第四章 『イマージュの残存について - 記憶と精神』 第四節『持続と緊張』

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは第四章第四節「持続と緊張」(p.287 8行目-p.298 15行目)の内容を解説したものです。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています

もともとは、ブログ版の記事を加筆修正したものとなります


ここでは、『物質』の『直接的な認識』をするための4つの定式化のうち、最後のひとつが書かれています。しかし、それは、前書きに相当するこの節の第一段落において説明されており、節自体の内容は『直接的な認識』についての総合的な説明と同時に、タイトルにあるようにベルクソンの重要な概念である『持続』と『緊張』について書かれています


まず、第一段落(p.287 10行目-p.289 7行目)を見てみよう。ここではこの説の前書きとして『物質』の『直接的な認識』の定式化のための第四番目の方法が書かれている。これまでと違い、段落の最後(※)にそのことが述べられているのは、ある種のレトリックもあるだろうが、すぐに述べたのではこれまでの三つの方法と違い、かなり違和感をもたれるというという配慮からだろう

(※筆者註:第三節ではこの定式化の方法が説明の段落の前に入っているのでそれを含めた形で一つの段落としているが、この第四節では説明の後に定式化の方法が述べられている。これまでのように意味的なまとまりから考えて、最後の定式化の方法までを第一段落とした)

その他、これまでも、ベルクソンは前節の主題を説明しながら内容をその節ではまとめず、次の節において補足しながら次の主題へ徐々に内容を移行するという手法も多く取っている。ここでもその手法がレトリックとして取られていると考えることも可能だろう

さて、その前書きに相当する部分のあとの内容はこうまとめられるだろう。前節第三節の最後で『すでに、心理学的分析は、この不連続性がわれわれの諸欲求と関係していることをわれわれに明らかにした。どんな自然哲学も最後には、不連続性が物質の一般的な諸特性と相容れないのを見出すようになる』(p.286 6行目-p.286 8行目)とあったことを受けて、科学においても電磁力や力線を束線というかたちで計算を『図形化〈シェマティゼ〉』(p.286 10行目、〈〉内は振り仮名、以下同様)して『形象〈フィギュール〉』(p.286 11行目)し、その運動自体を直感でとらえようとしているところから、最後にはベルクソンの主張と違和感がなくなるだろうということが書かれている。特に抜粋して引用すると

『それらは、具体的な延長を通して歩むことで、《変異》、《攪乱》、《張力》あるいは《エネルギー》の変化をわれわれに示しているのであり、他の何物も示してはいない。これらの象徴は、われわれがまず運動について加えた純粋に心理学的な分析と合致しようとする(以下省略)』(p.287 15行目-p.288 2行目)

こうして、ベルクソンはその最後の定式化の方法を述べる

Ⅳ-《現実的運動はひとつの事物の移送というよりも一つの状態の移送である》 (p.288 8行目、《》内はテキスト傍点付き)

このことは、ベルクソンが第三節でも、われわれの考える物質が在るということは、物質は物理法則に支配されてその状態を常に更新している、と述べていることからもわかるだろう。ここでは、その考え方の厳密さがやや緩んで、ある物質の運動は、ひとつの独立した状態であると考えているように思われるが、これは、これまでも、例えば同じく第三節で見てきたように、あくまでわれわれの常識に合わせたものであることは言うまでもないだろう。本来的な厳密さで考えれば、その一つの状態ということはあくまで相対的であり、その物質の状態も物理法則によって変化し続けているわけであろう。つまり、この記述は、われわれの常識を主体に本来の物理学的な法則に支配されたこの物質宇宙の遷移を取り込んだものとも考えられる


では、第二段落(p.288 8行目-p.291 16行目)を見てみよう

まず、最初の部分を引用しよう

『以上4つの命題を定式化することで、われわれは実を言うと、性質もしくは感覚と運動という、互いに対立させられた二つの項の間の隔たりを徐々に埋めただけだった』(p.288 8行目-9行目)

とある。第四章が始まってこの記述に至る経緯をごく簡単に振り返るならば、『物質』に対する『直接的な認識』を行う四つの方法が示されることになった。なぜこのような方法が具体的に提示されるようになったか、というのは、以下に示した第二節の引用文にある通りである。引用文は、ややあいまいで少し長いが思い返すきっかけにはなるだろう。以下、読みやすさを考えて一続きの文章を三つに分割して引用している

『なかでも、具体的で連続的で、多様化されると同時に組織化された延長〈筆者註:延長とはデカルト哲学用語で物質の性質のうち測量できる属性のこと〉については、その延長が、その基礎に横たわる無定型で不活性な空間と連帯しているという点に異議を唱える』(p.267 7行目-9行目)

