第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第六節 「イマージュと実在」

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは、第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第六節 「イマージュと実在」(p.54 15行目−p.61 5行目)について解説します。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています


第一段落(p.55 1行目−p.58 10行目)を見てみたい

前節最終段落の部分を受けて、次のように始まる

『これらの事実のうち最初のものは、われわれの感覚の諸機能が教育(éducation)を必要とすることである。視覚も触覚も、すぐにはそれらの印象を位置づけるには至らない。一連の関連づけと帰納が必要であり、それによって、われわれは少しずつわれわれの諸印象を互いに連繋させる。ここから、本質的に非伸張的な諸感覚という観念へ飛躍がなされ、これらの感覚が併置されることで延長が構成されることになる』(p.54 1行目−5行目)

『現実的諸事実』と『錯覚』の結びつきの一つ目が、『われわれの感覚の諸機能が教育を必要とすること』と『非伸張的な諸感覚という観念』の結びつきということであろう。非伸張的というのは文字通り空間的に伸ばすことのできない、ということで良いと思う

『しかし、われわれが身を置いた仮説そのものにおいて、われわれの諸器官もまた同様に ―おそらくは諸事物と一致するためにではなく、その諸感官のあいだでの一致を得るために― 教育を必要とするだろうということに、誰が気づかないだろうか』(p.55 5行目−8行目)

まず、ベルクソンはその仮説において『われわれの諸器官もまた同様に ―おそらくは諸事物と一致するためにではなく、その諸感官のあいだでの一致を得るために― 教育を必要とするだろう』と述べているところが注目に値する。なぜ諸事物との一致ではないのか、ということは、下引用文、『このイマージュの潜在的な作用は、それを取り囲む諸イマージュのそれら自身への見かけ上の反射によって翻訳される』ということを手がかりにしたい。これまでも見てきた通り、ある対象からのある感官における反射はわれわれの作用の投影であるということがベルクソンの主張であった。つまりは、対象は同じものであるが諸感官からくる刺激はそれぞれ異なる。ゆえに、統合させなければならないのは『諸感官のあいだの一致』ということであろう

『まさにここ、あらゆるイマージュの真ん中に、私が私の身体と呼ぶところのあるイマージュがあるのだが、このイマージュの潜在的な作用は、それを取り囲む諸イマージュのそれら自身への見かけ上の反射によって翻訳される。私の身体にとって複数の種類の可能的行動があるのと同じだけ、他の諸身体=物体にも様々な反射の体系があって、各々の体系は私の諸感官の一つに対応するだろう。それゆえ私の身体は、他の諸イマージュに対して及ぼすべき多様な作用の観点から、それらのイマージュを分析しつつ反射するような一つのイマージュとして振る舞う。したがって、同じ対象のうちで、私の様々な感官によって知覚されたそれぞれの性質は、私の活動のある一つの方向、ある一つの欲求を象徴している』(p.55 8行目−16行目)

上引用文ではさらに、『他の諸身体=物体にも様々な反射の体系があって、各々の体系は私の諸感官の一つに対応するだろう』という部分がある。このベルクソン独特の記述はつまり、他者の行動の振る舞いも自分自身の振る舞いに反映され、分析されて、そうして『私の活動のある一つの方向、ある一つの欲求を象徴』することになる。そのことは、そもそもにおいては『同じ対象のうちで、私の様々な感官によって知覚されたそれぞれの性質』であるということだろう。

『さて、私の多様な感官によるある物体の諸知覚は、そのすべてが互いに結合することで、この物体の完全なイマージュを与えることになるのだろうか。おそらく、否である。というのも、これらの知覚は、全体の中から収集されたものだからだ。あらゆる物体のあらゆる点のあらゆる影響を知覚すると言うことは、物的対象の状態に身を落とすことだろう』(p.55 16行目−p.56 9行目)

