第四章 「イマージュの残存について - 記憶と精神」 第一節「二元論の問題」

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは第四章第一節「二元論の問題」(p.256 1行目−p.264 4目)の内容を解説したものです。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています

もともとは、ブログ版の記事を加筆修正したものとなります


ここからは、第四章 『イマージュの境界画定と固定について—知覚と物質、魂と身体』(p.255-p.3720)について、主に要点を節ごとに述べようと思います

それでは、早速、本章第一節『二元論の問題』(p.256 1行目−p.264 4行目)を見ていきたいと思います。


第一段落 (p.256 2行目-p.257 8行目)を見よう

まず、本章の冒頭部分しばらくを引用したい

『この本の最初の三つの章から一般的な結論が一つ生じる。身体はつねに行動へと向けられており、心的生を行動のために制限することを本質的な機能としているという結論が』(p.256 2行目-3行目)

『身体は、諸表象との関連では選択の道具であり、選択のためだけの道具である』(p.256 3行目-4行目)

この後、『身体は知的状態を生み出すこともそのきっかけになることもできない』と述べ、『知覚』についての考察がされる。ベルクソンの『知覚』についての考え方はやや独特であり、ここでは、このように述べられている

『身体が宇宙のなかで絶えず占められている場所によって、われわれの身体は、われわれがそれに対して働きかけうる物質の諸部分と諸様相を標示する。諸事物に対するわれわれの潜在的な行動をまさに測り示しているわれわれの知覚はこのように、われわれの諸器官に現実に影響を及ぼし、われわれの諸運動を準備する諸対象に制限されている』(p.256 6行目-9行目)

この部分は難解なので、少しずつ考えていきたい。まずここでは、『知覚』は『われわれの潜在的な行動をまさに測り示している』とベルクソンは定義していると考えていいだろう。『知覚』については、第一章で深く考察されて来た。たとえば、第一節においては『知覚』を定義して、

『私はイマージュの総体を物質と呼ぶが、これら同じイマージュが、ある特定のイマージュ、すなわち私の身体の可能的な作用と関係づけられた場合には、それらを物質についての知覚と呼ぶ』(p.15 10行目−12行目、引用はすべては傍点付き)

述べられ、このことは第五節冒頭では、

『われわれはみな、自分は対象〈オブジェ〉そのものに参入し、われわれのうちではなく、対象そのものにおいてこの対象を知覚しているのだ』(p.47 3行目−4行目)

とも表現されていた。また『意識的知覚』について考察された部分を見てみると、第四節で、われわれの身体が『不確定性の中心』であることが説明されたあと

『ところで、諸生体が宇宙のなかで「不確定性の中心」(centres d'indétermination)を形成するとすれば、そしてこの不確定性の度合いが、生物の諸機能の数と高さに見合っているならば、諸生体が単に現存するだけで、諸対象のうちにそれらの生体の諸機能が関係を持たない対象の部分すべてを削除するのと同等でありうることが理解される』(p.37 2行目−6行目)

とされ

『諸イマージュが、どこかで、反作用のある種の自発性にぶつかるならば、諸イマージュの作用はそれだけ弱められる。そして、それらの作用のこの減少が、まさにわれわれがそれらについて持つ表象なのである。それゆえ、諸事物についてのわれわれの表象は、結局、それらがわれわれの自由に対して反射するようになることから生じているのだろう』(p.38 1行目−5行目)

ということから

『諸対象は、それらの実在的な作用から何かを放棄するだけで、それらの潜在的な作用、つまり、結局は、生物のそれらに対する可能的影響を描くのである。それゆえ、知覚は、妨げられた屈折に由来する反射のこれまでの現象によく似ている。それは蜃気楼(imarge)の効果のごときものである』(p.38 15行目−p.39 2行目)

と述べられていた

以上、要約すれば、感覚器官からの信号や情報がわれわれの『純粋想起』と結びつくことで『感覚‐運動的』なわれわれの生は生きられる。われわれの『身体』言い換えれば物質的な側面においての『感覚-運動的諸機能』(p.250 6行目−7行目)は、『われわれがそれに対して働きかけうる物質の諸部分と諸様相を標示する』。すなわち、『知覚』(あるいは『感覚-運動的諸機能』の『感覚』の部分)が『宇宙』に対して『働きかけうる物質の諸部分と諸様相を表示する』。つまり、それは、『われわれの諸器官に現実に影響を及ぼし、われわれの諸運動を準備する諸対象に制限されている』

