されないかのように、すべてが進行しているのである』(p.10 2行目− 5行目、この引用部分はすべて傍点付き)


次に第二段落(p.10 6行目−13 行目)を見てみたい。ここでは、『身体』特に神経系のに関して端的に述べられている

『次に私は、私の身体に類似した数々の身体・物体に則って、私が私の身体と呼ぶこの特殊なイマージュの構成(configuration)を研究する。私は、刺激を神経中枢へと伝える求心神経、次いで、中枢を起点として震動(ebranlenent)を〔身体〕表面へと導き、身体の諸部分あるいは身体全体を動かす遠心神経を見出す』(p.10 6行目− 9行目)

言うまでもないことだが、生きて動いているうちに自分の身体を解剖して神経系を研究することは、少なくても十全にはできないであろうから、『私の身体に類似した数々の身体・物体に則っ』るわけである。ベルクソンはこの本を通し、神経を伝わる信号を『震動(ébranlenent)』という用語を使う。

『私は、生理学者や心理学者に、これらの神経それぞれの用途を尋ねてみる。神経系の遠心的諸運動は、身体あるいは身体の諸部分の移動を引き起こすことができる』(p.10 10行目−11行目)

と、『神経系の遠心的諸運動』が身体の運動を引き起こすものと簡単に説明するが、『求心的諸作用』についての記述(p.10 11行目−12行目)は『外的世界の表象を生み出す、と彼らは答える』という独特の言い回しになっている。この『求心的諸作用』については、次の段落(p.10 14行目−p.11 12行目)からもう少し詳しく検討されていく


では、第三段落(p.10 14行目−p.11 12行目)を見ていきたい

『求心神経はイマージュであり、脳はイマージュであり、感覚神経によって伝達される脳のなかで広く伝えられた震動もまたイマージュである』(p.10 14行目− 15行目)

ここは今までの議論の演繹であり誰もが理解できるであろうが、次は少し難しい

『私が脳の震動と呼ぶこのイマージュが、その外部に存する数々のイマージュを生み出すためには、脳の震動と呼ばれるイマージュはこれらの外的イマージュを何らかの仕方で内包していなければならないし、物質的宇宙の表象がこの分子運動(mouvenment moléculaire)の表象のなかに含まれていなければならないだろう』(p.10 15行目−p.11 2行目)

ここでは、最初に記述されているように『私が脳の震動と呼ぶこのイマージュが、その外部に存する数々のイマージュを生み出す』、という不可能性が検討される。上引用部分で言われていることを端的に言えば、われわれの脳のなかで行われている情報処理を検討する、と言い換えることができる。即ち、『脳の震動と呼ばれるイマージュはこれらの外的イマージュを何らかの仕方で内包していなければならない』というのは、少なくても『物質的宇宙の表象』が『脳の震動というイマージュ』とも呼ばれる『この分子運動(mouvenment moléculaire)の表象』の中に含まれなければならない、という事だろう

『しかるに、このことの不条理を発見するには、以下のような命題を述べるだけで十分だろう』(p.11 2行目−3行目)

『脳の方が物質的世界の一部をなしているのであって物質的世界が脳の一部をなしているのではないのだ』(p.11 3行目−4行目)

上の二つの引用分のうち下のものは部単なる一般常識に過ぎないと思われるだろうが、実は、これがベルクソンの主張の核心をなしている部分の一つだと考えても良い。以下、唯心論、あるいは唯心論的観念論は端的に否定されている。

ベルクソンの論法は以下のようになる。

『物質世界という名を冠されたイマージュを抹消してみなさい。そうすれば、あなたは同時に、脳並びにその一部をなす脳の震動を消すことになるだろう』(p.11 4行目−6行目)

一方で『逆に、脳並びにその一部をなす脳の震動という二つのイマージュを消えたと想定して』(p.11 5行目−7行目)みた場合においては、『広大無辺な絵画の取るに足りない細部だけを消す』(p.11 8行目)ようなもので『宇宙は無傷のまま全面的に存在する』(p.11 9行目)わけであるから、『イマージュであるはず』の脳、その『脳を全体的イマージュの条件とすることは、まさに自己矛盾である』(p.11 10行目−12行目) 

