第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第五節 「表象の行動に対する関係」

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています。

ここでは、第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第五節 「表象の行動に対する関係」(p.47 1行目−p.54 15行目)について解説します。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています

第一段落(p.47 2行目−p.48 14行目)を見てみる

『このように諸事象を表象することで、われわれは常識〔共通感覚〕(sens common)の素朴な確信に戻るだけである。われわれはみな、自分は対象〈オブジェ〉そのものに参入し、われわれのうちではなく、対象そのものにおいてこの対象を知覚しているのだと信じるところから始めた。心理学者は、かくも単純でかくも現実に近い考えを無視するのだが、それは、脳内部の過程、知覚のこのごくわずかな部分が、彼には知覚全体と同等のものであるように思われているからだ。この内部過程を保持しつつも、知覚された対象を消してみなさい。心理学者にとっては、対象のイマージュは存続するように思われる。そして、彼の信念は苦も無く説明される。幻覚や夢のように、あらゆる点で外的知覚にそっくりなイマージュが現れる数多くの状態がある。このような場合、対象が消えたのに脳は存続しているのだから、そこから、イマージュが発生するには脳の現象だけで十分であるとの結論が引き出されるのだ』(p.47 2行目−11行目、〈〉内はテキストフリガナ)

まず、ベルクソンは自身の説を『常識〔共通感覚〕(sens common)の素朴な確信』だとか『自分は対象〈オブジェ〉そのものに参入し、われわれのうちではなく、対象そのものにおいてこの対象を知覚している』などと述べていることに注目したい。『対象そのものに参入し』、『対象そのものにおいてこの対象を知覚しているのだと信じる』ことは『常識』であると言い換えても良いだろう。

ところが、このあとすぐ幻覚や夢のように、対象がなくても『あらゆる点で外的知覚にそっくりなイマージュが現れる数多くの状態がある』、という反証が与えられる。『これによって、イマージュが発生するには脳の現象だけで十分であるとの結論が引き出される』ということになるだろう

これに対してベルクソンは、生まれながらの盲人が対象を一度も見ることなしそれらの視覚的な表象をえることがないということで反論している。

『しかし、この種の心理学的な諸状態のすべてにおいて、記憶が主役を演じていることを忘れてはならない。ところで、われわれが理解しているような意味での知覚がひとたび認められれば、記憶が生じ《なければならない》ということ、そしてまた、この記憶は、知覚そのものと同様、脳の状態のうちにはその現実的で完全な状態を有してはいないということを、われわれはもっと先で示すつもりである』(p.47 11行目−16行目、《》内テキスト傍点付き)

われわれは『知覚』には『記憶』が必要であることは、前節でもみた。下はその部分の引用である

『知覚をどれほどの短時間のものと想定したとしても、実際、知覚は常にある程度の持続を占めており、したがって、多数の諸瞬間をして互いに継続させる記憶の努力を必要としている。』(p.33 11行目−12行目)

『知覚』から『記憶』が『生じ《なければならない》』ということと、『この記憶は、知覚そのものと同様、脳の状態のうちにはその現実的で完全な状態を有してはいないということ』の二点は、しかし、第一章では知覚から記憶の要素を省いた『純粋知覚』を用いて検討される章であるからここでは述べられず、第二章以降において記憶とその働きについては詳しく検討されていくだろう

ところで、『幻覚』や『幻視』は記憶の働きであることが下引用文では説明されている。

『さしあたりは、これら二つの点の検討にはまだ取りかからずに、非常に単純で、しかも、真新しいものでもない所見を呈示するにとどめよう。多くの生まれつきの盲人は、無傷のままの視覚中枢を持っている。しかるに、彼らは視覚的イマージュを決して形成することなく生き、そして死ぬ。それゆえ、このようなイマージュは、少なくとも一度は外的対象がその役割を果たした場合だけ出現することができる。そうであるなら、外的対象はすくなくとも一度は表象のうちに実際に参入したのでなければならない』(p.47 16行目−p.48 6行目)

