第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第十四節「物質と記憶」

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは、第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第十四節「物質と記憶」(p.94 4行目−p.97 3行目)について解説します。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています


第一段落(p.94 4行目−p.96 11行目)を見よう

『しかし、われわれは、この同じ考えをさらに第三の形式で示すことで、どうしてわれわれの目には記憶の問題が一つの特権的な問題と映るのかということをまさに明らかにしなければならない』(p.96 5行目−7行目)

上引用文、『この同じ考え』とあるが、具体的には、前節、

『われわれは、記憶がそうでないところのものを示したのだから、われわれには記憶がそうであるところのものを探る義務があるだろう。諸行動を準備するという唯一の機能を身体に付与したからには、われわれは、なぜ記憶はこの身体と連動しているように見えるのか、どのように身体の諸障害が記憶に影響をおよおすのか、そしてどんな意味で記憶は脳実質の状態にあわせたものなのかということを、まさに探求せざるをえないだろう』(p.93 11行目−16行目)

という部分ではないだろうか。このあと『第三の形式』とあるのは、第一の形式として『記憶がそうでないところのものを示したのだから、われわれには記憶がそうであるところのものを探る義務があるだろう』ということであり、第二の形式は『諸行動を準備するという唯一の機能を身体に付与したからには、われわれは、なぜ記憶はこの身体と連動しているように見えるのか、どのように身体の諸障害が記憶に影響をおよおすのか、そしてどんな意味で記憶は脳実質の状態にあわせたものなのかということを、まさに探求せざるをえないだろう』という探求の形式ではないかと考える

そうしてここでは、上記と『同じ考え』が新たな記憶の探求の『第三の形式』として呈示されるということだろう

ところで、この後の三つに分けた引用文の部分では、まず『純粋知覚』の考えがもたらす二つの結論のうち、一つ目の『脳は行動の道具であり、表象の道具ではない』ということについて触れ、しかしながら『外的知覚』における検討では、ベルクソンの説と彼が反対する説では、結局は同じ結論に至ることが書かれている

『純粋知覚についてのわれわれの分析から生じることは、いわば分岐した二つの結論であって、その一方は精神生理学の方へと心理学を凌駕し、もう一方は形而上学の方へとはみ出すのであって、結局はそのどちらも直接的な実証を含まない。第一の結論は、知覚における脳の役割に関係する。脳は行動の道具であり、表象の道具ではないのだ。われわれは、この説の直接的確証を諸事実に求めることは出来なかった。というのも、純粋知覚は定義からして、われわれの諸器官と神経諸中枢を動かしながら、現在の諸対象にかかわっているからであり、したがって、あたかもわれわれの諸知覚が脳の状態から流出し、次いでわれわれの諸知覚とは絶対的に異なるある対象に向けて投影されるかのように、すべては進行するだろうからだ』(p.94 7行目−15行目)

上引用文では、『したがって、あたかもわれわれの諸知覚が脳の状態から流出し、次いでわれわれの諸知覚とは絶対的に異なるある対象に向けて投影されるかのよう』という部分がやや難しいかもしれないが、これはこれまでも繰り返し主張されてきたことであり、たとえば、第六節では

『まさにここ、あらゆるイマージュの真ん中に、私が私の身体と呼ぶところのあるイマージュがあるのだが、このイマージュの潜在的な作用は、それを取り囲む諸イマージュのそれら自身への見かけ上の反射によって翻訳される。私の身体にとって複数の種類の可能的行動があるのと同じだけ、他の諸身体=物体にも様々な反射の体系があって、各々の体系は私の諸感官の一つに対応するだろう。それゆえ私の身体は、他の諸イマージュに対して及ぼすべき多様な作用の観点から、それらのイマージュを分析しつつ反射するような一つのイマージュとして振る舞う。したがって、同じ対象のうちで、私の様々な感官によって知覚されたそれぞれの性質は、私の活動のある一つの方向、ある一つの欲求を象徴している』(p.55 8行目−16行目)

というように記述されていた部分が相当するだろう

続く下引用文では、『言葉を換えれば、外的知覚の場合、われわれが反対した説とわれわれがその代わりに用いた説とはまったく同じ諸帰結に至る』とあるが、たとえば第十二節で、

『しかし、実在論にとっても観念論にとっても同様に、諸知覚は「正しい幻覚」(hallucinations vraies)であり、主体のそとに投影された主体の諸状態であるこれら二つの学説はただ単に、一方においては、これらの状態が実在を構成するのに対し、他方においては、それらが実在と合流するようになるという点でのみ異なっている』(p.84 14行目−p.85 2行目)

と描かれた内容のことを指しているのではないだろうか。そうしたとき、下引用文のような結論に至る

『言葉を換えれば、外的知覚の場合、われわれが反対した説とわれわれがその代わりに用いた説とはまったく同じ諸帰結に至るのであって、その結果これらの説のいずれかが有利になるように、こちらの方がより分かりやすいと主張することは出来ても、経験の権威を引き出すことは出来なくなる』(p.94 15行目−p.95 2行目)

このあと下二つの引用文では、『純粋知覚』の理論ではこのように成否の判別が難しかったベルクソンの説と彼が批判する説について、『記憶』について検討することで判断されるという

まず一つ目の引用文では、脳のなかで『知覚』が生じると言うことができれば(『知覚がその必要十分条件を脳のある活動のうちに有するならば』)、同じ脳の活動において『知覚』が再現され、『記憶』は脳によって説明されうることになる、と言う