そして、この段落最後に

『それゆえ、神経も神経中枢も、宇宙のイマージュの条件となることはできないのである』(p.11 10行目−12行目)

と結論づけている。


第四段落(p.11 13行目−p.12 14行目)を見よう。

まず、『この最後の点にこだわってみよう』(p.11 13行目)という言葉で始まるが、しかしこの部分が何を指しているのかは難しい。ここでは仮に、前節最後の、『それゆえ、神経も神経中枢も、宇宙のイマージュの条件となることはできないのである』(p.11 10行目−12行目)という部分、あるいは、『脳の方が物質的世界の一部をなしているのであって物質的世界が脳の一部をなしているのではないのだ』(p.11 3行目−4行目)という部分を指しているのだと仮定して話を進めてみたい

『数々のイマージュ、次いで私の身体、そして最後に、私の身体によって周囲の諸イマージュにもたらされた変化がここにある。』(p.11 13行目−14行目)

『私が私の身体と呼ぶイマージュに、数々の外的イマージュがどのように影響を及ぼすかということについては私は良く分っている。それらの外的イマージュは私の身体に運動を伝えるのだ。』(p.11 14行目−16行目)

外的イマージュが私の身体に与えるものが『運動』だとされているが、すべての音や光もなどの信号も触覚はもちろん味覚や嗅覚も、本を正せば素粒子や分子の『運動』である、という事をここでは強調したいのであろう

『そしてまた、私の身体がどのように外的イマージュに影響を及ぼすかということにも、私は良く分っている。私の身体はそれらに運動を返すのだ。このように私の身体は、物質的宇宙の総体のなかで、他の諸イマージュと同様に、運動を受けては返すことで作用する一つのイマージュなのである』(p.11 17行目−p.12 3行目)

上引用文は、『私の身体』が『イマージュ』である限りは、『運動を受けては返す作用する一つのイマージュ』であることには変わらないと要約できるだろう。

ところが、一つだけ違うことがあるという

『ただし、おそらく一つだけ〔他の諸イマージュとの〕違いがある。それは受けたものを返すやり方を、ある程度、選択しているように思われるのだ』(p.12 4行目−5行目)

これが、『感覚』と『運動』を一つの組にした、ベルクソンが主張するところの神経系を解き明かす上での重要な着眼点となっている。

『ところで、私の身体の全体、なかでもとりわけ私の神経系がいかにして、宇宙についての私の表象の全体あるいは一部を生み出すのであろうか。私の身体は物質であると言われようと、私の身体はイマージュであると言われようと、言葉は私にとってはどうでも良い。私の身体が物質であれば、私の身体は物質的世界の一部を成しており、したがって、物質的世界は私の身体の周りに、そして、私の身体の外部に存在している。私の身体がイマージュであるとすれば、このイマージュはそこに置かれたものしか与えることはできないだろうし、仮定からして、そのイマージュは私の身体のイマージュであるのだから、そこから宇宙のイマージュを引き出そうとするのは不条理であろう』(p.12 5行目−12行目)

ここで話は少し戻って、『私の神経系がいかにして、宇宙についての私の表象の全体あるいは一部を生み出すの』かという事が検討される。まず、『私の身体は物質である』と仮定した場合には、『私の身体は物質的世界の一部を成しており、したがって、物質的世界は私の身体の周りに、そして、私の身体の外部に存在している』。ゆえに『身体』は外部からの刺激を持って初めてその『外部』である『宇宙』の『表象』が生み出される、と言いたいのであろう。また、『私の身体はイマージュである』と仮定された場合には、即ち、まず第一に知覚されてしかるべき『私の身体のイマージュ』のみ始めに存在するわけであり、『そこから宇宙のイマージュを引き出そうとするのは不条理であろう』と言う結論に達する (したがって、前段落最後の『それゆえ、神経も神経中枢も、宇宙のイマージュの条件となることはできないのである』(p.11 10行目−12行目)という結論が再び導き出される)