上引用文で難しいところはないが、独特なのは『そうであるなら、外的対象はすくなくとも一度は表象のうちに実際に参入したのでなければならない』という部分であろう。われわれは、常に『対象そのものに参入し』ながら、『外的対象』もまたわれわれの『表象』のうちに参入しているのである

以下、前節で述べられた『純粋知覚』の考え方を用いて考えれば、対象なき表象ということはあり得ないということが述べられる。下引用文はこの段落の最後の部分となる

『ところで、われわれはいまのところこれ以外のことを要求してはいない。というのも、われわれがここで取り扱っているのは、純粋知覚であって、記憶を伴った知覚ではないからだ。そこで、記憶によってもたらされるものを拒絶し、加工されざる生の状態で知覚を考察しなさい。そうすればあなたは、対象なきイマージュなど決して存在しないことを否応なく認めざるをえない。しかし、あなたが脳内部の諸過程にそれらの原因であるような外的対象を付け加えるやいなや、私は、この対象のイマージュがいかにしてその対象と共に、その対象のうちで与えられるのかをはっきり理解しはするがそのイマージュがいかにして脳の運動から生じるかはまったく理解できない』(p.48 6行目−15行目)


第二段落(p.48 15行目−p.50 11行目)を見ていきたい

まず、『諸神経あるいは諸中枢の損傷』し知覚が『減少』する場合について、常識的ではあるが独特の表現での検討がなされる

『諸神経あるいは諸中枢の損傷が、神経震動の道筋を中断するとき、知覚はその分だけ減少する。このことに驚くべきだろうか。神経系の役割は、この震動を利用し、この震動を、現実的にであれ潜在的であれ成し遂げられた実践的振る舞いへと変換することである。なんらかの理由で、刺激がもはや通過しない場合、それに対応する知覚が依然として生じるというのは奇妙なことだろう。というのも、そのときこの知覚は、直接的に選択するようもはや身体には促すことなき空間の諸点とこの身体を関係させることになるからだ』(p.48 15行目−p.49 3行目)

上引用文において、『そのときこの知覚は、直接的に選択するようもはや身体には促すことなき空間の諸点とこの身体を関係させることになるからだ』というのは前節で『感覚‐運動過程』(『不確定性の地帯』)を考察したベルクソンの視点独特の表現だろう。さらに考察は深まる

『動物の視神経を切断しなさい。光点を起点とする震動はもはや脳に、脳から数々の運動神経に伝えられることはない。視神経を包摂しながら、外的対象を動物の数々の運動機構に結びつけていた糸が断ち切られる。かくして視覚的知覚は無力になるが、この無力さのうちにまさしく無意識(inconsience)が存している。物質が神経系の協力なしで、感覚諸器官なしで知覚されるということは、理論的には考えられないことではない。しかし、実際にはそれは不可能である。なぜなら、この種の知覚はそれが有り得るとしてもなんの役にもたたないだろう身体。そのような知覚は幽霊(fantôme)には相応しいだろうが、生きている存在、すなわち行動する存在にはふさわしくないだろう』(p.49 3行目−11行目)

上引用文では、まず、『かくして視覚的知覚は無力になるが、この無力さのうちにまさしく無意識(inconsience)が存している』という部分が難解である。ここでの『無意識』とは無力になった『視覚的知覚』を待ち続けている『感覚‐運動過程』のことだと考えたい。そう考えれば、『知覚』の『震動』を待っている『感覚‐運動過程』は『無意識』として無数に存在することが考えられる。それだけではないだろう。すなわち、無意識とは『感覚』から受けた『震動』によって行われる『運動』も含まれていることが分かる

