第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第十三節「記憶の問題への移行」

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは、第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第十三節「記憶の問題への移行」(p.89 1行目−p.94 3行目)について解説します。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています


第一段落(p.89 2行目−p.89 8行目)を見よう

ここから第七段落までは比較的短い段落が続く

はじめに、ここでは、『「純粋知覚」と「純粋記憶」(mémoire pure)』に分けることは、前節で見た

『知覚の主観相は、記憶が遂行する凝縮のうちに存しており、物質の客観的実在は、この知覚が内的にそこへと解体するような多様で継起的な諸震動と渾然一体をなしている』(p.88 13行目−15行目)

という議論とは別に、『純粋知覚』が『物質の本性』に関して与える『指示』は、『実在論と観念論の中間の立場をわれわれが採ることを可能』にする一方、『純粋記憶』が『精神と呼ばれるものへの見通し』を開き、そのことで『唯物論と唯心論という別の二つの学説にも裁決を下す』ということが、以下の第二章、第三章で議論され、ベルクソンの仮説に『実験的な検証』がなされると述べられる

『しかし、「純粋知覚」と「純粋記憶」(mémoire pure)とのあいだにわれわれが設けた区別はさらに別の目的をも目指している。純粋知覚は、物質の本性に関する指示をわれわれに与えることで、実在論と観念論の中間の立場をわれわれが採ることを可能とするに違いなのだが、それに対して純粋記憶は、精神と呼ばれるものへの見通しをわれわれに開くことで、今度は、唯物論と唯心論という別の二つの学説にも裁決を下すに違いないだろう。以下に続く二つの章のなかで、最初にわれわれが専心することになるのは、まさにこの側面である。なぜなら、この側面を経ることで、われわれの仮説はいわば実験的な検証を伴うことになるからだ』(p.89 2行目−8行目)


第二段落(p.89 9行目−p.90 6行目)を見てみる

まず、ここでは、端的に『純粋知覚』に関係する結論として『物質のなかには、現在与えられているより以上のものがあるが、それと異なるものがあるのではない』との要約がされる。これは、第四節で、

『われわれの意識的知覚に必然的なこの貧しさのうちには、何か積極的なもの、すでに精神的〈エスプリ〉を告げる何かがある。それは、この語の語源的な意味での、識別=分離(discernement)のことである』(p.39 12行目−15行目、〈〉内はテキストフリガナ)

と、述べられている『意識的知覚』の『識別=分離』のはたらきであることが記されている

『実際、純粋知覚に関するわれわれの諸結論は、《物質のなかには、現在与えられているより以上のものがあるが、それと異なるものがあるのではない》との言葉で、それを要約することができるだろう。たしかに、意識的な知覚は物質全体には到達しない。というのも知覚は、意識的である限り、この物質のなかでわれわれの様々な欲求の利害関心を引くものを分離あるいは「識別」することのうちに存しているからだが、しかし、物質についてのこの知覚と物質そのものとのあいだには、本性の相違ではなく程度の相違があるだけで、純粋知覚と物質の関係は部分と全体の関係に等しい』(p.89 9行目−17行目)

こうして、『純粋知覚と物質の関係は部分と全体の関係に等しい』と述べられた後、次の引用文では『物質』が持つのは『あくまで物理的な諸特性だけ』と述べられ、最終的に『神経系』も物質である以上はその『役割』としてあるのは、『運動を受け、制止し、伝達することでしかない』と説明される

『つまり、物質は、われわれがそこに認めるのとは別の種類の権能を及ぼすことはできないだろう。物質は神秘的な効力を持っているのではないし、それを隠し持つこともできない。非常に明確で、加えてわれわれにもっとも関心を抱かせるところの例を挙げるなら、神経系、すなわち色や抵抗や凝集力などの諸性質を呈する物質の塊は、認知されざる物理的な諸特性をおそらく有してはいるだろうが、あくまで物理的な諸特性だけである』(p.89 17行目−p.90 5行目)

『したがって、神経系の役割は、運動を受け、制止し、伝達することでしかないのである』(p.90 5行目−6行目)


