第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第三節 「実在論と観念論」

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは、第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第三節 「実在論と観念論」(p.22 4行目−p.28 16行目)について解説します。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています


まず、第一段落 (p.22 5行目−p.23 9行目)を見てみたい

『実際、実在論者は、宇宙、すなわち普遍の諸法則によって相互関係を制御されている諸イマージュの総体から出発する。宇宙では、結果はその原因と釣り合ったままなのだが、その特徴は中心を持たないことで、すべてのイマージュが無際限に引き延ばされる同一の平面上で繰り広げられる。しかし、実在論者は、この体系のほかに、数々の《知覚》があるということを認めざるをえない。知覚とはつまり、上で述べたのと同じ諸イマージュが、そのうちのただ一つのイマージュにだけ結びつけられ、それを中心として相異なる諸平面の上に並べられ、この中心的なイマージュのわずかな変化で諸イマージュの全体が変貌するような体系の謂である』(p.22 5行目−12行目、《》内はテキスト傍点付き)

要約すると、『物論的実在論者』は『知覚』が生じることを認めざるを得ない。それは、彼らが因るところの唯一の体系、宇宙の諸法則に従い『中心を持たない』という特徴を持つ『諸イマージュ総体(=物質)』の体系とは別の体系であり、諸イマージュをただ一つのイマージュに中心として結びつけられた時に生じる体系であるということになるだろう

一方、対照的な『主観的観念論者』については、次のような議論がなされる

『まさにこのような知覚から、観念論者は出発するのだが、観念論者が自らに与えるイマージュの体系のなかには、ある特権的なイマージュ、つまり、彼の身体があり、そのイマージュに合わせてほかのイマージュは調整されている。しかし、観念論者が、現在を過去と結び付け、未来を予測しようと欲するや否や、彼は〔彼の身体という特権的イマージュが占める〕この中心的位置を捨て、すべてのイマージュを同一平面上に置き直し、それらはもはや彼に対してではなく、それら自身に対して変化すると想定し、各々の変化がその原因と性格に釣り合っているような体系の一部をすべてのイマージュが成しているかのように、それを扱うことを余儀なくされる』(p.22 12行目−p.23 3行目)

これを言い換えれば、『知覚』の体系に依る『主観的観念論者』といえども『イマージュ総体』として定義された『物質』において科学と呼ばれる一種自立的に成立している因果律の体系をを認めざるをえないであろう、ということだろう

『この条件でのみ、宇宙についての科学は可能となる。ただ、この科学が実在している以上、それが未来を予測することを成功している以上、それを基礎づける仮説は恣意的な仮説ではない』(p.23 3行目−5行目)

と、『科学の体系』が自律的に因果関係を説明できることによって、『それを基礎づける仮説は恣意的な仮説ではない』と主張している

結局、このように、『知覚の体系』と『科学の体系』の両方を、まずどちらかの一方の立場にのみに立ちながら双方ともを説明しようとするものが『唯心論的観念論』あるいは『唯物的実在論』の主張であるとベルクソンは述べる。ではこの段落最後の部分を見ていただきたい

『第一の〔知覚の〕体系だけが現下の経験に与えられている。しかし、われわれは、過去、現在、未来の連続性を肯定するだけですでに、第二の〔科学〕の体系を信じている。だから、観念論においても実在論においても、二つの体系のうち、いずれか一つを措定し、一方から他方を演繹しようと努めるのである』(p.23 5行目−9行目)


次に第二段落(p.23 10行目−p.25 5行目)を見てみたい

『しかし、このような演繹には、実在論も存在論も達することはできない。なぜならイマージュの二つの体系は、どちらも他方のうちに含まれておらず、それぞれが自足しているからだ』(p.23 10行目−12行目)

と、指摘する。以下、ややこしいが前段落最後に訳注(〔〕で補われている部分)とは異なり、再び21ページ12行目から14行目で示されているように、『第一の体系』が『科学の体系』、『第二の体系』が『意識(知覚)の体系』ということになっていることに注意して読み進まなければならない

『もし、あなたが中心を持たないイマージュの体系をみずからに与え、そこにおいて、各要素がその絶対的な大きさと値を有するのであれば、私には、なぜこの体系がイマージュの第二の体系を自分に付け加えるのか分らない。第二の体系においては、各イマージュは、一つの中心的イマージュのどんな変動にも従う未規定な価値をまとうのだから。』(p.23 12行目−15行目)

