第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第九節 「感情的感覚から切り離されたイマージュ」

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは、第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第九節 「感情的感覚から切り離されたイマージュ」(p.69 14行目−p.74 8行目)について解説します。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています


第一段落(p.69 15行目−p.70 17行目)を見てみたい

まず、『それ』から始まっている下二つの引用文であるが、簡単に要約すれば、これまでの『知覚』の理論に加えて、『感情』を考慮すれば『感情のない知覚は存在しない』ということが言え、さらには『感情とは、われわれが、われわれの身体の内部から、外的諸物体のイマージュに混在させる』ものであると主張される。したがって、『純粋知覚』にとって、ここでは『イマージュの純粋さを見出すため』とも言われているが、感情は不純物であるということになる

以上のことから考えて、最初の『それ』が指すものは前節最後の段落にあった『われわれが、一つの内的状態として感覚を語るとき、われわれは、この感覚はわれわれの身体のなかで生じる』という部分を指すのではないかと思われる

『それによってわれわれは、純粋知覚についてのみずからの理論に最初の訂正を施す必要性を垣間見ている。あたかもわれわれの知覚が諸イマージュの一部で、これらのイマージュの実質からそのまま切り離されているかのように、また、あたかもこの知覚が、われわれの身体に対する対象のあるいは対象に対するわれわれの身体の潜在的作用を表現するものとして、対象全体から、われわれに利害関係のある対象の側面を切り離すに留まるかのように、われわれは推論してきた』(p.69 15行目−p.70 4行目)

『しかし、われわれの身体は空間内の一つの数学的点ではないということ、身体の潜在的作用は現実的作用によって複雑になり、現実的作用に浸透されているということ、言葉を換えれば、感情のない知覚は存在しないということ、これを考慮しなければならない。それゆえ、感情とは、われわれが、われわれの身体の内部から、外的諸物体のイマージュに混在させるものである。感情は、イマージュの純粋さを再び見出すために、知覚から最初に抜き取らねばならないものなのだ』(p.70 5行目−9行目)

この後、ふたたび、ベルクソンは『知覚』と『感覚』のあいだの本性もしくは機能の違いをみない『心理学者』に関して批判を行う。その説は『感覚』が『漠然としか局所化されないということ』から『非伸張的』なものとし、そこから『単純な要素』となった『感情一般』を『合成することで数々の外的イマージュを獲得するという』説である

『しかし、知覚と感覚 ―前者は単に可能的作用を含み、後者は現実的作用を含んでいる― のあいだの本性の相違、機能の相違に目をつぶる心理学者は、それらのあいだに程度の相違しかもはや見出すことが出来ない。感覚は(それが内包する不明瞭な努力のために)漠然としか局所化されないということを利用しながら、心理学者は、すぐに、感覚を非伸張的なものと明言し、ひいては、感覚一般を単純な要素たらしめる。われわれはそれを合成することで数々の外的イマージュを獲得するというのである』(p.70 9行目−15行目)

この段落最後では再度ごく短くベルクソンの説、すなわち『感情』は『知覚』の『不純物』であると主張されている

『本当のところは、感情は、知覚がそれによって作られるところの第一次質料〔原料〕ではない。知覚に混入される不純物(inpureté)なのである』(p.70 15行目−17行目)



第二段落(p.71 1行目−6行目)を見てみたい

ここは大変短い段落で次の段落の前置きとなっている。そのためか内容は『感覚を非伸張的なもの、知覚を諸感覚の集合体と交互に解するよう仕向ける誤謬』の問題点の批判であるが抽象的であり、文章には難解なところも特にないためそのまま引用したい

『われわれはここで、感覚を非伸張的なもの、知覚を諸感覚の集合体と交互に解するよう仕向ける誤謬を、その起源に置いて捉えている。この誤謬は、われわれが見ることになるように、空間の役割と延長の本質についての誤った考え方からそれが借用している論証によって次第に強固なものとなる。しかしそれだけではない。この誤謬は、それからすると、うまく解釈されなかったと映るような諸事実を抱えているので、それらをこれからすぐに検討するのが適当であろう』(p.71 1行目−6行目)


第三段落(p.71 7行目−p.72 16行目)を見ていきたい

この段落では、まず上のような『感覚』の『非伸張性』を主張する人たちの根拠として、『身体のある部分に感情的感覚を局所化することは本物の教育〔訓練〕を必要とする』という例が挙げられている。しかしベルクソンはこれを、『注射を受けた皮膚の痛みの諸印象を、腕と手の諸運動を導く筋肉の感覚機能の諸印象に連携させるためには、試行錯誤(tâtonnement)が必要であるということに尽きる』と批判している

