第四章 『イマージュの残存について - 記憶と精神』 第五節『延長と伸張性』

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは第四章第五節 「知覚と物質」(p.298 16行目-p.311 6行目)の内容を解説したものです。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています

もともとは、ブログ版の記事を加筆修正したものとなります

ここからは、第一節や第二節で問題となった『魂と身体の結合の問題』(p.257 16行目)について再び考察されることになります。前節では、持続というものがどういうものか、『質と量』の障壁をなくすこと、あるいは『運動』をそのまま『直接的な認識』として捕らえることによって『感覚』との差をなくすことを省察し、われわれの質の観念がA-D変換の量子化やサンプリングのようなやり方で『知覚』を『内的震動』として表し、『意識によって生きられた真の持続』がさまざまなものを象徴的に『固定化』することによって起こるということを解説しました

ほかにも、ここまでの解説で私としては

『しかし、思考する存在たる人間においては、自由な行為は諸感情と諸観念の総合と呼ばれることができ、そこへと導く進展は理性的な進展と呼ばれる』(p.266 7行目-8行目)

とその後の

『しかし、《われわれがそこで行動しているところの》持続は、われわれの諸状態が互いに解け合っている持続であって、まさにこのような持続において、われわれは、行動の本性についてわれわれが思弁する例外的な唯一の立場、すなわち自由の理論の中へと思考によって身を置き直すための努力をしなければならない』(p.266 11行目-13行目、《》内テキスト傍点付き)

という部分の解説も少々不足している気がします。この点はこの節でも少し触れられることとなるでしょうが、ここまでの反省点として挙げておきたいと思います

いずれも、私の理解不足によるものであり、読者諸氏には心よりお詫びを申し上げる次第です

さて、この節では、前節までに『直接的な認識』、あるいは、その点において特に重要な『(意識によって生きられた真の)持続』と『緊張』、さらにそれらに『純粋震動』を含めてもいいと思うが、について議論されていたが、今度は『(物質的)延長』と『伸張性』に関して詳しく論じられています

それでは、第一段落(p.299 1行目-p.302 12行目)を見よう

まず、われわれが物事を区別するのには、『各々がそれ固有の特性を有していて、進化の一定の法則に従っているからだ』(p.299 3行目-4行目)という意味づけがある。しかし、第三節のマクスウェルの説(第十三段落、p.283 15行-p.285 5行目)に拠ると実際はその『事物とその周囲とのあいだの分離は完全に決定されたものではあり得ない』(p.299 4行目-5行目)以下、一行飛ばして引用する

『物質的宇宙のすべての対象を繋ぐ緊密な連帯、それら相互の作用と反作用の永続性は、これらの対象が、われわれによってそれらに割り当てられたような明確な境界を実は持たないことを十分に証明している』(p.299 5行目-8行目)

『われわれの知覚はいわばそれら物体の残滓の形を描いている。われわれの知覚は、それらの対象に対する、われわれの可能的な作用が止まる地点、したがって、それらの対象がわれわれの欲求に関与するのをやめる地点をそれらの対象の端とする。以上が、知覚する精神の最初のそしてもっとも明らかな働きである』(p.299 8行目-11行目)

ここまでを『以上が、知覚する精神の最初のそしてもっとも明らかな働きである』(p.299 11行目)といったん結ばれ、すぐに、

『その精神は、欲求の勧めや実生活の必要性に簡単に屈しながら、延長の連続性の中に分割された諸部分を描く』(p.299 11行目-13行目)

と続ける。つまり、もともとの『知覚』からえられる『直接的な認識』は、われわれの『欲求の勧めや実生活の必要性に簡単に屈』するような精神の働きにより任意に分割される自然な流れが生まれてくる訳である。それにはまず、その『現実的なものが恣意的に分割可能であるのを納得しておかなければならない』(p.299 14行目)

『したがってわれわれは、具体的な延長である感覚性質の連続性の下に、無際限に変形可能で無際限に縮小可能な目を持った網を仕掛けなければならない。この単に考えられただけの実体、恣意的で無際限な可分性についてのこの全く観念的な図式が等質的空間である』(p.299 14行目-16行目)

と、ここまでを一つの流れを振り返っている。われわれは、ここにおいて、自然科学や幾何学の原初的、ア・プリオリな思考の傾向を得るわけであろう。ここからさらに続けて

『 −ところで、現在のいわば瞬間的なわれわれの知覚が、独立した諸物体への物質の分割を行うのと同時に、われわれの記憶は、諸事物の連続的な流れを感性的性質へと凝固させる。われわれの記憶は過去を現在の中へと引き延ばす』(p.299 17行目-p.300 3行目)

と述べる。このことに関しては前節で詳しく説明された。こうしてここからは、過去と記憶、それから『持続』そして時間の観念の流れの説明へと入っていく

上の引用文に続けて、『なぜなら、われわれの行動は、記憶によって増やされたわれわれの知覚が過去を凝縮したのと正確に比例して、それだけの未来を自由に使う』(p.300 3行目-5行目)と記憶の役割を説明するのだが、ここでは始めに『記憶によって増やされたわれわれの知覚』ということを考えてみたい。第三章を振り返れば、『感覚−運動』的な生を生きているのであった。そうすると『記憶によって増やされたわれわれの知覚』とは感情と結びつき『感覚』へと変わるもの指しており、『記憶』は『感覚−運動』的な生のための情報つまり、第二章で言う『純粋想起』が相当するだろう。ある『感覚』に対して結びつけられる『運動』の記憶つまり『純粋想起』が多ければそれだけ選択肢が増える。結果、『正確に比例して、それだけの未来を自由に使う』事ができるようになる

