第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第四節 「イマージュの選択」

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは、第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第四節 「イマージュの選択」(p.29 1行目−p.46 14行目)について解説します。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています


まず、第一段落 (p.29 2行目−p.30 5行目)を見てみる

『つまり神経系は、表象を製造すること、更にはそれを準備することにさえ役立つような器官のごときものでは全くないのだ。神経系は、刺激を受け取り、数々の運動器官を作り上げ、できるだけ多くの運動器官をある一定の刺激に差し出すことをその機能としている』(p.29 1行目−5行目)

この最初の部分は、現代においても異論はあるかもしれないが、基本的な機能としてはベルクソンの述べる通りであろう。以下、論が展開されていく

『神経系が発達すればするほど、神経系が諸運動機構と関係させる空間の諸点はより多数に、より遠隔的になり、これらの運動機構も不断にその複雑さを増していく。このようにして、神経系が我々の行動に残す自由度(ラティチュード)は増大するのだが、そこにこそまさに神経系の漸進的完成は存している』(p.29 5行目−8行目)

上引用文を要約すると、脳の神経系が発達するほどに神経系と関連する事物は増え、それとともに行動の『自由度(ラティチュード)は増大する』。ベルクソンはこのことを『神経系の漸進的完成』の存するところだと述べている、ということだろう

『しかし、もし神経系が、動物の系列の一方の端から他方の端へと、次第に必然的ならざるものと化していく行動めざして構築されているのであれば、神経系の発達に合わせて発達していく知覚もまた、そのすべてが、行動に向けられていて、純粋認識には向けられていないと考えねばならないのではないか。したがって、この知覚そのものが次第に豊かになっていくことは、生物が諸事物に対して行動する際に、その生物の選択に残された不確定な部分が漸増していくことを単に象徴しているのではないか』(p.29 8行目−14行目)

まず、『動物の系列の一方の端から他方の端へと、次第に必然的ならざるものと化していく行動めざして構築されている』というのは、はじめは、刺激に対する反射的で生命維持に直結する単純で必然的だった行動が、次第に進化して行くにつれてより複雑で高度に知的な行動を取るようになっていく、そのように動物が進化して行くと考えるならば、と言い換えられるだろう。

したがって、認識も単なる温度の高低や刺激の強弱というような単純かつ個別の事象の認識によって反射的な行動を行うことから進んで、例えばわれわれが単に歩いたり走ったりという動作においても視覚や聴覚あるいは足の裏の感覚など様々な刺激を統合し手足を無意識に操り行動を制御するように、知覚を統合して複雑な行動を、あるいは諸事物に対する『作用』をと言い換えられるかもしれないが、行うようになっていくことを、『知覚もまた、そのすべてが、行動に向けられていて、純粋認識には向けられていない』と述べていると解する。ここでの『純粋認識』とはカント哲学の言う一切の経験をそぎ落とした認識ということであろうが、そのような概念自体をここでは疑問視しているとも受け止められる

さてそのとき、中枢神経における行動の選択の手順も複雑化するであろう。あとでもう少し詳しく書かれているのだが、知覚が視覚や聴覚をなどのように離れたものも認識できるようになってくると、対象からの距離が行動決定までの時間と関係してくる場面が多々あるであろう。このことを、『この知覚そのものが次第に豊かになっていくことは、生物が諸事物に対して行動する際に、その生物の選択に残された不確定な部分が漸増していくことを単に象徴している』と言っているのだと思われる

『そこで、この不確定性を真の原理としてそこから出発してみよう。ひとたびこの不確定性が立てられたなら、今度は、意識的な知覚の可能性とその必然性さえも、そこから演繹できないかどうかを探求してみよう』(p.29 14行目−17行目)

上引用文において、『不確定性』は『知覚』の統合の複雑さすなわち行動自体の選択肢の多さに存していると考えるとき、行動が決定されるされないかは、ある『知覚』とともにほぼ同時に決定されることはなく、十分に余裕があると判断されるような場合はべつの諸事物の『知覚』が得られないか、ぎりぎりまで待機している場合もありうる、ということになるだろう。さらに、そのような『不確定性』の概念が『原理』として確立するならば、以下『意識的な知覚』ということについても考察していきたい、と述べているということだろう

では、この段落最後の部分を引用したい。引用文に特に説明を加えるところはないと思われるが、一例としてご参考までに以下に筆者の解釈を載せておきたい

『生物に代表される《実在的作用の諸中心(centres d'action réelle)》』においては、その各々の周囲に、脅威をもたらす存在は隔離され知覚できないようになっていなければならず、逆に餌や食事などのように必要とされるものは必要な時に手の届くように並んでいなければならないはずである。つまりは、『実在的作用の諸中心』においては、その身体という特殊で特権的なイマージュも含めて、その位置と共に変化する『諸イマージュ』が一種の主観的な価値判断に基づいて『並べられねば《ならない》』はずだろう。そのような主観性を持たざるを得ないがゆえに『実在的作用の諸中心』の知覚は、単に物理学的な法則に従う状態から離れた『意識的』なものにならざるを得ず、『加えて、いかにしてこの知覚が生じるかも理解可能であると私は思う』ということになるのだろう(以上引用文《》内はテキスト傍点付き)

『言い換えれば、物質界と呼ばれる互いに連動し、巧みに結びつけられた諸イマージュの体系をみずからに与え、この体系のあちこちに生物に代表される《実在的作用の諸中心(centres d'action réelle)》を想像してみよう。これらの中心各々の周囲には、該当中心の位置に従い、その位置と共に変化する諸イマージュが並べられねば《ならない》と私は思う。それゆえ、意識的知覚は生じなければ《ならず》、加えて、いかにしてこの知覚が生じるかも理解可能であると私は思う』(p.29 17行目−p.30 5行目、《》内はテキスト傍点付きとイタリック)


では、第二段落(p.30 6行目−p.31 11行目)を見てみたい

まず、

『最初に、厳密な法則が、意識的知覚の延長と生物が自由にできる行動の強さに関係づけられていることを指摘しておこう。われわれの仮説が根拠あるものなら、この知覚は、物質によって受け取られた震動が必然的な反応へと引き継がれないまさにそのときに現われる』(p.30 6行目−8行目)

言い方を変えれば、この段落では、『意識的知覚の延長』(知覚される対象までの距離)と『生物が自由にできる行動の強さ』(生物の行動の早さや自由度)とに関するところの『厳密な法則』が主張される、ということである

『たしかに、初歩的な有機体の場合、震動がもたらされるためには利害関係のある対象との直接的な接触がなければならないだろうし、そのとき反応はほとんど間髪を入れないものでなければならない。したがって、下等な種においては、触覚は、受動的であると同時に能動的である。触覚は獲物を見分けて捕まえることや危険を察知してそれを避ける努力をするのに役立つ。原生動物の多様な突起部、棘皮動物の歩帯は、運動の器官であるのと同様に触角の器官でもある。腔腸動物の棘状器官は防御手段であると同時に知覚の器官でもある。要するに、反応が直接的でなければならないその度合いに応じて、知覚は単なる接触により類似していなければならず、その場合、知覚と反応の全経過は、必然的な運動に後続される力学的な衝撃とほとんど区別されない』(p.30 9行目−17行目)

まず、上引用文で検討されているのは下等な動物の場合である。それらにとって外からの刺激は触覚の形で現われる。それは直接的な行動と直かに結ばれており、『運動の器官』が『触覚の器官でもある』場合も多い。『棘皮動物』の例としてはウニなど、『腔腸動物』の例としてはクラゲなどが挙げられる