『一般に生体は帝国のなかの帝国として、神経系は別個の存在として表象されるが、その場合には、神経系の機能は、まず知覚を生成すること、次いで運動を生み出すことと見なされるあろう。しかし本当のところは、私の身体を揺り動かす諸対象と、私が影響を及ぼすことのできる諸対象とのあいだに介在させられた私の神経系は、運動を伝え、振り分け、あるいは静止する単なる伝導体の役割を演じているに過ぎない』(p.49 11行目−16行目)

上引用文の『一般に生体は帝国のなかの帝国として』の部分は重要ではないが、わかりにくい。ここでは仮に人間社会が自然から独立した一つの帝国であり、人間はその帝国の主だということ、しかし、その帝国の主のなかで、『生体』は自律的にホメオスタシスを行っていることをもう一つの『帝国』と述べている、と考えてみたい。それとは別にわれわれの『感覚ー運動過程』は神経系を本となすために別個の存在といっているのであろうと考える

もちろん、上引用文で重要なのは後半部分であり、『神経系は、運動を伝え、振り分け、あるいは静止する単なる伝導体の役割を演じているに過ぎない』の部分がベルクソンの主な主張であろう。さて、この部分だけを見ていると『伝導体』はごく単純なことしかできないようにも見える。しかし、実に複雑なその働きは次のように述べられる

『この伝導体は、表面から中枢へ、中枢から表面へと張られた非常に多数の糸状のものから構成されている。表面から中枢を目指す糸があるのと同じだけ、私の意志を促す諸点、私の運動的活動に対していわば基礎的な問いを提出することのできる諸点が空間内にはある。提出された問いの各々が、まさに知覚と呼ばれるものである』(p.49 14行目−p.50 3行目)

ここでは、『表面』に露出した神経系の各諸点が外部へと対応してそれぞれが運動神経へと結びつく過程が美しく記されている。入力の『震動』は様々に複合され待機、または、運動を決定されることだろう

ふたたび論は戻り、知覚が制限されて行けば、そのような運動系の神経の行動は、活動を起こすための要素を制限されていくことになるだろうことが描かれる

『だから知覚は、感覚伝達的と称される糸の一つが切られるたびに、その諸要素を一つ減らしていく。なぜなら、そのとき、外的対策のある部分が、活動を促す力を失い無力なものと化すからだ』(p.50 3行目−5行目)

ここまではこれまでの主張の繰り返しであるが、下引用文では今度は『習慣』も『知覚』のはたらきが弱められるという

『確固とした習慣が身につけられる場合にも、そのつど知覚は弱められる。なぜなら今度は、すっかり準備の整った受け答えが質問を無用のものとするからだ。どちらの場合にも消え去るのは震動のそれ自身への見かけ上の反射、光のその出所たるイマージュへの回帰、というよりむしろ、知覚をイマージュから切り離す乖離であり《識別》=《分離》である』(p.50 5行目−7行目、《》内はテキスト傍点付き)

上引用文で、『確固とした習慣が身につけられる場合にも、そのつど知覚は弱められる』が少し難しく感じられる。これはおそらく敢えて意識をしなくても『すっかり準備の整った受け答えが質問を無用のものとする』ということであるからして、つまり、ここでの『知覚』は前節第七段落最後の部分で主張されている『意識的知覚』であるということを強調したいのであろう。それは、『知覚をイマージュから切り離す乖離であり《識別》=《分離》である』という同様の記述が繰り返されていることからも理解できる

それでは、この段落最後の部分を引用して終わりたい

『それゆえ、こう言うことができる。知覚の細部は、感覚伝達的と称される諸神経の細部にぴったりあわせて作られているが、その全体においては、知覚は真の存在理由を、活動せんとする身体の傾向のうちに有している』(p.50 9行目−11行目)


次に第三段落(p.50 12行目−p.52 4行目)を見てみたい

さて、ベルクソンが主張する中枢神経の本来的な働き『感覚‐運動過程』であるが、異なる感覚器官の『震動』からでも、同じ運動が導かれることがあるという点についてまず説明される