ところで、一方、物質はというと

『蒙られた作用に、この作用のリズムにぴったり合わせつつ同じ持続の中で継続される直接的反作用によって反応すること、現在、それも絶えず再開する現在の中に存在すること、それが物質の根本的な法則である。そこに《必然性》は存している』(p.300 5行目-7行目、《》内はテキスト傍点付き)

とわれわれの行動と対比させている。上引用文はやや難解であるのでまず、順序を少し変えて、『現在、それも絶えず再開する現在の中に存在すること、』という文のほうをみると、こちらはこれまでも何度も説明されてきたように、物質はそのままで保存されているのではなく、法則に従ってそのように成っているのであった。『それが物質の根本的な法則である。そこに《必然性》は存している』という部分にわれわれは何の異存もないだろう。残る初めの部分『蒙られた作用に、この作用のリズムにぴったり合わせつつ同じ持続の中で継続される直接的反作用によって反応すること、』であるが、途中を省略して『蒙られた作用に、直接的反作用によって反応すること、』という文章にすれば、これは、作用・反作用の法則を述べているというのがわかる。そのとき、『この作用のリズムにぴったり合わせつつ同じ持続の中で継続される』という部分であるが、これは、『作用』と『反作用』の力のベクトルの大きさが同じで向きが正反対であるということを意味しているのではないだろうか

このあと

『《自由な》行動、とは言わないまでも少なくとも部分的に不確定な行動が存在するとすれば、』(p.300 8行目)ということが考察される。ここから非常に長いこのあとの一文を見ると

『そうした行動は、自らに固有な生成がそこに貼り付けられているところの生成を所々で固定することができ、この生成を判明な諸瞬間へと凝固させ、かくして物質を凝固させ、この物質を自らに同化することで、自然的必然性の網の目をくぐり抜けるような反作用へと物質を消化しうる諸存在にしか属することはできない』(p.300 9行目-12行目)

とある。まず、全体の意味を分かりやすく言うと、物質は因果律に従い、『自らに固有な生成がそこに貼り付けられているところの生成』として流れていくわけであるが、それを『(純粋)知覚』という瞬間的な記憶で、『所々で固定でき、この生成を判明な諸瞬間へ凝固させ』ること、このことは第一章第五節の冒頭でも

『このように諸事象を表象することで、われわれは常識〔共通感覚〕(sens common)の素朴な確信に戻るだけである。われわれはみな、自分は対象〈オブジェ〉そのものに参入し、われわれのうちではなく、対象そのものにおいてこの対象を知覚しているのだと信じるところから始めた』(p.47 2行目−5行目)

とされていたが、第一章第一節では

『イマージュの総体のなかで、私の知覚が影や反映のように、私の身体の潜在的あるいは可能的な諸作用を正確に描くということでなければ、これは一体どういう意味であろうか』(p.15 5行目−7行目)

と考察され、

『《私はイマージュの総体を物質と呼ぶが、これら同じイマージュが、ある特定のイマージュ、すなわち私の身体の可能的な作用と関係づけられた場合には、それらを物質についての知覚と呼ぶ》』(p.10 7行目−12行目、《》内は傍点付き)

と定義されていたことを思だしていただければ、上の引用文は生物の持つ『知覚』全般の働きを説明しており、そのような知覚こそが『《自由な》行動、とは言わないまでも少なくとも部分的に不確定な行動』を生む条件ということを言いたいのだろう

さてそのような『諸存在』、簡単に言ってしまえば生物のことであるが

『これらの存在の持続の緊張の度合いは、結局、彼らの生の強度の度合いを表しており、こうしてそれが彼らの知覚の凝集力と、その自由の程度を決定している』(p.300 12行目-14行目)

この部分は大変難解である。まず、『持続の緊張の度合い』ということこれは、前節第四節までの『質と量との隔たりは、《緊張(tensio)》なるものの考察によって小さくされうるのではないだろうか』(p.261 7行目-8行目、《》内はテキスト傍点つきとイタリック)として始まった部分に相当するだろう。これは、前節までの『質と量との隔たりは、《緊張(tension)》なるものの考察によって小さくされうるのではないだろうか』(p.261 7行目-8行目、《》内はテキスト傍点つきとイタリック)として始まった部分に相当するだろう。すなわち、短い持続に多くの知覚からの情報を『量』から『質』へと転換できるような『持続の緊張』こそが『生の強度の度合い』となっている、いう主張がまずここにある。極端な例を挙げれば、植物は『生の強度』はきわめて低く、高等動物になると高くなる。そのような尺度で見れば、『知覚の凝集力とその自由の程度を決定している』という記述になるのは必然となる。この後半部分は、第三章で見た『感覚-運動系』という生の働きを別の表現で示していると考えてもいいだろう

ところで、一方で、特に前節第四節第七段落を思い起こすと、『持続の緊張』は『生きられた意識の真の持続』として『知覚の凝集力』に繋がっており、それがさらに感覚から行動へ移る際の選択肢を増やすということで、『自由の程度』が決定されるとなってくる、という解釈も可能である。しかし、この解釈では『生の強度の度合いを表している』とは、いったいどういうことなのだろう。以上のふたつの解釈と、二つ目の解釈が正しいとした場合の、『生の強度の度合いを表している』の意味、これらの謎について、しばらくベルクソンの言うところを追って行こう

まず

『周囲の物質に対するこれらの存在の作用の独立性は、物質が流れる際のリズムから彼らが一層解放されるに連れてますますはっきりと確証される』(p.300 15行目-16行目)