『意識的に知覚することは選択することを意味しており、意識は何よりまずこの実践的な識別のうちにある。私の多様な感官が同じ対象について与える多様な知覚は、互いに結合しながら、その対象の完全なイマージュを再構成することはないだろう。多様な知覚は数々の懸隔によって互いに分離されたままに留まるだろうし、それらの懸隔はいずれもが、私の諸欲求のうちの空虚を計り示している。そして、諸感官の教育が必要なのは、これらの懸隔を埋めるためである』(p.55 16行目−p.56 9行目)

分析された対象の『私の活動のある一つの方向、ある一つの欲求』は統合される必要がある。その間には当然のことながら『懸隔』が存在し、それを埋めることが『諸感官の教育』というのが上二つの引用文の要約になると思う

以下、三つの引用文は少々長いが特に難解な部分もないと思われるので、要約を挟みながらの引用としたい

『この教育は、私の諸感官をそれらのあいだで調和させること、私の身体の欲求の不連続性そのものによって断ち切られた連続性をそれらの感官の所与のあいだで回復させること、要するに物的対象の全体を近似的に再構築することを目的としている。われわれの仮説においては諸感官の教育の必要性はこのように説明される』(p.56 9行目−12行目)

上引用文では、『教育』の目的としては、諸欲求を象徴するそれぞれの知覚によって分析された『物的対象』を近似的ではあっても『再構築』すること、となるだろう

『この説明を先の説明と比較してみよう。最初の説明においては、視覚の非伸張的な諸感覚が、触覚やほかの諸感官の非伸張的な諸感覚と合成され、それらの総合が一つの物的対象の観念を与えるとされる。しかしまず、どのようにしてこれらの感覚が伸張性を獲得するのかも分からないし、権利的にひとたび伸張性が獲得されたとして、では、事実的に、これらの感覚のうち、ある感覚が優先されて空間のある点に置かれるのをいかにして説明して良いかも分からない。それに加えて、どんな幸運な一致によって、どんな予定調和のおかげで、異なる種類のこれらの感覚が互いに連繋されながら、一つの安定的で、今や固体化された対象、私の経験とすべての人間の経験に共通した対象、他の諸対象と向き合いつつ自然の諸法則と呼ばれる厳正な諸規則に従うところの対象を形成するというのか』(p.56 12行目−p.57 4行目)

この部分では、『現実的諸事実』と『錯覚』の結びつきの一つ目である『われわれの感覚の諸機能が教育を必要とすること』と『非伸張的な諸感覚という観念』の結びつきとについての問題点が指摘されている。批判は『非伸張的』な視覚がすべての感覚の根元であるという説に向けられており、『非伸張』な感覚が『伸張性』を持つ理由、視覚が優先される理由、そして、そのような感覚と『物的対象』とがどのようにして結びつけられるか、いっさいが不明であるとして否定的である

『反対に第二の説明においては、「われわれの様々な感官の諸所与」は諸事物の諸性質であって、これらの性質はまずわれわれのうちでよりもむしろ諸事物において知覚される。抽象(abstraction)だけがそれらの性質を分離したのだから、それらが再び結ばれたとしても驚くことがあろうか』(p.57 4行目−8行目)

上引用文は要約の必要はないだろう。ベルクソンの仮説においては、『最初の説明』において問題視されたものすべてが問題なく説明できていることが端的に示されている

さらに『最初の説明』(『第一の仮説』)とベルクソンの説との対比は続く

『―第一の仮説において、物的対象は、われわれが認知するところのものではまったくない。その場合には、感性的諸性質を伴った意識的原理が一方に、他方には、それについて何も語ることのできない物質が置かれるだろうが、物質から物質を明かすべてのものが最初にはぎ取られたので、物質は数々の否定によって定義されるものになる』(p.57 8行目−12行目)