ではこの段落の最後の結論を引用したい

『したがって、他の諸物体を動かすべく定められた物体たる私の身体は、作用の中心でありそれが表象を生じさせることはあり得ないだろう』(p.12 13行目−14行目、引用部分すべて傍点付き)

上引用部は、『表象』がここでは、『宇宙についての私の表象の全体あるいは一部』とされた部分でありそれが生み出されるということは、他の何もなしに脳や神経のみによってそれが生じると言うことはあり得ないということをここでも述べているのである


では、第五段落(p.12 5行目−p.14 5行目)を見ていきたい。

ここではまず生命が物質と異なる所以が述べられている。

『ただし、私の身体が、それを取り巻く諸物体に、現実的で新しい作用を及ぼす物体であるならば、それは諸物体に対して特権的な地位を占めているに違いない』(p.12 15行目−17行目)

つまり、ここでは、『私』の意志によって物理法則とは違う形で『現実的で新しい作用を及ぼす』ことができるとするならば、『私の身体』は単なる物理法則に従うだけの『諸物体』とは異なる特権的な地位を示している、と言い換えることができるだろう

以下の引用はそのことを詳しく説明している

『一般に、ある任意のイマージュは、ある一定の計算可能でさえある仕方で、つまりは自然の諸法則と呼ばれるものにしたがって、他の諸イマージュに影響を及ぼす。件のイマージュが、影響を及ぼすべき他のイマージュを選択するには及ばないのだから、このイマージュには、周囲の領域を探査する必要も、単に可能的なだけのいくつかの作用を予め試してみる必要もない。必然的な作用は、そのときが訪れれば、自ずから実現されるだろう』(p.12 16行目−p.13 5行目)

と、まず、物理法則に作用される物質一般のことが説明される。次に、

『しかし、私が私の身体と呼ぶイマージュの役割は、他の諸イマージュに対して現実的な作用を及ぼすことであり、ひいては、物質的に可能ないくつもの歩みの間で決断することであると先に私は仮定した』(p.13 5行目−8行目)

そのような仮定からすると、

『これらの可能的な歩みはおそらく、私の身体が周囲の数々のイマージュから引き出すことのできる利益の度合いによって、私の身体に示唆されているのだから、まさにこれらのイマージュは、それらが私の身体に対して向けている面の上に、私の身体がそれらから引き出すことのできる利益を何らかの形で描き出しているに違いない』(p.13 8行目−12行目)

つまり、意志を持ってわれわれは『われわれの身体』によって他の物質に対して作用を及ぶすというその性質からして、われわれの諸物質のイマージュそのものに対するものの見方、考え方は、そもそもが『私の身体に対して向けている面の上に、私の身体がそれらから引き出すことのできる利益を何らかの形で描き出しているに違いない』というのである

以下、説明はさらに詳しくなる

『実際、私の見るところ、外的な諸物体の大きさ、形、そして色さえも、私の身体がそれらに近づくか遠ざかるかにおいて変化する。また、香りの強さや音の強度は距離と共に増減し、最後、この距離それ自体、周囲の諸物体が、私の身体による直接的な作用から言わば守られているその程度を表わしている』(p.13 12行目−15行目)

『最後、この距離それ自体、周囲の諸物体が、私の身体による直接的な作用から言わば守られているその程度を表わしている』の部分がやや難しいが、これはすなわち、距離が遠ければ遠いほど、私の身体の作用が到達することに時間が掛かるという事を、『私の身体による直接的な作用から』守られている程度を表わしていると言い換えているのであろう。ちなみに、色の例としては寒色暖色は言うまでもないが、黄色を危険と認識するのも人類に普遍的な認識だと思われる

更に説明は続く

『私の地平が広がるにつれて、私を取り巻く諸イマージュは、より画一的な背景の上に映し出され私とは無関係と化するように思われる。私が地平を狭めれば狭めるほど、この地平のうちに囲い込まれた諸物体は、私がそれらに触れたり、それらを動かしたりする際の難易に即して、他とはっきり区別されて序列化される
』(p.13 15行目−p.14 2行目)