『しかし、反応がより不確かになり、躊躇により多くの余地を残すにつれて、動物の関心を引く対象の作用がその動物に感じられるようになるまでの距離は、それだけいっそう増大する。視覚や聴覚によって、動物はますます多くの諸事物と関係を持ち、ますます遠くのものの影響を受ける。そして、これらの対象が、動物に利益を見込ませるにせよ危険によって動物を脅かすにせよ、見込みと脅威はその最終期限を先延ばしにする。生物が自由にすることのできる独立した部分、あるいはわれわれが言うような、生物の活動性を取り巻く不確定性の領域はこうして、生物と関係する諸事物の数と隔たりをア・プライオリに見積もることを可能にする』(p.30 17行目−p.31 7行目)

上の引用文の初めの部分は、逆に解して、『視覚』や『聴覚』という知覚は、触覚に比べて対象までの距離も大きく、それゆえ『反応がより不確かになり、躊躇により多くの余地を残す』とも言えるだろう。さらにそれらの知覚によって、『動物はますます多くの諸事物と関係を持ち、ますます遠くのものの影響を受ける』。これがさらなる『躊躇』を生み出せる要因となる。こうした『知覚』が加わることによって『意識的知覚』はますます『意識的』になるだろう。そのことはすなわち、『生物と関係する諸事物の数と隔たりをア・プライオリに見積もることを可能にする』ということでもある

ところで、これまで検討した『意識的な知覚』がもつ対象までの距離(『意識的知覚の延長』)は意志決定を可能にする時間の長さと強い相関があるだろう。そこからベルクソンはこの段落最後に以下のような主張をしている。それはすなわち、行動における時間的余裕は、行動の速度が速くなればその分時間的ゆとりを持てるということと同様に、知覚する物体との距離にも強く相関する。従って時間的な余裕はちょうど行動の早さやその自由度が時間に余裕を持たせるのと同じ分だけ空間的距離に対して行動の範囲を広げることができる、ということであろう

『この関係がどのようなものであれ、それゆえ知覚の本性がいかなるものであれ、知覚の射程は、引き続く行動の不確定性の正確な尺度を示していると主張できるのであり、したがって、次のような法則を述べることができる。すなわち、《知覚は行動が時間を自由にするのとちょうど同じだけ空間を自由にするのだ》』(p.30 7行目−10行目)


次に第三段落(p.31 12行目−p.32 8行目)を見てみよう

『しかし、多少とも遠くにある諸対象に対する有機体のこの関係は、なぜ意識的な知覚という特殊な形をとるのか』(p.31 12行目−13行目)

前段落で最初に主張されたのは、『厳密な法則が、意識的知覚の延長と生物が自由にできる行動の強さに関係づけられている』ということであった。ここでは、上の引用文のような疑問が読者に提示される。このあと、まずこれまでの考察の要約が述べられる

『われわれは有機体のなかで行われていることを考察した。われわれは、伝達された運動もしくは抑制された運動が、実行された行動へと変容されたり、生まれつつある行動へと分散させられるのを看取した。これらの運動は行動に、行動だけに関係するようにわれわれには思えた。これらの運動は、表象の過程とは完全に無関係なままである』(p.31 13行目−17行目)

これまでの脳や神経中枢が『表象』を作り出すためではなく『運動』の為にある、もしくは『運動』のために分析されるという主張が繰り返されている

『そこでわれわれは、行動そのものと行動を取り巻く、不確定性を考察したのだが、この不確定性は、神経系の構造に含まれており、また、神経系は表象をめざしてというよりもむしろ不確定性をめざして構築されたように思われる。一つの事実として受け入れられたこの不確定性から、われわれは、知覚の必然性、すなわち生体とその生体の関心を引く諸対象の多少とも遠隔的な諸影響とのあいだの可変的な関係の必然性という結論に到達することができた』(p.31 17行目−p.32 5行目)

上引用文では、そこで生じる『不確定性の原理』について述べられるというよりむしろ、脳や中枢神経がこれまで見たように『不確定性をめざして構築されたように思われる』と主張される。そこからこの段落最初に呈示された疑問点の答えとして、『意識的な知覚』の必然性が、『生体とその生体の関心を引く諸対象の多少とも遠隔的な諸影響とのあいだの可変的な関係の必然性』として捉えることができる、と説かれる。つまり、『実在的作用の諸中心』と諸事物との関係において、『実在的作用の諸中心』が位置を移動すれば諸事物が相対的にどのように位置が変わるかということの主観的な位置関係を捉えるということの必然性が、『意識的知覚』の必然性である、ということであろう

では、この段落最後の部分を引用したい。ここでは、これまでぼんやりとしか説明されてこなかった、『意識的な知覚』がなぜ『意識的』であるかについて、更にはこのような『意識』についても考察されるための疑問点の呈示である

『では、どうしてこの知覚は意識的なものなのだろうか。そしてなぜ、あたかもこの意識が脳実質の内部の諸運動から生じるかのように、すべてが進行するのだろうか』(p.32 5行目−7行目)


第四段落(p.32 8行目−p.34 12行目)を見ていきたい

『この疑問に答えるために、最初にわれわれは、意識的知覚が実現する際の諸条件を大いに単純なものにしてみよう。』(p.32 8行目−9行目)

ここでは、ベルクソンが『純粋知覚(perception pure)』と呼ぶ知覚についての定義がされる。それは簡単に言えば、われわれの知覚が実際には想起と関連づけられていることやその処理や遅延の時間などを無視する、言わば物理学でいう『質点』のような『知覚』のモデルを定義しようというのである

『実際には、想起の染み込んでいない知覚というものは存在しない。われわれの諸感管の直接的な現在の諸与件に、われわれはみずからの過去の経験の数え切れないほどの細部を混ぜ合わせている。大抵は、これらの想起はわれわれの現実的知覚を移動させるのだが、そのときわれわれは、かつてのイマージュをわれわれに回想させるべく定められたいくつかの指示、単なる「徴し」(signes)だけをこの現実的知覚から取り上げる。その代償として、知覚の便利さと速さが得られる』(p.32 9行目−15行目)

『しかし、そこからまた、あらゆる種類の錯覚が生じもする。われわれの過去がすっかり染み込んだこの知覚の代わりに、大人のすでに形成された意識であるとは言え、現在のうちに閉じ込められ、他のすべての仕事は排して、外的対象に象〈かたど〉る課題に埋没した意識が持つような知覚を立てるのを妨げるものは何もない』(p.32 14行目−p.33 1行目、〈〉内テキストふりがな)

上の二つの引用文のうち、はじめの引用文では後半部分が難しい。まず、『現実的知覚』ははじめ『諸感管の直接的な現在の諸与件』でありそれを統合したもののはずである。ところでこの『統合』にはある種無意識的な個体的主観性が入るわけであり、そこにはすでにそれぞれに想起の結合が見らているはずである。しかし、それら『諸感管の直接的な現在の諸与件』に結びつけられる想起は断片的ないわゆる『単なる「徴し」(singes)』でしかない。したがって、後半部分の『現実的知覚』から取り上げられ『移動』させられるのは、ある種の物体の知覚に対するそのような想起の『「徴し」(signes)』の集合であると説明できる。そうすると、二つ目の引用文は、このように、『錯覚』それはしばしば『現在のうちに閉じ込められ、他のすべての仕事は排して、外的対象に象〈かたど〉る課題に埋没した意識が持つような知覚』と見えるもの、すなわち、『想起』と『知覚』がいつしか同一視がされるということにより生じるものだと説明されている、と理解することが可能である