続きを見てみよう

『記憶を検討してみようか。身体の役割は数々の想起を蓄えることではなく、有用な想起 —最終的な行動のために現在の状況を保管し明確化する想起—  を選択することだけであり、かくして有用な想起は、身体がそれに与える現実的有効性によって判明な意識へともたらされることになる』(p.256 9行目-13行目)

『記憶を検討してみよう』と言いながら、結局は『(純粋)記憶(想起)』がどう使われるかということの検証であり、ここでもやはり結果的には身体について記述されている

このあと、物質的『宇宙』と『知覚』との結びつき(テキスト『第一の選択』(p.256 13行目))よりも、『有用な想起 —最終的な行動のために現在の状況を保管し明確化する想起—  を選択すること』(テキスト『第二の選択』(p.256 13行目))は、同じ個人の経験(テキスト『個人的な体験』p.256 14行目)であっても、同様の体験はひとつとは限らない、という意味で、『厳密さという点でははるかに劣る』(p.256 13行目-14行目)ということが述べられており、この点において、人間は動物よりも空想や想像力の入り込む余地が多く出てくるけれども、そしてそれは、人間が自然に対し動物よりより精神において自由であることなのだ、と説明されている

しかし、『それでもなお、われわれの意識が行動へと方向付けられていることがわれわれの心理学的性の根本法則であるように思われるのは正しい』(p.257 7行目-8行目)

と説明されてこの段落は終わる


次に第二段落(p.257 9行目-15行目)を見よう

数行しかないこの段落は、短い上に比較的簡単である

要点だけを述べると、ここまでで、すでに当初の目的である『精神の生における身体の役割を定義』(p.257 10行目)については定義できた。だから、ここまでで止めることもできる。しかし、未解決の問題として、途中『形而上学的問題』(p.257 11行目)を提起し、その『心理学的』(p.257 13行目)な手段は、この『形而上学的問題』について完全に解決するわけではないが『少なくてもどの側面からその問題に取り組むかということを、何度かわれわれに垣間見させてくれた』(p.257 14行目-15行目)とベルクソンは言う


次に、第三段落(p.257 16行目-p.258 8行目)を見よう

短い節なので全文を引用する。ここでは、まず、第二段落で触れた、『形而上学的問題』とは『魂と身体の結合』(p.257 16行目)であると述られたあと論が展開される

『この問題とはまさに魂と身体の結合の問題である。この問題はわれわれに対して鋭い形式で提出される。なぜなら、われわれは物質を精神から根本的に区別しているからだ。それに、われわれはそれを解くことのできないものとみなすことはできない。なぜなら、われわれは精神と身体を否定によってではなく肯定的な性質によって定義しているからだ。純粋知覚がわれわれを位置付けるのはまさしく物質の中にであり、われわれが記憶と共にすでに入り込んでいるのはまさに実際に精神そのものの中にである。そのうえ、物質と精神の区別をわれわれに明かしたのと同じ心理学的観察が、両者の結合をわれわれに立ち合わせてもいる。それゆえ、われわれの分析は本源的な欠陥によって損なわれているか、それとも、われわれの分析が提起する諸困難からわれわれが抜け出る手助けを必ずやしてくれるはずなのである』

少し難しいと思われるところは、まず

『純粋知覚がわれわれを位置づけるのはまさしく物質の中にであり、われわれが記憶とともにすでに入り込んでいるのは、まさに実際の精神そのものである』

の部分の後半部分だろう。つまり、第一段落で見た通り『知覚』とともに『記憶』は身体にあるのであり、『精神』はこの『記憶』と密接な関係があることは、第二章や第三章を振り返らずとも、そこで改めてご理解いただいたと思う。『物質』のなかに『記憶(純粋想起)』は入り込んでさまざまな精神活動の元になっているのであるということを言っている。それが、『そのうえ、物質と精神の区別をわれわれに明かしたのと同じ心理学的観察が、両者の結合をわれわれに立ち合わせている』の部分で言っていることであり、言い換えるならば、精神活動はその意味で『根源的』に『記憶』と密接な係わり合いを『生き生きとしたイマージュ』の『物質』部分であるわれわれの『身体』なかでもっている。極論を言えば、この『感覚‐運動』的なわれわれの生の元となる『記憶(純粋想起)』こそ、物質的な身体における精神の元といえるだろう

