第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第二節 「表象」

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは、第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第二節 「表象」(p.15 13行目−p.22 3行目)について解説します。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています


まず、第一段落 (p.15 14行目−p.18 12行目)を見てみる

はじめに、『この最後の関係を掘り下げてみよう』(p.15 14行目)とあるが、これが前節最後の、

『私はイマージュの総体を物質と呼ぶが、これら同じイマージュが、ある特定のイマージュ、すなわち私の身体の可能的な作用と関係づけられた場合には、それらを物質についての知覚と呼ぶ』(p.15 10行目−12行目、引用はすべては傍点付き)

の部分と考えて良いだろう。以下このことが更に掘り下げられていく

『求心神経、遠心神経、神経中枢を伴った私の身体を考察してみる。外的諸対象は、求心神経に震動を伝え、この震動は中枢へと広がっていくということ、中枢は非常に多彩な分子運動の舞台であるということ、この分子運動は諸対象の性質と位置に依存するということを、私は知っている。諸対象を変化させて、それらの私の身体に対する関係を変えてみなさい。すると、私の感覚中枢の内部運動において、すべてが変化を蒙るだろう。ただし、「私の知覚」においても、すべてが変化を蒙るだろう。それゆえ、私の知覚はこれらの分子運動の関数であり、それらに依存している』(p.15 14行目−p.16 4行目)

脳のなかで様々な分子運動が行われていることがこの時代すでに判明に描かれているのは驚くが、ここで、述べられていることは特に註釈の必要もないだろう。知覚されるべき外的条件が大きく変われば、脳の分子運動もすべて変化し、同時に『知覚』も変化する、そのことは疑いもないことから『それゆえ、私の知覚はこれらの分子運動の関数であり、それらに依存している』と述べているのだろう

以下、しかしこのことは、命題として意味が無いとベルクソンは主張する

『私の知覚』は『分子運動を翻訳している』て生じるものであるという考え方は『結局のところ私は脳組織の分子運動以外の何ものも表象していない』という結論に陥る。そのことはすなわち、『神経系並びにその内部運動のイマージュは、仮定からして、ある物的対象のイマージュでしかないのに、私は物質的世界をその全体において表象するのだから』、そもそもが意味のある命題ではないとなる(p.16 5行目−10行目)

『たしかにここでは、困難を回避しようとの試みがなされている。その際、われわれに示されるのは、宇宙のその他の部分と本質的に類似したものたる脳である。つまり、宇宙がイマージュであるならば、結局は脳もイマージュなのである。次に欲せられるのは、このようにイマージュたる脳の内部運動が、物質的世界の表象(représentation) ―すなわち脳の震動(vibration)のイマージュを限りなくはみ出すところのイマージュ― を創造し、決定することであるから、この分子運動のうちにも、運動一般のうちにも、他の諸イマージュと同様のイマージュをもはや見ないふりをすることになる』(p.16 10行目−17行目)

『そこにあるのは、イマージュ以上もしくはイマージュ以下のもの、どちらにしても、イマージュとは別の本性を有した何かであって、その場合、本物の奇跡にでもなければ、その何かから表象が生まれることはないであろう』(p.16 17行目−p.17 2行目)

『こうして物質は表象とは根本的に異なったものと化し、それゆえ、このものについて、われわれはいかなるイマージュも有することができない』(p.17 2行目−5行目)

上の三つの引用文のうち、はじめと二番目の引用文は次のような疑問点が示されていると要約できるだろう。すなわち、脳のイマージュは、ようするに『イマージュ以上もしくはイマージュ以下』であり少なくても第十次元世界と同様に直接的には『われわれはいかなるイマージュも有することができない』ようなものが脳イマージュのなかに存在しているかもしくは重なり合っているかなどという、言うなれば『奇跡』として存在しており、それが全物質たる宇宙に対するイマージュのすくなくても『表象』を生み出している、ということなのだろうか、ということになるだろう。その場合、『表象』が生み出されることも一つの『奇跡』であろうから、結論として、三番目の引用文、『こうして物質は表象とは根本的に異なったものと化し、それゆえ、このものについて、われわれはいかなるイマージュも有することができない』、ということが導き出されることになる、ということだろう

次にこのことが、『物質の面前には、イマージュを持たない意識が措定され、われわれはこの意識についてどんな観念も抱くことができない』という違った言葉で繰り返され、『最後に、その意識を満たすために、物質・質料なき思考に対する形式・形相なきこの物質の不可解な作用が捏造される』と指摘される。(p.17 4行目−7行目)

『しかし本当のところは、物質の運動はイマージュである限り不可解なところはまずないし、この運動のうちに、そこに見られるのとは別のものを探す理由などありはしないのである』(p.17 7行目−9行目)

