第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第十二節「物質の問題への移行」

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは、第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第十二節「物質の問題への移行」(p.84 8行目−p.88 17行目)について解説します。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています


第一段落(p.84 9行目−p.85 2行目)を見よう

前節最後の部分に引き続き、ここでは『観念論』と『実在論』についての批判がなされる

前節最後の部分を要約すれば、どちらの論においても『知覚』と『想起』を同一視し、『想起』を弱い『知覚』としてみることが問題の根本にあると指摘されていた

ここではまず、『実在論にとって、自然の諸現象の普遍の秩序は、われわれの諸知覚の一つのはっきりした原因のうちに存している』とある。これは、たとえば、いわゆる『意識-付随説』において、知覚や認識が良くはわからないが何らかの不明な方法でなされるわけであるから、普遍的と見える自然現象の秩序も、それが直ちに『知覚』の原因ではなく、原因のなかに含まれている現象だと言いたいのだろう

一方、『観念論』にとっては、『これらの知覚が、実在の全体』である。しかし、これらにとって共通なのは、『諸知覚は「正しい幻覚」(hallucinations vraies)』であるということだ、とベルクソンは指摘している

『実際、実在論にとって、自然の諸現象の普遍の秩序は、われわれの諸知覚の一つのはっきりした原因のうちに存している。その原因が認識不足なものであり続けねばならないにせよ、形而上学的構築の(つねに多かれ少なかれ恣意的な)努力によってわれわれがその原因に到達するにせよ。反対に観念論にとっては、これらの知覚が、実在の全体であり、自然の諸現象の普遍の秩序は、それによってわれわれが、実在的な知覚のほかに、可能的な知覚を表現するところの象徴(symbole)でしかない。しかし、実在論にとっても観念論にとっても同様に、諸知覚は「正しい幻覚」(hallucinations vraies)であり、主体のそとに投影された主体の諸状態であるこれら二つの学説はただ単に、一方においては、これらの状態が実在を構成するのに対し、他方においては、それらが実在と合流するようになるという点でのみ異なっている』(p.84 9行目−p.85 2行目)


第二段落(p.85 3行目−p.86 7行目)を見てみたい

ここでは、まず、

『しかし、この錯覚は、認識一般の理論に及ぶさらに別の錯覚を秘めている』(p.85 3行目)

と言ったあと、

『物質界を構成するものは諸対象、あるいはお好みなら、諸イマージュであって、そのすべての部分が数々の運動によって相互に作用と反作用を行う、とわれわれは言った』(p.85 3行目−5行目)

と言っている。これは、この本の冒頭部分、

『これらのイマージュはその要素部分すべてにおいても、私が自然の諸法則と呼ぶところの一定の諸法則に従って、互いに作用と反作用を及ぼし合っており、これらの法則が知悉されるなら、おそらく、各々のイマージュの中で何が生じるかを計算し、予見することができるだろう』(p.8 6行目− 9行目)

などを指しているのだろう

下引用文は、それからのベルクソンの主張となる。特に難解な部分はないだろう

『そして、われわれの純粋知覚を構成するものは、これらのイマージュの只中で描かれるわれわれの生まれつきである行動である。それゆえ、われわれの知覚の《現在性(actualité)》は、その《活動性(activité)》のうちに、知覚を引き継ぐ諸運動のうちに存するのであって、知覚の最大の強度のうちに存するのではない。過去は観念(idée)でしかなく、現在は観念-運動的(idéo-moteur)である。』(p.85 5行目−10行目、《》内はテキスト傍点付きとイタリック)

このことを、ベルクソンは『観念論』者や『実在論』者が『どうしても見たくないこと』と指摘する。『あたかも、知覚を行動から切り離し、知覚と現実〈レエル〉との数々の接触を切断したとしても、知覚を説明不能であると同時に無用たらしめることなどないかのようだ!』と憤っていさえする。ベルクソンの主張では、知覚と運動とは切り離すことができないものであり、それを切り離すことによって『過去』と『現在』を切り離すことができなくなり、ひいては『知覚』と『記憶』のあいだに『単なる程度の相違だけ』を見ることとなり、その結果、『知覚においても記憶においても、主体(sujet)は自分自身から外に出ることはないだろう』と指摘している