次に、

『われわれは勝手気ままな仮説を立てているといわれるだろうか。また、個体的偶発時を排除することで獲得されたこの理想的な知覚はもはや現実にまったく見合うものではないといわれるだろうか』(p.33 2行目−3行目)

と、読者に問いかけ、以下、その疑問点をみずから説明していくことになる。

『しかし、個体的偶発時はこの非人格的〔非人称的〕な知覚に付け加えられたものであるということ、この知覚が諸事物についてのわれわれの認識の基盤そのものであるということ、そして知覚全体を一種の内的で主観的な光景にし、想起とはその強度〔内的緊張〕(intensité)の程度によってしか異ならないものにしたのは、知覚を見誤ったためであり、知覚を記憶がそこに付け加えるものあるいはそこから差し引くものから区別しなかったためであるということ、これをわれわれはまさに明らかにしたいと思っているのだ』(p.33 3行目−10行目)

上の引用文で強調されている事項は三つ存在し、まず、『個体的偶発時』とは、外部の出来事が知覚され各個体の『諸感管の直接的な現在の諸与件』即ち『非人格的〔非人称的〕な知覚』に想起が結びつくときに生じること、次に、そのような『非人格的〔非人称的〕な知覚』が『諸事物についてのわれわれの認識の基盤そのものであるということ』、そして三つ目に、『知覚全体を一種の内的で主観的な光景』にし『知覚』と『想起』がその『強度〔内的緊張〕(intensité)』しか変わらないものである、ということが『知覚を見誤ったもの』、つまりは、『知覚』と『想起』とが基本的に同一とするような考えとは根本的に違うということ、以上を明らかにしたいと考えている、と説明していると考えられるだろう

『それゆえ、以上のことがわれわれの第一の仮説ということになるだろう。しかし、この仮説は必然的にもう一つの別の仮説をもたらす。知覚をどれほどの短時間のものと想定したとしても、実際、知覚は常にある程度の持続を占めており、したがって、多数の諸瞬間をして互いに継続させる記憶の努力を必要としている。』(p.33 10行目−12行目)

上の『第一の仮説』とは端的に『知覚』と『想起』とが、それらは『強度』の差しかないようなものではなく、一見似て非なるものであり、脳中枢で結びつくがゆえに混同されるという主張と言って良いだろう。そのようなものと仮定するとき、下の引用文にあるように、『感覚性質の「主観性」(subujectivité)』は『われわれの記憶』に依存しており、さらに記憶は『直接的な知覚の土台を想起のテーブルクロスで覆い尽くすもの』と『多数の諸瞬間を凝縮させるもの』という二つの役割を果たすことが説明可能となる。そうして、ベルクソンの主張は様々に展開されていくことになるだろう。

『われわれが明らかにしようと試みるように、感覚性質の「主観性」(subujectivité)はまさに、われわれの記憶によって行われる現実的なものの一種の凝縮(contraction)のうちにとりわけ存している。要するに記憶は、直接的な知覚の土台を想起のテーブルクロスで覆い尽くすもの、そしてまた多数の諸瞬間を凝縮させるものという二つの形で、知覚における個体的意識の主要な提供物、諸事物についてのわれわれの認識の主観的な側面を構成する』(p.33 12行目−17行目)

では、少し長めであるが、この段落の最後まで引用したい。引用文前半部分は、あまりに抽象的で不明なことが多く、ここでは、その部分については現時点では解釈をいったん延期することにしたい。ここで重要なのは、『純粋知覚(perception pure)』の定義である。『純粋知覚とは、事実上というより権利上存在する知覚、私がいる場所に置かれ、あらゆる形の記憶を排除されることで物質についての直接的で瞬間的なヴィジョンを獲得できる存在が持つような知覚の謂である』とされている。ここで、『物質についての直接的で瞬間的なヴィジョン』とは、いったんは記憶によってそれが何であるかを判明しているということには違いないが、しかしそれは『権利上』のものでありそこでは、結びつけられるべき想起の断片は一切排除されており、本来あるべき時間的な長さ(『持続の厚み』)もまた一切存在しないような特殊な『知覚』であるということだろう

『そして、われわれの考えをより明晰なものとするためにこの提供物を無視することで、われわれは自分が入り込んだ道を、妥当な範囲をはるかに超えて進むことになるだろう。そのあとで、もと来た方向へ引き返し、われわれの結論が持つことにあるような極端なものを、とりわけ記憶の再統合によって訂正する羽目になるだろう。それゆえ、以下の箇所には図式的説明だけを見なければならないし、われわれはまた、知覚というものを、具体的で複雑な私の知覚、私の想起によって膨らまされ、常にある程度の持続の厚みを呈する知覚ではなく、《純粋》知覚(perception pure)と暫定的に解することを要求する。純粋知覚とは、事実上というより権利上存在する知覚、私がいる場所に置かれ、あらゆる形の記憶を排除されることで物質についての直接的で瞬間的なヴィジョンを獲得できる存在が持つような知覚の謂である。そこでわれわれとしては、この仮説のうちに身を置き、どのように意識的知覚が説明されるかを問うことにしよう』(p.34 1行目−12行目)


第五段落(p.34 12行目−p.38 5行目)を見ていきたい。

ここでは、まず、『意識的知覚』の検討に『意識』についての考察は必要ないということから始まる

これは、前段落最後の部分の問い、

『そこでわれわれとしては、この仮説のうちに身を置き、どのように意識的知覚が説明されるかを問うことにしよう』

に対する答えの始まりあり、第三段落の終わりで呈示された疑問、

『では、どうしてこの知覚は意識的なものなのだろうか。そしてなぜ、あたかもこの意識が脳実質の内部の諸運動から生じるかのように、すべてが進行するのだろうか』(p.32 5行目−7行目)

に対する答えが始まるということを意味してもいるのだろう

『意識を演繹することは非常に大胆な試みであるだろうが、その試みはここではまったく必要ない。なぜなら、物質界を想定することで、イマージュの全体が与えられたことになるからだし、それに、他の何かが与えられるということは不可能だからである』(p.34 13行目−15行目)

ここで、p.15 10行目の『イマージュの総体を物質と呼ぶ』ということを思い起こされたい。この非常に巧みな定義によりわれわれは、『意識』というものを考慮に入れず、かわりに『イマージュ』を媒介にして『知覚』と『物質』とを論じることが可能となっている

『どんな物質理論もこの必然性をまぬかれることはない。物質を運動する諸原子に還元してみなさい。これらの原子は、たとえ物理的性質を欠いているとしても、ありうべきヴィジョンや接触 ―それは照明なきヴィジョン、物質性なき接触であろうが― との関係によってしか規定されることはない。原子を力の中心へと凝縮させなさい。連続的流体のなかで回転する渦へとそれを分解しなさい。この流体、これらの運動、これらの中心は、無力な触覚、効力のない衝撃、無色の光との関係によってしか、それ自体としては規定されることはないが、それらもまたイマージュなのである。』(p.34 15行目−p.35 5行目)

上引用文は、使用されている言葉は難しいが、要するにどんなに奇妙に見える物理法則の理論であっても、それらの係わり合いや存在を想定することはそのまま『イマージュ』であると言えるということである

