第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第十一節「純粋知覚」

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは、第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第十一節「純粋知覚」(p.80 2行目−p.84 7行目)について解説します。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています


第一段落(p.80 3行目−p.81 5行目)を見てみる

『以上は、単純化され図式化されたものであるとはいえ、外的知覚についてわれわれが先に予告した理論である。それは《純粋知覚》の理論であるだろう。この理論を決定的なものとみなすなら、知覚におけるわれわれの意識の役割は、われわれの一部をなすというより諸事物の一部をなすような、一連の絶え間ない瞬間的な諸光景を、記憶の切れ目なき糸によって結び直すにとどまるだろう』(p.80 3行目−8行目、《》内はテキスト傍点尽き)

やや煩雑ではあるが上の『純粋知覚』について前節で端的に記述された部分を再掲するとすれば、

『知覚は、生物の行動する力能、集められた震動に後続する運動あるいは行動の不確定性を表し、その尺度となる。われわれが示したように、この不確定性は、われわれを取り巻く諸イマージュの自己反射によって、というよりむしろ、それらのイマージュの分割によって言い表されるだろう。数々の運動を受容し、抑え、伝達する神経的諸要素の連鎖は、まさしくこの不確定性の座であり、それをあらわにするのだから、われわれの知覚は他ならぬこの神経諸要素の細部を余すところなく辿り、そのあらゆる変異を表出するように見えるだろう』(p.79 8行目−14行目)

という部分が相当するだろう

このような『純粋知覚』を想定する場合、『意識』の知覚における役割は、『一連の絶え間ない瞬間的な諸光景を、記憶の切れ目なき糸によって結び直すにとどまる』と主張されている

下引用文ではさらに、この『意識』の役割は『ア・プリオリに演繹される』と主張される。その部分、まず『生体』が物理的法則の因果関係から離れて『予測不能な反応を錬成することが目的』と述べられる。しかし、それが単なるでたらめであってはならないのは当然であるから、記憶に働きかけることが重要になってくる、とその後の部分は要約できよう

すなわち、『反応の選択』においては『過去の諸経験から着想を得ている』し、そうなるとそもそも『過去の諸経験自体』の記憶も必要であろう。さらには『反応』自体も学習の結果であるから、『類似の諸状態が後に残すことのできた想起に訴えることなしには行われない』ということになる。したがって、当然『知覚された諸イマージュの保存』は必要不可欠であるということになるのだろう

『それに、われわれの意識が、外的知覚においてとりわけこの役割を受け持つということは、生体の定義そのものから《ア・プリオリ》に演繹されうることだ。というのも、生体は、刺激を受け、それを予見不能な反応へと錬成することを目的とするのだが、それでも、反応の選択は行き当たりばったりで行われてはならないからだ。この選択は疑いなく過去の諸経験から着想を得ているし、反応は、類似の諸状態が後に残すことのできた想起に訴えることなしには行われない。それゆえ、実行するべき諸行為の不確定性が全くの気まぐれと混同されないためには、知覚された諸イマージュの保存が要請される』(p.80 8行目−14行目)

下二つの引用文においてはさらに、われわれが必要と思われる『未来への影響力』の為には記憶のはたらきが必要である理由が述べられる

まず、はじめの引用文の『われわれの活動の前方への推進力はその背後に数々の想起がはまりこむ瞬間を穿つ』という部分であるが、より良く生きようとするからこそ、過去のことを思い出しながらつまりは反省しながら前へ進むと言い換えられるだろう。そのように考えた場合、『記憶』は『意志の不確定性』が示した様々な行動の結果であり、そのことを『認識における』、『不確定性の反響である』と述べていると思われる

次の引用文では、『記憶の作用』はこうした表面的なところだけではないと言われる。以下の文章は曖昧な点が多く、詳細に解説していくことは難しいが、こうした『記憶の作用』については、第二章以降でも詳しく説明される。ここでは、『意識と諸事物、身体と精神との接点をより精確に決定するべき時が今や到来した』とあり、ここからはそれらが、『純粋知覚』と『記憶』の関係性、もっと言えば、『知覚のなかに記憶を統合し直』すことにより、詳しく述べられていくことになるのだろう

『われわれが未来に対して影響力を持つためには、それに対応するような、過去への同等の見通しが不可欠であり、われわれの活動の前方への推進力はその背後に数々の想起がはまりこむ瞬間を穿つのだが、記憶とはこのように、認識の領域における、われわれの意志の不確定性の反響であると言えるだろう』(p.80 14行目−p.81 1行目)