『この空間とは、われわれが無際限分割する空間で、その空間において、われわれは恣意的に数々の図形を切り抜くのだが、運動そのものは、われわれがほかの場所で言ったように、多数の瞬時的位置としてしかそこでは現れえない。というのも、そこで過去と現在の結合を保障しうるものは何もないからだ』(p.267 9行目~14行目)

『したがって、延長から抜け出ることなしにある程度は空間から開放されうるだろうし、そこには直接的なものへの回帰があるだろう。というのもわれわれは空間を図式〈シェーム〉のごときものとして思い描くだけなのに対して、延長についてはそれを本当に知覚しているのだから』(p.267 14行目-16行目、〈〉内テキストフリガナ)

となる

さて、読者にはここで十分と思われるかたもいらっしゃるかもしれないが、もう少しだけさかのぼってみたい。第一節を見てみよう。こうして『感覚と運動の隔たり』を『埋め』る行為の下心に『直感にその最初の純粋さを取り戻させる』(p.264 2行目-3行目)ということがあったのだが、それは『《事実》』(p.261 13行目、《》内はテキスト傍点つき)に対する『経験論』と『独断論』(これらはたとえばp.262 5行目参照)の問題点を次のように解決することにあっただろう。以下、一続きの文章であるが、読みやすさを考えて4つに分けて引用している

『それは、経験の源泉へと経験を探しに行くこと、というよりもむしろ、経験がわれわれの実利の方向に屈折しながら、まさに人間的経験の曲がり角の向こうへ経験を探しに行くことであろう』(p.263 11行目-13行目)

『カントが論証したような思弁性理性の無力は、おそらく結局は、身体的生のある必要性に屈服した知性、われわれの欲求の充足のために解体せねばならなかった物質に対して行使される知性の無力でしかない』(p.263 13行目-16行目)

『諸事物に対するわれわれの認識はそのとき、もはやわれわれの精神の根本的な構造に対して相対的なのではなく、単にわれわれの精神の表面的で後天的な諸習慣、われわれの精神がその身体機能と下位欲求から受け継いでいる偶然的な形態に対してだけ相対的なのだろう』(p.263 16行目-p.264 2行目)

『認識の相対性はそれゆえ決定的なものではないだろう。これらの欲求が作ったものを壊すことで、われわれは、直感にその最初の純粋さを取り戻させるだろう。そして、われわれは現実〈レエル〉との接触を回復するだろう』(p.264 2行目-4行目、〈〉内はテキストフリガナ)

つまり、これが前節第三節のテーマでもあったことがここまで振り返ってようやくわかってくる

他にも、上の引用のすぐあとに続く、第三節『従うべき方法』第一段落の最初の部分には、例えば次のようなことが書かれていた

『われわれが経験の《曲がり角》と呼ぶものに身を置いたとき、《直接的なもの》から《有用なもの》へのわれわれの移行を照らしながら、われわれの人間的経験の黎明に位置する生まれつつある微光が利用された時、この時にも、そのようにわれわれが現実〈レエル〉の曲線に見出す無限小の諸要素を用いて、それらの後ろ、暗闇の中に広がる曲線そのものの形を再構成する課題が残される。』(p.264 9行目-14行目、筆者注:《》内はテキスト傍点付き、〈〉内はテキスト フリガナ)

だいぶ長くなったが、もう少しだけ遡ってみたい。そうするとき、この『物質と記憶』の本質的テーマに行き着くことになる。すなわち、『魂と身体との結合の問題』(p.257 16行目)であり、この二元論について、ベルクソン自身が次のように述べていたことを思い出していただきたい

『しかし、まさにわれわれは二元論を極端にまで押し進めたがゆえに、われわれの分析は二元論の矛盾した諸要素をおそらく分離したのである。一方で純粋知覚の理論、他方で純粋記憶の理論はそのとき、非延長と延長、質と量の歩み寄りのための数々の道が準備されるであろう』(p.259 13行目-16行目)

このあと、『純粋知覚』と『純粋記憶』が検討される。その部分のまとめとしては

『ところで、一切の具体的な知覚は、どれほど短時間のものと想定されようと、すでにして、相次ぐ無数の「純粋知覚」の記憶による総合であるとすれば、感覚的諸性質の異質性は、われわれの記憶におけるそれらの収縮に由来し、客観的な変化の相対的な等質性は、それら本来の弛緩に由来すると考えてはならないだろうか』(p.261 3行目-7行目)

『その場合、量と質との隔たりは、《緊張(tension)》なるものの考察によって小さくされうるのではないだろうか。延長と非延長の隔たりが、伸張性[外的緊張](extention)なるものの考察によって小さくされたように』(p.261 7行-9行目、《》内はテキスト傍点付きとイタリック)

