第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第十節「イマージュ本来の伸張性」

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは、第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第十節「イマージュ本来の伸張性」(p.74 9行目−p.80 1行目)について解説します。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています


第一段落(p.74 10行目−p.75 8行目)を見てみたい

まず、『反対に』とあるが、前節で見た『感情』について『感情の諸状態をそのいずれもが絶対者(absolus)であるもの』とし、そして『表象そのものが一つの絶対者として措定』するような考え方に対して言っているのだろう

続く引用文の内容としては、はじめ知覚される側の『物体』はわれわれの身体から離れており、しかしベルクソンの理論ではわれわれはそこにおいて『知覚』するということであった。それについては第四節では『感覚-運動過程』と呼ばれる一種の記憶のはたらきに因ると説明されていたと思う。そのことに加えてこれまで論じられたように、『物体』との接触によって『行動』を起こしたと同時に『感情』を感じるということをここでは、『諸行動を成し遂げ、諸感情を感じるという身体が所有する二重の機能の体験』もしくは『感覚-運動能力の経験』などと呼ばれていると考える

『反対に、表象そのものから、つまり知覚された諸イマージュの全体から出発すれば、事態は明らかになる。私の記憶から切り離された純粋状態の私の知覚は、私の身体から他の諸身体=物体へと向かうことはない。私の知覚は、最初、諸物体の全体のうちにあり、それから少しずつ限定され、私の身体を中心として採用する私の知覚がそこへと導かれるのはまさに、諸行動を成し遂げ、諸感情を感じるという身体が所有する二重の機能の体験によってであり、一言で言うなら、あらゆるイマージュの中でも特権的なあるイマージュの感覚-運動能力の経験によってである』(p.74 10行目−17行目)

下引用文でこの段落は終わりだが、すこし難解で、初めの『このイマージュ』とは上引用文最後の『あらゆるイマージュの中でも特権的なあるイマージュ』すなわち『私の身体』を指していると思われる。『表象』は『私』とって主観的なものであり、『表象』される『物体』は有用であれば近くに有害であれば遠くになければならない。一方で『このイマージュ』すなわち『私の身体』は他の諸イマージュとは違い『その表面の薄皮だけを知る代わりに、私が感情的と呼ぶ諸感覚によって、私はこのイマージュの内部、その内側を知覚する』。それはここでは『行動の源』でもあり『感情の座』でもあり、すなわち『私の人格性(personalité)の物質的基礎』でもあると述べられていると言うこともできるだろう

『一方では実際、このイマージュはつねに表象の中心を占め、その結果、他の諸イマージュは、それらがこのイマージュの作用を受け取ることが有り得るまさにその順序で、このイマージュの周りに間隔を置いて並んでいる。他方では、他の諸イマージュと同様に、その表面の薄皮だけを知る代わりに、私が感情的と呼ぶ諸感覚によって、私はこのイマージュの内部、その内側を知覚する。それゆえ、諸イマージュの全体のうちには、もはや単にその表面でではなくその深みにおいて知覚され、行動の源であると同時に感情の座でもあるような優遇されたイマージュがある。私の宇宙の中心として、私の人格性(personalité)の物質的基礎として私が採用するのが、この特殊なイマージュなのである』(p.74 17行目−p.75 8行目)


第二段落(p.75 9行目−11行目)である

ごく短い段落であり、比較的やさしいと思われるのでのでそのまま呈示する。要約すれば、『人格』と『諸イマージュとの関係』を記述する前に『「純粋知覚」』の理論について簡単に述べようということだろう

『しかし、もっと先に進んで、人格とそれが住まう諸イマージュとのあいだの明確な関係を確立するに先立って、通常の心理学の諸分析と対立させながら、「純粋知覚」(perception pure)についてわれわれが素描してきたばかりの理論を、簡潔に要約しておこう。』(p.75 9行目−11行目)