『 ―しかし、記憶の作用はこうした表面的な検討が推察させるよりもずっと遠くまで、もっと深くまで広がっている。知覚のなかに記憶を統合し直しそれによってわれわれの数々の結論が過度に誇張したかもしれないものを訂正し、かくして、意識と諸事物、身体と精神との接点をより精確に決定するべき時が今や到来した』(p.81 2行目−5行目)


次に第二段落(p.81 6行目−p.82 14行目)を見てみたい

この段落ではまず、『記憶』が『知覚』を飲み込む、そのはたらきについて叙述される

『記憶、すなわち過去の諸イマージュの残存が措定されれば、これらのイマージュは、いつでもわれわれの現在の知覚に加わり、それに取って代わることさえあるだろうということを最初に述べておこう。というのも、過去の諸イマージュは、有用なものになるためにだけ保存されているのだから、過去の諸イマージュは現在の経験を既得の経験によって豊かにすることで、絶えずそれを補完する。そして、既得の経験は絶えず増大していくのだから、それはついには他方の現在の経験を覆い尽くし、飲み込むに至るだろう』(p.81 6行目−11行目)

次の引用文に『直感の土台』とある

『外的世界についてのわれわれの知覚がそれに基づいて開花するところの現実的で、いわば瞬間的な直感の土台は、われわれの記憶がそこに付け加えるものすべてと比較すれば、取るに足らないものであるということに異論の余地はない。まさしく、類似した以前の諸直感の想起はわれわれの記憶のなかで、後続する一連の出来事全体と結び直され、それによって、われわれの決定をよりよく解明できるのであって、この想起は直感それ自体よりも有用で、現実的直感を押しのけるとはいえ、もはやその役割は ―われわれがもっと先で証明するように― 想起を呼び寄せ、想起を具現し、想起を能動的なもの、ひいては現在的なものにすることに尽きる。それゆえ、知覚と知覚された対象との一致は、事実的にというよりむしろ権利的に存在するとわれわれがいったのは正しかった』(p.81 11行目−p.82 3行目)

これは第四節で『純粋知覚』を暫定的に定義されたときに

『要するに記憶は、直接的な知覚の土台を想起のテーブルクロスで覆い尽くすもの、そしてまた多数の諸瞬間を凝縮させるものという二つの形で、知覚における個体的意識の主要な提供物、諸事物についてのわれわれの認識の主観的な側面を構成する』(p.33 15行目−17行目)

と記述された部分を思い出させる。そのあと、『類似した以前の諸直感の想起はわれわれの記憶のなかで、後続する一連の出来事全体と結び直され』ることになると記述されるが、それはまた、『想起を呼び寄せ、想起を具現し、想起を能動的なもの、ひいては現在的なものにすることに尽きる』と記述されている

最後の文には、『知覚と知覚された対象との一致は、事実的にというよりむしろ権利的に存在するとわれわれがいった』とあるが、これも第四節で『純粋知覚』に触れた部分で、

『純粋知覚とは、事実上というより権利上存在する知覚、私がいる場所に置かれ、あらゆる形の記憶を排除されることで物質についての直接的で瞬間的なヴィジョンを獲得できる存在が持つような知覚の謂である』(p.34 7行目−11行目)

と仮に定義されていた部分を指すのだろう

そうして『権利的存在する』と言ったことが『正しかった』とあるが、これは『記憶の作用』、言い換えれば、『諸直感の想起』が『後続する一連の出来事全体と結び直され』、『直感それ自体よりも有用で』、『想起を呼び寄せ、想起を具現し、想起を能動的なもの、ひいては現在的なものにすることに尽きる』と述べられたはたらきゆえである。すなわち、本来記憶なしでは成立しないもの、記憶を呼び起こすためだけに『権利的』にしか存在しないようなものが『純粋知覚』だというのだろう

この後の下の下引用文でも、この『(純粋)知覚』が『最終的には思い出すための一つのきっかけでしかもはやない』などとと述べられていることも上の論を証拠づける

『知覚することが最終的には思い出すための一つのきっかけでしかもはやないということ、われわれは実際には現実性の程度を有用性の程度に応じて測っているということ、実在そのものと結局のところ一致する直接的な直感を、現実の単なる記号(signe)に仕立て上げるのがわれわれにとって全く得になるということ、これらの点を考慮に入れなければならない』(p.82 3行目−7行目)

下引用文はこの段落最後の部分だが、ここではふたたび、『唯心論的観念論』を唱える人たちの論が批判されている。問題点として挙げられている部分、『知覚が知覚された対象と一致するような非人格的な土台が存続すること、そしてこの土台が外部性(extériorité)そのものであることを忘れているだけなのである』はすぐに、『記憶』と『知覚』に程度の差しかみない、と形を変えて批判されるだろう