『困難があるとすれば、それはただ一つ、これらの非常に特殊なイマージュから無限に多様な表象を生じさせることであろう』(p.17 9行目−10行目)

上の二つの引用文で強調されているのは、『脳組織の分子の運動が』何らかのある種形而上学的手段によってて『私の知覚』が翻訳されている、という考え方ではなく、あくまでも、『私の知覚はこれらの分子運動の関数である』(p.16 4行目)という前提は変えないが、『しかし本当のところは、物質の運動はイマージュである限り不可解なところはまずないし、この運動のうちに、そこに見られるのとは別のものを探す理由などありはしないのである』はずである、ということが主張されている

以下、話をはぐらかすようでいて、しかし『感覚』と『運動』が一組となるような神経系のあり方を述べたベルクソンの主張が繰り返されている

『しかし、なぜそのようなことをしようと考えるのか。そもそも、脳の震動は物質世界の《一部を成しており》、したがって、これらのイマージュは表象のとても小さな片隅しか占められていないという点では万人の意見が一致しているというのに』(p.16 10行目−11行目、《》内テキスト傍点付き)

『―では、一体この運動は何なのか。この特殊なイマージュは全体の表象のなかでどんな役割を果たしているのか。―  その点については私には疑いの余地はない』(p.17 13行目−17行目)

ここで二番目の引用の『この運動』とは『「私の知覚」』(p.16 3行目)とがその関数となるところの『脳組織の分子運動』であり、『この特殊なイマージュ』とは『脳』あるいは『中枢神経』のことであろう。引用を続ける

『それらは、私の身体の内部にあって、外的諸対象の作用への私の身体の反作用を、すでに開始しながら準備するべく定められた運動なのである。それ自体がイマージュであるから、これらの運動はイマージュを創造することはできない。それらのイマージュは、新たな場所に置かれたコンパスがそのつど行うように、ある一定のイマージュ、すなわち私の身体の、周囲の諸イマージュに対する位置を絶えず示しているのである』(p.17 15行目−p.18 2行目)

上の引用文は、すでに第一節の最終段落で述べられていることを思い出して頂ければ、容易に理解できるであろう。その主張は簡単に言えば、私の周りのものの知覚は、私に関係しているその強度を表わすように思われる、ということだった。

ここで、さきほどはぐらかしたかのような疑問点にもどって、『表象の総体のなかでは、それらのイマージュはまったく取るに足らない。しかし、それらは、私が、私の身体と呼ぶ表象のこの部分にとっては最も重要である。なぜなら、それらのイマージュは、私の身体の潜在的な歩みを普段に描写しているからだ。』(p.18 3行目−5行目)としている

そうしておいて、次のような主張がなされる

『したがって、脳のいわゆる知覚機能と脊椎の反射作用とのあいだには、程度の相違しかなく、本性上の相違はありえない。脊椎は、受けられた刺激を、実行された運動に変える。それに対して脳は、この刺激を、単に生まれつつある反作用へと延長していく。しかし、どちらの場合でも神経物質の役割は、数々の運動を伝え、運動と運動を組み合わせ、あるいはまた、運動を抑制することである。』(p.18 5行目−10行目)

このように、ベルクソンの主張、すなわち、脳および中枢神経の役割は感覚と運動を一つの組にしたものであるという主張が繰り返される

以下、この段落最後の部分である。ここで、二つの疑問点が示される

『それでは、「宇宙についての私の知覚」が脳実質の内部運動に依存しているかに見えるのはなぜなのか。これらの運動が変われば私の知覚も変化し、これらの運動がなくなれば私の知覚も消え去るかに見えるのはなぜなのか』(p.18 10行目−12行目)


第二段落(p.18 13行目−p.20 15行目) を見ていきたい

『この問題の難しさはとりわけ、脳の灰白質とその諸変化を、それ自身で自足し、宇宙のその他の部分から切り離されうるものとして表象することに由来している』(p.18 13行目−14行目)

と、まず、上引用文のように指摘する。

『唯物論者と二元論者は結局のところ、この点で一致している。彼らは、脳物質のある分子運動を他から切り離して考察している。その際、一方の者たちは、われわれの意識的な知覚のうちに、これらの運動に付き従い、その後を照らし出す燐光を見るけれども、他方の者たちは、大脳皮質の震動をそれなりの仕方で不断に表現するような意識のなかで、われわれの知覚を展開させる。ただ、どちらの場合にも、知覚が描くもしくは翻訳すると見なされているのは、われわれの神経系の諸状態なのである。』(p.18 14行目−p.19 3行目)