『この点について総じて錯覚を生じさせているのは、われわれの諸運動が、それらを引き起こす刺激に対して見かけ上は無関心であるということだ。対象に到達し、それを変化させるための私の身体の運動は、私がこの対象の実在を聴覚によって知らさせたにせよ、この対象が視覚または触覚によって私に明らかにされたにせよ、同じままで変化しないように思われる。そのとき、運動を引き起こす私の活動は、別個の実体、一種の貯水池となり、そこから随意に運動が引き出てくるのだが、この運動は、それを生じさせるべく促すイマージュの種類がいかなるものであれ、同じ作用に対しては常に同じものにとどまる』(p.50 12行目−p.51 1行目)

上引用文でややわかりにくいのは『この運動は、それを生じさせるべく促すイマージュの種類がいかなるものであれ、同じ作用に対しては常に同じものにとどまる』の部分だろう。ここは、簡単な例として、歩行者用の信号機を考えてみよう。ひとは青になれば横断歩道を渡り出す。盲人用に対応している信号機ならば、同時に音がでる。異なる感覚器官のイマージュは同じ作用をもたらす同様の例なら多数あるだろう。もっと単純な例でいえば、同じ止まれという合図を文字に書かれたものを見る場合でも、誰かの声が聞こえた場合でも同じことが言えるだろう

ところで、このような同じ作用を及ぼすような、『外的には同一の諸運動も、外的には同一の諸運動の特徴も、それらが視覚による印象に応答しているのか、触覚の印象に応答しているのか、聴覚の印象に応答しているのかに応じて、内的には変化させられているのだ』とベルクソンは主張する(p.51 1行目−4行目)。言うなれば、結果として同じ運動をもたらす異なる『知覚』は、じつはそれぞれが、『別個の実体、一種の貯水池となり』そのあとで、『そこから随意に運動が引き出てくる』ということが要点であろう

このあとの下引用文中には難しいところはない。敢えて注釈を入れるとすれば、『皮質内での原形質的突起部』とは、現在『樹状突起』と呼ばれている神経繊維どうしが接合する部分で、その尖端はシナプスと呼ばれており電気信号を発したりや化学物質を分泌することで信号のやりとりをしている。

最後の文に『要請』とあるが、『知覚』がわれわれに対して利害関係のあるものだけに制限されていること、また、それが運動もしくは待機に結びついていることより『要請』といっているのだろう。それはそのあとの引用文を見ても分かる

『私は、空間のなかに多数の対象を知覚する。各々の印象は、視覚的形式である限り、私の活動を促す。私は突如として視覚を失う。おそらく私は、空間内で同じ量、同じ質の運動をなおも所有している。けれども、これらの活動は、視覚的印象に連繋させられることはもはやあり得ない。今後それらは、例えば触覚的印象に従わねばならなくなるだろうし、おそらくある新たな配列が脳のなかで描かれるだろう。運動性の神経要素の皮質内での原形質的突起部は、今度は、遙かに少ない数のいわゆる感覚伝達的神経諸要素と関係を持つことになるだろう。それゆえ、たとえ私が同じ運動を生じさせることができるとしても、諸対象は私に機会をより少なく提供するという点で、私の活動性は紛れもなく現実に減少させられている。かくのごとく、視覚的伝導体の突然の遮断は、私の活動の要請の一部分丸ごと消失させるという本質的で重大な効果を伴ったのだ』(p.51 5行目−14行目)

つぎの下引用文では、途中『いわゆる感覚伝達的震動から生じさせる人たちの誤謬』とあるが、これは、前段落最後の、『知覚は真の存在理由を、活動せんとする身体の傾向のうちに有している』というところと合わせて考えて、知覚に関する脳中枢の感覚細胞の中枢神経の興奮だけに注目し、『知覚』が『運動」と緊密に結びつけられていることを無視する人たちの理論であると考える