『その結果、記憶に裏打ちされたわれわれの感覚のうちで形をなすがままの感性的諸性質はまさに、現実的なものの凝固・固化によって獲得される継起的諸瞬間なのである』(p.300 16行目-p.301 1行目)

『しかし、これらの瞬間を識別するためには、同じく、それらを、われわれ自身の現実存在と諸事物の現実存在に共通の一本の糸によって一つに繋ぐためには、継起一般についての抽象的な図式、等質的で無差別な媒質《ミリュー》をわれわれは想像しなければならないのだが、かかる媒質は物質の流れに沿い、それを縦方向とすると空間は横方向になる。そして、この媒質のうちには等質的な時間が存している』(p.301 1行目-5行目、《》内はテキスト内フリガナ)

と続いていく部分を見てみよう

まず最初の引用(p.300 15行目-16行目)では、物質が物理法則に従ってある瞬間にそう成っていく連続、その『リズム』からの『解放』をより自由に行動できるという意味で用いており、かつそれが進化の度合いと言いたいのではないだろうか

次の引用文(p.300 16行目-p.301 1行目)は、ここも二通りの解釈が可能である。一つは、AーD変換の「サンプリング」とそれに伴う「量子化」。すなわち、『現実的なものの凝固・固化によって獲得される継起的諸瞬間』をサンプリングと考え、『記憶に裏打ちされたわれわれの感覚のうちで形をなすがままの感性的諸性質』が『現実的なもの』に『凝固・固化』されることが「量子化」に相当するという考え

もう一つは、『記憶に裏打ちされたわれわれの感覚のうちで形をなすがままの感性的諸性質』と『現実的なものの凝固・固化によって獲得される継起的諸瞬間』が等しいということより、前節第四節の第七段落で説明されたように、『記憶に裏打ちされたわれわれの感覚のうちで形をなすがままの感性的諸性質』が芸術作品となるとする考え。以上のふたつにの解釈が可能となる

三番目の引用文(p.301 1行目-5行目)を解説しようと思うが、次の第二節のベルクソンの記述を思い出していただきたい

『われわれが経験の《曲がり角》と呼ぶものに身を置いたとき、《直接的なもの》から《有用なもの》へのわれわれの移行を照らしながら、我々の人間的経験の黎明に位置する生まれつつある微光が利用された時、この時にも、そのようにわれわれが現実〈レエル〉の曲線に見出す無限小の諸要素を用いて、それらの後ろ、暗闇の中に広がる曲線そのものの形を再構成する課題が残される』(p.264 9行目−14行目、筆者注:《》内はテキスト傍点付き、〈〉内はテキスト フリガナ)

結局、ここまでふたつの解釈が可能としてきたが、これは、上引用文の『暗闇の中に広がる曲線そのものの形を再構成する』ということがどういうことか、ということかということでもあるのではないだろうか。それが、やはり、この三番目の引用文でもはっきりしないまま、『持続』が『時間』の観念へと変化していくことが考察されている。注意すべきは、ここでは、物質を支配する因果律に支配されているところの、いわばこの宇宙の『持続』は『物質の流れ』と表現されており、いわゆる『等質的な時間』の観念とは厳密に区別されているということに気をつける必要がある

そうすると

『等質的な空間と等質的な時間はしたがって、諸事物の特性でも、諸事物を認識するわれわれの本質的な条件でもない』(p.301 5行目-6行目)

ということになる。ここでは、ベルクソンは『時間』という観念を厳密に三つに分けて考えていたということを強調しておきたい。つまり、『持続』と『(等質的な)時間』と宇宙の『持続』ともいえる『物質の流れ』とされるものだ

このあと、この『等質的な空間と等質的な時間』が、幾何学やそれを基礎にした力学を発達させるための抽象的な『《行動》の図式』(p.301 10行目、《》内はテキスト傍点付き)であるということを説明した後、『第一の誤り』として次のように断じている。

『第一の誤りは、この等質的な時間と空間を諸事物の特性とする誤りなのだが、それは、形而上学的独断論 —機械論であれ力動説であれ— の乗り越えがたい諸困難へと通じている』

以下、力動説と機械論を批判しているのであるが、力動説とは世界はある種の力をもって根本的な成立の要件としているライプニッツの哲学のことを指し、機械論はすなわち、この宇宙のすべてを古典物理学で説明できるとしたデカルトを元となす哲学的世界観のことをさしていると考えていただいていいと思う

『力動説は、流れる宇宙に沿ってわれわれが作り出す継起的切断面のいずれをも絶対的なものへと仕立て上げ一種の質的演繹によってこれらの切断面を互いに繫ごうとむなしく努めている。機械論は、ひとつの任意の切断面の中で、横方向に行われた諸分割、すなわち大きさと位置の瞬間的な諸差異にむしろ執着し、感性的諸性質の連続性をこれらの際の変動を用いて生み出そうとやはりむなしく努めている』(p.301 12行目-16行目)

このあと、『では反対に、別の仮説に賛同してカントとともに、空間と時間はわれわれの感性の形式であると主張すべきであろうか』(p.301 16行目-p.302 1行目)と、先の『第一の誤り』と対称させている

『その場合には、物質と精神は等しく不可知なものであると宣言されるに至る。ところで、対立する二つの仮説が比較されれば、それらに共通の基盤が発見される。等質的な時間と等質的な空間を観相された実在ならしめるにせよ、あるいはまた観相の形式ならしめるにせよ、これら二つの仮説はどちらも、空間と時間に、《生命的(vital)》というよりはむしろ《思弁的な(spéculatif)》利害を与えている』(p.302 2行目-5行目)