第三段落(p.75 11行目−17行目)を見てみる

ここも比較的短い段落になっている

『視覚的感官』という言葉が初めにあるので、まず簡単に目の構造について説明すると、網膜という部分が眼底にあり、そこに目の前面のレンズに入ってくる光の像が投影される。その像は網膜にある錐状体と桿状体という色や明るさを受けて視神経に信号を出す『要素的』細胞によって『諸印象に対応する要素的な諸感覚が与えられる』。これが集まって『視覚的知覚が再構成』されるわけであるが、ここで特に指摘されているのは目が二つあるということ、すなわちそれぞれの目の網膜には微妙に異なる像が写し出されているということである。このことは、第四章で詳しく考察される

『われわれは、論述を簡略化するために、われわれがかつて例として選んだ視覚的感官に戻ることにしよう。通常、網膜の錐状体と桿状体によって受けられた諸印象に対応する要素的な諸感覚が与えられる。視覚的知覚が再構成されるのは、これらの感覚を用いてである。しかし何よりもまず、一つの網膜があるのではなく、二つの網膜がある。それゆえ、相異なるものと想定された二つの感覚が、空間の一点とわれわれが呼ぶものに呼応する唯一の知覚のうちでいかにして融合するかを説明しなければならないだろう』(p.75 11行目−17行目)


第四段落(p.76 1行目−7行目)を見てみよう

ここも比較的短い段落である。内容は、第七節でも議論された『非伸張』な『感覚』がいかにして『伸張性』を持つのか、『延長』についてどう説明するのかについての指摘である

『この問題が解決されたものと想定しよう。話題となっている諸感覚は非伸張的なものだ。その感覚がいかにして伸張を授かるのか。延長のなかに、諸感覚を受ける準備の出来た枠組みを見るにせよ、あるいはまた、一緒に融合することなく意識のなかで共存する諸感覚の単なる同時性(simulanétié)の結果を見るにせよ、どちらの場合でも、延長と共に、それについては説明されないような何か新しいものが導入されるだろう。そして、感覚が延長と再び一緒になる過程、それぞれの要素的感覚による空間の決まった点の選択は、説明されないままに留まるだろう』(p.76 1行目−7行目)


第五段落(p.76 8行目−p.77 6行目)を見てみたい

下引用文では、第六節でも議論された『視覚の非伸張的な諸感覚が、触覚やほかの諸感官の非伸張的な諸感覚と合成され、それらの総合が一つの物的対象の観念を与えるとされる』(p.56 13行目−14行目)という説について、『質』という観点からすると、『基礎的な視覚的感覚と触覚的感覚とのあいだには』、『共通なものは何も認められない』と指摘し、それらの『合成』のためには互いの『《順序》=《秩序》』の『平衡性によってだけ説明されうる』としている

『この困難は無視しておこう。ここに、構成された視覚的延長がある。この視覚的延長は今度はどのようにして触覚的延長と結びつくのか。私の視覚が空間のなかに認めるものすべてを、私の触覚は実証する。では、諸対象はまさしく視覚と触覚の協力によって構成されることになるのだろうか。知覚における二つの感官の一致は知覚された対象が、それら二つの感官の共同作品であるという事実によって説明されることになるのだろうか。しかしこの場合、基礎的な視覚的感覚と触覚的感覚とのあいだには、質という観点からすると、共通なものは何も認められないだろう。というのも、それらの感覚は、まったく異なる二つの種類に属しているからだ。それゆえ、視覚的延長と触覚的延長とのあいだの対応は、視覚による諸感覚の《順序》=《秩序》《ordre》と触覚による諸感覚の《順序》=《秩序》との平衡性によってだけ説明されうる。それゆえ、われわれはここで、視覚的感覚の他に、触覚的感覚の他に、それらに共通な、したがって、そのどちらからも独立していなければならないある順序を想定することを余儀なくされる』(p.76 8行目−p.77 2行目)

そうして上引用文では最後に、『視覚的感覚の他に、触覚的感覚の他に、それらに共通な、したがって、そのどちらからも独立していなければならないある順序を想定することを余儀なくされる』としているが、下引用文では、『この順序は、われわれの個人的な知覚から独立している』ことが指摘され、最終的には『われわれから独立した客観的な順序、即ち感覚と区別される物質界の仮説に導かれることになるのである』と述べられる