上引用文、難解であるが要するに、『間接的諸性質を伴った意識的原理が一方に、他方には、それについて何も語ることのできない物質が置かれる』ようなときに問題なのは、『物質』をいかように定義するかであろう、という指摘である。これは、第三節で『意識-付随現象』を批判したときと同じことを述べているのであろう。

『第二の仮説では、物質についての認識をますます深めていくことが可能である。認知された何かを物質から取り上げるどころか、まったく反対にわれわれは、すべての感性的諸性質を関連づけ、それらの親近性を再び見出し、われわれの諸欲求が断ち切った連続性をそれらの性質のあいだで回復させなければならない。そのとき、物質についてのわれわれの知覚はもはや相対的でも主観的でもない。少なくても原則としてはそうだし、すぐあとで見るように、感情並びにとりわけ記憶を捨象した場合はそうである。その場合、物質についてのわれわれの知覚は、われわれの多数の欲求によって単に区切られているだけなのだ』(p.57 12行目−p.58 2行目)

『感性的諸性質』は学習によって統合されなければならないが、それは可能であることが自明であるかのように描かれている。なぜなら、元々ある『物質』が持っていたものを『分離=識別』したあと統合するだけだからということであろう。ここで重要であるのは、『知覚はもはや相対的でも主観的でもない』というところであろう。逆に言えば、絶対的で客観的ということになるだろうが、ここでの『相対的』とは『イマージュの総体』である『物質界』の事物の一つ一つは大きさにしてもその位置あるいは速度にしても相対的であるが、『知覚』のはたらきである『分離=識別』のあとでは、何に比べられるということもないという意味で『相対的』ではなく、かといって、特に『純粋知覚』において考えられたとき『知覚』は対象となる『物質』なしで得られるわけでもないのであるから『主観的』とは言えないという意味であろう

さらに、ベルクソンは、『知覚』を導き出す『精神』あるいは『意識』の可知・不可知性にまで言及していく。では、この段落最後の部分を紹介して終わりたい。下二番目の引用文において、『第二の原理』とは『意識が可能的行動』である、ということであろうが、そのベルクソンの説によると、『諸感覚を空間のうちに投影』するという部分が、そこに『物体』が存在するからという非常に常識的な説明で説明可能である事から、『精神を物質からよりはっきりと区別する』ことはもちろん、『それらの関係づけを遂行する可能性が垣間見られる』と言いっているのであろう。また、この二番目の点については、次段落以降説明がなされるだろう

『―第一の仮説では、精神は、物質と同様に不可知である。なぜなら、どこだか分からないところから諸感覚を呼び出し、なぜだかわからないが諸感覚を空間のうちに投影し、かくてこの空間の中で諸物体が形成されるという説明不可能な能力が精神に付与されているからだ』(p.58 2行目−5行目)

『第二の仮説では、意識の役割ははっきり定義される。意識は可能的な行動を意味しているのだ。そこで、上記のごとき精神によって獲得された諸形態、意識の本質をわれわれから覆い隠す諸形態は、この第二の原理に照らして除去されねばならないだろう。このようにわれわれの仮説においては、精神を物質からよりはっきりと区別すると共に、それらの関係づけを遂行する可能性が垣間見られる。ただし、第一の点は脇に置いて、第二の点に触れておこう』(p.58 5行目−10行目)


では、第二段落(p.58 11行目−p.61 5行目)を見たいと思う。この節はこの第二段落が最後の段落である。ここでは、ロッツェ(Rudolf Hermann Lotze, 1817-1881,ドイツの哲学者)の説である「諸神経の特殊エネルギー」と呼ばれる説が取り上げられ批判されている。それは、『「音波が目に光の感覚を与えること、あるいは光の振動が耳に音を聞こえさせるようになること」』(p.59 11行目−12行目)という説であり、現代ではほとんど否定されている説であろうため、内容を詳細に説明することはせず、ここではいくつかの部分を抜粋して、次の節につなげていきたい。