したがって、このことが正しくなければ、それこそ『本源的』に間違っているし、もし正しければ、『魂と身体の結合』という非常に難しい問題についての『われわれの分析が提起する諸困難からわれわれが抜け出る手助けを必ずやしてくれるはずなのである』


では、第四段落(p.258 9行目-p.259 12行目)を見てみよう

まず、ベルクソンは

『すべての学説において、問題の難解さは、われわれの悟性が、一方では延長と非延長の間に、他方では質と量との間に打ち立てられている二重の対立に起因する』(p.258 9行目-12行目)

と言う。ここで『延長』とはデカルトの言葉で一般的には、物質の大きさや重さなど、われわれが一般に「計量」できるものということと解釈して問題ないだろう。一方の『非延長』の方は、「実体(ウーシアー)」などとも言われるようだが、この言葉自体の扱いも難しいため、『非延長』(もしくはこの後すぐに同様の意味で用いられる『非伸張性』)という言葉自体をそのまま用いることにする。解釈としては、実在する物質の延長によらない部分という程度の意味でにまずは考えておき、後で述べられる、『二重の対立』の説明の部分など、この問題を扱っていくうちに、そぐわないと思われた時点で解釈を修正することにしたい。なぜなら、ベルクソンは言葉の定義自体をこれまでせず、その時に思い起こすことによって、言葉自体を生き生きとした状態で使用することをここまでも読者に要求してきたと思われるからである

次の数行は、要約しよう。われわれの『精神』と『物質』は、まるで『純粋な統一性』と『分割可能な多様性』が本質的に対立させられているように対立させられている。また、『加えて』、われわれの『知覚』は『互いに異質な諸性質から構成されている』けれど『知覚された宇宙は等質で計算可能な諸変化へと解消されるに違いないこと』、以上のことは、『異論の余地はない』(p.258 9行目-p.258 14行目を要約)

この二種類の対立ゆえに

『一方には非伸張性と質があり、他方には延長と量があると言うことになるだろう』(p.258 14行目-15行目)

このような対立があるとき、『唯物論』は『延長と量』から『非伸張性と質』を導き出そうとし、ベルクソンらは『拒絶した』(p.258 15行目-16行目)

『延長と量』が『非伸張性と質』の『単なる構成物であることを望む観念論』も『同様に受け容れる事はない』(p.258 16行目-17行目)

唯物論に対しては、『知覚は脳の状態を限りなくはみ出している主張する』。観念論に対しては『物質はわれわれが物質について有している表象、精神が知的な選択によって物質のなかからいわば摘み取った表象をあらゆるところではみ出しているのを確証しようと努めた』(p.258 17行目-p.259 3行目)とある

しばらく省略して

『これら二つの学説に反して、われわれは意識の証言という同一の証言を引き合いにするのだが、意識はわれわれに、われわれの身体においては、ほかの数々のイマージュと同じ一つのイマージュを示し、われわれの悟性においては、想像したり構築したりする能力ではなく、分離し、区別し、論理的に対立させるある種の能力を示す』(p.259 6行目-9行目)

すなわち、第二章、第三章で詳しく説明してきた、とベルクソンは言いたいのであろう。即ち、第二章では、記憶は脳の中だけにあり得ない、という『イマージュ想起』の存在を提案しており、また、第三章では、『知覚』と『純粋想起』によって、さまざまな形而上学的と思われてきた錯覚が起こりうることや、『観念』に関しての説明がなされてきた、ということであろう

例えば

『脳は想起を保存するためには、少なくとも脳そのものが保存されていなければならないだろう。しかしこの脳は空間内に広げられたイマージュである限り、もっぱら現在の瞬間を占めるにすぎない』(p.213 11行目-p.213 13行目)