ということであった

この部分は難解であるので、第一節の解説を引用すると、一つ目の引用の部分(p.261 3行目-7行目)はこう解説した

「一方で、『一切の具体的な知覚は、どれほど短時間のものと想定されようと、すでにして、相継ぐ無数の「純粋知覚」の記憶による総合であるとすれば』、すなわち、それらは、さまざまな性質の『知覚』が記憶を照会・照合するる手がかりとなり、最終的には比較的ごく少数の記憶にある『物質』として特定される、という考えが正しいとすれば、第三章で見てきたように、『感覚的諸性質の異質性は、われわれの記憶におけるそれらの収縮に由来』すると考えられるだろうし、『客観的な諸変化の相対的な等質性は、それら本来の弛緩に由来する』と考えてはいけないだろうか、とベルクソンは言う。(p.261 3行目-7行目)これらのことは、記憶の『収縮』が明らかに端数を切り捨てることに相当するだろうし、『弛緩』とは記憶の細部までを詳細に検討し、違いを重視するということに相当するだろう。小さな違いを切り捨てることで、その相違、例えて言えば境界線はより太く強いものになっていくだろうし、小さな違いまで区別するようになれば、一つ一つの事物や事象はそれぞれにおいてすべて独立となり相対的に等しいものとなるだろう。いわば、前者は国籍という観点で、日本人と中国人というような区別の仕方で考えるのに対し、後者は、一人一人はそれぞれに独立した人間である、と言っているようなものであろう」

また、二つ目の引用文に出てくる『緊張(tension)』や『伸張性[外的緊張](extention)』のうち『伸張性[外的緊張](extention)』は、この前の第一節第六段落(p.259 17行目-p.260 8行目)を振り返らなければいけない。その解説の要点を抜き出せばこうなる

「このように、『脳の状態を知覚の条件ではなく行動の始まり』と考えることで、結果的に『《知覚された》諸事物はわれわれの知覚の性質を共有する』(p.260 3行目-4行目、《》内は筆者註)とみなすことができる。こうして『物質的延長』は『知覚』されることによってすなわち『われわれの表象の不可分な伸張性』(p.260 5行目-6行目)という性質を持つということになるだろう

『ということはつまり、純粋知覚についてのわれわれの分析がわれわれに、《伸張性》(extension)の観念のなかで、延長と非延長とのあいだの可能的な歩み寄りを垣間見させたのである』(p.260 6行目-8行目、《》内はテキスト傍点つき)

これは、すなわち、『非延長』である感覚(ここでは、知覚を受け取った精神の一状態と考える)は、物質の属性としての『延長』ではなく概念的な『伸張性』によって『延長』を理解するような『可能的な歩み寄りを』ベルクソンの説では説明できる、と述べているのであろう」

こうして、そもそもにおいて、『緊張(tension)』は、『伸張性[外的緊張](extention)』が『延長と非延長の隔たり』を埋めるように、『質と量』の隔たりを埋めるものであるという主張であったここで改めて強調したい。というのも、この節のタイトルが『持続と緊張』となっていることからもわかるように、『緊張』はこの節における重要なキーワードであるからである。このことが、第四章を振り返ることにここまでスペース裂いた大きな理由のひとつでもあることを、読者諸氏におかれては、十分ご納得いただけるだろう

なお、上記引用文のあと

『この道に入り込む前に、われわれが適用しようとしている方法の一般的原理を定式化しておこう』(p.261 10行目-11行目)

とあり、この第四節第一段落までがそれに相当し、その部分が終了したために、ここから改めて『緊張(tension)』について考察されていると考えるべきなのだろう

さて、ここまで説明すれば、第一節で言われていた『質と量』の隔たりを埋める『緊張』が、『感覚』と『運動』の隔たりを同じく埋めるその『緊張』であるということはお分かり頂けるだろう。

この『緊張』とは、『持続』のなかで『連続』である『運動』を言わばアナログ信号からデジタル信号への変換で行われているサンプリングのようにして『感覚』に翻訳するということをベルクソンは以下述べている。また、このことが、一度しかない『持続』の中で『質』と『量』を結びつける橋渡しをしている。「アナログ信号からデジタル信号への変換で行われているサンプリングのように」というのは、決して比喩的なものの言い方でもなく、実際にそのようなものだと述べている。それでは、少しずつ見ていくことにしよう。(以下、アナログ信号からデジタル信号への変換のことをA-D変換と呼ぶ)

まず、『感覚』と『運動』について全く異なるものとして対比させている部分がある

『諸性質は互いに異質的で、諸運動は等質的である』(p.288 10行目-11行目)

『諸感覚は本質的に不可分で測定から逃れられるが、諸運動はつねに分割不可能で、方向と速度の計算可能な差異によって区別される』(p.288 11行目-12行目)