このあと、『したがって』と続くのであるが、それは、『生命的(vital)』な観点から見て、その間に入り込む余地があるということを言っているわけであろう。その一文は非常に長いが、要点としては、その学説は、次の三つ点からなる論理構成をまず否定し

1.『認識のためではなく行動のために現実的なものに導入された分割と凝固の原理を等質的な空間と時間の中に看取』する (p.302 7行目-8行目)
2.そのように区別された『諸事物』に『現実的な持続と現実的な延長を付与』する (p.302 8行目-9行目)
3.『最後には、すべての困難の起源を、諸事物に実際に属し、われわれの精神に対して直接的に現出する持続と延長の中に認める』 (p.302 9行目-10行目)

そうではなくて、その困難、つまり、物質の実在や、あるいは、この章の始めに議論したような二元論的な考え方の困難(非延長と延長、質と量の隔たり)に関して

『連続的なものを分割し、生成を固定し、己が活動に作用点を供給するために、諸事物の下にわれわれが張りめぐらす等質的な空間と時間の中に認めるだろう』(p.302 10行目-12行目)

という学説のことである。では、既に解説の中でほとんどを引用したがその全文を改めてこの段落の解説の最後に示したい

『したがって、一方の形而上学的独断論と他方の批判哲学のあいだには、ある学説のための余地があることになろうが、この学説は認識のためではなく行動のために現実的なものに導入された分割と凝固の原理を等質的な空間と時間の中に看取し、諸事物に現実的な持続と現実的な延長を付与し、最後には、すべての困難の起源を、諸事物に実際に属し、われわれの精神に対して直接的に現出する持続と延長の中に認めるのではもはやなく、連続的なものを分割し、生成を固定し、己が活動に作用点を供給するために、諸事物の下にわれわれが張りめぐらす等質的な空間と時間の中に認めるだろう』(p.302 5行目-12行目)


第二段落(p.302 13行目-p.303 7行目)を見てみよう

ここは短い段落なのですべてを引用して解説したい

まず

『もっとも、感性的性質と空間についての数々の誤った考えは、精神の中に非常に深く根を張っているので、それらを一度にどれだけ多くの点について非難しても行き過ぎということはないだろう』(p.302 13行目-15行目)

ということからはじめ、『数々の誤った考え』の『新たな様相』(p.302 15行目)の切り口として、『それらが、実在論によっても観念論によっても等しく受け入れられている次の二重の公準を含意していることを述べておこう』と続く

その二重の公準とは、以下の通りである

『第一に、多様な種類の性質のあいだには、共通なものは何もない』(p.302 17行目)
『第二に、延長と純粋なもののあいだには、共通なものは何もない』(p.303 1行目)

『延長』とはこの節をはじめるときにも少し述べたが、物質の測定できる属性表している。例えば、大きさと物質の『純粋なもの』はまったく別のものである、というのが『実在論』即ちこの場合はデカルトの哲学を端緒とする物そのものが実在するという考え方と、カントの哲学の共通点であるけれども

『われわれの説は反対に、異なる種類の諸性質のあいだには何か共通なものが存在し、それらの性質はすべて延長をさまざまな度合いで分有していると、そしてまた、これらの二つの心理を見誤るなら、必ずや、物質の形而上学、知覚の心理学、より一般的には意識と物質の関係についての問いを無数の困難で難渋させることになると主張する』(p.303 1行目-5行目)

と述べている

この後は次の段落からの展開を述べてこの段落を終えている。まとめれば、ここでは、『さしあたり、物質についての多様な理論の根底に、われわれが異議を唱える二つの公準があることを指摘するにとどめ』、なぜこのような公準が出てきたかについてその拠りどころとなった『錯覚へと遡ることにしよう』と言う(p.303 5行目-7行目)


第三段落(p.303 8行目-17行目)を見てみよう

ここからは、イギリス観念論が論じられることになる。この段落には具体的には書いてないが、内容からしてもこの後に名前の出てくるおそらくジョージ・バークリーが唱えた観念論で、その主とするところは『物質の客観性を否定し、「存在することは知覚されることである」("Esse is percipi"、エッセ・イス・ペルキピ)という基本原則の観念論を提唱した。』(Wikipedia:http://ja.wikipedia.org/wiki/ジョージ・バークリー より引用)とされるものの批判であろうと思われる

ここも短い段落であるのでほぼすべてを引用しながら解説することになる

それはまずこのように始まる

『イギリス観念論の本質は、延長を触覚的知覚のひとつの特性とみなすことにある。イギリス観念論は、感性的性質のうち感覚だけしか見ず、感覚そのもののうちに魂の状態しか見ないので、多様な性質のうちに、こちらの現象の併行関係を確立しうるものを何も見出さない』(p.303 8行目-11行目)

ごく分かりやすく言ってしまえば、感覚に量的なあるいは数学で言うスカラーというものは認めず、それはそのまま質あるいは質感ということになるので、『延長』すなわち物の大きさなども質感ということになるということであろう。これはベルクソンの唱えるところ、つまり、感覚はすべて質であるということにも一致するように思える

しかもベルクソンは、こう続けている

『そのためイギリス観念論は、この併行関係をある習慣によって説明するのを余儀なくされるのだが、この習慣ゆえに、例えば視覚における現在の知覚は、触覚についての可能的な感覚をわれわれに示唆することになる』(p.303 11行目-13行目)

