第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第八節 「感情的感覚の本性」

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています。

ここでは、第一章「表象に向けてのイマージュの選択について ― 身体の役割」 第八節 「感情的感覚の本性」(p.65 2行目−p.69 13行目)について解説します。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています


まず、第一段落(p.65 3行目−7行目)

非常に短い段落で内容はこの節の前置きとなっており、特に解説の必要はないと考える

『それではわれわれの仮説に戻り、いかにして感情は、ある決まった瞬間に、イマージュから出来〈しゅったい〉し《なければならない》のかを示すことにしよう。われわれはまた、延長の一部を占める知覚から、非伸張的と思われている感情へといかにして移るのかということも理解するだろう。しかし、苦痛の現実的意味については、いくつかの前提となる考察が不可欠である』(p.65 3行目−7行目、〈〉内はテキストフリガナ、《》内は傍点付き)


第二段落(p.65 8行目−p.66 15行目)を見てみる

前段落を受けて、ここではまず、『苦痛の現実的意味』について考察される

まず下引用文は、もっとも下等な動物であるアメーバの刺激と同時に反応する仕組みの考察からはじまり、高等化するにつれてこれまでのように『感覚-運動過程』の中枢である『不確定性の地帯』へ『感覚伝達的と称される諸機能』からの『震動』が伝わり、そこから『運動を引き起こす諸要素へと広まっていく』様子が描かれている

その後『感覚繊維』について、こうした複雑な有機体においては『解剖学的な諸要素がその独立性を喪失』し、『前線の歩哨として、身体全体の発達に協力するために、各々の個別的作用を放棄したように思われる』と記述されている

『異物がアメーバの突起部の一つに触れるとき、この突起部は収縮する。それゆえ、原形質態の各部分もまた同様に刺激を受けとり、刺激に対して反応することができる。ここでは、知覚と運動は、凝縮性(contracitilité)というただ一つの特性において混じり合う。しかし、有機体が複雑化するにつれて、分業が進み、諸機能が分化し、かくして構成された解剖学的な諸要素がその独立性を喪失する。われわれのような有機体においては、感覚伝達的と称される諸機能は、諸刺激を中枢地帯へと伝えることをもっぱら担当しており、この中枢地帯から震動は、運動を引き起こす諸要素へと広まっていく。それゆえ、感覚繊維は、前線の歩哨として、身体全体の発達に協力するために、各々の個別的作用を放棄したように思われる』(p.65 8行目−16行目)

下引用文ではつぎに、苦痛が与えられるような場合が考察される。考察は、『感覚繊維』が、生命体の存立を脅かすような危険に『それぞれが孤立無援にさらされている』ということを中心に進められて行く。そこがベルクソンの説の特徴とも言えるだろう

難解な点として、『感覚伝達的要素』の『相対的不動性』という記述があるが、それはわれわれの身体において神経繊維が必ず一定の位置にあるということを述べているのだろう

そうして、『苦痛』とは、そのような『感覚伝達的要素』が傷を受けた場合に、『事態を修復しようとする努力』、言い換えるならば、『一種の動的傾向』であると最後にまとめられている

『しかし、それでもなお感覚繊維は、有機体の全体を脅かす破壊の原因と同じ諸原因に、それぞれが孤立無援にさらされている。この有機体は危険を避けるために、あるいは有機体の損傷をいやすために、自ら運動する能力を有しているのだが、感覚伝達的要素の方は、分業によって余儀なくされた相対的不動性を維持している。かくて苦痛が生じるのだが、苦痛とは、われわれによれば、傷つけられた要素が事態を修復しようとする努力 ―感覚伝達的神経に対する一種の動的傾向以外の何ものでもない』(p.65 15行目−p.66 5行目)

つぎに下引用文、『努力』もしくは『無力な努力』とあるが、これは、われわれの身体の中では『不動』な位置を占める『感覚伝達的神経』が自立しては何もできないにも係わらず『事態を修復しようとする努力』のことを指しているのだろう