『最初に、身体のある部分に感情的感覚を局所化することは本物の教育〔訓練〕を必要とする。子供が突き刺された皮膚の正確な点を指で触れることができるまでには、ある程度の時間が経過する。その事実に異論の余地はないが、そこから結論として引き出しうるのは、注射を受けた皮膚の痛みの諸印象を、腕と手の諸運動を導く筋肉の感覚機能の諸印象に連携させるためには、試行錯誤(tâtonnement)が必要であるということに尽きる。これらの種類は、知覚の種類と同様に断続的で、数々の間隔によって切り離されているが、教育がこれらの間隔を埋めることになる』(p.71 7行目−14行目)

下引用文、『各種類の感情』というのは、基本的にはわれわれの身体との接触の際に生じる『(感情的)感覚』のことを指しているのだと思われる。しかし、接触した際には『触覚』以外にも熱い、冷たいなどの感覚もあるため実際にどれが『知覚』でありどれを『感情』または『(感情的)感覚』と言っているのかは正確には判定できない。ここでは仮に、過剰であれば痛みに変わるものを『知覚』と呼び、これまでどおり『苦痛』として論じられてきたものを主に『感情』もしくは『感情的感覚』と考えることにしたい。

さて、ベルクソンは『感情は固有な局所的色合い』を持つと主張している。実際、それが存在するかどうか、下引用文の主な論点であり、『教育』は『現在の感情的感覚を、視覚や触覚のある可能的な知覚の観念に結びつけ』、『その結果、ある一定の感情は、同じく一定の視覚あるいは触覚の知覚のイマージュを呼び出す』ということになると言う

『だからといって、各種類の感情に対応する一つの種類の直接的局所化、その感情に固有な局所的色合いが存在しないということにはまったくならない。もっと先まで進もう。感情が固有な局所的色合いをすぐに持つことがないならば、感情は固有な局所的色合いを決して持たないだろう。というのも、教育がこれからなしうるのは、現在の感情的を、視覚や触覚のある可能的な知覚の観念に結びつけることだけであって、その結果、ある一定の感情は、同じく一定の視覚あるいは触覚の知覚のイマージュを呼び出すからだ』(p.71 14行目−p.72 3行目)

では、この段落最後の部分を引用したいと思うが、そのまえに、前節で次のようなことが記述されていたことを思い出していただきたい

『したがって、われわれの諸感覚の、われわれの諸知覚に対する関係は、われわれの現実的作用の、その可能的あるいは潜在的作用に対する関係と等しい』(p.68 6行目−8行目)

つまり、『感覚』は『現実作用』を引き起こすものであり、『知覚』はその『可能的あるいは潜在的作用』に対するものだといえるだろう。下引用文では、『局所的感情』が、『それを視覚や触覚の他のどんな所与でもなくむしろこの可能的所与と結び』つけられる仕組みがあるに違いないということ、そしてそのことが、『感情』が初めから『伸張性』(ここでは、『伸張的規定』)を『所持』しているということにならないか、ということが述べられている

『それゆえ、この感情そのもののうちには、それを同じ種類の他の諸感情から区別し、それを視覚や触覚の他のどんな所与でもなくむしろこの可能的所与と結びつけるのを可能にするなにかがあるに違いない。しかし、そうすると結局、感情が最初からある伸張的規定を所持していることにならないだろうか』(p.72 3行目−6行目)


弟四段落(p.72 7行目−15行目)を見てみたい

ごく短い段落である。ここでは、幻肢(『幻影肢』)についての記述となる。ベルクソンの主張としては、いったんできあがった『教育』が存続することによりその感覚が持続していると主張していると要約できるだろう

『依然として、間違った局所化、切断手術を受けた人たちの錯覚〔いわゆる幻影肢〕(ただし、このことは新たに検証されねばならない)が引き合いに出されている。しかし、教育はひとたび受けたら存続するということ、また、実生活においては、より有用な記憶の所与が直接的な意識の所与に取って代わるということ以外、そこから何を結論するというのか。われわれにとって、われわれの感情の経験を、視覚、触覚、そして筋肉の感覚機能の可能的な諸所与へと翻訳することは、行動するためには必要不可欠である』(p.72 7行目−12行目)

『この翻訳がひとたび確立されたならば、原文は色あせるけれども、原文が最初に措定されることがなければ、そして感情的感覚が最初から自らの力だけで、自分なりのやり方で局所化されることがなければ、この翻訳は決してなされえなかっただろう』(p.72 12行目−15行目)