『しかし、われわれはここで、知覚のなかに、われわれ自身の奥底から引き出され、次いで空間内で繰り広げられる非伸張的諸感覚の投影を看取する人たちの過ちを発見する。われわれの完全な知覚は、われわれに個人的に属している諸イマージュ、外在化された(すなわち、結局のところ思い出された)諸イマージュで充満しているということを、彼らは苦もなく示す。ただ彼らは、知覚が知覚された対象と一致するような非人格的な土台が存続すること、そしてこの土台が外部性(extériorité)そのものであることを忘れているだけなのである』(p.82 7行目−14行目)


第三段落(p.82 15行目−p.84 7行目)を見てみる

まず、下引用文は前段落最後の部分を受けての『唯心論的観念論』批判の続きとなる

『主要な誤り、心理学から形而上学に遡ることでついには身体についての認識を精神についての認識と同様に覆い隠すに至る誤りは、純粋知覚と想起とのあいだに本性の相違を見る代わりに、程度の違いしか見ないことに存する誤りである』(p.82 15行目−17行目)

下引用文の『想起は、われわれがあとで示すように、それが差し込まれる何らかの知覚の体を借りることによってしか、再び現在的なものにはならない』ということがベルクソンの論の特徴的な点であるとまず言いたい。このあと『知覚と想起は、内的浸透(endosmose)の現象によって互いの実質のうちの何かを常に交換することで、常に混じり合っているのだ』と指摘し、それらのそれぞれの『本来の純粋さ』を取り戻すことで『心理学者が提起する多くの問題が、そしておそらくは形而上学が提起する多くの問題も解明されるだろう』と主張する

『われわれの知覚にはおそらく数々の想起がしみこんでいるが、逆に想起は、われわれがあとで示すように、それが差し込まれる何らかの知覚の体を借りることによってしか、再び現在的なものにはならない。それゆえ、これら二つの行為、知覚と想起は、内的浸透(endosmose)の現象によって互いの実質のうちの何かを常に交換することで、常に混じり合っているのだ。とすれば、心理学者の役割は、これら二つの行為を分離し、各々にそれ本来の純粋さを取り戻させることにあるだろう。そうすることで、心理学者が提起する多くの問題が、そしておそらくは形而上学が提起する多くの問題も解明されるだろう』(p.82 15行目−p.83 7行目)

下引用文以下では、実際には心理学者の説がそうでないことに不満を述べ、その問題点として、『知覚と想起のあいだに、もはや本性の相違ではなく程度の相違しか認めない』ことを挙げている

『しかしまったくそうではないのだ。純粋知覚と純粋想起が不均等な含有量で全面的に合成されている混合状態が単純な状態であると主張されているのである。それによって、純粋知覚と同様に、純粋想起をも無視することを余儀なくされ、また、これら二つの相のどちらが優勢であるかに応じて、時に想起時に知覚と呼ばれるただ一つの種類の現象だけしかもはや認識せず、ひいては、知覚と想起のあいだに、もはや本性の相違ではなく程度の相違しか認めないことを余儀なくされる』(p.83 7行目−12行目)

下二つの引用文では、そのことは『再認』、『より一般的には無意識的なもの(inconseient)の機構を理解することを放棄』していると述べられ、さらには、『知覚』が『一つの内的状態のようにわれわれの人格の単なる一つの変化のようにわれわれに与えられる』と述べられている

『この誤りは、その第一の結果として、あとで詳細に検討するように、記憶の理論を深々と汚染している。というのも、想起をより弱い知覚にすることで、過去を現在から区別する本質的な相違を見誤るからであり、また、再認(reconnaissance)の現象、より一般的には無意識的なもの(inconseient)の機構を理解することを放棄するからである』(p.83 12行目−16行目)

『しかし、逆に言うと、想起をより弱い知覚にしたのだから、もはや知覚のなかにより強い想起しか見ることはできないだろう。あたかも知覚が、想起のようなやり方で、一つの内的状態のようにわれわれの人格の単なる一つの変化のようにわれわれに与えられると推論することになるだろう』(p.83 16行目−p.84 3行目)

下引用文は、この節最後の部分になるが、『われわれが直ちに諸事物のなかに身をおく行為は見誤られる』と指摘され、『心理学』と『観念論的な考え方と実在論的な考え方双方に深くしみこ』んでいる『物質』についての考え方に影響していると記されている

『知覚本来の根本的な行為、純粋知覚を構成するこの行為、それによってわれわれが直ちに諸事物のなかに身をおく行為は見誤られるだろう。そして、同じ誤りが、心理学においては、記憶の機構を説明することができないという根本的無力によって表され、形而上学においては、物質についての観念論的な考え方と実在論的な考え方双方に深くしみこむことになるだろう』(p.84 3行目−7行目)

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