上引用文中『中心を持たないイマージュの体系』というのは『第一の体系』(『科学の体系』)のことであろう。これを『みずからに与え、そこにおいて、各要素がその絶対的な大きさと値を有する』とするならば、当然、自分に関係のあるものあるいはその関係性を脳や自分の身体という『特権的なイマージュ』に与えるような『第二の体系』(『意識(知覚)の体系』)はすでに必要とないものであろう。ベルクソンの言う通り、『第一の体系』においてはすべては俯瞰的に把握されているということなのだから

そうなるとき、少なくても『知覚』に関しては、ベルクソンの説では必要のない『意識‐付随現象(conscience-épihénoméne)の仮説』ようなものが必要となるだろうと述べている

『こうなると、知覚を生み出すためには、唯物論に於ける意識‐付随現象(conscience-épihénoméne)の仮説のような、何らかの機械仕掛けの神〈デウス・エクス・マーキナー〉を呼び出さねばならないだろう。絶対的な変化を伴ったイマージュがまず措定され、それらすべてのなかから、われわれが自分の脳と呼ぶところのイマージュが選ばれ、この脳というイマージュの内的状態にある奇妙な特性が付与されるだろう。脳というイマージュに、その他のあらゆるイマージュの今度は相対的で可変的な複製が、どのようにしてかは分らないが重ね合わされるという奇妙な特性が』(p.23 16行目−5行目)

上引用文で特徴的な議論は、主観的であるはずの『知覚』が感覚器官より『震動』として伝わる『脳というイマージュに、その他のあらゆるイマージュの今度は相対的で可変的な複製が、どのようにしてかは分らないが重ね合わされるという奇妙な』ことが起こるということであろう。

言い換えれば、意識は二つの体系において二重化されるということだろう。『知覚』という、『まず措定され』た『絶対的な変化を伴ったイマージュ』から『この脳というイマージュの内的状態』に主観的な『震動』が伝わる一方で、理論からして相対的な数多くの諸イマージュの中からある一つの『われわれが自分の脳と呼ぶところのイマージュが選ばれ』て『その他のあらゆるイマージュの今度は相対的で可変的な複製が、どのようにしてかは分らないが重ね合わされる』ということが起きる。そのことを、ベルクソンは『奇妙』と表現したり、『唯物論に於ける意識‐付随現象(conscience-épihénoméne)の仮説のような、何らかの機械仕掛けの神〈デウス・エクス・マーキナー〉』と表現したりしていると思われる

『たしかに、事後的には、この表象にどんな重要性も与えず、脳の諸震動がその後ろに残していく燐光をそこに見ているかの扮技がなされるだろう。あたかも脳の組織、脳の諸震動が、この表象を構成している諸イマージュのなかに嵌め込まれているにも拘わらず、それらのイマージュとは別の本性を持つことができるかのように!』(p.24 5行目−8行目)

この部分は重要ではないかもしれないが難解である。まず、『この表象』が何を指しているのかがわかりにくい。ここでは『知覚』が『脳というイマージュ』に達したときに生み出されるとされるものを単に『表象』としているのだと考えたい。それは『燐光』となって科学的因果関係とは別種の因果関係を生み出すはずである(第二節第二段落を参照)。しかし、それは『扮技』(哲学用語で、他人の行動を理解するときあたかも、もう一人の私が別の人格に扮し、それを演じていることを理解していること)を行っているとベルクソンは言う。即ち『あたかも脳の組織、脳の諸震動が、この表象を構成している諸イマージュのなかに嵌め込まれているにも拘わらず、それらのイマージュとは別の本性を持つことができるかのように!』

『それゆえ、どんな実在論も、知覚を一つの偶然事、ひいては不可解な神秘〈ミステール〉たらしめるだろう』(p.24 8行目−9行目、〈〉内テキストフリガナ)

と指摘したあと、次に、逆の場合、第二の体系(『意識(知覚)の体系』)に第一の体系(『科学の体系』)が含まれている場合を指摘している。以下三つに分けて引用する。内容は多少難しいところもあるが、ほぼ同様な論理で問題点・矛盾点が指摘されているという点に注目すれば解きほぐせるのではないだろうか