『しかし、これこそどうしてもみたくないことなのだ。というのも、知覚は一種の観照と見なされ、知覚にはつねに純粋に思弁的な目的が割り当てられ、知覚はなんだかわからない没利害の認識を目指すべきと望まれているからだ。あたかも、知覚を行動から切り離し、知覚と現実〈レエル〉との数々の接触を切断したとしても、知覚を説明不能であると同時に無用たらしめることなどないかのようだ!しかし、そうなると、知覚と想起のあいだのすべての差異が消し去られる。というのも、過去は本質的に《もはや作用しないもの(se qui n'agit plus)》であり、過去のこの特徴を見誤ることで、過去を、現在、すなわち《作用するもの(agissant)》から実際に区別することが出来なくなるからだ。かくして、知覚と記憶のあいだには、単なる程度の相違だけが存在しうるだろう。そして、知覚においても記憶においても、主体(sujet)は自分自身から外に出ることはないだろう』(p.85 10行目−p.86 3行目、《》内はテキスト傍点付きとイタリック)

以下、この段落最後の引用文だが、『知覚』と『想起』を根本的に区別することが重要だという主張である

『逆に、知覚の真の特徴を回復させてみよう。現実〈レエル〉に深くその根を張った生まれつつある諸行動の体系を、純粋知覚のなかで示してみよう。この知覚は根本的に想起から区別されるだろう。諸事物の実在はもはや構築され再構築されるのではなく、触れられ、浸透され、生きられるだろう。そして、実在論と観念論のあいだで係争中の問題は、形而上学の議論のなかで存続する代わりに、直感によって解決されるに相違ないだろう』(p.86 3行目−7行目、〈〉内はテキストフリガナ)


第三段落(p.86 8行目−p.88 17行目)を見てみたい

まず、下引用文であるが、ここで主張される重要点は『物質の感覚諸性質そのものをわれわれの意識を特徴付けている持続の特殊なリズムから切り離すことが出来れば、物質の感覚諸性質そのものは《それ自身として(en soi)》、もはや外側からではなく内側から認識されるだろう、と。』である。これは、第四章で詳しく述べられるだろう。われわれの知覚は、一種のA-D変換の際に行われるサンプリングのような仕組みを持っているというのがその論の特徴である

『しかし、それによってまた、われわれは、観念論と実在論 ―どちらも物質のうちに、精神によって遂行された構築ないし再構築しか見ないところまで還元された― のあいだで取るべき立場をはっきりと認める。われわれが呈示した原理によると、われわれの知覚の主観性はなによりもわれわれの記憶によってもたらされるもののうちになるのだが、この原理を実際に最後まで辿ることで、われわれはこう言いたい。物質の感覚諸性質そのものをわれわれの意識を特徴付けている持続の特殊なリズムから切り離すことが出来れば、物質の感覚諸性質そのものは《それ自身として(en soi)》、もはや外側からではなく内側から認識されるだろう、と。』(p.86 8行目−15行目、《》内テキスト傍点付きとイタリック)

下引用文は、どんなに『純粋知覚』が短い瞬間であったとしても、時間的な厚みを持っていると要約できる

『事実、われわれの純粋知覚は、それがどれほど束の間のものであると想定しても、持続のある一定の厚みを占めている。その結果、われわれの相次ぐ諸知覚は、われわれがここまで想定してきたように、諸事物の実在的な諸瞬間(moment)では決してなく、われわれの意識の諸瞬間なのである』(p.86 15行目−p.87 1行目)

下引用文は、前節にあった

『知覚におけるわれわれの意識の役割は、われわれの一部をなすというより諸事物の一部をなすような、一連の絶え間ない瞬間的な諸光景を、記憶の切れ目なき糸によって結び直すにとどまるだろう』(p.80 5行目−8行目)

の部分を指しているのだと思われる

『外的知覚における意識の理論的な役割は、記憶の連続的な糸によって、現実の瞬時的な諸光景を相互につなげることにある、とわれわれは言った』(p.87 1行目−2行目)

下引用文では、『純粋知覚』の理論はそういうものであれ、実際には知覚には一定の時間的厚みが存在すると言うことが、主張されている

『しかし、実際には、われわれにとって、瞬時的なもの(instantané)は決して存在しない。瞬時的なものという名でわれわれが呼ぶもののうちには、すでにわれわれの記憶の働きが、ひいてはわれわれの意識の働きが入っていて、意識は諸瞬間を互いに浸透させ、それらを比較的単純な直感のなかで把持できるようにする。ただ、時間は際限なく分割可能だから、その分割に応じこの瞬間もその数を増すのだが』(p.87 2行目−7行目)