『運動はわれわれと無関係に空間のなかで実行されるのに対して、諸性質は感覚の形でそれらを意識のなかにおくことが好まれる』(p.288 12行目-14行目)

『これらの運動は、互いに合成しあっても、運動しか与えられないであろう』(p.288 14行目-15行目)

さて、『感覚』と『運動』このように異質であるにも関わらず、『運動』を様々な『感覚』へと翻訳し、今度は『運動』を『感覚』で覆うことで把握しようとするであろう。しかしながら、その実際の仕組みを考えていくと、ここまで述べてきた『直接的な認識』の『四つの方法の定式化』はこの段落の最初に述べられていたように、『感覚と運動』の『隔たりを徐々に狭めただけであった』。途中、この章を振り返った部分が長くなったので改めてその部分を引用すれば次のようになる

『以上4つの命題を定式化することで、われわれは実を言うと、性質もしくは感覚と運動という、互いに対立させられた二つの項の間の隔たりを徐々に埋めただけだった』(p.288 8行目-9行目)

さて、この隔たりを埋めようとする場合に、本質的に問題となっているのは次のようなことだとベルクソンは言う

『問題は、現実的な諸運動が互いのあいだで量の差異しか示さないのかどうか、あるいはまた、それらの運動がいわば内的に振動する性質そのもの ―それらはみずからの現実存在をしばしば数えきれないほど多くの瞬間に区切っている― ではないかということを知ることである』(p.289 5行目-8行目)

この記述はすこし奇異に見えるかもしれない。以下、ベルクソンは、このことについての説明を続けるのであるが、非常に難解であり、その意図するところ、特に『それらの運動がいわば内的に振動する性質そのもの ―それらはみずからの現実存在をしばしば数えきれないほど多くの瞬間に区切っている― ではないか』などという部分など、を理解するにはしばらく、ベルクソンの記述を追い続けることしかないように思われる。読者諸氏もおそらく、途中、その真に意味するところをご理解いただけないのではないかと思うが、しばし、ご忍耐をいただきお付き合い願いたい次第である

まず、上の引用文をベルクソン説明して言うところ、力学はもともとは質点という『抽象物あるいは象徴』を想定し運動を研究するものであり、それは、『あらゆる現実運動の相互比較を可能にする共通の尺度、公分母にしか過ぎない』(p.289 8行目-9行目を要約)と指摘をする

このあと

『しかし、これらの運動はそれ自体で考察されれば不可分なものであって、それら不可分なものは、持続を占め、前後を想定し、時間の継起的諸瞬間を可変的な性質の糸によって繋ぐのだが、こうした糸はわれわれ自身の意識の連続性と何らかの類似を持たないわけにはいかない』(p.289 10行目-12行目)

『われわれは例えばこう考えることはできないだろうか。見られた二つの色の還元不能性は何よりも、それらの色がわれわれの諸瞬間の一つに実行する何兆もの振動がそこで凝縮するような緊密持続に由来している、と』(p.289 13行目-15行目)

ここまで引用したが、これではなんのことか分からない。もう少し理解できるまで文章を追って行きたいが、その前に、ここまで、『われわれ自身の意識の連続性と何らかの類似性を持』つところの『時間の継起的諸瞬間を可変的な性質の糸によって繋ぐ』その『糸』が、何かという話に発して、『見られた二つの色の還元不能性』が『緊密持続に由来している』という展開になった、と内容をまとめて、さらに引用を続けたい

『われわれがこの振動の持続を引き延ばす、すなわち、より緩慢なリズムでこの持続を生きることができるとすれば、このリズムが遅くになるにつれて、これらの色が褪せ、継起的な諸印象へと圧延されていくのを見ないだろうか。そして、これらの印象は、おそらく依然として彩色されてはいるが純粋震動と渾然一体化する寸前の状態へと益々近づいていくのだ』(p.289 15行目-p.290 2行目)

『運動のリズムが、われわれの意識の諸習慣と一致するほど緩慢なものである場合、 —例えば音階の低音に対して生じるように—、 われわれは、知覚やされた性質が、互いに内的連続性によって結ばれた、反復される継起的な諸振動へ自ずと分解されるのを感じないだろうか』(p.290 2行目-5行目)

まず、先の『二つの色の還元不能性』が『緊密持続に由来している』の例で考えよう。青と赤を分けるものはその電磁波の周波数である。その周波数がわれわれの生きるリズムよりも、あまりにも緊密である(周波数が高い)ので、われわれはそれらを総じて、「青」とか「赤」とかいっているのだろう。後の例で出てきた、低音の弦の振動ならば、『運動』と低周波の音を緊密に結びつけられるだろう