『もっと先まで進もう。この順序は、われわれの個人的な知覚から独立している。というのも、この順序は、すべての人にも同様に現れており、結果が原因に繋がれ、現象が法則に従っているような一つの物質界を構成しているのだから。それゆえ、われわれは結局、われわれから独立した客観的な順序、即ち感覚と区別される物質界の仮説に導かれることになるのである』(p.77 2行目−6行目)


第六段落(p.77 7行目−14行目)を見てみる

短い段落であるが、引用文の『還元不可能な諸所与を増やし』というのは、『視覚』と『触覚』が合成されるという説にして『質』に共通なところがないというところから、『われわれから独立した客観的な順序』が必要となったということを指していると考える。『単純な仮説』というのは、『視覚』を元にして『触覚』などの諸感覚が合成されるという説だろう。結果、前段落最後で見たように『われわれから独立した客観的な順序、即ち感覚と区別される物質界の仮説に導かれる』という訳だが、下引用部ではそれを『われわれが行き着くところの物質が、諸感覚相互の驚くべき一致をわれわれに理解させるのに必要不可欠である』と言っている。ところが、そうなると『物質』は『感覚』から完全に独立しているということになるから、『感覚』では『物質』のいかなる面も知りようがなく『不可思議な存在(entié mystérieuse)の状態に留まる』ということになると指摘される

『進むにつれて、われわれは、還元不可能な諸所与を増やし、かつてわれわれの出発点となった単純な仮説を膨らませた。しかし、われわれはそこで何を得たのか。われわれが行き着くところの物質が、諸感覚相互の驚くべき一致をわれわれに理解させるのに必要不可欠であるとしても、われわれは物質について何も知っていない。というのも、われわれは、認知されるすべての質、すべての感覚を物質には認めてはならず、この物質の任はただこれらの感覚の一致を説明することだけだからである。それゆえ、この物質は、われわれが知っているもの、われわれが想像するものではまったくないし、またそうでは有り得ない。物質は不可思議な存在(entié mystérieuse)の状態に留まるのである』(p.77 7行目−14行目)


第七段落(p.77 15行目−p.78 4行目)ではどう書いてあるのだろうか

こうなってしまうと、何もかも分からなくなるということがこの段落では端的に指摘されている

『しかし、われわれ自身の本性、われわれの人格の役割と使命もまた、大いなる謎に覆われたままである。そもそも、空間内でやがて展開されるような非伸張的で基礎的な諸感覚は、どこから生じてどのように現れ、なんのために役立たねばならないというのか。これらの感覚は、そのいずれをも絶対者として定めねばならないが、かかる絶対者の起源も目的も知られることはない。われわれ各人のうちで、精神と身体を区別しなければならないと仮定すると身体についても、精神についても、それらが互いに維持している関係についても、何も知ることが出来ないのである』(p.77 15行目−p.78 4行目)


第八段落(p.78 5行目−p.80 1行目)ではどう書いてあるのだろうか

ここではまず、『感情』から出発し結果として何も分からなくなるような仮説は否定され、代わりに『行動から出発する』ような仮説、すなわち『不確定性の中心』として描かれるわれわれの身体がもつ『感覚-運動過程』を想定する説のことだろうが、が主張される

『ところで、われわれの仮説の本義はどこに存しているのか。そして、正確にどの点でわれわれの仮説はその他の仮説から区別されるのか。《感情》がそれとはまったく別物であるよりもむしろ現にあるがままのものであるためのいかなる理由もない以上、それについて何も語ることの出来ない《感情》から出発する代わりに、われわれは《行動》から出発するのだが、行動とはすなわち、諸事物のなかに変化を及ぼすわれわれの能力、意識によって証明され、有機体のすべての力能がそこへと集中するかに見えるところの能力のことである』(p.78 5行目−10行目)

このベルクソンがこれまで主張してきた仮説が下引用文では要約されて主張される。そうして、『生物体は、もっとも単純な形態をまとい、等質的な状態にあるものでも、みずからを養い、力を回復すると同時にすでにこの機能を果たしている』と述べられる