『反対に、記憶についての経験論的研究は、それら二つの説を採決することが出来るし、またそうするに違いない。実際、純粋想起とは仮定からして不在の対象の表象である。知覚がその必要十分条件を脳のある活動のうちに有するならば、この同じ脳の活動が、多少不在のなかで多少とも完全に繰り返されるだけで、知覚を再現するには十分であろう。かくして記憶は、脳によって全面的に説明されうるだろう』(p.95 2行目−p.96 7行目)

次の下引用文ではベルクソンの説が主張される。要約すれば、『脳』は『行動の道具』であるはずであり、『脳の機構はある仕方で想起を条件付けてはいるが、想起の残存を保証するにはまったく十分でないということ』を示すことがベルクソンの説を裏付けるだろう、ということであろう

『反対に、脳の機構はある仕方で想起を条件付けてはいるが、想起の残存を保証するにはまったく十分でないということ、脳の機構は思い出された知覚のなかでわれわれの表象よりむしろわれわれの行動に関係するということ、それをわれわれが見出すならば、ここから結論として、脳の機構は知覚のそのもののうちでも類似の役割を演じるということ、そしてまた、脳の機構の機能は、単に現在の対象に対するわれわれの有効な行動を保証することだということを導きうるだろう。われわれの第一の結論はこのようにして確証されることになる』(p.95 7行目−13行目)

『―そうなると残るは第二の結論だが、それはどちらかといえば形而上学的秩序に属する結論で、それによると、われわれは純粋知覚においてまさしくわれわれの外に置かれており、われわれはそのとき直接的直感において対象の実在に触れるのだ』(p.95 13行目−15行目)

上引用文のようにこのあと、『純粋知覚』についての二つ目の結論について記述されていくが、これは、『われわれは純粋知覚においてまさしくわれわれの外に置かれており、われわれはそのとき直接的直感において対象の実在に触れる』とある。これについては、例えば、第五節最初に、

『われわれはみな、自分は対象〈オブジェ〉そのものに参入し、われわれのうちではなく、対象そのものにおいてこの対象を知覚しているのだと信じるところから始めた』(p.47 3行目−5行目)

という記述があったが、そのような内容を指しているのだろう

下引用文では、『経験に基づく実証は不可能だった』と、『知覚』の検討だけでは上記のようなベルクソンの論と彼の反対する論(『第二の仮説』すなわち『諸知覚は「正しい幻覚」(hallucinations vraies)であり、主体のそとに投影された主体の諸状態である』(p.84 15行目−16行目)となるような説)の決着がつかないことを述べている

『ここでもまた、経験に基づく実証は不可能だった。というのも、実際的な諸結果は、対象の実在が直感によって知覚されたにせよ、理性によって構築されたにせよ、同じものであるだろうからだ。しかし、ここでもまた、想起についての研究はこれら二つの仮説を採決することが出来るだろう。第二の仮説においては、実際、知覚と想起のあいだには、強度の相違、より一般的には程度の相違だけしかあってはならないだろう。というのも、知覚と想起はどちらも自足した表象の現象であるだろうからだ。反対に、想起と知覚のあいだには単なる程度の相違ではなく、本性の根本な相違があるということをわれわれが見出すならば、想起のなかにはまったく存在しない何かを、直感によって把握された一つの存在を知覚のなかに介在させる仮説が有利になるような数々の推測がなされるだろう』(p.95 16行目−8行目)

しかし、ここでも記憶(『想起』)について検討することで判断されるという。そのことは、ここでは、『記憶』が『弱い知覚』であるか、それともそれらには根本的な違いがあるかどうか、ということによるとされている

下引用文は、この段落の最後の部分でありまとめである。特に難しいところはないのでそのまま呈示したい

『したがって記憶の問題は、それが、いずれも実証不能に見える二つの主張〔二つの結論〕の心理学的実証に導くはずだという点でまさしく真に特権的な問題なのだ。ただ、第二の主張〔第二の結論〕の方はどちらかといえば形而上学的な秩序に即するもので、心理学を無限にはみ出しているように思えるだろうが』(p.96 8行目−11行目)


第二段落(p.96 12行目−p.97 3行目)を見てみる

以下の文は、この節最後の部分になるになる。要約すると、これからの見通しとして、様々な資料を検討しながら『記憶の操作における身体の役割がどこから始まりどこで終わるのかを探求し』、さらには、『精神の基礎的な働きをそれ自体において検討し、そうすることでわれわれがそこまでに描いたような精神と物質の諸関係の理論を補完するだろう』、ということが書かれているということになるだろう

『それゆえ、われわれが辿るべき歩みはすべて描かれている。われわれは、通常の心理学あるいは異常心理学から借りた様々な種類の資料を検討することから始めるつもりだが、そこから記憶についての物理的な説明を引き出すことは禁じられているわけではない。この検討は、必然的に細心綿密なものとならねばならず、さもなければそれは無用であろう。われわれは、できる限り忠実に諸事実の輪郭を検討しながら、記憶の操作における身体の役割がどこから始まりどこで終わるのかを探求しなければならない。そして、本研究のうちでわれわれの仮説の確証をわれわれが見出すに至るなら、われわれはためらわずもっと先まで進み、精神の基礎的な働きをそれ自体において検討し、そうすることでわれわれがそこまでに描いたような精神と物質の諸関係の理論を補完するだろう』(p.96 12行目−0.97 3行目)

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