ここで一転して、『物質』に対するわれわれの『知覚』と『厳格な実在論』の違いとして、われわれの『知覚』が不連続であるのに対し『厳格な実在論』において『物質』は『数学的な演繹によってある瞬間から次の瞬間へ移ることが出来るような仕方で展開する』と述べられている

『ところで、最も厳格な実在論が思い描きうるような物質と、われわれが物質について有する知覚との相違は、正確にはどこにあるのだろうか。われわれの知覚は、宇宙についての生き生きとした一連の絵画をわれわれに引き渡すが、それらの絵画は不連続である。われわれは、われわれの現在の知覚から、その後の諸知覚を演繹することは出来ないだろう。なぜなら、間隔の諸性質の全体のなかには、それらがやがて変化してなるような新しい諸性質を予見させるものは何もないからだ。反対に、実在論が通常想定している物質は、数学的な演繹によってある瞬間から次の瞬間へ移ることが出来るような仕方で展開する』(p.87 7行目−14行目)

下引用文では(当時の)『科学的実在論』では、『意識-付随現象』などの形而上学的説明をもってしなければ『知覚』を説明できない。その問題点がここでは掲げられている

『なるほど、科学的実在論は、この物質とこの知覚とのあいだに接点を見出すことが出来ないだろう。なぜなら、科学的実在論はこの物質を空間における等質的な変化へと展開させ、他方ではこの知覚を意識における非伸張的感覚へと収縮させるからだ』(p.87 14行目−17行目)

下引用文では、『知覚』には一定の時間の厚みがあり、先ほども述べたA-D変換のサンプリングの仕組みにおいてすべての知覚において量的な値に変換されて、『諸震動』となることが主張されている

『しかし、われわれの仮説が根拠のあるものならば、どのようにして知覚と物質が区別され、どのようにそれらが一致するかということは容易に理解される。宇宙についてのわれわれの継起的な諸知覚相互の質的異質性は、これらの知覚の各々が持続のある一定の厚みのなかで展開されるということ、記憶は、継起的ではあるがわれわれにはすべて一緒に現れる非常に多くの諸震動を各知覚のなかに凝縮させるということに由来する。』(p.87 17行目−p.88 5行目)

こうした『(純粋)知覚』の理論において、想定上時間の厚みを無くしてしまうときに『記憶』は不要になり『知覚』と『物質』を隔てているものは観測される『対象』と観測している『主体』という関係に純化できるだろう。ただし、『物質はかくして、実在論が話題としている等質的な諸震動の体系に限りなく近づきながらも、実際、等質的な諸震動と決して完全には一致することはない』。そのことは、『知覚』に関して『意識』を現在おかれている『宇宙』とも呼ばれる『イマージュの総体』とは別にして『非伸張的諸感覚と共に意識を置く必要は少しもないだろう』と主張される

『知覚から物質へ、主体から対象へ移るためには、時間の不可分なこの厚みを観念の上で分割し、そこに必要なだけ多くの諸瞬間を区別するだけで、要するに一切の記憶を排除するだけで十分だろう。物質はわれわれの伸張的諸感覚がより多くの諸瞬間の上に配分されるかにつれてより等質的になっていくのだが、物質はかくして、実在論が話題としている等質的な諸震動の体系に限りなく近づきながらも、実際、等質的な諸震動と決して完全には一致することはない。一方に、認知される諸運動と共に空間を置き、他方に非伸張的諸感覚と共に意識を置く必要は少しもないだろう』(p.88 5行目−12行目)

このようにベルクソンの理論においては『伸張的知覚』においてこそ『主観と対象〔客体〕は結合する』。まず『記憶が遂行する凝縮』については第三章で『純粋想起』について述べられるときに詳しく議論されるだろう。その後『知覚が内的にそこへと解体するような多様で継起的な諸震動』の部分については第四章において説明されることがこの節最後の部分にかかれている

『反対に、この伸張的知覚のうちにこそ、まずもって主観と対象〔客体〕は結合することになろう。知覚の主観相は、記憶が遂行する凝縮のうちに存しており、物質の客観的実在は、この知覚が内的にそこへと解体するような多様で継起的な諸震動と渾然一体をなしているのだから』(p.88 12行目−15行目)

『少なくとも以上のことが、本書の最終章で引き出されるのをわれわれ期待しているところの結論である。《主体と対象、それらの区別とそれらの結合にかかわる諸問題は、空間に応じてではなくむしろ時間に応じて提出されなければならないのだ》』(p.88 15行目−17行目、《》内テキスト傍点付き)

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