内容としては、各『感覚伝達的神経』は『有機体』全体のなかでは『局所的』でしかない。ゆえに、虫歯の苦痛のように、苦痛がしばしば身体の損傷の程度に釣り合わないことが起こり得る、とまとめられるだろう

『このようなどんな苦痛も、努力のうちに、ただし無力な努力のうちに存するのでなければならない。どんな苦痛も、《局所的な》努力であり、努力のこの孤立そのものが努力の無力さの原因なのである。なぜなら、有機体はその諸部分の連帯ゆえに、もはや全体の諸結果にしか適していないからだ。苦痛が、生物によって冒された危険とまったく不釣り合いであるのも、努力が局所的であるからだ。危険は命に係わるものであるのに、苦痛はわずかであることも、苦痛は耐えられないものであるのに(虫歯の苦痛のように)危険は取るに足りないものであることもあり得る』(p.66 5行目−12行目)

下引用文では、『知覚』がある瞬間から『苦痛』になる理由が示されているが、『それは、有機体の利害関係ある部分が、刺激を受け入れる代わりに、刺激を押し戻すときである』とされている。少々難解な書き方であるが、要するに『感覚伝達的神経』が多少なりとも傷つけられるときと解せるだろう。そこに『知覚』と『感情』との『本性の相違』があるとベルクソンは主張している

『それゆえ、苦痛が発生するはっきりした瞬間があるのであり、あるのでなければならない。それは、有機体の利害関係ある部分が、刺激を受け入れる代わりに、刺激を押し戻すときである。そして、知覚を感情から区別するものは単なる程度の相違ではなく本性の相違なのである』(p.70 12行目−15行目)


続いて第三段落(p.66 15行目−p.67 7行目)を見てみよう

ここも比較的短い段落であるので、ここではまず簡単に解説してから最後に全文を呈示することにしたい

前段落で見たように、苦痛が生じる理由を『有機体の利害関係ある部分が、刺激を受け入れる代わりに、刺激を押し戻』そうとするためと考えたとき、下引用文のように『われわれは生体を、周囲の諸対象が生体に及ぼす作用を周囲の諸対象へと反射させるような一種の中心と見なしたことになる』わけであるが、そのことに関しては、『苦痛』という感情においても『知覚』に対しても同じ視点であると見なすことができるだろう。ただし特に『感情』においては、この『中心』が『闘って』いること、それはすなわち外側の『作用』からなにかを『吸収』することから『感情』が生まれることと述べられており、比喩を用いれば、『感覚が身体の反射の尺度にあるのに対して、感情は身体の吸収力の尺度である』と述べることができると記されている

『そうだとすれば、われわれは生体を、周囲の諸対象が生体に及ぼす作用を周囲の諸対象へと反射させるような一種の中心と見なしたことになる。こうした反射のうちに、外的知覚は存している。けれども、ここに言う中心は数学的な点ではない。それは、自然のすべての物体と同じく、それを解体させるおそれのある外的諸原因の作用にさらされた一つの物体(un corps)なのだ。この中心が、諸原因の影響にて移行するのをわれわれはみたばかりである。この中心は、外からの作用を反射することにとどまらない。それは闘っており、この作用から何らかを吸収しているのだ。そこに感情の源があるだろう。それゆえ、感覚が身体の反射の尺度にあるのに対して、感情は身体の吸収力の尺度であると、隠喩〈メタフォール〉を用いて言うことができるだろう』(p.66 15行目−p.67 7行目、〈〉内はテキストフリガナ)