『たしかに、イマージュは知覚されることなく《存在する》ことができる。イマージュは、表象されることなく現存することができる。そして、現存(présence)と表象(représentation)という二つの語のあいだの隔たりは、物質そのものと物質についてわれわれが有する意識的知覚とのあいだの隔たりをまさに示しているように思える』(p.35 5行目−9行目、《》内テキスト傍点付き)

上引用文は何ら解説することはないであろう。先を続ける

『そうではあるが、これらの事象をもっと注意深く検討し、この際が正確にはどこに存しているかを調べてみよう。第二の用語〔表象〕のうちに第一の用語〔現存〕よりも《より多くのものがあって》、現存から表象へ移るために何かを付け加えなければならないならば、両者の隔たりは飛び越えることのできない物で、物質から知覚への移行は不可解な神秘に覆われたままになるだろう』(p.35 9行目−13行目、《》内テキスト傍点付き)

上の引用文も難しいところはなく、『現存』よりも『表象』に含まれているものが多いことはあり得ないことが検証されている。下の引用文は、逆に『表象』よりも『現存』に多くのものが含まれていることの是非を問うて肯定している

『逆に、第一の用語から第二の用語へ、減少によって移ることができるならば、そして、あるイマージュの表象がそのイマージュの単なる現存よりもより少ないものであるならば、事情は同じではないだろう。というのも、その場合には、現前する諸イマージュがそのなにがしかを放棄するのを強いられるだけで、これらのイマージュの現存がそれらの表象に転じるには十分だろうからだ』(p.35 13行目−17行目)

上の二つの引用文で、『表象』に含まれているものは『現存』の一部であるということが検討され、結論づけられたと言って良いだろう

『ところで、ここに私が物質的対象と呼ぶイマージュがある。私はその表象を有している。どうしてこのイマージュは、それ自体では、それが私に対してあるものだと思われないのか。それは、このイマージュが、他の数々のイマージュの全体と連動したものとして、先行する諸イマージュを継承するのと同様に、後続する諸イマージュのなかでも継続されるからだ』(p.35 17行目−p.36 4行目)

上の引用文では、『どうしてこのイマージュは、それ自体では、それが私に対してあるものだと思われないの』か、という部分の意味がつかみにくいのだが、これは、どうして、『表象』を得ることなしに、他の物理現象と同じように物理法則の因果関係のなかで自分に関係するものだということをわれわれは把握できないのか、ということであろう。それに対して、あまりに複雑な相互作用を持つ物理的な因果関係ゆえに自分だけに関係するものごとというものは把握しきれない、という事が答えであると解釈してもいいように思われる。というのも、下の引用文では、『物質的対象と呼ばれるイマージュの純然たる現実存在を表象に変えるためには、(中略)そのイマージュの外側の殻、表面の皮膜しかもはや保持しないだけで十分だろう』とも述べられているからだ

『物質的対象と呼ばれるイマージュの純然たる現実存在を表象に変えるためには、そのイマージュに後続するもの、それに先行するもの、そしてまたそれを満たしているものを一挙に削除し、そのイマージュの外側の殻、表面の皮膜しかもはや保持しないだけで十分だろう』(p.36 4行目−8行目)

以下、上の引用文を受けて、下の引用文は、物理法則の持つ因果律がすべての物質の現在を同時にかつ一意に決定づけるということから、われわれの得るイマージュの『表象』、あるいはその『表象されたイマージュ』とは明確に区別されると述べられている

『それ、すなわち現存するイマージュ、客観的実在は、その諸点の各々によって他の諸イマージュのすべての点に対して働きかけ、各々の作用にそれと同等の相反する反応を対置しなければならず、要するに宇宙の広大無辺さのなかを伝播する諸変化がそのうえをあらゆる方向で通過するような一つの道に過ぎないのだが、かかる必然性によって、客観的実在は表象されたイマージュとは区別される』(p.36 8行目−12行目)

さて、下の引用文では、端的に『現存するイマージュを孤立』させ『とりわけその外皮を切り離した』ものを『表象』と言っているが、これは『つねに潜在的である』という主張がなされる

『現存するイマージュを孤立させることができれば、とりわけその外皮を切り離すことができれば、私はそれを表象に変えるだろう。表象はまさにそこにあるのだが、つねに潜在的(virtuelle)で、現実体に移行する際にも、別物として継続され、そこで失われざるをえないという強制ゆえに中和化されている』(p.36 12行目−15行目)

上の引用文は難しいが、『表象』が『潜在的』であるということとはアリストテレスの言うところの「形相(エイドス)」のことを意味しているであろう。これが『イマージュ』という『現実体』となっても、実際には『表象』は脳および中枢神経での想像される現象であるため『別物』でありその主観性は『中和化』されている、という理解で問題ないだろうと思われる

さて、下の引用文は実際のところ、どのように『現存』から『表象』が生み出されるかということが具体的に検討される

『現存から表象へのこの変換を獲得するために必要なのは、対象を照らすことではなく、反対に、対象のいくつかの側面を暗くして、対象そのものの大部分を減らすことであり、残されたものはそれによって、ひとつの物(chose)のように周囲に嵌め込まれたままであることなく、一幅の《絵画(tableau)》のように周囲から浮かび上がることになる』(p.36 15行目−p.37 2行目)

上の引用文は、言い方を変えれば、『表象』どのようにして周りから不要な情報を削って特徴を抽出するかということが重要なのだと言っているのだろう。つまり、『現存するイマージュを孤立』させるということが、『表象』することにおいてひとつの重要な課題であると言い換えることができるだろう

『ところで、諸生体が宇宙のなかで「不確定性の中心」(centres d'indétermination)を形成するとすれば、そしてこの不確定性の度合いが、生物の諸機能の数と高さに見合っているならば、諸生体が単に現存するだけで、諸対象のうちにそれらの生体の諸機能が関係を持たない対象の部分すべてを削除するのと同等でありうることが理解される』(p.37 2行目−6行目)

『諸生体は、外的諸作用のうちでそれらにとって無縁な作用によってある意味では通過されるがままになる。残りのものは他から切り離され、まさにそれらの分離によって「知覚」となるだろう。そのときわれわれにとっては、あたかも自分が、諸表面から発散する光、絶えず伝播し、決して現像されることのなかった光を、その諸方面に向かって反射しているかのようにすべてが行われるだろう』(p.37 6行目−12行目)

ここで、ベルクソンは大変ユニークな視点からの指摘を行う。『不確定性』が増していくということは、生物がそれだけさまざまな機能をもち高い知性を発揮できるということの裏返しであった。しかしながら、知覚できること以外のことは、生物にとっては無関係とは言えずとも、それらにとってはどうしようもできないことであるということでもある。なんとかできる部分だけが、『他から切り離され、まさにそれらの分離によって「知覚」となるだろう』と言う。すなわち、われわれが何かできるということを、『現存』に投影しているからこそ、『その諸方面に向かって反射しているかのように』知覚が生じると言っているのだろう

以下、段落最後まで、読みやすさを考慮して二つの引用文に分けて引用する。

初めの引用文の最初の部分、『諸イマージュは、みずからの実体から、われわれが途中で遮ったであろうもの、われわれが、影響を及ぼすことのできるものを切り離すだろう』というのは、物理法則で結びついている『イマージュの総体』が、生体の作用(およびそれを反映している『知覚』のはたらき)によって切り離されて感じられることを意味している