という記述や、一般観念について『唯名論』と『概念論』のそれぞれの循環について扱った第三章第五節『一般観念と記憶』においての

『 —記憶は自然発生的に抽象された類似に区別を付け加え、悟性は数々の類似についての習慣から一般性についての明晰な観念を引き出す』(p.229 15行目-16行目)

から、続く

『しかし、そのように習慣によって機械的に素描された類から、われわれは、この操作そのものに対して遂行された反省の努力によって、《類への一般観念》へ移行した。そして、この観念がひとたび形成されると、われわれは、今度は自分の意志pで、無数の一般的観念を構築した』(p.230 2行目-5行目、《》内テキスト傍点つき)

『ここではこの構築の細部において知性のあとを辿ることは必要ではない。悟性も同様に、自然の働きをまねて、今度は数々の人工的な運動装置を組み立て、それらを限られた数でありながら、限りなく多くの個体的対象に反応させているとだけ言っておこう』(p.230 5行目-7行目)

という記述などが具体的には例示できるだろう

このことは、『心理学的分析の、したがっての常識の自発的な囚人』としてのわれわれにおいては、非常な混乱をもたらす結果となる。つまり『通俗的な二元論が提起する諸紛争を激化させた後で、形而上学がわれわれに開きうる、すべての解決法を閉ざしてしまったように見えるのである』(p.259 9行目-12行目を要約)と言う


第五段落(p.259 13行目-16行目)を見よう。ここも短いので全文を引用することにしたい

『しかし、まさにわれわれは二元論を極端にまで押し進めたがゆえに、われわれの分析は二元論の矛盾した諸要素をおそらく分離したのである。一方で純粋知覚の理論、他方で純粋記憶の理論はそのとき、非延長と延長、質と量の歩み寄りのための数々の道が準備されるであろう』

以上が第五段落である。すこしだけ解説を加えておくと、これからは、第一章で取り扱った『純粋知覚』の理論と、それ以降で取り扱ってきた『純粋記憶(想起)』の理論を用いることで説明されると予告されている。これは、第一章の終わり(例えば、p.98 8行目−10行目辺り)にも書かれていたことに相当すると思われる


第六段落(p.259 17行目-p.260 8行目)からは、第五段落で予告された検討がまさに始まる

まず、『純粋知覚を考察してみようか』(p.259 17行目)とこの段落は始まる。この段落は短いが非常に難解だ。そこで、ここでは要点だけを述べたい。テキストをお持ちの方は是非本文をお読み頂きたい

まず、ベルクソンの学説のなんと言っても肝要な部分は、『脳の状態を知覚の条件ではなく行動の始まりとすること』(p.259 17行目)であった。これゆえに、『諸事物の知覚されたイマージュ』(p.260 1行目)は、われわれの身体というイマージュが知覚された対象に対する『行動』を含んだ形での『諸事物』の『イマージュ』として捉えなおされる。このことは第一段落でも検討したが、言うなれば、『純粋知覚』は『諸事物』に『行動』を投影させ、いわば、『知覚を諸事物そのものの中に置き直』す働きを担うと(p.260 2行目)

このように、『脳の状態を知覚の条件ではなく行動の始まり』と考えることで、結果的に『《知覚された》諸事物はわれわれの知覚の性質を共有する』(p.260 3行目-4行目、《》内は筆者註)とみなすことができる。こうして『物質的延長』は『知覚』されることによってすなわち『われわれの表象の不可分な伸張性』(p.260 5行目-6行目)という性質を持つということになるだろう

『ということはつまり、純粋知覚についてのわれわれの分析がわれわれに、《伸張性》(extension)の観念のなかで、延長と非延長とのあいだの可能的な歩み寄りを垣間見させたのである』(p.260 6行目-8行目、《》内はテキスト傍点つき)

これは、すなわち、『非延長』であるはずの感覚(ここでは、知覚を受け取った精神の一状態と考える)を、概念的な『伸張性』によって『延長』を理解するような『可能的な歩み寄りを』もってベルクソンの説では説明できる、と述べているのであろう

以上、第六段落について述べた。繰り返し強調しておきたいのは、『脳の状態を知覚の条件ではなく行動の始まり』と捉えることによって、すべてが『物理的宇宙』で行われていることにもかかわらず、『知覚』された『諸事物』がわれわれの『身体』の『行動』を反映されたものとして捉えられ、そのことによって『諸事物』が『物理的延長』としてだけでなく、『非伸張』の性質を帯びたということが肝要なのであり、これが『唯物論』に対して精神(いわば『記憶』といってもいいが)が『物質』だけでは捉えらえない性質をもつというベルクソンの主張を補完することになっている