この上記引用にある、『ある習慣』というのは、ベルクソンが唱えるところの『感覚-運動的』なるわれわれの生における『純粋想起』によく似ているようにも思われる。しかしながら、ここではp.302 17行目から303 1行目に記述されていた二重の公準、すなわち、『第一に、多様な種類の性質のあいだには、共通なものは何もない』、『第二に、延長と純粋なもののあいだには、共通なものは何もない』ということの問題点として論じていのであった。ベルクソンはその間に共通のものを見出そうとしていた(p.303 1行目-5行)。そこでは、結論として、『異なる種類の諸性質のあいだには何か共通なものが存在し、それらの性質はすべて延長をさまざまな度合いで分有している』と述べられている。この考えは後でも説明されているのだが、もともとは、『等質的空間』の中で『運動』が生じるのではなく『運動』を絶対視することで『等質的空間』が生じ、物体が任意に分割可能になるというところから生じていると言う結論に達する。この辺りは非常に難解なのでまた後で述べられているという部分に達したときに詳細に考察、解説を試みたい

引用を続けよう。ここからはイギリス観念論の問題点を決定づけているところである。下の引用文で第三段落で終わり、いったんイギリス観念論についての議論も終わる。読みやすさを考慮して、引用文はふたつに分けた。内容としては、この観念論においても『二重の公準』すなわち、『第一に、多様な種類の性質のあいだには、共通なものは何もない』、『第二に、延長と純粋なもののあいだには、共通なものは何もない』が存在しているということを前提としている。イギリス観念論では物質はそもそも存在しないのであるから『延長』自体がそもそも理論的に存在しえないはずが、ここではそれは『触覚』の属性として存在すると説明されているようだ。一方、この理論においても、『多様な種類の性質のあいだには、共通なものは何もない』、わけであるのでそもそも『視覚』と『触覚』に共通な性質は何もない。従って、『視覚』には(理論的にあり得ない)『延長』や、もしくは『伸張性』などの属性はそもそもにおいてない。ないはずなのに何らかの『習慣』によって『触覚』としてそれは感じられるというのはおかしいのではないか、という批判ではないだろうか。この点においては第五段落において総括されているのでそちらも参考にしていただきたい

『二つの相異なる感覚の印象が、二つの言語に属する語彙のように互いに類似していないのなら、一方の感官の所与を他方の感官の所与から演繹しようとしても無駄である。これらの印象は共通の要素を持っていない。』(p.303 13行目-15行目)

『したがって、つねに触覚のものである延長と、触覚とは別の感官の所与との間に共通なものは何もなく、後者の所与はいかにしても延長を持つことができない』(p.303 15行目-17行目)

以上、第三段落を解説した


第四段落(p.304 1行目-10行目)を見てみよう

ここも短い段落で、『原子論的実在論』の批判がされる。これも同じく、ベルクソンのいう『質と量との隔たり』によるものという結論になる

ここは、ベルクソンのいうところを簡単にまとめてみよう。まず

『運動を空間のうちに、感覚を意識のうちに置く原子論的実在論』に関しては『延長の変化あるいは現象とそれに対応する感覚』を結びつけるものがないという批判が展開される(p.304 1行目-3行目)

この場合、『感覚』というのはそれ自体が一種の形而上学的な作用によって感じられるか、もしくは言語としての表現を持つということになるだろう(p.304 3行目-5行目)

 その場合、そうした感覚というのは『それらの感覚の原因になったイマージュを映し出していないだろう』。つまり、感覚器官から何らかの形で形而上学的に映し出された質感や、逆に記憶から得られた感覚から形而上学的な何らかの方法で『感覚』として延長を理解することになる。その起源を遡れば『感覚はすべて空間における運動という共通の起源』を持つことになるだろう。つまりは『運動』も『感覚』と同じように形而上学的なものであり、その形而上学的に発生する『原子』の『運動』こそ感覚の源ということになるだろう(p.304 5行目-7行目)

以上の視点から、次のような結論をベルクソンは導き出す。以下、引用しよう

『しかし、まさに感覚は空間の外で進展しているのだから、感覚は感覚である限り、感覚の諸原因の関係をも絶っているのであり、そのようにお互いを分有もしていなければ、延長も分有していないのだ』(p.304 7行目-10行目)

つまりは、さまざまな『質感』がそれぞれに独立したものでなにも共通点がないならば、どうしてわれわれは『延長』をもつ『物』という実在を理解しうるのか、と言っているのであろう


続いて、第五段落(p.304 11行目-17行目)を見てみよう

ここからは以上の『観念論』と『実在論』に関しての総合的な批判がなされていく。ごく短い段落なので、全文を引用しよう。解説は特に必要ないと思われる。なお、読みやすさを考えて、引用文は三つに分割してある

『それゆえ、ここでは観念論と実在論は次の点においてしか異なっていない。前者は、延長を触覚の知覚まで後退させ、延長が触覚の知覚の占有的な特性になるのに対して、後者は延長をずっと遠くに、あらゆる知覚の外へ押しやっている』(p.304 11行目-13行目)

『しかし、これら二つの学説は、純粋に延長を持つものからいかにしても延長を持たないものへの突然の移行を肯定するのと同様、多様な種類の感性的性質の不連続性を肯定することで一致している』(p.304 13行目-15行目)

『ところで、この学説のどちらもが、知覚の理論の中で突然突き当たる主要な困難は、この共通の公準から派生しているのである』(p.304 15行目-p.304 17行目)


