第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第七節 「イマージュと感情的感覚」

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています。

ここでは、第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第七節 「イマージュと感情的感覚」(p.61 6行目−p.65 1行目)について解説します。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています


第一段落(p.61 6行目−p.63 12行目)を見てみたい

前節最後に『感情=触発』に関する説を掘り下げるとして終わったが、ここではまず、前節で批判された『心理学者』とは別の下引用文で『第三の説』と呼ばれている『心理学者』の説、それはあとで『感情=触発から表象への漸次的移行』(p.63 10行目)と記述される説であると考えるが、下引用文はその『第三の説』を次のように要約して始まる。

『この第三の論拠は、空間を占める表象的状態から、非延長的と見える感情的状態へと感じ取れないほど少しずつ移行することから引き出される。ここから、すべての感覚が本性的かつ必然的に非伸張的であるとの結論が導かれ、延長は感覚に付け加えられ、知覚の過程は内的諸状態の外在化のうちに存することになる。実際心理学者は自分の身体から出発するが、心理学者にとっては、この身体の周縁で受け取られた諸印象だけで、物質的宇宙の全体を再構築するのに十分であるように思われるので、心理学者は最初に自分の身体へと宇宙を還元してしまう』(p.61 7行目−13行目)

上引用文のポイントとしては、『感情状態』が『非延長的』と見えることであろう。そのことが、『すべての感覚が本性的かつ必然的に非伸張的であるとの結論が導かれ』る一方で、『延長は感覚に付け加えられ、知覚の過程は内的諸状態の外在化のうちに存する』という奇妙な状態が起こる。そうすると、心理学者は、まず初めに『自分の身体へと宇宙を還元してしまう』

『しかし、この最初の立場は維持しうるものではない。彼の身体は、他のすべての身体ないし物体よりも多くの実在性を持つこともより少ない実在性を持つこともなく、また持ちえないのだから。それゆえ、もっと先に進み、原理の適用を最後まで辿り、生体〔生きる身体〕の表面へと宇宙を収縮させた後で、この身体そのものを一つの中心へと凝縮させねばならず、この中心が最後には非延長的なものと想定される』(p.61 13行目−p.62 1行目)

上引用文、『最初の立場』とは『心理学者は最初に自分の身体へと宇宙を還元してしまう』という部分を指しているのだろう。しかし、そうはなりえないことは明らかであるから、今度は『生体〔生きる身体〕の表面へと宇宙を収縮させた後で、この身体そのものを一つの中心へと凝縮させねばならず、この中心が最後には非延長的なものと想定される』ということになる

『そうなると今度は、この中心から非延長的な諸感覚を出来させることになるだろう。非延長的なこれらの感覚がいわば腫れ上がり、その伸張を大きくし、ついには延長的なわれわれの身体をまず与え、次いで、他の物質的諸対象を与えるに至るだろう』(p.62 2行目−4行目)

上引用文は、特に問題はないだろう。『非延長的』であるはずの『諸感覚』なんだか分からないうちに、『延長的なわれわれの身体をまず与え、次いで、他の物質的諸対象を与えるに至る』と言い変えても良いくらいのことが生じてしまうということだろう

『けれども、イマージュと観念、延長的なものと非延長的なもののあいだに、多かれ少なかれ漠然と位置づけられる一連の媒介的諸状態がなければ、この奇妙な想定は不可能だろうし、この媒介的諸状態が感情的状態(les états qffectifs)なのである。われわれの悟性は、その習慣的な錯覚に屈して、事物は延長を有するか有さないかのいずれであるとのディレンマを措定するのだが、感情的状態はというと、漠然としか延長の性質を帯びておらず、完全には局所化されないので、このことからわれわれの悟性は、感情的状態がまったく非延長的であるとの結論を引き出す』(p.62 4行目−11行目)

上引用文は難しくないが要約すると、この『延長的なものと非延長的なもの』すなわち、『イマージュと観念』を『媒介』するものが、『感情的状態(les états qffectifs)』であると記されているが、『感情的状態はというと、漠然としか延長の性質を帯びておらず、完全には局所化されない』性質を持つ一方、われわれの『悟性』は延長を持つか持たないかの一方でしか考えないために、『感情的状態がまったく非延長的であるとの結論を引き出す』とベルクソンは指摘している、ということだろう

『しかし、そのとき、伸張性の相次ぐ諸段階、そして延長そのものは、非伸張的状態から獲得されたなんだかわからない特性によって説明されることになろう。知覚の歴史は、内的で非伸張的な諸状態が広がって他に投影される歴史となるだろう』(p.62 11行目−14行目)

と指摘されたあと、さらに、

『この論証を別の形に変えることをお望みだろうか。われわれの身体に対する知覚対象の作用の増大によって、感情=触発、中でも苦痛(douleur)と化することのあり得ない知覚はほとんどないのだ』(p.62 14行目−16行目)

と実際はどんな知覚でも、感情、特にこの場合苦痛、になりえない知覚の増大はないということが指摘されている

『例えば、留め針の接触からちくりとする痛みへと感じ取れないほど微妙な仕方で移行する場合がそうである。逆に減少しつつある苦痛は痛みの原因についての知覚と徐々に一致し、表象としていわば外在化される』(p.62 16行目−p.63 1行目)