ここで『純粋震動』という言葉について考察してみたい。ここまで、『振動』を物理学的な波の性質を言い表すものとして使われてきている一方で『震動』という言葉は、たとえばp.144 6行目などでは、生体内の信号の伝達というような意味で用いられてきた。しかし、この『純粋震動』の場合、われわれのような生物が外部の信号を内部で処理するある一定のリズムのことであろう。たとえば、人間の目は1秒間に30コマ以上に分解された写真や絵を一度に見る時にそこに描かれたものが動いているとみなす。逆にいえば、このような、基本的な周期以下であればそれぞれ止まっているともみなすということであろう

さて、以前に述べたように、現代物理学において物質の元として説明されるのは量子である。量子は粒子の性質と波動の性質を持つ。波動関数は量子が波であることからそのふるまいを説明するが、波の重なった部分が粒子として実在することも説明している。この場合、青や赤という光を電磁波という振動もしくは波として見た場合、その周期がわれわれの生きるリズムに対し、あまりに短い(周波数としてみれば非常に高い)が故にわれわれはそれを一つの『質』として扱うとベルクソンは説明しているわけであるが、その『質』は元々は『量』(量子のもつ周波数)であろう。要するに、ベルクソンは、われわれの生体の持つリズムすなわち『純粋震動』を、A-D変換で言えばサンプリング周波数に対応させ、そのサンプリングで得られるデータとしては電磁波の周波数もしくはそれと強い相関のあるエネルギーを想定しているわけである(電磁波の場合E=hν、Eはエネルギー、hはプランク定数、νは周波数)

A-D変換やサンプリングということに例えて述べたが、正確には、生体のリズムがサンプリングされる側より早くなければそのサンプリングはできないと指摘されるかもしれない。たしかに、先の電磁波の例ではそうなる。しかしそれは、A-D変換でいうところの「量子化」であり、これは、A-D変換ならばそのときサンプリングしたデータを数値で明確に示すことがデジタル化と言われる所以であるが、われわれの場合はそれを、たとえば、「青」とか「赤」とかという『質』をあらわす言葉すなわち観念として表現するのである

またここで、より多く議論に割かれているのは、『これらの運動はそれ自体で考察されれば不可分なものであって、それら不可分なものは、持続を占め、前後を想定し、時間の継起的諸瞬間を可変的な性質の糸によって繋』げられたものだと言えるだろう。そこがあるいはベルクソンの論理の要となっている部分であると指摘できるかもしれない。つまり、感覚器官の働きはわれわれが一連の『運動』を把握するそのリズムよりも随分早く一瞬(であると言って良いだろうが)で「量子化」し、一般的には言葉あるいは観念やに置き換える訳である。すでに何度も用いている概念であるが、ここで、生体のサンプリング周波数『純粋震動』により『運動』を『時間の継起的諸瞬間』としてそれぞれ捉える働きのことを、あらためて「量子化」のはたらきと区別するため、A-D変換でいうところの「サンプリング」という言葉を使って説明していきたい

以上の私の見解を検証するためにも、さらにテキストを少しずつ引用しながら見てみたいと思う

『通常、震動同士の結びつきを妨げているのは、運動を諸要素 —原子であれほかのものであれ— に繋ぎ止める獲得習慣であって、これらの要素がその安定性を、運動そのものと運動がそこで凝縮される性質のあいだに介在させることになる』(p.290 5行目-8行目)

『われわれの日々の経験はわれわれに動く物体を示すので、諸性質がそこに帰着するところの基礎的な諸運動を主張するためには少なくても微粒子が必要であるようにわれわれには思えるのだ』(p.290 5行目-8行目)

『そのとき、運動はわれわれの想像力にとってはもはや偶発事、一連の位置、諸関係の変化でしかない。そして、運動において安定したものが不安定なものを更迭するというのがわれわれの表象の法則であるので、重要でかつ中心的な要素はわれわれにとって原子であることになり、原子の運動はもはや相継起する数々の位置を結びつけるだけであろう』(p.290 10行目-14行目)

以上の引用文は一続きであるのだが、読みやすさや説明の都合から三つに分けた

まず、一番目の引用文から難解だ。『震動同士の結びつき』というのは、われわれの感覚器官が継時的に行われる各サンプリングごとに得られたデータのことだと仮定してみる。この『結びつきを妨げている』として挙げられているのが、『運動を諸要素(中略)に繋ぎ止める獲得習慣』と指摘されている。言い換えれば『運動』を『持続』として見る働きを妨げているのは、『運動』している物体の『諸要素』(ここでは原子などが挙げられてる)に分けて考える働きだ言ってるのであろうが、これは、わかりやすく『諸要素』を『質点』と考えれば、これまでにベルクソンが主張してきたことに一致する。以下、『これらの要素』が『質点』として考える『獲得習慣』について述べられた部分は、第三節において、『 Ⅲ-絶対的に決定された輪郭を持つ独立した諸物体へと物質を分割することはすべてまがいの人為的な分割である』で説明されたことと重なってくるだろう