第六段落(p.305 1行目-p.307 11行目)を見てみよう

この段落では、第三段落でも批判されたおもにバークリーの学説(イギリス観念論)が再び批判されている

はじめからしばらくはごく簡単にまとめてみよう。まず、ここで批判されているバークリーの学説というのは、『延長』は触覚に固有のものであり、ほかの感覚はそれと『ある種の習慣』によって結び付けられて『延長』を理解する、とまとめてもいいだろう

それに対し、ベルクソンは、『百歩譲って、聴覚、嗅覚、味覚の所与には延長を与えないでいることができるだろうが、それでもなお、触覚的空間に対応する視覚的空間の生成を説明しなければならないだろう』(p.305 2行目-4行目)と指摘する

『たしかに、その口実として、視覚は最後には触覚を象徴するものになるとか、空間の諸関係についての視覚的諸知識のなかには触覚的知識を示唆するものしか決して存在しないとか主張される』(p.395 4行目‐5行目)

と、このように、ベルクソンはバークリーの学説について述べる

これに対して、ベルクソンが反例として挙げているのが『立体(relief)についての視覚的知覚、《独特で》しかも名状しがたい印象をわれわれに与えるこの知覚』(p.305 7行目、《》内はテキスト傍点つき)である

『触覚』がこの『立体(relief)についての視覚的知覚』を表現するとするのは難しいだろう。『ある想起と現在の知覚との連合は、この知覚を既知の要素で豊かにしながら複雑化することはできるのだが、新しい種類の印象、新しい性質の知覚を《創造する(creer)》ことはできない』(p.305 8行目-10行目、《》内はテキスト傍点つきとイタリック)と述べている

この後、視覚的知覚についてはすでに述べた(第一章第九節『イマージュ本来の伸張性』(p.75 12行目-p.76 7行目))が、重要なので繰り返す、と言っている部分を引用して見てみよう。以下、このことが段落の最後まで述べられている。ところどころ解説を入れながらの引用となる

『知覚についてのわれわれの諸理論は、ある装置が決まった瞬間にある知覚の錯覚を生じさせる場合、その装置だけでこの知覚そのものを生じさせるのに常に十分でありえたという考えによって、その全体が汚染されている-まるで記憶の役割は、原因が単純化されても結果の複雑性を存続させることでは必ずしもないかのように!』(p.305 16行目-p.306 3行目)

ここで出てくる『原因が単純化されても結果の複雑性を存続させること』とは、おそらく、このあとすぐ出てくる例えば、網膜に映ったものは平面の画像であるものを立体として理解する、などの例を意味しているのだろう

『網膜そのものは平面であるし、またわれわれが視覚によって何か延長を持つものを知覚するならば、それはいずれにしても網膜のイマージュでしかありえないと言われるだろうか。しかし、われわれがこの本の冒頭で示したように、ある対象の視覚的知覚においては、脳、神経、網膜、そして《対象そのもの》がひとつの密接な全体、連続的過程を形成していて、網膜イマージュはそのひとつの挿話でしかないというのは真実ではないだろうか。では、いかなる権利でこの網膜イマージュを孤立させ、知覚全体をこのイマージュへと要約するのか。次に、同じくわれわれがすでに示したように(13)、面は、三つの次元が復元されているような空間の中でとは別の仕方でも面〔表面〕として知覚されうるのだろうか』(p.306 3行目-11行目、(13)は章末文献番号、ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』のこと)

『バークリーは少なくとも、彼の説を最後まで推し進めた。バークリーは視覚に対しては、延長についてのどんな知覚も認めてはいない』(p.306 11行目-12行目)

要約すれば、視覚による知覚にはとは別に、網膜に当たる光線からくる圧力による触覚によって『延長』を認めているというのがバークリーの説ではないかと思われる。一方、ベルクソンは、生体内の視覚のシステムと対象をひとつとみなした記憶がその立体に対する質感と『延長』をわれわれにして理解させている(あるいは、意識している)と言いたいのではないだろうか。たとえば、われわれの目の両方の網膜から得られる画像をそれぞれは微妙に違う。それを総合して、ものを見分けるというには網膜の働きだけではなく明らかに情報を統合し、記憶による照会・照合を経てわれわれはものを見ているということを意味しているのではないだろうか

ところで、バークリーの説には問題があるという。それは簡単に言えば、どうして、網膜単体だけで同時併行に起こる視覚と触覚を結びつけることができるであろうかということのようである。以下引用を続けよう

『というのは、想起の単なる連合によって線や面や体積についてのわれわれの視覚的知覚の独創性な点がいかにして創造されるかはわからないからで、因みに、これらの知覚のそのものはあまりにも明瞭なので、数学者もそれに甘んじ、通常もっぱら視覚による空間に基づいて推論しているのだ』(p.306 14行目-17行目)

このあと、バークリーが根拠とした心理学的議論(『視覚の後天的な理論』)について

『現代心理学からの多くの攻撃に必ずしも耐えられるとは思えない(14)』(p.307 2行目-3行目、(14)は章末文献番号、複数の文献が挙げられている)

と述べた後、『心理学的な種類の困難は脇に置き、われわれにとって本質的な別の点に注意を促すに留めよう』(p.307 3行目-4行目)と、こう続けていく

『視覚は空間の諸関係について独自なことをわれわれに何も教えてくれないと一瞬想定してみよう。その場合、視覚的形、視覚的立体、視覚的距離は触覚的知覚の象徴と化す。しかし、なぜこの象徴化はうまくいくのかということがわれわれに語れねばならないだろう。ここに、形を変えながら動いている諸対象がある。視覚はある一定の変移を確認し、ついで触覚がそれらの変移を実証する。それゆえ、視覚と触覚の二系列あるいはそれらの原因の中には、視覚と触覚を互いに対応させ、両者の二系列あるいはそれらの原因のなかには、視覚と触覚を互いに対応させ、両者の併行関係の恒常性を保障する何かが存在している。このような連結の原理はいったい何なのか』(p.307 4行目-11行目)