つづいて、第七段落(p.260 9行目-p.261 9行目)を見よう

第七段落でベルクソンは、『純粋記憶』(p.260 9行目)について同様の考察を行うとき、その道筋は二番目の対立である『質と量の対立を和らげるべく導くに相違ないだろう』(p.260 9行目-10行目)と言う(『純粋記憶』が『純粋想起』と同じ意味で使われることに注意)

第二章を振り返るまでもなく第三章では『純粋想起』がわれわれの『生き生きとしたイマージュ』によって『感覚-運動的』な生となるということがで何度も繰り返し説かれた。つまり、『純粋想起』自体は単なる情報にしか過ぎない。『それゆえ記憶は物質の流出(émanation)ではまったくない』(p.260 11行目-12行目)

さらに端的には、『常にある持続を占めている具体的な知覚』というのは、『記憶』を介して『物質』を『把持』している。逆の言い方をすれば、『物質』は、『ある持続を占める知覚』において、『記憶』から『派生している』、と言えるだろう(p.260 12行目-14行目)

さて、われわれにはさまざまな異なる『知覚』が存在するが、ある物質的対象に対して受け取る、ベルクソンの言葉を借りるなら『具体的な知覚の中で相継起する異質的諸性質』と、『科学』が示すところの物理学的法則に基づく物質の性質と経時的変化、ベルクソンの言葉を借りるなら『科学が空間のなかでこれらの知覚の裏に措定する等質的諸変化』ということになるが、これらの『あいだの相違は、正確にはどこにあるのだろう』(p.260 15行目-16行目)

『具体的な知覚の中で相継起する異質的諸性質』はある『持続』を示すが、それぞれにおいてその『持続』が終われば『不連続』でもあるし、『知覚』同士をとっても『不連続』で『演繹』によって互いを導くこと必ずしも可能とは言えない。一方、『科学が空間のなかでこれらの知覚の裏に措定する等質的諸変化』は連続性があり、また『計算に適している』(p.260 16行目-17行目)

ところで、『物質』の物理的世界における『等質的諸変化』の計算は、われわれがどれだけの誤差を容認するかでも決まるだろう。もし、誤差0で無限桁の測定器があるとすれば、それぞれはどこまでも違うとされるだろう(p.260 17行目-p.261 3行目)

一方で、『一切の具体的な知覚は、どれほど短時間のものと想定されようと、すでにして、相継ぐ無数の「純粋知覚」の記憶による総合であるとすれば』、すなわち、それらは、さまざまな性質の『知覚』が記憶を照会・照合する手がかりとなり、最終的には比較的ごく少数の記憶にある『物質』として特定される、という考えが正しいとすれば、第三章で見てきたように、『感覚的諸性質の異質性は、われわれの記憶におけるそれらの収縮に由来』すると考えられるだろうし、『客観的な諸変化の相対的な等質性は、それら本来の弛緩に由来する』と考えてはいけないだろうか、とベルクソンは言う。(p.261 3行目-7行目)これらのことは、記憶の『収縮』が明らかに端数を切り捨てることに相当するだろうし、『弛緩』とは記憶の細部までを詳細に検討し、違いを重視するということに相当するだろう。小さな違いを切り捨てることで、その相違、例えて言えば境界線はより太く強いものになっていくだろうし、小さな違いまで区別するようになれば、一つ一つの事物や事象はそれぞれにおいてすべて独立となり相対的に等しいものとなるだろう。いわば、前者は国籍という観点で、日本人と中国人というような区別の仕方で考えるのに対し、後者は、一人一人はそれぞれに独立した人間である、と言っているようなものであろう

第七段落残り数行は、そのまま引用して終わりたい。やや難解な表現もあるが、『緊張(tension)』を上記引用文の『収縮』と『弛緩』のことを具体的に指しているのだ、ということを念頭に読んでいただければ、十分ご理解いただけると思う