二番目の引用文は、このように『諸要素』を『質点』と考えるような一種の『習慣』が逆にわれわれをして『運動』あるいはそれについて力学的に考える場合の法則に『質点』が必要だと思わしめている、と指摘してると考えられる

三番目の引用文は、まず、『そのとき、運動はわれわれの想像力にとってはもはや偶発事、一連の位置、諸関係の変化でしかない。』とあるのは、以上のように『運動』が力学的な法則に支配されているという考え方が、すべての出来事は元々が帰納的な推論によって得られた法則にもとづく繰り返される出来事の一つであるとする、われわれが直感的に把握するすべての出来事は本来一度きりの出来事であるという物事の捉え方とは、本質的に異なる考え方との差を生むということであろう。以下、『諸要素』は物理的な『質点』である『原子』として扱われ、『運動』において最も重要なのはは『原子』の位置変化として考えられるようになるに相違ない、と述べているとまとめられるだろう

『しかし、この考えは、物質が継起するすべての問題を原子に対して蒸し返すという難点を持っているだけではない。また、この考えは、何よりも生の諸欲求に応じているように見える物質の分割に絶対的な価値を与えるという誤りを犯しているだけではない。この考え方は更に、われわれが自身の知覚のうちに、われわれの意識《状態》とわれわれから独立した《実在》を同時に把握するところの過程を近い不能なものにしてしまう』(p.290 14行目-p.291 2行目、《》はテキスト傍点付き)

上の引用文は、あまり難しくないので、『われわれが自身の知覚のうちに、われわれの意識《状態》とわれわれから独立した《実在》を同時に把握するところの過程を近い不能なものにしてしまう』の部分がこの第二段落で説明してきた生体の知覚のA-D変換に相当する働きのことを言っているとだけ言い添えておこう。下の引用文はそのことについてさらに言及している部分である。はじめにある『われわれの直接的知覚のこの混成的特徴、矛盾を具視したかのようなこの外観は、』という部分がやや難解だが、これは、上の引用文で『われわれが自身の知覚のうちに、われわれの意識状態とわれわれから独立した実在を同時に把握する』と記述されているように、われわれの『直接知覚』においては『われわれの意識状態』と『われわれから独立した実在』が混成され、あるときにそれは『矛盾』さえ含んでいるということであろう

『われわれの直接的知覚のこの混成的特徴、矛盾を具視したかのようなこの外観は、われわれが自身の知覚と完全には一致せざる外界を信じることの重要な根拠である』(p.291 2行目-4行目)

というように展開され、ここまでベルクソンの『純粋震動』や『運動』から『感覚』への翻訳の説明をA-D変換にたとえた説明は一応は矛盾がないように思える。ただし、ここには、われわれの『意識状態』、言い換えれば一種の主観のようなものも含まれていると、上の引用文は主張しているように思われる

さて、以下

『感覚は運動の意識的翻訳でしかないのにその感覚を運動と全く異質的なものとみなす学説では、この根拠が見誤られているので、この学説はそれが唯一所与とした諸感覚だけで満足しなければならないだろうし、諸感覚に運動を付加してはならないように思われる』(p. 291 4行目-7行目)

と続き、『このように解された実在論は自壊する』(p.291 8行目)と強い指摘をしている

それでは、この後の部分を引用、解説してこの第二段落の解説を終わることにしたい。以下の引用は、『感覚』は意識されている以外も(無意識においても)把握されており、その単位がこれまで述べられてきた『直接的な直感』で把握される『運動』を一つの単位としているだろうということである。正確に言えば、『持続』の単位を『直接的な直感』の『運動』として考えようとするとき、そこに含まれる『感覚』というのは膨大であり、そして『生きて振動している』ということが述べられている

『結局のところ、われわれに選択の余地はないのだ。感性的諸性質には多少なりとも等質的な基体があるというわれわれの信念に根拠があるなら、あたかも感覚が気づかれつつも認知もされていない細部に及んでいるかのように、《性質そのもののうちで》、この感覚を乗り越える何かをわれわれに把持させ見抜かせるのは、一つの《行為》によってでしかありえない。感覚の客観性、言い換えるなら、与えるより多くを感覚が有しているその余剰は、われわれが予感させていたように、感覚が言わばその繭の内部で実行している膨大な数の運動のうちにまさに依存するだろう。感覚は表面では不動のまま広がっているが、深部では生きて振動しているのである』(p.291 9行目-16行目、《》内はテキスト傍点付き)