他は特に註釈は必要ないであろうが、強調されていることは、ただ物理法則の因果律にしたがっているだけの物質同士は、当然、『意識的に知覚されることも知覚することもない』わけであるが、『諸生体』は、『ある種の自発性』を持つがゆえに『意識的な知覚』をもつのだろうし、それら『諸事物についてのわれわれの表象は、結局、それらがわれわれの自由に対して反射するようになることから生じているのだろう』ということであろう

『諸イマージュは、みずからの実体から、われわれが途中で遮ったであろうもの、われわれが、影響を及ぼすことのできるものを切り離すだろう。それらを結びつけるその根本的な構造のために、相互に関心を持たない諸イマージュは、それらのすべての面を同時にお互いに見せ合っている。つまり、諸イマージュは相互に、それらのすべての要素的部分に至るまで、作用と反作用を及ぼし合っており、したがって、それらのイマージュのうちのどれもが、意識的に知覚されることも知覚することもないことになる。』(p.37 13行目−p.38 1行目)

『もし反対に、諸イマージュが、どこかで、反作用のある種の自発性にぶつかるならば、諸イマージュの作用はそれだけ弱められる。そして、それらの作用のこの減少が、まさにわれわれがそれらについて持つ表象なのである。それゆえ、諸事物についてのわれわれの表象は、結局、それらがわれわれの自由に対して反射するようになることから生じているのだろう』(p.38 1行目−5行目)


第六段落(p.38 6行目−p.39 2行目)を見てみる

この段落は短い段落であるので簡単に内容をまとめて紹介したい。ここでは、前段落を受けて『知覚』は『蜃気楼(image)』に例えられる。

まず、『蜃気楼(imarge)』についての説明がある。『蜃気楼』は光が二種類の媒質から媒質に移る時の屈折が原因となっている。入射角ががある程度以上を超えると屈折は全反射へと変わる。これを、ベルクソンは『それは諸光線が立ち止まらずに進むことの不可能性をいわば象徴している』とも言っているが、この部分はあまり重要ではない。この全反射による『虚像(imarge virtuelle)』こそが蜃気楼の正体であるということが例を理解する上で重要であるというだけだ(p.38 6行目−10行目)

ところでわれわれの知覚は、この蜃気楼に似ている。われわれに与えられているものは『イマージュの総体』である『物質界』、言い換えれば『物質界の諸イマージュの全体とそれらイマージュ内部の諸要素の全体である』。しかし、『知覚』すなわち『自発的な活動性の諸中心』が受け取るもの、は、『この中心に到達して、この活動性に利害関係を持たせる数々の光線』が『これら中心を透過する代わりに引き返して、光線を送りだした対象の輪郭を描く』そのようなものだろう。『ここには積極的なもの、イマージュに付け加えられるもの、新しいものは何もないだろう』(p.38 10行目−15行目)

つまりは、以下この段落の最後までに記述されているようなことと結論づけることができるだろう

『諸対象は、それらの実在的な作用から何かを放棄するだけで、それらの潜在的な作用、つまり、結局は、生物のそれらに対する可能的影響を描くのである。それゆえ、知覚は、妨げられた屈折に由来する反射のこれまでの現象によく似ている。それは蜃気楼(imarge)の効果のごときものである』(p.38 15行目−p.39 2行目)


第七段落(p.39 3行目−15行目)を紹介したい

この段落も短く、また内容もこれまでのまとめとなっているので、単に全文を呈示して終わりたい。重要な記述が多いが、とりわけ重要なのは、『諸イマージュにとって、存在することと意識的に知覚されることとのあいだには、単なる程度の相違がある』だけということ、『物質についてのわれわれの表象は、諸物体(corps)に対するわれわれの可能的な行動の尺度』であり、『それは、われわれの諸欲求、より一般的にはわれわれの諸機能と利害関係のないものの排除から生じる』ということ、また、このような『意識的知覚』の『貧しさ』には『何か積極的なもの、すでに精神的〈エスプリ〉を告げる何かがある。それは、この語の語源的な意味での、識別=分離(discernement)のことである』という部分であろう

『ということはつまり、諸イマージュにとって、《存在することと意識的に知覚されること》とのあいだには、単なる程度の相違があるのであって、本性の相違があるのではないということだ。物質の実在は、そのあらゆる種類の諸要素とそれらの要素の諸作用の全体のうちにある』(p.39 2行目−6行目、《》内はテキスト傍点付き)

『物質についてのわれわれの表象は、諸物体(corps)に対するわれわれの可能的な行動の尺度である。それは、われわれの諸欲求、より一般的にはわれわれの諸機能と利害関係のないものの排除から生じる』(p.39 6行目−8行目)

『ある意味で、意識を伴わざる任意の質点の知覚は、その瞬間生において、われわれの知覚よりも限りなく広大で限りなく完全なものであると言えるだろう。というのも、この点は、物質界のすべての点の諸作用を受け入れて伝達するのに対して、われわれの意識は、それらのうちの若干の部分に若干の側面から到達するのだから』(p.39 8行目−12行目)

『意識 ―外的知覚の場合― はまさしくこのような選択のうちに存する。しかし、われわれの意識的知覚に必然的なこの貧しさのうちには、何か積極的なもの、すでに精神的〈エスプリ〉を告げる何かがある。それは、この語の語源的な意味での、識別=分離(discernement)のことである』(p.39 12行目−15行目、〈〉内はテキストフリガナ)


第八段落(p.39 16行目−p.40 17 行目)を見てみよう

『われわれが専念している問題の困難は、知覚を諸事物の風景写真のようなものと表象することからことごとく生じている』(p.39 16行目−17行目)

上引用文、『われわれが専念している問題』というのは、脳や神経中枢が『知覚』に対してどのような働きを持っているかということでもあるだろうが、特に、前節で検討した、主観的な『意識(あるいは知覚)の体系』と客観性を重んじる『科学の体系』との間にある隔たりをどのように解決するか、ということであろうし、それは『存在すること』と『意識的な知覚』の隔たりをどのように解決するかでもあろう

『知覚がそのようなものであれば、それは、知覚器官のごとき特殊な装置を用いてある決まった点から撮られ、次いで、何だか分らない化学的で精神的な加工によって脳の組織の中で現像されることになるだろう。しかし、写真があるとして、その場合、写真は、諸事物のまさに只中で、空間のすべての点に向けて、すでに撮られすでに焼き付けられているのだということに、どうすれば気づかないでいられるだろうか』(p.39 17行目−p.40 5行目)

上の引用文、『しかし、写真があるとして』以下が難解であるが、これは『写真』自身が、その写真に写っている当の諸事物に含まれているということにどうして気づかずにいらるだろう、ということだろう。

以下の部分、三つに分けてられている。素粒子力学や場の科学、あるいはモナドの場合が検討されている。いずれもやや古く、詳しい解説は省きたい

『どんな形而上学、更にはどんな物理学も、この結論を免れることはできない。諸原子〈アトム〉を用いて宇宙を組み立ててみなさい。それぞれの原子のなかでは、すべての物質の原子によって及ぼされる諸作用が距離に応じて変化する質や量として感じられる』(p.40 5行目−7行目)

『力の諸中心を用いてではどうか。すべての中心からあらゆる方向へと発せられた諸力線は、それぞれの中心に向けて物質界全体の諸影響を差し向ける』(p.40 7行目−9行目)