第七段落(p.307 12行目-p.309 2行目)を見よう

この段落でベルクソンはまずこう断じる

『イギリス観念論にとって、それは《機械仕掛けの神》でしかありえず、我々は不可解な神秘〈ミステール〉へと戻される』(p.307 12行目-13行目、《》内はテキスト傍点付き)

『機械仕掛けの神』は『時の氏神』とも訳され、お芝居の終盤に現れ都合よくさまざまな問題を解決するような神様をいう

また、『原子論的実在論』(ここでは『通俗的実在論』と言っている)についても次のように述べている。少し長くなるが、全文を引用しよう

『通俗的な実在論にとって、諸感覚間の対応の原理が見いだされるのは、諸感覚とは区別された空間のなかである。しかし、この学説はこの困難を先送りし悪化させてさえいる。なぜならこの学説は、空間内の等質的諸運動の体系がいかにして、それらの運動とはなんの関係も持たない多様な感覚を持つかをわれわれに語らなければならないだろうからだ』(p.307 13行目-17行目)

『つい先程のことだが、イマージュの単なる連合によって、空間についての視覚的知覚が生成する過程は、紛れもない《無からの(ex nihilo)》創造を含意しているようにわれわれには思われた』(p.307 17行目-p.308 2行目)

『ここでは、すべての感覚は無から生じているか、あるいは少なくとも諸感覚を引き起こす機会となった運動と何ら関係を持たない。結局、この第二の理論はそう思われているほどには第一の理論とは異なってはいないのだ』(p.308 2行目-4行目)

補足説明が必要なのは上記引用の二番目(p.307 17行目-p.308 2行目)の部分だろうが、これは単に前に出たイギリス観念論の『機械仕掛けの神』による視覚と触覚の結び付けを指しているものと考えて良いと思う

以下、『イギリス観念論』と『通俗的原子論』は『延長』を他の知覚から切り分けており、それを『触覚』に置くか『自存的存在に仕立て上げられ』た『触覚的知覚』の違いしかない(p.308 5行目-8行目をまとめた)。しかも、『通俗的原子論』では『もはや、触覚的知覚抽象的図式しか残されておらず、その図式を用いて外界を構成させることになる』(p.308 9行目-11行目)

結論として

『こうなると、一方のこの抽象的概念と他方の諸感覚のあいだに、もはやか可能的な連絡が見つけられないとしても、驚くことがあるだろうか』(p.308 11行目-12行目)

となる。以下、この段落の結論である。引用しよう

『しかし、本当のところは、空間はわれわれの外にあるのでも内にあるのでもないということであり、空間は諸感覚の特権的な一集合には属してないということである』(p.308 12行目-14行目)

『《すべての》感覚が延長を分有しており、すべての感覚が程度の差はあれ深い根を延長に張っている』(p.308 14行目-15行目、《》内はテキスト傍点つき)

『そして、通俗的な実在論の諸困難は、諸感覚相互の親戚関係が根こそぎにされて、無際限で空虚な空間の形で脇に置かれてしまったので、いかにしてこれらの感覚は延長を分有し、いかにしてそれらは互いに対応し合っているのかがもはやわれわれには分からなくなったことに由来している』(p.308 15行目-p.309 2行目)


第八段落(p.309 3行目-11行目)を見てみよう

ここは短い段落で、文のつながりを考えてごく簡単にまとめて次の第九段落を見てみたい。そのほうが理解しやすいと思われるからだ。

内容としては、以下の最初の一文に尽きると言える。すなわち

『われわれの感覚はすべてある程度は伸張的であるとの考えは、現代の心理学にますます浸透している』(p.309 3行目-4行目)

という、当時の心理学的裏づけである。参考文献として(15)、(16)とあげられるのは、章末にあるように、それぞれ、ウォード「大英百科事典の項目、心理学(art.Psychology de l'Encyclop. Britannica)、W.ジェームズ『心理学原理』(Principles of Psychology,t.II,p134 et suiv.)である

あるいは、こうも言っている

『より注意深いある心理学は反対に、すべての感覚を元来伸張的なものとみなす必要性をわれわれに明かしているし、おそらくは今後次第にはっきりとそれを明かすことになるだろう。ただ、触覚的延長、さらにおそらくは視覚的延長の高度な強度と有用性を前にして、その他の感覚の延長は色あせ、消え去ってしまうのだ』(p.309 8行目-11行目)

以上、第八段落を簡単にまとめた


次に第九段落(p.309 11行目-p.311 6行目)を見てみよう

この段落でこの節『延長と伸張性』は終わる。読者にはもうほとんど『延長と伸長性』について、ベルクソンの言いたいことはお分かりであろうが、多少長い段落でもあるので、少し丁寧に解説をしてみたい

(筆者注: ただし、この節では第一段落で二通りに解釈できる部分についての問題は解決していない)

まず、ここまでの議論を受けてこう始まる

『このように解されれば、空間はまさに固定性と無限可分性の象徴である具体的な延長、すなわち感性的諸性質の多様性は空間の中にはない。われわれが多様性の中に空間を置くのである。空間とは、現実的運動がその上に措提されるところの土台ではない。反対に現実的運動のほうが自らの下に空間を置くのである』(p.309 12行目-p.309 15行目)