と、例を挙げ『それゆえ、感情=触発と知覚のあいだには、本性の相違ではなく、程度の相違があるように思われる』と述べられる(p.63 1行目−p.63 2行目)

『ところで、前者〔感情=触発〕は、私の個人的で人格的な生存(existence personnelle)と堅く結びつけられている。実際、苦痛を感じる主体から切り離された苦痛とはなんだろうか。それゆえ、後者〔知覚〕についても事象は同じでなければならず、また、外的知覚は、無害になった感情=触発の空間内への投影によって構成されねばならないように思われる』(p.63 2行目−6行目)

と、『外的知覚』が無害状態の『感情=触発』の『空間内への投影』であると述べられる

下の引用文はこの段落最後の部文であるが、そこでは『唯物論的実在論者』と『唯心論的観念論者』の問題点が再び指摘される。要約としては、『感情=触発から表象への漸次的移行』を元にして『物質的宇宙の表象は相対的で主観的』と考え、『表象の方がわれわれから出てきたのだと結論するのである』となるだろう。

『実在論者たちと観念論者たちは、このような仕方で推論することで意見が一致している。観念論者たちは、物質的宇宙のなかに、主観的で非伸張的な諸状態の総合(synthése)以外には何も見ない。実在論者たちは、この総合の裏には、それに対応する独立した実在があると付け加える。しかし、どちらも、感情=触発から表象への漸次的移行から、物質的宇宙の表象は相対的で主観的であり、また、こう言ってよければ、われわれ自身が最初に表象から引き出されたのではなく、表象の方がわれわれから出てきたのだと結論するのである』(p.63 6行目−12行目)


では、次に第二段落(p.63 13行目−p.65 1行目)を見ていきたい

『正確な事実についてのこの異論の余地のある解釈を批判するに先立って、この解釈は、苦痛の本性も知覚の本性も説明するに至っておらず、それどころか、両者を解明するのにさえ成功していないということを示しておこう』(p.63 13行目−15行目)

前段落を受けて、引き続き『感情=触発から表象への漸次的移行』によって『感覚』が『延長』を持つと説明する説が批判されて行く。下引用文では、その仮説で問題になるのは『伸張性』や『独立性』(独立した実在であること)をどうやって感覚に取り戻させるかであるということが指摘されている

『私の人格に本質的に結びつけられ、私がなくなれば消え去るような感情的諸状態が、ただ強度〔内的緊張〕(intensité)が減少するだけで、伸張性〔外的緊張〕(extension)を獲得し、空間のうちに決まった位置を占め、つねに首尾一貫していて、他の人たちの経験とも一致した安定せる経験を構成するのに成功するということ、それをわれわれに理解させるに至るのは困難だろう。その場合、どうするにせよ、それなしで済まそうと欲していたもの、まずは伸張性、次に独立性を、なんらかの形で諸感覚に取り戻させるよう仕向けられるだろう』(p.63 15行目−p.64 4行目)

一方また下引用文では、『知覚』の強度の増大がほとんどの場合、苦痛になることから、その仮説において『感情』の強度の減少が『表象』になることの説明がなされなければならないと指摘される

『しかし他方で、感情はこの仮説において、表象以上に明晰であることはほとんどないだろう。なぜなら、感情が強度を減少させることでいかにして表象になるのかということが分からなければ、最初に知覚として与えられていた同じ現象が、強度の増大によっていかにして感情になるのかということも同様に理解されないからだ。苦痛のうちには、何か積極的で能動的なものがあるが、一部の哲学者たちに唱和して、それは混乱した表象のうちに存しているのだと言うとしても、苦痛を十分に説明したことにはならない』(p.64 4行目−10行目)

下引用文では、『感情=触発から表象への漸次的移行』という仮説のさらなる問題点として、どうして『知覚』がある時点から苦痛になるのか、なぜその時点なのかということが指摘されている

『しかし、それはまだもっとも大きな困難ではない。刺激するものの漸次的増大が知覚を苦痛に変えると言うことに異論の余地はなけれど、それでもやはり、変化がある一定の瞬間から現れるということは本当である。では、なぜ他の瞬間よりもむしろこの瞬間なのか。また、最初私がその無関心な傍観者でしかなかったところの現象、それが、突然私にとって生死に関わる理解を帯びることになる特別な理由とはなんだろうか』(p.64 10行目−15行目)

では、この段落最後でかつ、この節最後の部分を引用したい。内容としてはこれまでの批判のまとめであり特に難解なところはないと思われる

『それゆえ、この仮説においては、なぜ、ある決まった瞬間に、現象における強度の軽減が伸張性と見かけ上の独立性を得る権限をこの現象に付与するのかということも、どうして強度の増大が、他の瞬間でなくこの瞬間に、苦痛と呼ばれるこの新たな特性、積極的作用のこの源を生み出すのかということも、私には把握できないのだ』(p.64 15行目−p.65 1行目)

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