第四段落(p.67 8行目−p.68 15行目)を見てみたい

この段落では、さらに議論は細かくなり、ベルクソンの言葉を借りれば『感情の必要性が知覚そのものの実在から生じるということを良く理解』することが目的となってくる

『しかし、これは一つの隠喩でしかない。もっと子細に事態を調べて、感情の必要性が知覚そのものの実在から生じるということを良く理解しなければならない。われわれが解している通りに解された知覚は、諸事物に対するわれわれの可能的作用の尺度であり、それによって逆に、諸事物に対するわれわれにたいする可能的作用の尺度でもある。身体の行動する力能が大きくなればなるほど、この力能は神経系の高度な複雑さによって象徴される、知覚が包摂する範囲はますます広くなる。それゆえ、われわれの身体を、知覚された対象から隔てている距離は、危険の切迫度、次の約束の期限をまさにはかり示している。したがって、ある隔たりによってわれわれの身体から切り離され、われわれの身体から区別された対象についてのわれわれの知覚は、潜在的な作用以外のものを決して表現してはいない
』(p.67 8行目−16行目)

上引用文はこれまでの主張をまとめたものになっており特に解説の必要はないだろう。ここでは、結論として、『ある隔たりによってわれわれの身体から切り離され、われわれの身体から区別された対象についてのわれわれの知覚は、潜在的な作用以外のものを決して表現してはいない』ということを記憶しておけばいいのではないだろうか

次の引用文も特に注意するところはないだろう

『ただし、この対象とわれわれの身体との距離が短くなればなるほど、言い換えれば、危険がより切迫したものとなり、約束がより即効的なものになればなるほど、潜在的作用は実在的作用に変わる傾向をより多く有する』(p.67 1行目−p.68 2行目)

さて、このように、対象からの距離が短くなっていき、『ゼロ』になったとき、すなわち、『潜在的作用』が『現実的作用』になったときについて考察される

『では、極限まで進み、距離がゼロになったと想定してみなさい。すなわち、知覚されるべき対象がわたしの身体と一致したと、すなわち、結局はわれわれの身体が知覚されるべき対象となったと想定してみなさい。そのとき、このまったく特殊な知覚が表すのは、もはや潜在的な作用ではなく、現実的な作用であるだろう。感情はまさにそこに存している』(p.68 2行目−6行目)

つまり、『知覚』によって想定された『作用』が現実になったときにわれわれの『感情』は発生すると上引用文は要約できるだろう

『したがって、われわれの諸感覚の、われわれの諸知覚に対する関係は、われわれの現実的作用の、その可能的あるいは潜在的作用に対する関係と等しい』(p.68 6行目−8行目)

という、上引用文には何も付け足すことはないだろう。

続く下引用文で、まず、『身体の潜在的作用は他の諸対象に係わり、ひいては身体のうちで描かれる』とあるが、これは、第五節最初に述べられている『われわれはみな、自分は対象〈オブジェ〉そのものに参入し、われわれのうちではなく、対象そのものにおいてこの対象を知覚しているのだと信じるところから始めた』(p.47 3行目−5行目)という部分を思い起こさせる

このあと、『現実的作用と潜在的作用がそれらの作用点ないし起点へと真に回帰する』と述べられるが、まず、『現実的作用と潜在的作用』というのは、『感情』と『知覚』が表現するものであろう。つぎの『作用点ないし起点』というのは、『作用点』が『対象』であり『起点』はわれわれの『身体』であろう。同列に扱われているのは、接触している場合は『作用点』が『起点』と等しいということになるだろう。このように考えたときに、接触していない場合は『感覚-運動過程』として表現されることもある中枢神経の『不確定性の中心』としての記憶作用から、『外的イマージュはわれわれの身体によって、この身体を取り巻く空間の中に反射され』、一方特に接触している場合には『現実的作用はわれわれの身体によって身体の実質の内部で捉えられるかのように、すべてが進行している』ということになると言いたいのではないだろうか