『一つの特権的な中心の周りに並べられ、この中心のごくわずかな移動によっても深く変化する不安定な諸イマージュ体系を、あなたが自らに与えるならば、その場合あなたは、自然の秩序、つまり、どの地点に身を置き、どの地点から始めるかということとは無関係な秩序をまずもって排除している』(p.24 10行目−14行目)

まず、上引用部では、『つまり、どの地点に身を置き、どの地点から始めるかということとは無関係な秩序をまずもって排除している』というのは、相対的な位置関係を無視しているということ、ゆえに、『自然の秩序』を無視しているという指摘であろう

『あなたがこの秩序を取り戻すことができるのは、こんどはあなた自身が機械仕掛けの神を呼び出すことによってだけだろう。勝手な仮説によって、諸事物と精神とのあいだに、あるいは少なくともカントのように言うなら感性と悟性のあいだに、何だか分らない予定調和(harmonie préétablie)なるものを想定するだけだろう』(p.24 14行目−17行目)

つまり、『意識(知覚)の体系』から、『科学の体系』を導き出す方法はまた、魔法の杖を振るかのごとく、『機械仕掛けの神を呼び出す』ごとく、『なんだか良く分からない予定調和』のようなもので導き出されるだろう。したがって、結局は下引用部の結論がもたらされる

『そのとき偶然的なものと化すのは科学の方であり、科学の成功は不可解な神秘となるだろう』(p.24 17行目−p.25 1行目)

以上三つの引用文を、ごく簡単に振り返れば、主観的な『意識(あるいは知覚)の体系』から客観性を重んじる『科学の体系』を導くことは、自身が『機械仕掛けの神を呼び出す』か『何だか分らない予定調和(harmonie préétablie)なるものを想定する』ことにおいてしかできないのであり、すなわち、『科学の体系』が『偶然的なものと化する』、と要約できる

では、この段落の最後の部分をご紹介したい

『―それゆえ、あなたはイマージュの第一の体系を第二の体系から演繹することはできないし、第二の体系を第一の体系から演繹することもできないだろう。そして、実在論と観念論という相対する二つの学説は、結局同じ土地に置き直されるとき、同じ障害に反対の方から躓くことになるのである』(p.23 1行目−5行目)


第三段落(p.25 6行目−13行目)を見てみたい。ここは短い段落である

『次に、これら二つの学説を掘り下げてみれば、あなたはそこに共通の公準を見出すだろう。われわれはそれを次のように定式化したい。《知覚はまったく思弁的な利害関心を持っており、知覚は純粋認識である》、と』(p.25 6行目−8行目、《》内は傍点付き)

上引用部、言い方を変えて述べれば、この『知覚はまったく思弁的な利害関心を持っており、知覚は純粋認識である』ということが、『唯物論的実在論者』および『主観的観念論者』に共通の『公準』だという指摘でもあるだろう。『思弁的な利害関心』とはまさに『知覚の体系』としてベルクソンが主張してきたことであろうし、『純粋認識』とは何かとは難しいが『思弁的な利害関心』に対応されるものであることから『中心を持たない』ところの『科学の体系』において想定される普遍的な法則に従う諸イマージュの空間における相対的な位置配置であろう

下引用文では、これらが『科学的認識との対比』に因っていると指摘している。下の引用文中『あるひとたち』というのは『唯物論的実在論者』であり、対比させられている『他のひとたち』というのは『主観的観念論者』のことである。では、この段落最後まで引用したい

『論争のすべてが、科学的認識との対比でこの認識に授けるべき地位と関わっている。あるひとたちは、科学によって要請される秩序をみずからに与え、知覚のうちには不明瞭で暫定的な科学しか見ない。他のひとたちは最初に知覚を措定して、それを絶対的なものに仕上げ、科学については、それを現実的なものの象徴的表現(expression symbolique du réel)と見なす、しかしどちらにとっても、知覚することは何よりもまず、認識することを意味している』(p.25 8行目−13行目)


第四段落(p.25 14行目−17行目)はごく短い段落なので、そのまま引用する。段落として独立はしているが、詳しい考察は次の第五段落でなされており、かつ内容は『知覚はまったく思弁的な利害関心を持っており、知覚は純粋認識である』という『公準』が否定されるべきだ、との理由を端的に書いてあるのみであるからだ