『最後にモナドではどうか。ライプニッツ〔Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646-1716, ドイツの哲学者、数学者、物理学者〕が主張するようなモナドは、その各々が宇宙の鏡である。それゆえ、すべての人がこの点で一致している。ただし、宇宙の任意の場所を考察するならば、物質全体の作用はそこでは抵抗も消耗もなく通過するし、全体の写真はそこでは半透明であるということができる。感光板の裏にあって、イマージュを浮かび上がらせる黒いフィルターが欠けているのである』(p.40 9行目−14行目)

以上の三つの引用文はいずれも、『写真』自身が当の写っている写真の中に含まれているというパラドックスを何ら解決するものではないという事が示されている

ところで、前段落でも述べられたように『意識的な知覚』によるベルクソンの『不確定性原理』は、『諸イマージュにとって、存在することと意識的に知覚されることとのあいだには』には程度の差しかないということを強調している。そのことは、『自発的な活動の中心』において自らの作用、反作用に関係するものだけに絞り込むということを意味しているのである

では、この段落の最後の部分を引用したい。

下引用文において『現実的作用』とは物理学の法則に従った作用-反作用、『潜在的作用』は『知覚』もしくは『表象』を意味していると思われる

『われわれの「不確定性の地帯」はいわばこのフィルターの役割を演じるだろう。われわれの不確定性の地帯は、存在するものに何も付け加えはしない。それは単に、現実的作用を通過させ、潜在的作用を引き留めるようにするだけである』(p.40 15行目−17行目)


第九段落(p.41 1行目−p.44 12行目)を見ていきたい

この段落では、前段落の『困難』についてさらに検討される。いわば、前段落が主に『唯物論的実在論』の否定であったとすれば、この段落では主に『観念論的唯心論』の否定であると言えるだろう

『これは仮説ではない。われわれは、どんな知覚理論もそれなしでは済ますことのできない数々の所与を定式化するだけである』(p.41 1行目−2行目)

『実際、いかなる心理学者も、少なくても物質界の可能性、つまり結局のところ、あらゆる事物についての潜在的な知覚というものを想定することなしには、外的知覚の研究に取り組むことはないだろう』(p.41 2行目−4行目)

上二つの引用文をうまく説明できるかは難しいが敢えてやってみると以下のようになる

まず、『科学の体系』と『意識(知覚)の体系』のあいだにどんな『知覚理論』を立てるにせよ、『科学の体系』で示される『物質界の可能性』は認めざるを得えない

イマージュの定義からしても、あるいは前段落で見たような科学的世界観あるいはモナドの理論からしても『物質界』の存在が担保されている。そしてその『物質界』の物理法則は、すなわち、ベルクソンの説においては、『あらゆる事物についての潜在的な知覚』でもある

しかるに『外的な知覚』の存在は自明であるし、それを説明する上で、『物質界』の物理法則という『潜在的な知覚』も必要不可欠であるということを『これは仮説ではない』という言葉を用いて言いたいのであろう

以下、このような『潜在的な知覚』から『表象』がいかにしてもたらされるかの検討がなされる

まず、唯物論的な考え方が検討される

『単に可能なだけの物質総体の中から、私が私の身体と呼ぶ特殊な対象が切り離され、この身体の中から知覚諸中枢が切り離されるだろう。空間の任意の点から生じ、諸繊維に沿って広まり諸中枢に達するような震動が私に示されるだろう。しかし、ここでどんでん返し(coup de théatre)が起こる。身体を取り巻くこの物質界、脳を保護するこの身体、その中に諸中枢が見分けられるところのこの脳、これらのものが突然追い払われてしまい、まるで魔法杖が振られたかのように、最初に想定されていたものの表象が、全く新しいものとして生起させられるのである』(p.41 4行目−11行目)

特殊なイマージュである『私の身体』やその『脳』そしてその『諸中枢』が『物質界』から切り取られ、その神経繊維に知覚器官から伝わる『震動』、これが客観的にみた『物質界』の物理現象であろうが、これがどうにかして『魔法杖が振られたかのように』、『表象』となる不思議について言及されている

つぎに下引用文では、今度は『表象』よって構築された世界観は、物質なしでも済ませられるかのようだが、しかしその想定においても、物理法則の因果律の厳密性においては無視することもできず『その幻影を保持しなければならないだろう』と指摘される

『この表象は空間の外に押し出され、そのため、かつて出発点となった物質とはもはや何も共通なものを持たなくなる。物質そのものについても、それなしで済ますことが望まれるだろうが、しかし、そうすることはできない。なぜなら、物質の諸現象は相互に、きわめて厳密で、また、起源としてどの点が選ばれるかはとはかくも無関係な秩序を呈示していて、この規則正しさとこの中立性はまさに自存せる実在をなしているほどだからだ。それゆえ、物質なしで済ますことはあきらめて、物質についてはその幻影(fantôme)を保持しなければならないだろう』(p.41 11行目−17行目)

下引用文では、そこにおいては、『物質界』は『少なくとも生命を与える諸性質はすべて、物質からはぎ取られ』、物質は『形象〔図形〕(figure)』とだけ表される、というようなことが起こると述べられている。なぜならば、すべては『非伸張な意識』で起こっているはずの事柄だからだ

『ただ、少なくとも生命を与える諸性質はすべて、物質からはぎ取られるだろう。生気なき空間の中から数々の動く形象〔図形〕(figure)が切り取られるだろう。あるいはまた、(ほとんどおなじことだが)、これらの形象〔図形〕(figure)のあいだで構成されるような大きさの諸関係、己が内容を発展させながら進化していくような諸機能が想像されるだろう。かくして表象は、物質の抜け殻を充填されて、非伸張(inextensif)な意識のなかで自由に繰り広げられるだろう』(p.41 17行目−p.42 4行目)

そうして、『己が内容を発展させながら進化していくような諸機能が想像される』ようになったとき、『表象は、物質の抜け殻を充填されて、非伸張(inextensif)な意識のなかで自由に繰り広げられるだろう』と述べられている。ここで『非伸張(inextensif)な意識』の理解が難しいが、そもそもすべてが心の中で起こっているわけであるから、意識の中で起こることは一般に非物質的ことがらであり、『意識』は定義からして『伸張性』(伸び縮みできる性質)という概念が基本的にないということを意味しているのであろう。

ところで、これまでも『困難』は生じていたが、さらに、『物質についてはその幻影(fantôme)を保持しなければならない』ような『非伸張(inextensif)な意識』はどうやって物質の特性である伸張性を持つのか、そもそも、『表象』の元となる『意識的知覚』は『抜け殻』でしかないはずなので相対的な大きさの関係は保てても、物質そのものが持つ伸張性は抜け落ちてなければならないはずでもある。また、唯物論的にすべてが物質の運動であれば、そもそもどうして『質』は生じるのかという疑問が呈示される

『しかし、裁断するだけでは十分ではなく、縫い合わせなければならない。あなたが物質的な支えから切り離したこれらの性質については、どのようにしてそれらが物質的支えと改めて接合するようになるのかを、次に説明しなければならないだろう』(p.42 4行目−8行目)

『あなたが物質から属性を減らすごとに、表象とその対象との隔たりは広がる。あなたが非伸張(inextensif)な意識ならば、どのようにしてこの物質は伸張性(extention)をうけとるのでだろうか。あなたが物質を等質的な運動に還元するならば、それでは一体どこから質が生じるのだろうか。それに何よりも、事物とイマージュのあいだ、物質と思考のあいだの関連をどのように想像するというのか。というのも、これら二つの項の各々は、定義からして、他方に欠けているものだけを所持しているのだから』(p.42 8行目−14行目)