『しかし、神経系を培う有機体なしに、有機体が呼吸する大気なしに、この大気に浸された地球なしに、地球がその周りを回る太陽なしに、神経系は生きたものと見なされうるであろうか。より一般的に言って、他と隔絶した一つの物的対象という虚構〈フィクション〉は、ある種の不条理を含んでいるのではないだろうか』(p.19 3行目−6行目、〈〉内はテキストフリガナ)

ここまでで上の二つの引用文のうちはじめのの引用文は、すなわち、『唯物論者』は『われわれの意識的な知覚のうちに、これらの運動に付き従い、その後を照らし出す燐光を見る』と説明されている。これは一種の機械論のこと、つまり、そこでは『意識的な知覚』しか関連を持つものはなく、自動機械のように入力と出力が繰り返される、物理法則とは別種の因果律がそこでは成立している、ということであろう。また、『二元論者』は『大脳皮質の震動をそれなりの仕方で不断に表現するような意識のなかで、われわれの知覚を展開させる』と説明されている。これはすでに前段落で説明されてきたような一種の奇跡によって『脳組織の分子運動』が『物質的世界をその全体において表象される』という『翻訳』をもつシステムを意味していると思われる

そして、二番目のの引用文は、まず物質界が存在しそのなかの諸物体の関連の中において、身体あるいは私の脳という特殊なイマージュが存在していると主張しているのだろう。以下、説明が詳しくなっていく

『なぜなら、この物的対象は、その物理的特性を、それが他のすべての物的対象とのあいだに保っている諸関係から借りており、それゆえ、その物的対象の諸規定の各々、ひいてはその現実存在(existance)そのものまで、この対象が宇宙の総体のなかに占める場所に負うているからだ。そこでわれわれとしては、われわれの知覚は単に脳塊の分子運動だけ依存しているとは言わないようにしよう。そのかわり、われわれの知覚はそれらの分子運動と共に変化するが、これらの運動それ自体は物質的世界の残りの部分とも分かちがたく結びつけられたままである、ということにしよう』(p.19 6行目−13行目)

この部分に特に註釈の必要はないだろう。すべての『物的対象』が関連づけられている以上、『われわれの知覚はそれらの分子運動と共に変化するが、これらの運動それ自体は物質的世界の残りの部分とも分かちがたく結びつけられたままである』ということに要約できるだろう。以下、より詳細に説明されていく

『その場合には、われわれの知覚がどのようにして灰白質の変化と結びついているのかを知ることだけがもはや問題なのではない。問題は拡大し、これまでよりもはるかに明晰な語彙で提起される。』(p.19 13行目−15行目)

『ここに、私が、宇宙についての私の知覚と呼ぶところのイマージュの体系〈システム〉があるが、この体系は、ある特権的なイマージュ、すなわち私の身体のわずかな変化のためにすっかり一変させられてしまう。私の身体というこのイマージュは中心を占めており、このイマージュに合わせて他のすべてのイマージュが調整されているだから、イマージュが運動するごとに万華鏡を回したときのように、すべてが変化するのだ』(p.19 15行目−p.20 3行目、〈〉内はテキストフリガナ)

ここで重要なのは『私の身体という』特権的な『イマージュ』は『物質』(もしくは『イマージュの総体』(p.15 10行目))から作用を受けては返すという作用の『中心を占めており、このイマージュに合わせて他のすべてのイマージュが調整されているだから、イマージュが運動するごとに万華鏡を回したときのように、すべてが変化するのだ』ということであろう

『他方、それらと同じイマージュではあるが、今度は各々が自分自身と関わっている。これらのイマージュも互いに影響を及ぼし合っているが、常に結果が原因と釣り合っているのと同じ仕方でしか影響を及し合わない。それこそが私が宇宙と呼ぶところのものである』(p.20 3行目−6行目)

上記引用部は、もちろん宇宙に関する定義と言うよりも、宇宙におけるすべての物質が法則に基づいて互いに影響し合いながら存在しているということを言いたいのであろう

以下このような、『私の身体』もしくは『私の脳』と呼ばれるような特権的なイマージュにおける『知覚』と物理法則に支配されている『宇宙』という、二つの体系について、『観念論』と『実在論』(ものがあるということはどういうことか、どうしてそこにどういうものがあるのかが認識できるのかということに於ける考察における二大体系)あるいは、『唯物論』と『唯心論』(すべての物事は物理的法則によってすべて説明できるという考え方と、すべての物事はすべて心の中で発生している出来事であるという考え方)の問題点について、独自の言葉で提起される。それでは、以下、段落の最後まで、二つの引用文に分けて引用したい