『ところで、ここにいう要請とは、われわれがすでに見たように、知覚そのものである。ここでわれわれは、知覚を、われわれの運動性活動に提出された一種の質問からではなく、いわゆる感覚伝達的震動から生じさせる人たちの誤謬をはっきり理解する。彼らは、知覚過程からこの)運動性活動を切り離すのだが、この活動は知覚の消滅後も残存するように見えるから、ここから彼らは、知覚はいわゆる神経の諸要素のなかに位置づけられると結論する』(p.51 14行目−p.52 2行目)

それでは、この段落の結論部分を見ていきたい。ここでは、ベルクソンたちの結論が『知覚は、それら中枢のあいだの諸連関の複雑さの尺度であり、それが現れるところに存在しているのである』と述べられているところに注目したい。

また、この後半部分の『それが現れるところに存在している』のそれとは、『感覚中枢』の複雑な『諸関連』ということだろう

『しかし、本当のところは知覚は感覚中枢のなかにないのと同様に運動諸中枢のうちにもない。知覚は、それら中枢のあいだの諸連関の複雑さの尺度であり、それが現れるところに存在しているのである』(p.52 2行目−4行目)


第四段落(p.52 5行目−p.54 14行目)を見ていきたい

『児童を研究した心理学者たちは、われわれの表象が、最初は非人格的であったということをよく知っている。われわれの表象が自分の身体を中心として採用し、《自分自身》の表象となるのは、少しずつ、帰納を進めることによってなのである。それに、このような操作の仕組みは容易に理解される。私の身体が空間のなかを移動するにつれて、他のすべてのイマージュが変化するけれども、それとは逆に、私の身体というこのイマージュは不変のままである。だから、私はまさに私の身体を中心にしなければならず、他のすべてのイマージュをそれに結びつけるだろう』(p.52 5行目−11行目、《》内はテキスト傍点付き)

上引用部は、要約すると、幼い頃始めわれわれの表象はそれがわれわれに直接関係するものであるとは認識できていなかった、言い換えれば対象に没入することで対象を認識する過程がなかった(すなわち『非人格的』であった)。けれども、われわれが成長していくに従って、移動しても不変な『私の身体』と変化するその他のイマージュを区別しながらも結びつけるということを学んでいく、ということであろう

『外的世界への私の信憑は、私が非伸張的な諸感覚を私の外に投影することに由来するのではないし、由来することはあり得ない。そもそも、どのようにしてそれらの感覚は伸張性を獲得するというのか、どこから、私は外部性(extériorité)の想念を引き出すことができるというのか』(p.53 11行目−14行目)

上引用部にの伸張性についての検討は、すでに前節第九段落で検討されたことであるのでここでは繰り返さない。簡単に言えば、そこで主張されるのは外部の存在を認めることで伸張性も同時に獲得できるはずである、ということであった。ここでは特に『外部性の想念』、言い換えれば『外的世界』への『信憑』について検討される

『しかし、経験が立証するように、諸イマージュの全体が最初に与えられているということを認めるならば、私は、どのようにして私の身体がこの全体のなかで遂に特権的な立場を占めることになるのかということをきわめてはっきりと理解する。私はまた、どのようにして内部と外部の想念そのとき生じるのかということも理解する』(p.52 14行目−p.53 1行目)

『内部と外部の想念は初めは、私の身体とその他の物体との区別でしかないのだ。通常そうされているように、実際に私の身体から出発してみなさい。その場合あなたは、私の身体の表面で受容され、この身体=物体だけに関与する諸印象がいかにして、私にとって、独立的諸対象を構成し、外的世界を形成するに到るのかを決して私に理解させることはないだろう。反対にに諸イマージュ一般を私に与えてみなさい。私の身体は必然的に、諸イマージュの只中に、はっきりした一つの事物として描かれるに到るだろう。というのも、他の諸イマージュは絶えず変化するけれども、私の身体は不変のままだからである』(p.53 1行目−8行目)