第五段落(p.72 16行目−p.74 8行目)を見てみたい

まず、幻肢(『幻覚肢』)が『感覚-運動過程』とも呼ばれるある一種の記憶のはたらきに因るものだということを心理学者は信じようとしないということが述べられる。下引用文の特徴的な記述としては『感覚が神経のなかにあり得るのは、神経が感じる場合だけなのだが、しかし、もちろん神経は感じることはない』という部分だろう。『感覚』が神経のなかにないならばどこにあるのか、それはこのあと様々な議論を辿って行くことになるが、先回りしてここで端的に言っておけば、そこには『記憶』が大変に深く関係している、ということになるだろう

『しかし、心理学者は、この常識の考え方を受け入れるのに非常に多大な困難を覚える。知覚が知覚された諸事物のうちにあり得るのは、諸事物が知覚する場合だけであると心理学者に思えるのと同様に、感覚が神経のなかにあり得るのは、神経が感じる場合だけなのだが、しかし、もちろん神経は感じることはない。そこで、常識が感覚を位置づける点において感覚を捉え、そこから感覚を引き出し、感覚を脳に近づけることになるだろう。感覚は神経よりも脳により多く依存しているように見えるからだが、そのようにして、感覚は理の当然として脳のなかにおかれるに至るだろう』(p.72 12行目−p.73 5行目)

上引用文において、『感覚』は、まず『常識』においては『感覚を位置づける点において感覚を捉え』るのであるが、そのあと『心理学者』は『感覚を脳に近づけることになる』と描かれている。

一方、下引用文においてはその考えは否定される。そのことを『中枢から周辺への感覚の投影を説明するためには、何らかの力が必要であり、その力を多かれ少なかれ能動的な意識に付与しなければならないだろうからだ』とベルクソンは記述しているが、さらにそのことは、『諸感覚を同時に脳の外と空間の外に押し出さなければならない』と一種の『意識-付随現象』として否定されている

『しかし、たちどころに気づかれるように、感覚はそれが生じるように思われる点にないならば、同じく他のところにもありえないだろうし、また、感覚が神経のなかにないならば、それは脳のなかにもないだろう。というのも、中枢から周辺への感覚の投影を説明するためには、何らかの力が必要であり、その力を多かれ少なかれ能動的な意識に付与しなければならないだろうからだ。それゆえ、もっと先にまで進んで、諸感覚を脳の中枢へと集中させた後で、諸感覚を同時に脳の外と空間の外に押し出さなければならないだろう。そのとき、全く非伸張的な諸感覚と、他方でそこに投影されることになる諸感覚とは無関係な空っぽの空間が表象されるだろう』(p.73 5行目−12行目)

さらには、下引用文ではいかに『非伸張的な諸感覚が延長を獲得するのか』などの問題点が指摘されている

『次いで、疲れ果てながらも、いかにして非伸張的な諸感覚が延長を獲得するのか、延長のなかに位置づけられるために、いかにしてその感覚が空間内のある点を他のすべての点よりも好んで選ぶかをわれわれに理解させるために、ありとあらゆる努力がなされるだろう』(p.73 12行目−16行目)

こうして、『感覚』が脳によって感じられるという心理学者たちの説は否定されるのである。下引用文は、この段落最後でこの節最後の部分である。ここでは、この否定されるべき学説がたどり着くところが『感情の諸状態をそのいずれもが絶対者(absolus)であるもの』、そして、『表象そのものが一つの絶対者として措定され』ることになると指摘され、つまりは『表象の起源もその使命も分からない』とベルクソンは批判している

『しかし、この学説は、どのようにして非延長的なものが広がるのかということをわれわれにはっきりと示すことができないだけでなく、また感情、慎重、表象をも説明不可能なものたらしめる。この学説は、感情の諸状態をそのいずれもが絶対者(absolus)であるものとしてみずからに与えなねばならないだろうが、この絶対者について、なぜそれらがある瞬間に意識のうちに現れあるいは消えるのかということは分からない。感情から表象への移行は、それと同じくらい不可解な神秘に覆われたままだろう。なぜなら、われわれが繰り返し言うように、単純で非伸張的な内的諸状態のうちには、それらの状態が、空間内のある一定の順序を特に好んで採用するための理由は決して見出されないだろうからだ。要するに、表象そのものが一つの絶対者として措定されざるをえないだろう。表象の起源もその使命も分からないのだ』(p.73 16行目−p.74 8行目)

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