上引用文では、ようするに、唯心論ではどうやって物質に『伸張性』をあたえるのか、唯物論ではどうやって『質』を実感するのか、について疑問(『困難』)が呈示されていると言っていいだろう。それは、そもそも、それぞれ、元々持たないものから、説明に必要な性質(『伸張性』や『質』というもの)を生み出さなければならないからだ

『このように、あなたが歩むたびに数々の困難が生まれることになるのだし、あなたがそれらの困難のうちの一つを消滅させようと努力するたびに、その困難を他の多くの困難へと分解することしかできないだろう』(p.42 14行目−17行目)

とある。以上が、第八段落の最初に述べられた、『われわれが専念している問題の困難は、知覚を諸事物の風景写真のようなものと表象することからことごとく生じている』(p.39 16行目−17行目)からこれまで演繹されてきた結果だということだろう

『それでは、われわれは何をあなたに要求するのか。あなたが魔法の杖を振ることを断念すること、そしてあなたが最初に入っていった道を進み続けること、これだけである』(p.42 17行目−p.43 2行目)

そうして、これからはまた、ベルクソンの説が主張される

『先にあなたは、外部の諸イマージュが感覚諸器官に到達し、諸繊維を変化させ、外部の諸イマージュの影響を脳のなかに伝搬させることをわれわれに示してくれた。そのまま最後まで進みなさい。運動は脳実質を貫通しようとするだろうが、そこに留まらなかったわけではなく、その場合には意志的行動として開花するだろう。これが知覚の機構の全体である』(p.43 2行目−6行目)

要約すれば『感覚諸器官』からの『震動』が『脳実質』に達し、『意志的行動として開花』する。ベルクソンの主張では『これが知覚の機構の全体である』となるだろう

さて、下引用文は、『唯心論的観念論』への批判となる

『知覚そのものに関しては、それがイマージュである限り、あなたは知覚の生成過程を改めてたどるに及ばない。というのも、あなたは知覚を最初に想定したのだし、しかもそれを想定しないわけにはいかないのだから。脳を自分に与えることで、物質の最小片を自分に与えることで、あなたはイマージュの全体を自分に与えたのではないだろうか。《それゆえ、あなたが説明しなければならないことは、知覚がどのように生じるかではなく、どのように知覚が制限されるかである。というのも、知覚は権利的には全体のイマージュであるのに、事実的にはあなたに利害のあるものに縮減されているのだから》』(p.43 6行目−12行目、《》内はテキスト傍点付き)

『知覚は想定しないわけにはいかない』ものである以上何らかの説明が必要だ。そこで、批判の対象が『唯物論的実在論』から『唯心論的観念論』に移ってきた現段階においてまず、『知覚』を想定し、それを生み出している最小限の物質『脳』を想定する、と同時にイマージュすべては与えられるはずである。また、諸物体は物理法則によってお互いがお互いに関連しあうということは誰にも否定できないことである。そこでイマージュ総体とベルクソンが定義した『物質界』も想定される。ところがそのとき、われわれにとって利害関係にあるものだけに制限されるということがわれわれの『知覚』であるはずだということをベルクソンは指摘する。そのことを、ベルクソンは『知覚は権利的には全体のイマージュであるのに、事実的にはあなたに利害のあるものに縮減されている』と述べていると思われる

『しかし、知覚の諸部分は一つの可変的な中心との関係で配置されるという点で、この知覚が純然たるイマージュからまさに区別されるとすれば、その場合には、知覚の限定ということはたやすく了解される。すなわち、権利的には無際限な知覚も、事実的には、あなたが自分の身体と呼ぶこの特殊なイマージュの振る舞いに残された不確定性の部分を描き出すことに制限されてしまう。したがって、逆に言うなら、脳の灰白質の構造から生じるような身体運動の不確定性が、あなたの知覚の延長(etendue)の正確な尺度を与えるのだ』(p.43 12行目−p.44 1行目)

ここでも主張されているのは、『自発的な活動の中心』に対する諸物体の配置が『知覚』と強い関連性を持つということ、つまりそれらだけに関連性を持てるようであれば『知覚の限定』というものが説明可能であるということになるだろうし、ベルクソンの『不確定性原理』によって、距離と時間に強い相関がある限りにおいて『延長』(ものの大きさ)ということに関しても説明が可能であるということだろう

『それゆえ、あたかもあなたの知覚が脳の内部運動から生じ、いわば皮質の諸中枢から発する《かのように》すべてが進行するとしても驚くべきではない』(p.44 1行目−3行目、《》内はテキスト傍点付き)

つまり、『知覚』とは『感光板の裏にあって、イマージュを浮かび上がらせる黒いフィルター』(p.40 13行目−14行目)としての役割を果たすものであるから、すべてがあたかも脳のなか、中枢で生じているように思われても不思議ではない、ということを述べているのだろう

『知覚はこれらの中枢から生じることはできないだろう。というのも、脳は、他のイマージュと同様に、他の諸イマージュの総体に包まれた一つのイマージュだからで、また、容器が中身から出てくるなどというのは条理に反しているからだ』(p.44 3行目−6行目)

しかし、これまでの主張の通り、『イマージュの総体』(『物質界』)のなかのイマージュ(『脳』)が『イマージュ総体』を作り上げているということは、そもそも不条理である。『知覚』が自己に利害関係のある諸物体にのみイマージュ全体の諸物体を制限することとするならば、脳の主な役割、あるいは意識的知覚と脳の関係は次のようになるだろう。それではこの段落の最後の部分を二つに分けて引用したい

『しかし、脳の構造は、あなたがそれらのあいだで選択するところの諸運動の綿密な計画を与えるのだし、また他方で、外部の諸イマージュのうち、知覚を構成するために自分自身へ立ち戻るように思われる部分は、これらの運動が作用を及ぼす宇宙のなかのすべての点をまさに描くのだから、意識的知覚と脳の変化は厳密に対応している』(p.44 6行目−10行目)

『それゆえ、これら二つの相互依存は単にそれらがいずれもある第三項の関数であることに起因しているのだが、この第三項とは意欲の不確定性なのである』(p.44 10行目−12行目)


第十段落(p.44 13行目−p.46 14行目)を見ていきたい。この段落でこの節は終わりになる

『たとえば光点Pがあって、その数々の光線が網膜の異なる点a、b、cにたいして働きかけると仮定しよう。この点Pに、科学はある振幅と持続を伴った震動を位置づける。この同じ点Pに、意識は光を知覚する。われわれはこの研究を通じて、科学と意識はどちらも正しいということ、そしてまた、抽象的な力学が運動に拒むところの統一性、不可分性、質の不均等性を運動に取り戻させ、感覚的諸性質の各々のなかに、われわれの記憶によって行われた《凝縮》を認めさえすれば、この光とこの運動のあいだには本質的な相違は無いということを明らかにするつもりである。科学と意識はその場合、瞬間において一致するだろう』(p.44 13行目−p.45 3行目、《》内はテキスト傍点付き)

上の引用部分の後半『科学と意識はどちらも正しいということ、そしてまた、抽象的な力学が運動に拒むところの統一性、(中略)科学と意識はその場合、瞬間において一致するだろう』の部分は、特に第四章『イマージュの境界画定と固定について―知覚と物質、魂と身体』において詳しく説明されることになるだろう。ここでは、とりあえず、この部分の詳しい内容は置いておいて、先に進みたい