『それゆえ、われわれは延長せる諸イマージュの全体のうちに直ちに身を置き、この物質的宇宙のなかに、われわれは生命の象徴たる不確定性の中心を見出すのである。行動がこの中心から放射されるためには、他の諸イマージュの運動もしくは影響が、一方では集められ、他方では利用されなければならない。生物体は、もっとも単純な形態をまとい、等質的な状態にあるものでも、みずからを養い、力を回復すると同時にすでにこの機能を果たしている』(p.78 11行目−15行目)

上の文を受けて下引用文では、生体のはたらきを大きく、二つに区分し、『栄養摂取の器官』と『《行動する(agir)》のために作られている』器官にわけ、さらに『《行動する(agir)》のため』の器官は、『一方が外的諸印象を集め、もう一方が諸運動を実現させる二つの末端のあいだに張られた神経所用をの連鎖をその単純な類型としている』と描かれている

『この生物体の進歩は、これら二重の働きを、二つの範疇の器官へと配分することにある。第一の器官は栄養摂取の器官と呼ばれ、第二の器官を維持するべく定められているのだが、第二の器官は《行動する(agir)》のために作られている。これらの器官は、一方が外的諸印象を集め、もう一方が諸運動を実現させる二つの末端のあいだに張られた神経所用をの連鎖をその単純な類型としている』(p.78  16行 目-p.79  3行目、《》内はテキスト傍点付きとイタリック)

下引用文は、『視覚的知覚の例』が挙げられている。『錐状体と桿状体』で受け取られた『諸震動』は『成就されたあるいは生まれつつある諸運動として錬成される』とされ、そこでは『いかなる知覚』生じないうえに『意識的中枢』の存在も否定される

『したがって、視覚的知覚の例に戻ると、錐状体と桿状体の役割は、単に諸震動を受け取ることであり、これらの震動は次いで、成就されたあるいは生まれつつある諸運動として錬成されるだろう。いかなる知覚もここから生じることは出来ないし、神経系のどこにも意識的中枢は存在しない』(p.79 3行目−6行目)

では、『知覚』はどこから生じるのだろうか

まず、『しかし、知覚は、神経諸要素の連鎖を、それを維持する諸器官および生命一般と共に惹起したのと同じ原因から生じる』(p.79 6行目−7行目)とされ、このあと説明が加えられていく

下引用文ではまず『知覚は、生物の行動する力能、集められた震動に後続する運動あるいは行動の不確定性を表し、その尺度となる』とされる。言い換えれば、神経中枢は『数々の運動を受容し、抑え、伝達する神経的諸要素の連鎖』であり『不確定性の座』である。その『不確定性』をあらわにしたものが『知覚』だとも言えるだろう

『知覚は、生物の行動する力能、集められた震動に後続する運動あるいは行動の不確定性を表し、その尺度となる。われわれが示したように、この不確定性は、われわれを取り巻く諸イマージュの自己反射によって、というよりむしろ、それらのイマージュの分割によって言い表されるだろう。数々の運動を受容し、抑え、伝達する神経的諸要素の連鎖は、まさしくこの不確定性の座であり、それをあらわにするのだから、われわれの知覚は他ならぬこの神経諸要素の細部を余すところなく辿り、そのあらゆる変異を表出するように見えるだろう』(p.79 8行目−14行目)

下引用文は、この段落最後の引用文である。ここでは『純粋知覚』について触れられ、それは『諸事物の一部をなしている』と述べられる。また『感覚』は、『われわれ各人が自分の身体と呼んでいる特殊なイマージュが、それに影響を及ぼす諸イマージュのあいだで被る必然的な諸変化と一致』するようなものだと描かれている 

『それゆえ、われわれの知覚は、純粋な状態では、まさしく諸事物の一部をなしているだろう。そして、真の意味での感覚は、弱まりながら空間のなかに広がるために意識の深みから自然に湧出するどころか、われわれ各人が自分の身体と呼んでいる特殊なイマージュが、それに影響を及ぼす諸イマージュのあいだで被る必然的な諸変化と一致しているのだ』(p.79 14行目−p.80 1行目)

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