『これら二つの体系〔私の知覚と宇宙〕が共存すること、そしてまた、同じ数のイマージュが宇宙においては比較的不変であり、知覚のなかでは限りなく変わりやすいということをどのように説明するべきだろうか。実在論と観念論のあいだに、更におそらくは唯物論と唯心論のあいだにさえあるような未解決の問題は、したがって、われわれによれば、次のような語彙によって提起される』(p.20 6行目−行目)

『一方の体系(筆者註:『宇宙』と呼ばれる体系)では、各々のイマージュは独自に、周囲の数々のイマージュから現実作用を受け取るまさにその一定の割合において変化するのに対し、他方の体系(筆者註:『知覚』と呼ばれる体系)では、すべてのイマージュがただ一つのイマージュに対して、それらがこの特権的なイマージュの可能的作用を反映する場合に割合に応じて変化するとして、その場合どうして、同じイマージュがこれら相異なる体系双方に同時に入り込むことができるのか』(p.20 10行目−15行目、引用文はすべて傍点付き)


第三段落(p.20 16行目−p.22 3行目)を見てみたい

『どんなイマージュもあるイマージュの内部にあり、他のイマージュの外部にある。しかし、イマージュの総体については、それはわれわれの内部にあるとも外部にあるとも言うことはできない。なぜなら、内存在も外存在も、イマージュ同士の関係でしかないからだ』(p.20 16行目−p.21 2行目)

イマージュ総体の中でイマージュ総体を内存在だとか、外存在だとか言うことはできない、ということは言うなれば、自己言及パラドックスに近いパラドックスだと言っているのであろう。自分自身が存在しているイマージュ総体は内存在でも外存在でも、当然あり得ないではないか

『これらのイマージュはその要素部分すべてにおいても、私が自然の諸法則と呼ぶところの一定の諸法則に従って、互いに作用と反作用を及ぼし合っており、これらの法則が知悉されるなら、おそらく、各々のイマージュの中で何が生じるかを計算し、予見することができるだろう』(p.8 6行目−9行目)

とされている『イマージュ』のことであることを思い出さなければならないということでもあるだろう。以下、この立場においての非常に微妙な議論がなされる

『したがって、宇宙はわれわれの思考のなかだけ現実存在するのか、それとも、われわれの思考の外に現実存在するのかを考えること、それは、たとえこれらの語彙を理解可能なものと想定するとしても、解決を不可能ならしめる語彙で問題を言及することである』(p.21 2行目−5行目)

『それは不毛な議論を余儀なくされることであって、そこでは必然的に思考、現実的存在、宇宙という語彙が、いずれの立場に立つかで、まったく違った意味で解されるだろう』(p.21 5行目−6行目)

つまり、常識で考える『イマージュ』というものははっきりしているが、それを上手く言及し定義することは、これまでの哲学的な議論では事実上不可能であると述べていると解釈できるだろう。すなわち、

『論議に決着を付けるためには、そこで〔実在論と観念論との〕戦いが繰り広げられているところの共通の場をまず見つけなければならないのだが、どちらの陣営にとっても、われわれは諸事物をイマージュの形でしか把握しないのだから、われわれはイマージュとの係わりにおいて、イマージュとの係わりにおいてのみ、問題を提起しなければならない』(p.21 7行目−11行目)

ということになる。ところで、ここでベルクソンはさらに非常に微妙で一種狡猾とも思えるような巧みな議論を展開する。即ち、

『ところで、どんな哲学的学説も、同じイマージュが二つの相異なる体系に同時に入り組むことができるということに異説を唱えてはいない』(p.21 11行目−12行目)

と、主張する。以下しばらくこの議論の詳細な展開がなされる。注意すべきは『第一の体系』と呼ばれるものが『科学に属する体系』、『第二の体系』と呼ばれるものが『意識の体系』というところぐらいで、他に特に難しいところもないので、この段落最後、すなわちこの節最後まで引用したい

『一方は《科学(science)》に属する体系で、そこでは、各々のイマージュは自分自身とのみ関係づけられて絶対値を維持しているのだが、それに対して、他方の体系は《意識(conscience)》の世界そのものであって、そこでは、すべてのイマージュが、われわれの身体という中心的イマージュに則り、この身体の諸変化に付き従っている。』(p.21 12行目−16行目、《》内はテキスト傍点付きとイタリック)

『実在論と観念論のあいだで提起される問いはかくして極めて明晰なものと化す。すなわち、イマージュが入り込むところのこれら二つの体系は互いにどんな関係を維持しているのか。容易に見て取れるように、主観的観念論は第一の体系を第二の体系から生じさせることにあり、唯物論的実在論は第二の体系を第一の体系から引き出すことにある』(p.21 16行目−p.22 3行目)

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