第三段落(p.90 7行目−15行目)を見てみる

ここは、『唯物論』の批判になっている。唯物論においては、『感じられた諸性質のいずれをも、知覚行為のなかの脳の諸現象のあとを辿る、そうした燐光とみなす』という表現で、『知覚行為』が行われるとき、脳の物理・化学的現象、あるいは、それに付随する形而上学的ななんらかの作用によって、『知覚』や『感覚』が生み出されるということになるであろうことが述べられている。そのことについては、『感覚的諸性質の完全な相対性を主張することが唯物論の本質』という言い方もされており、『唯物論』においては、われわれの感覚は物理学上の何らかの絶対性に対して相対的なものでしかない、ということが示されている

『しかるに、どんな唯物論の本質も、これとは反対の主張をなすことである。というのも唯物論は、物質の諸要素の働きだけから、意識ならびそのすべての機能を誕生させると言い張るからだ。それによって、唯物論はすでに、物質において知覚された諸性質そのもの、感覚的な、ひいては感じられた諸性質のいずれをも、知覚行為のなかの脳の諸現象のあとを辿る、そうした燐光とみなすよう導かれる。物質が、意識のこうした基礎的諸事実を生み出すことができるならば、同様に、もっとも高度な知的な諸事実をも作り出しうるだろう。それゆえ、感覚的諸性質の完全な相対性を主張することが唯物論の本質であり、デモクリトス〔紀元前460-370年頃、古代ギリシャの唯物論哲学者〕が明確な定式を与えたこの理論が、唯物論と同じくらい古くからあるのは理由がないことではないのだ』(p.90 7行目−15行目)


第四段落(p.90 16行目−p.91 5行目)をはどうだろうか

ここでは、『唯心論』に対する批判がなされる。『唯心論』では、ここでは『自分が物質から奪ったすべてをもって精神を豊かにしていると信じながら』と記されているように、すべての物理的な事象を心の中で起こった事象だとされる。一方また、『知覚』に関しても、『物質がわれわれの知覚のなかで身にまとう諸性質、そのいずれもが主観的な見かけであるような諸性質を物質から除去する』として、心のなかで起こったことにする。すなわち、二重に『物質』の現象に対して知りうる方法を持つことは結局は、『余りに頻繁に物質を不可解な神秘的な存在ならしめ』る結果となる。それゆえに、『この不可解な神秘的存在』すなわち『物質』は、『思考の諸現象を、ほかの諸現象と同様に生み出すことができる』と指摘されている。これが、この段落最初の『唯心論は奇妙な盲目さによって、この道をつねに唯物論の後からついて行った』という部分の指摘するところでだろう

『しかし、唯心論は奇妙な盲目さによって、この道をつねに唯物論の後からついて行った。唯心論は、自分が物質から奪ったすべてをもって精神を豊かにしていると信じながら、物質がわれわれの知覚のなかで身にまとう諸性質、そのいずれもが主観的な見かけであるような諸性質を物質から除去することを決してためらわなかった。唯心論はこのように、余りに頻繁に物質を不可解な神秘的な存在ならしめた。この存在についてわれわれはその空虚な見かけしか認識しておらず、まさにそれゆえ、この不可解な神秘的存在は思考の諸現象を、ほかの諸現象と同様に生み出すことができるだろう』(p.90 16行目−p.91 5行目)


第五段落(p.91 6行目−13行目)を見てみたい

ここでは、重要であるのは『物質は完全にそう現れる通りのものであることを証明すること』ということが説かれる。その他の内容については特に難しいところはないだろう

『本当のところは、唯物論を反駁するための一つの、それもただ一つの方法があるのだ。この方法は、物質は完全にそう現れる通りのものであることを証明することだろう。それによって、あらゆる潜在性、あらゆる隠れた力が物質から取り除かれるだろうし、精神の諸現象は独立した実在性を持つだろう。しかし、そのためには、唯物論者達と唯心論者たちが物質から切り離すことで一致している諸性質を物質に残さなければならないだろう。もっとも、唯物論者たちはこれらの性質のうちに延長の偶然的外皮しか見ないために、唯心論者たちはこれらの性質を精神の諸現象なら占めるためにそれらを切り離そうとするのだが』(p.91 6行目−13行目)


第六段落(p.91 14行目−p.92 3行目)を見てみる

『以上はまさに、物質に対する常識の態度』とあるがこれは、前段落でまとめられたように『物質は完全にそう現れる通りのものであること』すなわち物質はわれわれの外側に存在し、物理法則によってのみ支配されている、ということだろう。『だからこそ常識は精神の存在を信じている』と述べられたあと、『哲学はここで常識の態度を採用しなければならない』と述べられるが、これには、一つ修正点が必要であると言う。それは、事実上の知覚では記憶が不可分であることは避けられないために起こる現象で、