上二つの引用部、特に難しいところはないと思う。敢えて要約すれば、『内部と外部の想念は』、初め『私の身体とその他の物体との区別でしかない』。しかし、そこから演繹しこの考え方に基づいて外部的な『独立的諸対象を構成し、外的世界を形成するに到るのか』について説明するのは容易であるが、逆にこれなしでは説明できない、ということだろう

以下、二つの引用文で同様の説明が繰り返されている。『私の人格とは、これらの行動が関連づけられねばならない存在である』の部分が独特な表現だが、特に難しい部分はないだろう。つまり、ベルクソンは『人格』も行動に表される結果のものだ、と言っているのであろう

『内部と外部の区別はこのように、部分と全体の区別へと帰着するだろう。最初に諸イマージュの全体があり、この全体のなかに「行動の諸中心」があり、利害関係のある諸イマージュがそれらに対して反射されるように思われる。そのようにして諸知覚が生じ、諸行動が準備される。《私の身体》とは、これらの知覚の中心に描かれるところのものだ。《私の人格》とは、これらの行動が関連づけられねばならない存在である。子どもがそうするように、また、直接的経験や常識がわれわれに促すように、表象の周辺から中心へと進むならば、事態は解明される』(p.53 8行目−14行目)

『反対に、理論家たちと一緒に、中心から周辺へと進むつもりならば、すべてが不明瞭になり、問題が増加する。その場合、一体何故外的世界というこの観念が、人為的かつ漸次的に、非伸張的諸感覚を持って構築されるというのか。それにこれらの非伸張的諸感覚については、いかにしてそれらが一つの延長せる表面を形成することに成功するのかも、次いで、いかにしてそれらがわれわれの身体の外への影響されるかも分からない』(p.53 14行目−p.54 2行目)

このあとの引用文二つは、『私の意識的な自我から私の身体へ、次に私の身体から他の諸物体へと私が進むこと』、言い換えれば『われわれの外的知覚は最初は非伸張的なものだったとの信憑のうちに』ある『錯覚』、さらに言い換えれば『われわれは純粋に内的な諸状態を自分の外に投影するとの考え』のうちにある『多くの誤解と、うまく提起されなかった数々の問いに対するかくも多くのちぐはぐな応答』に対して、それらがあまりにも多いこと、ために一挙には答えられないと記されてい

『実際には私はただちに物質界一般のうちに身を置き、私の身体と呼ばれる行動の中心を徐々に制限し、そうすることで、私の身体を、私の身体を他のすべての諸イマージュから区別するにもかかわらず、なぜ、あらゆる外観に反して、私の意識的な自我から私の身体へ、次に私の身体から他の諸物体へと私が進むこと、
それが求められるのだろうか』(p.54 2行目−6行目)

『われわれの外的知覚は最初は非伸張的なものだったとの信憑のうちには、かくも多くの錯覚が群れており、また、われわれは純粋に内的な諸状態を自分の外に投影するとの考えのうちには、かくも多くの誤解と、うまく提起されなかった数々の問いに対するかくも多くのちぐはぐな応答が見出されるので、われわれはそれらを一挙に解明しようとすることはできないだろう』(p.54 6行目−10行目)

しかし、以上の錯覚を解き明かす鍵があり、それを示すことにより徐々に解明される事だろうし、また、錯覚と現実的事実との結びつきを示すことで、それらの解釈が修正可能だとベルクソンは言う。では、この段落最後にしてこの節最後の部分を見ていただこう

『これら錯覚の背後に、不可分な延長と等質的空間との形而上学的混同、「純粋知覚」と記憶との心理学的混同があることを、われわれがよりはっきりと示すようになるに応じて、その解明が少しずつなされることをわれわれは期待する。それに加えて、これらの錯覚は現実的諸事実と結びついており、われわれは今からすぐにこれらの事実を指摘して、それらについての解釈を修正することができる』(p.54 10行目−15行目)

Comments