『引き合いに出される第二の事実は、長きにわたって「諸神経の特殊エネルギー」〔後出のロッツェの説〕と呼ばれてきたもののうちにあるだろう。知られているように、外部の衝撃あるいは電流による視神経の刺激は一つの視覚的感覚をもたらすけれども、この同じ電流が聴神経または舌咽神経に通されると、味を知覚させたり音を聞こえさせたりする。これらのきわめて特殊な諸事実から、異なる諸原因が同じ神経に作用すると同じ感覚が引き起こされる、同じ原因が異なる神経に作用すると異なる諸感覚が生じるというきわめて一般的な一つの法則への移行がなされる。これらの法則そのものから、われわれの諸感覚は単なる合図=信号(sigunal)であり、各感官の役割は、空間内で遂行される等質的で機械的な諸運動を、各感官特有の言語に翻訳することであるとの結論が下される。最後にここから、一方に空間内での等質的諸運動、他方に意識内での非伸張的諸感覚という、もはや再びひとつになることはできない異なる二つの部分へとわれわれの知覚を分断せんとする考えが生じる』(p.58 11行目−p.59 5行目)

『(中略)本当のところはどうかというと、引き合いに出されたすべての事実は、ただ一つの方へと帰着するように思われる。相異なる諸感覚を生じさせることのできるただ一つの刺激物、同じ感覚を引き起こすことができる多数の刺激物は、電流であるか、器官の中に電気的均衡の変化を引き起こすことのできる力学的原因であるかのいずれかである』(p.59 12行目−16行目)

『ところで、電気的刺激は、異なる種類の諸感覚に客観的に反応する多様な《成分》を含んでいないだろうか、また、各感官の役割は全体からそれぞれの感官に関与する成分を単に引き出すことではないだろうか』(p.59 16行目−p.60 1行目、《》内はテキスト傍点付き)

もちろんそのようなことがないことが、各感覚を例にとって簡単に論証されほかに、また、シュヴァルツ『認知問題』に詳らかに検討されていることが示される。そうして、ここで重要なことは『感情=触発(affection)である』と指摘する

『(中略)ここで話題にしている諸感覚は、われわれによって、われわれの身体の外で知覚されたイマージュではなく、むしろわれわれの身体そのもののうちに位置づけられた感情=触発(affection)であるということを指摘するにとどめよう』(p.60 9行目−15行目)

では、この節最後の部分を二つに分けて引用したい。下二つの引用文の初めの文の重要点は、『外部の諸対象へと働きかけるそれ固有の現実的作用を有しているが、この作用はその潜在的作用と同じ種類のものでなければなら』ないということだろう。つまり、出来あがった『感覚ー運動過程』として神経系の中枢、言い換えれば『不確定性の地帯』において用意されているということを言っているのだろう。それゆえに、というのは、おそらく『利害関係』を反映しているがゆえに、『なぜ感覚的諸神経の各々が、感覚のある一定の様相に即して震動するように見えるのかということも理解される』ことになるのだと思われる

二つ目の引用文は特に解説の必要はないだろう。ここにある通り、次節以降、『感情=触発の本性を掘り下げ』られて、検討されることで、『最後の論証へ導かれる』だろう

『ところで、われわれの身体の本性とその使用目的から、われわれがこれらから見るように次のことが帰結する。われわれの身体の感覚伝達的と称される諸要素の各々は、それが通常知覚する外部の諸対象へと働きかけるそれ固有の現実的作用を有しているが、この作用はその潜在的作用と同じ種類のものでなければならず、その結果として、なぜ感覚的諸神経の各々が、感覚のある一定の様相に即して震動するように見えるのかということも理解されるだろう』(p.60 16行目−p.61 3行目)

『しかし、この点を明らかにするためには、感情=触発の本性を掘り下げるのが適当である。われわれは、まさにそうすることで、われわれが検討したいと思っている、そして最後の論証へ導かれる』(p.61 3行目−5行目)

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