『ここでは語の意味をあまり深めることなく、暫定的に、点Pは光の震動を網膜に投げかけると言うにとどめよう。何が起こるのだろうか。点Pの視覚的イマージュが与えられていないとすれば、それがどのように形成されるのかを探求するのは当然だろうが、すぐさま、解くことのできない問題に直面することになるだろう。しかし、どんなやり方をするにしても、イマージュを最初に想定しないわけにはいかない。それゆえ、唯一の問題は、なぜ、どのようにして、他ならぬこのイマージュが私の知覚の一部となるために《選ばれ》、その他の無数のイマージュは私の知覚から閉め出されたままであるかを知ることである』(p.45 3行目−9行目、《》内はテキスト傍点付き)

『イマージュ』というのは、繰り返しになるが、第一節の最初に『そうすると私は、数々のイマージュ(image)と直面することになるのだが、ここでイマージュというのは、私が感覚を開けば知覚され、閉じれば知覚されなくなるような、もっとも漠然とした意味でのイマージュのことである』(p.8 3行目−6行目)とあった。また、『イマージュの総体』とは『物質界』のことでもありこれは物理学の法則にまったく従うのでもあった。このような『イマージュが与えられていないとすれば』、どのような『問題』が待っているのだろう。考えてみると『イマージュ』の定義というのは、実に難しいものとなる。ベルクソンの理論からいえば、『イマージュ』から『知覚』や『表象』が生み出される可能性は否定できないが、逆にそれから『イマージュ』を定義することは、これまでの論述からして『知覚』あるいは『表象』という『イマージュ』よりも少ないものを含んでいるものから『イマージュ』を創造しなければならないという事になる。これが、ベルクソンの指摘する『問題』ではないだろうか。従って、そのような議論をすることがそもそも間違っており、『唯一の問題は、なぜ、どのようにして、他ならぬこのイマージュが私の知覚の一部となるために《選ばれ》、その他の無数のイマージュは私の知覚から閉め出されたままであるかを知ることである』と言っているのではないだろうか

『ところで、点Pから網膜の様々な小体へと伝えられる諸震動は、皮質下の皮質の視覚中枢へと導かれ、多くの場合に他の諸中枢にも導かれているということ、そしてこれらの中枢は、諸震動を、あるときは運動機構へ伝え、あるときは一時的に押さえるということを私は知っている。それゆえ、関与する諸神経要素は、受け取られた震動にその効力を与える』(p.45 9行目−13行目)

上引用文で重要なのは、網膜からの『諸震動』が『諸中枢』に達し、そしてこれらの『中枢は、諸震動を、あるときは運動機構へ伝え、あるときは一時的に押さえるということ』の部分だと思われる。それこそが、『受け取られた震動にその効力を与える』ということに他ならないということだろう

『それらは意欲の不確定性を象徴しているのだ。それらの神経要素の完全さに、この不確定性は依存している。したがって、これらの要素のどの損傷も、われわれの可能な行動を減少させることで、その分だけ、知覚を減少させるだろう。言い換えれば、受けられた諸震動がそこへと機械的に伝えられることなき諸点が物質界に存在するならば、先にわれわれが言ったように不確定性の地帯があるならば、これらの地帯はまさに感覚‐運動過程と呼ばれるものの軌道上に見出されるに違いない。そうなると、あたかも光線Pa、Pb、Pcは、この軌道に沿って《知覚され》、ついでPへと《投射される》かのようにすべては進行せざるをえない。そればかりか、例えこの不確定性が実験や計算を免れるものだとしても、印象がそこで集められ、伝えられるような諸神経要素については事情は同じではない』(p.45 14行目−p.45 5行目)

上引用文で、『それらは意欲の不確定性を象徴しているのだ』というのはもちろん『受け取られた震動にその効力を与える』ところの『中枢』が『諸震動を、あるときは運動機構へ伝え、あるときは一時的に押さえる』働きであろう。その『意欲の不確定性』が依存する『神経要素の完全さ』というのは、もちろんわれわれの中枢神経の健全さであろう。それが不完全であれば、われわれの『可能な行動の減少』ひいては『知覚の減少』をもたらすと指摘している。したがって、『不確定性の地帯』は『まさに感覚‐運動過程と呼ばれるものの軌道上に見出されるに違いない』。つぎの『そうなると、あたかも光線Pa、Pb、Pcは、この軌道に沿って知覚され、ついでPへと投射されるかのようにすべては進行せざるをえない』は問題なく受け取れるだろう

しかしそのあとの、『そればかりか、例えこの不確定性が実験や計算を免れるものだとしても、印象がそこで集められ、伝えられるような諸神経要素については事情は同じではない』というところが難解である。この部分、下引用文に重ねて引用することでもう少し詳しく見ていきたい

『そればかりか、例えこの不確定性が実験や計算を免れるものだとしても、印象がそこで集められ、伝えられるような諸神経要素については事情は同じではない。だから、生理学者たちや心理学者たちは、他ならぬこれらの要素と取り組まなければならないだろうし、外的知覚の細部のすべてがこれらの要素に即して調整され、これらの要素のよって説明されるだろう』(p.46 4行目−8行目)

上引用文で、『印象がそこで集められ、つたえられるような神経要素』とは、『不確定性の地帯』であり『神経中枢』であろう。それらは、『意欲の不確定性』が例え『実験や計算を免れるもの』すなわち何らかの形而上学的なものだとしても、『生理学者たちや心理学者たち』が『取り組まなければならない』ことにはかわりはない。そして、これまで見てきたように、『外的知覚の細部のすべてがこれらの要素に即して調整され、これらの要素のよって説明される』べきものであることはベルクソンの理論上疑いないものであろう

下引用文では、この段落最初の『解くことのできない問題』とされた、イマージュがいかにして創造されるかについてを、『刺激は、これらの要素に沿って進んで、中枢にたどり着いたあと、中枢で意識的なイマージュへと変化し、この意識的イマージュが次いで点Pへと外在化されるのだと言うこともできる』とも言っている。しかし、それでも、『現実的過程』、この場合どうやって『非伸張』な『意識的イマージュ』が現実的に『伸張性』をもつのかということであろうが、それらは『まったく描かれないだろう』として、やはり『問題』は残っていることが指摘されている。

『お望みなら、刺激は、これらの要素に沿って進んで、中枢にたどり着いたあと、中枢で意識的なイマージュへと変化し、この意識的イマージュが次いで点Pへと外在化されるのだと言うこともできるだろう。しかし、そのように表現するなら、単に化学的方法の諸要求に従うだけで、現実的過程はまったく描かれないだろう』(p.46 8行目−10行目)

以下、この段落の最後にして、長かったこの節の最後の部分である。ここでも唯心論的な『非伸張的イマージュ』というものは否定され、光源Pをはじめとして諸光線、網膜、脳や神経系などが一つのシステムとして描かれていて、『Pのイマージュが形成され知覚されるのは、まさにPにおいて』ということが述べられている

『実際、意識のなかで形成され、それからPに投射されるような非伸張的イマージュは存在しない。本当のところは、点P、点Pが発する諸光線、網膜、関与する諸神経要素は一つの不可分な全体を構成しているのだし、また、Pのイマージュが形成され知覚されるのは、まさにPにおいてであり、他の場所においてではないのである』(p.46 10行目−14行目)



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