それでは、この段落最後の部分を二つに分けて引用する。二番目の引用文については特に難しいところはないだろう

『われわれの身体の潜在的作用は他の諸対象に係わり、ひいては身体のうちで描かれる。それゆえ結局のところ、現実的作用と潜在的作用がそれらの作用点ないし起点へと真に回帰することで、外的イマージュはわれわれの身体によって、この身体を取り巻く空間の中に反射され、現実的作用はわれわれの身体によって身体の実質の内部で捉えれるかのように、すべてが進行している』(p.68 8行目−13行目)

『だからこそ、外部と内部の共通の境界(limite mommune)たる身体の表面は、知覚されると同時に感じられるような延長の唯一の部分なのである』(p.68 13行目−15行目)


第五段落(p.68 16行目−p.69 13行目)を見てみよう

このあまり長くない段落がこの節最後の段落となる

『これはやはり、わたしの知覚はわたしの身体の外にあり、反対にわたしの感情はわたしの身体のなかにあると言うに等しい。外的諸対象は、わたしのうちでではなく、それらがある場所において、わたしによって知覚されるのだが、それと同時に、わたしの感情の諸状態は、それらが生じる場所で、つまりわたしの身体の決まった点において感じ取られる』(p.68 16行目−p.69 2行目)

ここでは『知覚』と『感情』が本質的に異なるものであるというベルクソンの視点において論じられているということに注意を払えば、上引用文に特に注釈は必要ないだろう

続く引用文ではベルクソンがあまりはっきりとは定義していない『表象』という言葉が出てきている。これまで主に第四節で表象については議論されてきたが、そこではたとえば、

『物質についてのわれわれの表象は、諸物体(corps)に対するわれわれの可能的な行動の尺度である。それは、われわれの諸欲求、より一般的にはわれわれの諸機能と利害関係のないものの排除から生じる』(p.39 6行目−8行目)

のように述べられてきたということを思い起こしていただきたい。そうすれば、『表象が、即ちこのイマージュの他の諸イマージュに対するあり得べき影響が』という部分は理解しやすいのではないだろうか。一方これは『潜在的作用』であるのに対し、『現実的作用』から生じるのが『感情』であり、この節はじめに『苦痛』が『事態を修復しようとする努力』(p.65 4行目−5行目)と論じられていたことを思い出していただければ、『感情、即ちこのイマージュのそれ自身に対する現在の努力』はご理解いただけるのではないだろうか

『物質界と呼ばれる諸イマージュの体系を考察しなさい。わたしの身体はそれらのイマージュのうちの一つである。このイマージュの周りに、表象が、すなわちこのイマージュの他の諸イマージュに対するあり得べき影響が配置される。わたしの身体というこのイマージュにおいて、感情、すなわちこのイマージュのそれ自身に対する現在の努力が生じる。それこそが結局は、われわれの各々が自然に、自発的にイマージュと間隔とのあいだに打ち立てられている差異なのである』(p.69 2行目−7行目)

それでは、この段落及びこの節最後の部分を引用したい。下引用文前半部は解説の必要はないだろう。後半部分は言い回しが難しく、『知覚された諸イマージュの全体はたとえわれわれの身体が消え去るとしても存続すると主張するのである』と強調されている部分の意味が分かりづらいが、単純に『唯心論的観念論』に対して『感情』こそは身体から生じるものであり、それがなくなれば感情も生じないが、諸『イマージュ』はわれわれの『身体』の外側にあるものだからして、この『身体』がなくなり『知覚』が生じなくなったとしても『実在』し続けているということを主張したいのであろう

『イマージュはわれわれの外に実在するとわれわれが言うとき、それによってわれわれは、イマージュはわれわれの身体の外側にあると言おうとしている。われわれが、一つの内的状態として感覚を語るとき、われわれは、この感覚はわれわれの身体のなかで生じると言いたいのだ。だからこそわれわれは、われわれの諸感覚を消し去ることなくわれわれの身体をなくすことができないにもかかわらず、知覚された諸イマージュの全体はたとえわれわれの身体が消え去るとしても存続すると主張するのである』(p.69 7行目−13行目)

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