第四節においても、

『要するに記憶は、直接的な知覚の土台を想起のテーブルクロスで覆い尽くすもの、そしてまた多数の諸瞬間を凝縮させるものという二つの形で、知覚における個体的意識の主要な提供物、諸事物についてのわれわれの認識の主観的な側面を構成する』(p.33 15行目−17行目)

という記述があったが、ここでは『実際的には知覚と不可分な記憶は、過去を現在のなかに差し込み、また唯一の直感のなかで持続の多くの諸瞬間を収縮する』とされている

そのあと、『権利的にはわれわれは物質を物質において知覚する』と書かれているが、これは、第四節で『純粋知覚』が

『純粋知覚とは、事実上というより権利上存在する知覚、私がいる場所に置かれ、あらゆる形の記憶を排除されることで物質についての直接的で瞬間的なヴィジョンを獲得できる存在が持つような知覚の謂である』(p.34 7行目−11行目)

と『権利上』のものであることを述べられたことに加え、第五節はじめにあった『対象そのものにおいてこの対象を知覚しているのだと信じる』などの部分を併せて述べられていると考える

つまり、『権利』的な『純粋知覚』が『対象』において知覚されるのに対し、これと不可分な『記憶』が『過去を現在のなかに差し込み』、『多くの諸瞬間を収縮する』という働きを持っていることで『事実的には、われわれが物質をわれわれにおいて知覚する』ことになっている、ということだろう

『以上はまさに、物質に対する常識の態度であって、だからこそ常識は精神の存在を信じているのである。哲学はここで常識の態度を採用しなければならないようにわれわれには思われた。ただ、一つの点で修正を施すことがその条件となる。実際的には知覚と不可分な記憶は、過去を現在のなかに差し込み、また唯一の直感のなかで持続の多くの諸瞬間を収縮する。したがって、記憶はその二重の操作によって、権利的にはわれわれは物質を物質において知覚するのに、事実的には、われわれが物質をわれわれにおいて知覚することの原因なのである』(p.91 14行目−p.92 3行目)


第七段落(p.92 4行目−12行目)を見てみたい

『記憶が知覚にその主観的な特徴をとりわけ伝える』というのは、先ほども引用した『純粋知覚』に関する第四節の記述を指すのだろう

そして、その第四節では、『純粋知覚』は『意識的知覚』論ずる為に記憶というものを一切排したものとされ、また、第九節では『感情』を排したものとされた

ここではそのことは『純粋知覚』が結果として、『物質の全体あるいは少なくとも物質の大部分をわれわれに与える』とも言われているが、『記憶』はこれと全く別のものでなければならないとベルクソンは述べる。つまり、『精神』とは『記憶の現象』において(『実験的』にではあるが)触れられることになるということだ

この段落最後では、このことは、『純粋想起を、脳の働きから派生させるどの試みも、分析に対して、一つの根本的な錯覚を示さざるをえないだろう』とあるが、これは第三章で触れられることになるだろう

『そこから、記憶の問題の第一義的な重要性が生じてくる。記憶が知覚にその主観的な特徴をとりわけ伝えるものであるならば、物質についての哲学が最初に目指さなければならないのは記憶がもたらすものを排除することだろうとわれわれは言った。われわれは今やこう付け加えることにしよう。純粋知覚が物質の全体あるいは少なくとも物質の大部分をわれわれに与える以上、記憶は原理的には物質からまったく独立
した力能でなければならない。それゆえ、精神が一つの実在であるならば、われわれが精神に実験的に触れねばならないのは、ここにおいて、すなわち記憶の現象においてなのである。したがって、純粋想起を、脳の働きから派生させるどの試みも、分析に対して、一つの根本的な錯覚を示さざるをえないだろう』(p.92 4行目−12行目)


第八段落(p.92 13行目−17行目)を見てみよう

この段落は、この節のベルクソンの主張が非常に良くまとめられているのでこのまま呈示したい

『同じことをもっとはっきりした形で言おう。物質は秘密の力、あるいは認識不足な力能を少しも持たず、物質は物質が有する本質的なもののなかで純粋知覚と一致すると、われわれは主張する。ここからわれわれは、一般的には生体、とりわけ神経系は、刺激の形で受け取られて反射的あるいは意識的な行動の形で伝達される諸運動のための移行の場でしかないと結論する。つまり、脳実質に、諸表象を生み出す特性を付与しても無駄であろう』(p.92 13行目−17行目)