ここでは、前段落最後を受けて初めに、『具体的な延長、すなわち感性的諸性質の多様性は空間の中にはない。』と述べている。われわれは、『延長』によって『空間はまさに固定性と無限可分性の象徴である』ように思いまた、そのような『空間の中に』延長があるように思い、『現実的運動』もその中で行われているように思い(『その上に措提されるところの土台』の部分)がちである。しかし、この第四章の第三節、第四節でも見てきたように、われわれにとってすべては一度きりの出来事であり、『反対に現実的運動のほうが自らの下に空間を置く』という考え方の方が実は正しい

以下、しばらくは、われわれがなぜ、『無際限』で『等質的な空間』によって運動や物質を推し量ろうとするのか、そして、この錯覚こそが、精神と物質を分ける二元論の過ちの元になっているということが説明される。しばらく、引用しよう

『しかし、われわれの想像力は、とりわけ表現の便利さや物質的生活の諸欲求に心を奪われているので、諸項の本来の順序を逆転させることを好む』(p.309 15行目-17行目)

『その外見上の固定性がなによりもわれわれの低位の諸欲求の不変性を映し出している、すっかり構築された不動のイマージュの世界のなかに、われわれの想像力はみずからの支点を探し求めることになれているので、この想像力は、動性よりも前に静止を信じ、静止を目印にし、静止のうちに安住し、要するに、空間が運動に先立つのだから、運動のなかにももはや距離の変化だけを見る事を余儀なくされる』(p.309 17行目-p.310 4行目)

それゆえ、『距離の変化に運動を押しつける』ことで『数々の位置を固定する』ような『軌道』という分割可能でな『線分』を、『運動』と同一視し、さらには、『運動』が『軌道』という『線分』が感性的諸性質をすっかりうしなっていることと同様に、『運動』も『性質を欠いていることを望むだろう』(p.310 4行目-8行目)

くどいようだが、ここまでをもう一度説明すると、これまでにも議論してきたように、生物においての『低位の諸欲求の不変性』が、すなわち、われわれをして、われわれに共通の

 1.『すっかり構築された不動のイマージュの世界』を想定し
 2.そこに『みずからの支点』というもの設定する

ということ想像させる。この想像力によって、すべてに先立つ『空間』を想定し、静止した『支点』という考え方に慣れたわれわれは、さらに、『運動』よりも『静止』を優先するものとし、『運動』も『静止』という点に置き換え、点をつなぎ合わせた『軌道』という線に『運動』を置き直し、この『感性的諸性質』を持たない『軌道』を『運動』と同一視する、という転倒が起こる

これは本末が転倒している『表象』であるわけであるから、『われわれの悟性がこの考えのうちに矛盾しか見いだせないとしても、驚くことがあるだろうか』ということなる(p.310 8行目-10行目)

以下、同様のことが、『数々の運動と空間を同一視したのだから、これらの運動は空間と同様に等質的であると思われる』(p.310 10行目-11行目)ということから展開されるのだが、その部分を簡単に説明すれば、運動には距離と速度の差違しか見ないので性質は消滅され

『そうなるともはや、運動を空間のなかに、諸性質を意識のなかに押し込め、仮定からして決して結びつき得ない併行する二つの系列のあいだに不可解な対応を打ち立てるだけである』(p.310 13行目-15行目)

このあとに起こることを、ベルクソンの詩的な表現をそのまま引用して説明することにしよう

『意識のなかに投げ返された感覚的諸性質は延長を取り戻すのに無力なものと化す。空間、それも、唯一の瞬間しか存在せず、すべてが絶えず再開される抽象的な空間のなかに追いやられた運動は運動の本質そのものである現在と過去との連帯を放棄する』(p.310 15行目-p.311 1行目)

『そして、知覚の二つの要素である性質と運動は、等しく不分明さに包まれているので、自己閉鎖的で空間とは無関係な意識が空間のなかで起こることを翻訳するような知覚の現象は不可解な神秘となっている』(p.311 1行目-3行目)

以上が、以前にも説明された『運動』を『直接的な認識から覆い隠す象徴的形式化(figuration symbonique)』(p.268 2行目-3行目)の説明になるだろう

しかし、『持続』を想定し、『空間』よりもむしろ『時間』において、『運動』や『物質』をありのまま見る、という方法を用いることで、論理的にも心理学的にもそのような転倒は起こらなくなるのがこれまでのベルクソンの主張であったはずだ。では、一応、この段落の最後、そしてこの節の最後の部分を引用してすることで、ここまでの解説の結びとしよう

『 —反対に、解釈あるいは測定に係わる一切の先入観を斥け、直接的な実在と対面(face à face)してみよう。われわれは、知覚と知覚される事物のあいだ、性質と運動のあいだに、乗り越えがたい隔たり、本質的な差違、真の区別さえもはや見出すことはできない』 (p.311 3行目-6行目)

以上、第九段落を解説した。また、以上をもって第五節『延長と伸張性』の解説としたい


なお、この節の最後まで、この文初めの自由についての記述や、第一段落での二通りに解釈できる部分の謎について、触れられていません。これらのことについては、第六節の終わりの方でまとめて触れることになります。これは、第五節、第六節でこの本のすべての内容をまとめるに及んで二つの節に分けられており、この書でよくあることですが、ベルクソンはその内容を節ごとに明確に区切っていないということのためであります。読者の皆様にはご不便不自由を強いることになり、大変申し訳ありませんが、もうしばらく御寛宥を頂きたくお願い致します

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