以上、第二段落を解説した


第三段落(p.291 17行目-p.292 16行目)を見よう。ここでは専ら機械論を引き合いに出してベルクソンの『質と量』の隔たりを埋める理論についての裏付け、強化行われている。なかなか興味深いので比較的短い段落ではあるが、少し念入りに解説したい

まず、ベルクソンがこう指摘しているところをもう一度考察してみよう

『実を言えば、誰も量と質の関係をこれと別の仕方で表象していない』(p.291 17行目)

先にも書いたが、ベルクソンは二元論の『質と量』の隔たりを埋める『緊張』について、『感覚』と『運動』の隔たりを狭めさらにそれを埋める『緊張』について、前の第二段落の説明で触れたことを改めて思い出していただきたい

ベルクソンはこう続ける

『見られている実在とは別の実在を信じることは何よりも、われわれの知覚の秩序がわれわれにではなくその存在の実在に依存しているのを認めることである。それゆえ、ある決まった瞬間を占めているわれわれの知覚の全体のなかには、次に続く瞬間に行われるであろうことの理由が存在していなければならない。そして機械論は、それが物質の諸状態は互いに演繹することができると主張するとき、この信念を明確に定式化しているにすぎない』(p.291 17行目-p.292 5行目)

この部分を言い方を変えて説明すれば、特に『機械論』にとって『実在』はすなわち『物質の諸状態』であり、特に物理的因果関係を持って『演繹できるもの』として『見られている実在とは別の実在』として存在しているはずである。したがって、『われわれの知覚の秩序はその存在の実在に依存している』ことになるし、逆に言えば、『ある決まった瞬間を占めているわれわれの知覚の全体のなかには、次に続く瞬間に行われるであろうことの理由が存在していなければならない』ということになるだろうか。これは、『機械論』のみならず、ベルクソンの主張もそうであるし、『見られている実在とは別の実在を信じること』全般に起こることだと主張されている

このような演繹は『感性的諸性質の外見的な異質性のもとに、等質的で計算可能な諸要素が見つけられる場合にしか可能ではない』(p.292 5行目-8行目)ということをベルクソンも認めながら、次には

『しかし他方で、これらの要素が、諸性質の規則的秩序を説明しなければならないのに、諸性質の外部にあるとするならば、これらの要素はそれに求められている務めをもはや果たすことはできない。というのは、諸性質はそのとき一種の奇跡によってしかそれらの要素に付け加えられないし、これらの要素に対応するのは予定調和によってでしかあり得ないからだ』(p.292 7行目-11行目)

と述べている。この部分は、『これらの要素が、諸性質の規則的秩序を説明しなければならないのに、諸性質の外部にあるとするならば』という点からライプニッツのモナドを念頭に置いていると思われる。このあと『予定調和』という言葉も出てくることからもそれと理解できる。ここでは、それらの内容に触れることはせず、モナドという考え方を否定し、それに伴いまた『予定調和』についても認めていないということだけ述べておきたい

このあと、ベルクソンはこの節の第二段落の最後の部分の主張を以下言葉を変えて繰り返す。つまりは、絶えず行われている感覚の『量』を『質』として受けとる『運動』は、生きた『内的震動』のかたちでわれわれの肉体の器官で行われていなければならず、『こららの震動は、それらが表面上そう思われているほど等質的ならざるもの』すなわち、『等質的で計算可能な諸要素』が『感覚器官』により『内的震動』すなわち神経の信号となったとき『表面上』は『内的震動』として似通ってはいるだろうけれども、『感性的諸性質の異質性』を含み、あるいは、『これらの性質は表面上そう思われているほど異質的ならざるもの』すなわち『感性的諸性質の異質性』はあくまで物理現象であるという意味で、それが『内的震動』になった場合においても『等質的で計算可能な諸要素が見つけられる』ということになるだろう。この場合、下引用文にあるような『必然性』にその『二つの項の様相的差異』を『振り当てなければならなくなる』とベルクソンは主張し、この段落を終えている(以上、p.292 11行目-14行目をまとめて解説した)

『あまりにも短くて、そのなかに瞬間をもはや区別できないような持続のなかに、いわば無際限なこの多様性が凝縮せねばならないという必然性に』(p.292 14行目-161行目)


第四段落(p.292 17行目-p.293 7行目)を見よう。ここでは、『純粋震動』と以前言われたものと等しいと思われるわれわれの人間の生態的なリズム(A-D変換でいうところのサンプリング周波数)の周期が単独で五百分の一秒程度であるということ、そして、それに対したとえば赤い色の周波数は一秒間に四百兆振動するのでそれをひとつの質として受け止める。そのようなことから、『持続』がいわゆる『時間』とは違うということも説明されている