第九段落(p.93 1行目−p.94 3行目)

ここでは、まず、『精神』と『記憶の現象』に関して非常に密接な繋がりであることを示唆された後、『記憶の現象をもっぱら脳の活動性だけからこれ以上もないほど自発的に生じさせる』ような心理学を『浅薄』であると非難している

『ところで、われわれは記憶の現象において精神をもっとも明白な形でとらえるつもりであるが、その記憶の現象が意識と物質の接点であるという理由で、唯物論の敵対者たちでさえ脳を数々の想起の容器として扱うことにいかなる難点も見ないという理由で、浅薄な心理学は記憶の現象をもっぱら脳の活動性だけからこれ以上もないほど自発的に生じさせるだろう』(p.93 1行目−4行目)

次ぐ下引用文では『脳の過程』という言葉が難解である。後に続く、『記憶のほんのわずかな部分にしか対応していないということ』の部分から類推するしかないが、ここでは、『脳』はもっぱら『感覚-運動過程』に対応しているのであって、その『感覚-運動過程』は『記憶のほんのわずかな部分にしか対応していない』と言っているのではないだろうか。このことについては、例えば第二章において、脳の機能の一部が損傷しても記憶そのものがなくなるわけではないという例などを挙げて説明されるだろう。そう考えたときに、その後の『物質は、他の所でと同様にここでも、《認識》の基盤ではなく、《行動》の基盤である』部分も理解しやすい

以下、引用文の内容としては、こうしたベルクソンの説が『積極的に確立できた場合』、『もっともそれに不利なものと判断される例に基づいて証明されることになるだろうし、精神を独立した実在に仕立て上げる必要性が課せられるだろう』とここでは示唆されている。この部分と、その下の引用文の内容についてはこれも次章以降で触れられることになるはずである

『けれども、脳の過程が記憶のほんのわずかな部分にしか対応していないということ、物質は、他の所でと同様にここでも、《認識》の基盤ではなく、《行動》の基盤であるということを積極的に確立することができれば、われわれが支持する主張は、もっともそれに不利なものと判断される例に基づいて証明されることになるだろうし、精神を独立した実在に仕立て上げる必要性が課せられるだろう』(p.93 5行目−9行目、《》内はテキスト傍点付き)

『しかし、まさにそれによって、精神と呼ばれるものの本性ならびに、精神と物質が互いに働きかける可能性がおそらく部分的に解明されるだろう。というのは、この種の証明は全面的に否定的なものではありえないからだ。われわれは、記憶がそうでないところのものを示したのだから、われわれには記憶がそうであるところのものを探る義務があるだろう。諸行動を準備するという唯一の機能を身体に付与したからには、われわれは、なぜ記憶はこの身体と連動しているように見えるのか、どのように身体の諸障害が記憶に影響を及ぼすのか、そしてどんな意味で記憶は脳実質の状態にあわせたものなのかということを、まさに探求せざるをえないだろう』(p.93 9行目−16行目)

上引用文では、『記憶がそうでないところのもの』というのが難しいが、これは前節などで述べられた、記憶は弱められた知覚ではなく知覚と記憶は本質的に違う、ということ、つまり、『知覚』は行動の尺度であるということが主張されるならは『記憶がそうであるところのもの』も示されなければならないということだろう。その後の部分は具体的であるので理解しやすいと思う

下引用文は、この段落最後でありこの節最後の部分であるが、特に難しいとことはないだろう。記憶についての『探求』が『精神』についても様々な『情報』を与え、また、『純粋心理学の諸問題』について『光明』を与えるだろうことがベルクソンの説の裏付けになるだろうと述べられている

『そのうえ、この探求が、記憶の心理学的機構について、記憶に結びついた精神の多様な働きについても同様に、われわれに情報を与えるに至らないということはありえない。逆に純粋心理学の諸問題が、われわれの仮説から何かの光明を受け取るように思われるとして、この場合には、仮説そのものもそれによって確実性と安定性を増すだろう』(p.93 16行目−p.94 3行目)

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