『しかるに、われわれはこの公準こそ疑う。この公準は、動物の系列における神経系の構造を、以下に表面的であれ少しでも調べてみれば、それによって否認される。そして、物質、認識、両者の関係という三重の問題を非情に不明瞭なものにすることなしにはこの公準を受け入れることはできないだろう』(p.25 14行目−17行目)


第五段落(p.26 1行目−p.28 17行目)を見ていきたい。一転して長い段落で、これがこの節の終わりの段落となる

『実際に、外的知覚の進歩を、モネラ〔ドイツの科学者ヘッケルが無機物と生物の中間として想定した形質生物の名称〕から高等脊椎動物まで、一歩一歩辿ってみよう。原形質の単なる塊の状態で、生物はすでに被刺激性と収縮性を持ち、外的諸刺激の影響を受け、それらに機械的、物理的、化学的な反作用によって反応していることが分る』(p.26 1行目−4行目)

『有機物の系列を昇るにつれて、生理学的な機能が分化していくのが見られる。神経細胞が現われ、多様化し、集まって体系をなすようになる。同時に、動物は外の刺激に対して、より多彩な運動によって反応することになる』(p.26 4行目−6行目)

ここまで特に註釈は必要ないだろう。

『しかし、受容された震動が、実行された運動へとただちに引き継がれないようなときさえ、震動はただその機会を待っているだけのように思われるし、有機体に周囲の諸変化を伝えるその同じ印象が、有機体に、それらの変化に適応することを決心させるか、その準備をさせる』(p.24 6行目−9行目)

上の引用文は少し難解だが、これは、『受容された震動が、実行された運動へとただちに引き継がれないようなとき』も神経細胞のあいだでは何らかの状態の変化が進行しており、つまり、何らかを学習したり考えたりあるいは単にほかの条件が満たされるのを待機している状態であり、そのことを『震動はただその機会を待っている』とか『有機体に、それらの変化に適応することを決心させるか、その準備をさせる』という表現になっているものと思われる

『数々の高等脊椎動物においては、とりわけ髄のうちに位置する純粋な自動運動〈オートマティズム〉と、脳の働きを必要とする意志的活動とのあいだの区別がおそらく根底的なものとなる。受容された印象が、再び運動として発揮される代わりに、精神化して認識と化すのを思い描くこともできるだろう。しかし、脳の諸機能と脊椎系の反射活動とのあいだには複雑さの程度の相違しかなく本性の違いがあるのではないことを納得するためには、脳の構造と脊椎の構造を比較するだけで十分である』(p.26 9行目−15行目、〈〉内はテキストフリガナ)

上の引用文を要約すると、髄における反射的な『自動運動〈オートマティズム〉』と、脳による『意志的活動』には『根底的』な区別があるということをベルクソンも認めるが、『脳の諸機能と脊椎系の反射活動とのあいだには複雑さの程度の相違しかなく本性の違いがあるのではない』、ということを再び主張しているということになるだろう。下の引用ではもう少し詳しく描かれる

『実際、反射作用においては、何が起こっているのか。刺激によって伝達された求心的運動は、脊髄の神経細胞を介して、すぐさま遠心的運動へと反射され、それが筋肉の収縮を引き起こすことになる。他方、脳系(systéme cérébral)の機能はいかなる点に存しているのか。周囲の震動は、脊髄の運動細胞へと直接伝播して不可欠な収縮を筋肉にもたらす代わりに、最初に脳髄へと遡上し、次いで、反射運動において働いていた脊髄の同じ運動細胞へと再び降り来る』(p.26 15行目−p.27 3行目)

ここにおいて、大きな問題が持ち上がる

『では、この回り道で、件の震動は何を獲得したのか。その震動は大脳皮質のいわゆる感覚細胞のなかに何を探しに行ったのか』(p.27 3行目−4行目)

この問題に対し、まず、ベルクソンはそこで『表象』が生じるという『奇跡的』な何らかのことが起こっているわけではないと否定する

『そこから震動がみずから諸事物の表象へと変容する奇跡的能力をくみ取るなどということは、私は納得しないし、これからも決して納得しないだろう。それに私は、すぐ後で分るように、この仮説を無用なものと見なしている。』(p.27 4行目−7行目)