『その場合、量と質との隔たりは、《緊張(tension)》なるものの考察によって小さくされうるのではないだろうか。延長と非延長の隔たりが、伸張性[外的緊張](extention)なるものの考察によって小さくされたように』(p.261 7行目-p.261 9行目を要約、解説、《》内はテキスト傍点付きとイタリック)


では、第八段落(p.261 10行目−13行目)を見よう。ごく短い段落である

内容を要約すれば、第七段落で書かれた内容の詳細な検討の前に、ベルクソンたちが適用しようとしている方法の『一般原理を定式化しておこう』(p.261 10行目−13行目)と言う。この方法は、以前から現在の研究に至るまで用いられていたという


第九段落(p.261 14行目−p.264 4行目)を見よう。内容は、哲学的な認識論となる。そのためか、これまでとは一転して長い段落となっている。また、この段落で、ベルクソンたちの『一般原理』が示されるわけでもない。それは、次節『従うべき方法』以降で具体的に詳細に示されるだろう。(筆者が理解している範囲では、この章の大半がこのことの説明に割り当てられ、第七段落に書かれていた、『質と量』の対立の緩和については、第四節の第二段落以降と最終節である第六節『魂と身体』で考察されることになる)この段落では、その導入がなされ、次節以降につながっていく

(筆者注 『量と質』の対立の考察がどこでされているか、という点においては、草稿段階では第五節『延長と伸張性』としていたが、ブログ版以降は第六節『魂と身体』に修正した。この点においてはかなり悩ましく、それ以前にいわゆる感覚の『強度』に触れているところもあり、この『強度』を質として考えているということに触れている部分を指摘すべきかもしれない。この部分に関してはまだ検討の余地がある)

では、少しずつ見ていくことにしよう

『通常《事実》と呼ばれているもの』(p.261 13行目、《》内は傍点付き)というのはどういうものだろう、という考察から入っていく。そうするときに、まず、われわれの『直感』というものは、『外的であれ内的であれ、純粋な直感は不可分な連続性についての直感である』(p.261 14行目−15行目)であることは誰でも納得できることであろう。しかし、『事実』というものは、そのような『直接的直感』(p.261 13行目)とは違い、いわば、『実践の利益や社会生活の欲求への現実の適用』(p.261 13行目−14行目)であるとベルクソンは言う。すなわち、『純粋な直感は不可分な連続性についての直感』(p.261 15行目−17行目)であるの対して、『我々はその直感を併置された諸要素へと断片化』させ、『これらの要素』を、『こちら』つまり我々の精神、あるいは、ここでは『感覚』に対応させても良いと思うが、では相異なる語に対応し、『あちら』つまり『知覚を諸事物そのものの中におき直した』(p.260 2行目)ような状況では、『自存的な諸対象に対応する』という具合だ(『我々はその直感を』以降ここまではp.261 15行目−17行目)

こうして、『本来の直感の統一性』をばらばらに断ち切ったのであるから、これらの『諸項の間につながりを確立しなければならないと感じているのだが、そのつながりはもはや外面的で余分に付け加えられたものでしかあり得ないだろう』(p.260 17行目−p.261 3行目)

さて、この「諸項のつながりを確立』する方法(『枠組み』(p.262 3行目−4行目))として挙げられているのが、『経験論』と『独断論』である。(p.262 2行目−5行目)以下、数行引用しよう

『経験論と独断論は結局、このように再構成された現象から出発することで一致しており、独断論はこの形相により執着し、経験論はこの質料により執着するという点でのみ、両者は相異なっているのだ』(p.262 5行目−7行目)

『形相』と『質料』という言葉が、若干難しい。この両方が、古代ギリシアのアリストテレス哲学の用語であり、『形相』はエイドス(eidos)、『質料』はヒュレー(hylē)ともいいこちらの方が意味が通りやすいという方もなかにはいるかもしれない。私なりに説明すれば、『形相』と『質料』とは、それぞれ、何かの概念あるいはそのもの、そして、それを構築するもの、材料、となるだろう。哲学者によっては、『質料』を材料という言い方をされる方もいるようである。ただし、プラトンがイデアつまり、観念はどこかに実在すると考えたのに対し、アリストテレスは、たとえば、ブロンズの彫像を作った時に、その彫像の形をすなわち『形相』といい、それを作っている材料、この場合ブロンズであるが、を『質料』と言うようである。このように、実際の観念がどこかに存在するというプラトンの『イデア』と区別し、アリストテレスは、現実的に存在する物の概念、観念などを総じて『エイドス』(『形相』)という言い方をしたようである