上引用部分については、特に説明を加える必要はないだろう。では、この段落の結論部分を引用したい。

『このように諸物体は、鏡がそうするように、私の身体によるあり得べき影響を、私の身体に送り返している。これらの物体は私の身体の力能の増減に即して配列されている。《私の身体を取り囲む諸対象は、それらに対する私の身体の可能的な作用を反映しているのだ》』(p.14 2行目−5行目、《》内は傍点付き)


では、この節、最後となる第六段落(p.14 6行目−p.15 12行目)を見てみたい。

『私は次に、他のイマージュには触れることなく、私が私の身体と呼ぶイマージュをわずかに変化させてみたい。このイマージュのなかで、私は思考によって、脳‐脊髄系の求心神経をすべて切断する。すると何が起こるだろうか。メスで何度か切りつけられることで繊維の束をいくつか切断したことにはなるだろうが、宇宙のその他の部分、更には、私の身体のその他の部分さえも、それらがかつてそうであったままに留まるだろう。したがって、こうして施された変化は取るに足りない。』(p.14 6行目−11行目)

『しかし実際には、「私の知覚」の全体が消え去るのだ』(p.14 11行目−12行目)

思考実験は続き、『求心神経をすべて切断する』場合が言及される。この場合、宇宙の総イマージュの変化はごくわずかであるのに対し、私にとっては『「私の知覚」全体が消え去る』。

『そこで、たった今起こったばかりのことをもっと詳しく検証してみよう。宇宙全体を構成する諸イマージュ、次いで、私の身体に隣接する諸イマージュ、最後に、私の身体そのものがここにある。この最後のイマージュのなかで、求心的な神経が通常果たす役割は、運動を脳や随に伝達することである。遠心的な神経は、この運動を〔私の身体の〕表面へと送り返す。従って、求心的な神経の切断は、真に納得のいくものとしては、ただ一つの効果しか生み出すことができない。表面から中枢を経由して表面へと進む流れを中断することがその効果であるが、その結果、私の身体は、私の身体を取り巻く諸事物のなかから、それらに働きかけるために必要な運動の質と量をくみ取ることができなくなってしまう。これは作用に関わることであり、作用のみに関わることである』(p.14 12行目−p.15 4行目)

上の引用部分で強調されているのは、『求心的な神経の切断は』、その結果として、『私の身体は、私の身体を取り巻く諸事物のなかから、それらに働きかけるために必要な運動の質と量をくみ取ることができなくなってしまう』ことであり、『これは作用に関わることであり、作用のみに関わることである』ということであろう。

『しかるに、消え去るのは私の知覚である。イマージュの総体のなかで、私の知覚が影や反映のように、私の身体の潜在的あるいは可能的な諸作用を正確に描くということでなければ、これは一体どういう意味であろうか』(p.15 4行目−7行目)

つまりは、『求心神経』こそが『知覚』を司っているのであり、その知覚こそが『影や反映のように、私の身体の潜在的あるいは可能的な諸作用を正確に描く』と言い換えることができるであろう

では、この段落最後の部分を引用したい。ここでは、二つのことが暫定的に定義される。一つは『私はイマージュの総体を物質と呼ぶ』ということもう一つは『これら同じイマージュが』、『私の身体の可能的な作用と関係づけられた場合には、それらを物質についての知覚と呼ぶ』ということである

『ところで、メスがほんのわずかな変化しかそこには及ぼさなかった諸イマージュの体系は、一般に物質世界と呼ばれているものだ。他方、消え去ったばかりのもの、それは物質についての「私の知覚」である。《私はイマージュの総体を物質と呼ぶが、これら同じイマージュが、ある特定のイマージュ、すなわち私の身体の可能的な作用と関係づけられた場合には、それらを物質についての知覚と呼ぶ》』(p.15 7行目−12行目、《》内は傍点付き)

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