次に、脳は、脊椎の運動機構を『随意的に獲得』させ、『結果の選択』を可能にしていると指摘している

『それに対して、私にとって実に明白なのは、感覚領野と呼ばれる皮質の多様な領野の諸細胞 ―求心性繊維の末端の樹状突起とローランド溝〔大脳の前頭葉と頭頂葉の境〕の運動諸細胞とのあいだに介在する諸細胞― が、受容された震動に、脊椎の何らかの運動機構を《随意的に》獲得させ、かくして、その結果の《選択》を可能にするということだ』(p.27 8行目−11行目、《》内はテキスト傍点付き)

『介在する細胞が増えれば増えるほど、また、おそらく多様な仕方で近づき合えるアメーバ状の突起をそれらの細胞がより多く放出すればするほど、周辺から来た一つの同じ震動の前に開かれる道よりも数多く、より多様になり、ひいては、同一の刺激がそのいずれかを選べるような運動体系の数よりも多くなるだろう』(p.27 11行目−14行目)

上の引用文で、『おそらく多様な仕方で近づき合えるアメーバ状の突起』というのは『樹状突起』であろう。つまり、ここでの記述を簡単に言えば、『介在する細胞が増えれば増えるほど』、また、結合が複雑になればなるほど、『同一の刺激がそのいずれかを選べるような運動体系の数よりも多くなるだろう』、という事になるだろう

『したがって、われわれの考えでは、脳は一種の中央電話局以外のものではあり得ない。その役割は、「通話させること」もしくは、それを待機の状態に置くことである』(p.27 14行目−16行目)

と、ここで一つの結論が述べられる。このような論理の組み立てにより、下の引用文では、脳が『選択を可能にする』器官であるというこれまでの主張が繰り返されている

『脳はそれが受容するものに何も付け加えない。そうではなく、すべての知覚器官が脳のうちにみずからの最後の延長部分を差し込んでいるのだから、また、脊髄と延髄のすべての運動機構がそこにみずからの専属代理人を持つのだから、脳は紛れもなく一つの中心を構成しているのであって、周辺的刺激はそこで、押しつけられたものではなく、みずから選択したものであろうような何らかの運動機構と関係を持つことになる』(p.27 16行目−p.28 4行目)

『他方、脳実質のなかでは、周辺から来た同じ一つの刺激に対して、極めて多くの道が《一挙に》開かれうるのだから、この震動は、そこで無限に自分を分割していく能力、ひいては、単に生まれつつある無数の運動反応のあいだで迷う能力を有している』(p.28 4行目−7行目)

二番目の引用文中『単に生まれつつある無数の運動反応のあいだで迷う能力を有している』の部分が分かりにくいがこれは、そのままの意味で『震動』が様々な選択肢のうちに迷い込んで決定が難しい状態を表していると考える。以上、上二つの引用文で脳の機能の概略が示されているが、下の二つの引用文これらの内容がさらにに端的に要約される。ここでは『集められた運動』という部分が悩ましいが、ここでは様々な『知覚器官』が受け取る『作用』が『震動』として脳に集められることを言っているのだと思われる。

『そういうわけで、脳の役割は、ある時は、集められた運動を、選択された一つの反応器官へと導くことであり、またある時は、この運動がそこに孕まれた可能的な反応をすべて描き出し、みずから分散しながら自己を分析できるように、この運動に対してあらゆる運動経路をすべて開き示すことである』(p.28 7行目−10行目)

『言い換えれば、脳は集められた運動にとっては分析の道具であり、実行された運動との関係では選択の道具であるようにわれわれには思われる』(p.28 10行目−11行目)

つまり、ここにおいては先にあった『震動』が『単に生まれつつある無数の運動反応のあいだで迷う能力を有している』ということは『分散しながら自己を分析している』ことと同等のことだと言いたいのだろう

では、この段落の最後の部分を引用したい。これまでのまとめである。最後の『それらの作用のうちいずれか一つを準備するだけである』というところの『準備』というところが現在までまだ説明されていない部分に相当し、第三章第三節『無意識について』において、意識および無意識について述べた部分などでで詳述されるためわかりにくい。ここでは意識に上がる前の無意識として『準備』されているということを言っているのであろう

『しかし、どちらの場合も、脳の役割は、運動を伝達し、分割することに留まる。皮質の高等な中枢においても脊髄においても、神経の諸要素は認識をめざして働くのではない。それらは多くの可能的な諸作用を一度に素描する、もしくは、それらの作用のうちいずれか一つを準備するだけである』(p.28 12行目−15行目)

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