さて、本文に戻って『経験論』と『独断論』についてのベルクソンの考え方を見ていこう

まず、『経験論』に関して、ベルクソンはつぎのような批判をしている

『経験論はたしかに、諸項を互いに結びつけている諸関係のうちに人為的なものを感じているので、諸項だけで事足れりとして、諸関係を無視している』(p.262 7行目−9行目)

このばらばらにされた経験は、しかし、われわれの『本来の直感』あるいはその『統一性』もつ『経験』とは著しく違った『経験』の組み合わせだろう。そこが『経験論』の問題である、とベルクソンは言う(p.262 9行目−12行目を要約)

『まさしく現実《レエル》のこの分割は実生活の諸欲求の為に行われたのであるから、この分割は諸事物の構造の内的輪郭に沿うことはなかった。だからこそ経験論は、重大な問題のどれについても精神を満足させることはできないし、更に、自らの原則について十分自覚するに至ると、そうした問題を提出するのを差し控えるのだ』(p.262 12行目−16行目)

以上がベルクソンの『経験論』に対する批判である

つぎに、『独断論』に対する批判が展開される。『独断論』は上記したような『経験論が目をふさいでいる諸困難を発見して、それを引き出す』(p.262 16行目−17行目)しかし、それは、『経験論』と同じ手法に基づいており、同様に、『ばらばらの諸現象を受け入れており、それらを総合しようと努めているだけ』(p.263 1行目−2行目)なのだという。そして、元々の直感には『かかる総合』(p.263 2行目−3行目)即ち『独断論』が重視する『諸項』の『諸関係』(p.262 7行目−9行目)は存在しないものであるから、『必然的にいつも恣意的な形式をまとうだろう』(p.263 3行目)

『言葉を換えれば、形而上学が構築物に過ぎないなら、同等に本当らしいいくつもの形而上学が存在することになるが、それらは結局互いに論駁し合うこととなり、』結局、最終的に『最後の言葉は、どんな認識をも相対的と見なし、諸事物の核心を精神には到達不可能なものと見なす批判哲学に残されるだろう』(p.263 4行目−7行目)

『以上が哲学的思考の規則的な展開』(p.263 7行目)即ち、『我々が経験であると思っているものから出発し、見たところその経験を構成している諸断片のあいだの様々な可能的な配列を試し、我々が構築したもの全ての周知の壊れやすさを前にして、最後には構築することを断念するに至る』(p.263 7行目−10行目)過程であると言えるだろう

ここから先、第一節の終わり即ちこの段落の終わりまでは、良い文章であるし、なおかつ、これから展開される議論の予告でもあるためにここで要約するのが難しい、ということもあり、若干長いが全てを引用してこの節の解説を終わろうと思う。なお、読みやすさを配慮して二つに分けて引用することにした

『—しかし、試みるべき最後の企てがあるだろう。それは、経験の源泉へと経験を探しに行くこと、というよりむしろ、経験が我々の実利の方向に屈折しながら、まさしく人間的経験になることの決定的な曲がり角の向こうへと経験を探しに行くことであるだろう。カントが論証したような思弁的理性の無力は、おそらく結局は、身体的生のある必然性に屈従した知性、我々の欲求の充足のために解体せねばならなかった物質に対して行使される知性の無力でしかない』(p.263 10行目−16行目)

『諸事物についての我々の認識はそのとき、もはや我々の精神の根本的な構造に対して相対的なのではなく、単に我々の精神の表面的で後天的な諸習慣、我々の精神がその身体機能と下位の欲求から受け継いでいる偶然的な形態に対してだけ相対的なのだろう。認識の相対性はそれゆえ決定的なものではないだろう。これらの欲求が作ったものを壊すことで、われわれは、直感にその最初の純粋さを取り戻させるだろう。そして、われわれは現実〈レエル〉との接触を回復するだろう』(p.263 16行目−p.264 4行目、〈〉内はテキストフリガナ)



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