ここは、内容としては難しくない上に実証的である(つまり総合的に見て比較的退屈な内容)であるので、最初と最後だけ引用したい。

まず最初の部分を引用しよう。第三段落の最後を受けてこう始まる。

『この最後の点を強調しよう。われわれは、この点についてすでにほかのところで言及した。ごくわずかな言及ではあったが、とはいえ、われわれはこの点を本質的なものと考えている』(p.292 17行目-p.293 2行目)

『われわれの意識によって生きられた持続は、決まったリズムを持った持続であり、物理学者が語る時間、ある決まった感覚の中に好きなだけ多くの現象を蓄えられる時間とは非常に異なっている』(p.293 2行目-4行目)

まず、ひとつ目の引用だが、『ほかのところで言及した』というのは具体的にどこを指しているのかが難しい。おそらくは、第一章十二節での議論を指しているのだろう。そこでは、たとえば、以下のようなことが指摘されていた

『宇宙についてのわれわれの継起的な諸知覚相互の質的異質性は、これらの知覚の各々が持続のある一定の厚みのなかで展開されるということ、記憶は、継起的ではあるがわれわれにはすべて一緒に現れる非常に多くの諸震動を各知覚のなかに凝縮させるということに由来する。知覚から物質へ、主体から対象へ移るためには、時間の不可分なこの厚みを観念の上で分割し、そこに必要なだけ多くの諸瞬間を区別するだけで、要するに一切の記憶を排除するだけで十分だろう。物質はわれわれの伸張的諸感覚がより多くの諸瞬間の上に配分されるかにつれてより等質的になっていくのだが、物質はかくして、実在論が話題としている等質的な諸震動の体系に限りなく近づきながらも、実際、等質的な諸震動と決して完全には一致することはない』(p.88 2行目−10行目)

他にこの章の第三節でも持続に関して言及されている部分がある。そのようなところが候補として挙げられるとだけここでは述べて先に進みたい

さて、二番目の引用では、われわれ人間の生体のリズムということに触れられている。はじめに書いたように、A-D変換のサンプリング周波数のようなもので、単発では分解能が最大五百分の一秒ということを、『エクスナー[Sigmund Exner, 1846-1926,ウィーンの生理学者心理学者。ブリュッケの後任』([]内は訳注。テキスト中にある訳注にあるの文献番号は[25](すなわち、Pflilger7s Archiv, VIII, 1874, P256))ということなどが述べらている

簡単に言うなら、赤色光線の振動数が毎秒四百兆であること。これを、万が一、五百分の一秒の生体のリズム(ベルクソンの言葉で言えば、『われわれの持続』)で展開すれば、『われわれの歴史の二百五十世紀以上をも占める』(p.294 1行目-3行目)ということなどを述べた後、この段落は次のように結ばれている。

『ここでは、われわれ自身の持続と時間一般とを区別しなければならない。われわれの持続、われわれの意識が知覚する持続において、ある一定の間隔は限られた数の意識的現象しか含むことができない。この中身が増大する、とわれわれは考えるだろうか。そして、われわれ無際限に分割可能な時間について語るとき、われわれが考えているのはまさにこの持続なのだろうか』(p.294 2行目-7行目)


第五段落(p.294 8行目-p.295 12行目)を見てみよう。この段落は第四段落の内容を受けての考察が引き続き行われている。まず、無際限に分割できる空間と持続を対比させて、持続は空間とは違い無際限に分割することができるわけではないという。そうして、それらは、これまで、われわれの生体のリズム、あるいは、感覚が運動をサンプリングするためのと考えてきた持続とはまた別のいわば、『自然のなかに感じ取っている』(p.295 10行目)ような持続が提議されている。

まず、段落の前半部分(p.294 8行目-15行目)は空間が無際限に分割されることが説明されている。それはそれは『定義からしてわれわれの外側にある』(p.294 9行目- 10行目)というのがベルクソンの主張であるが、その他のこの部分の説明は省略し、最後の一文だけを引用することにしよう。

『そう、空間は結局のところ無際限な可分性の図式《シェーム》でしかないのだ』(p.294 15行目)

それに対し、

『われわれの持続の諸部分はわれわれの持続を分割する行為の連続した諸瞬間と一致している』(p.294 16行目-17行目)

つまり、『持続の諸部分』は『持続を分割する行為』によって分割された『連続した諸瞬間』のそれぞれの部分と一致する。それは、『定義からして空間はわれわれの外側にある』であるのとは違い、われわれの『持続』は『持続を分割する行為』そのものが分割されるはずの『持続』をたどることから生じるからである。このことを、先の引用に続けてこのようにベルクソンは表現している

『われわれが、われわれの持続のうちに諸瞬間を固定するのと同じだけ、持続は諸部分を持つ。そして、われわれの意識が、ある間隔のうちに、決まった数の要素的行為しか見分けることができないならば、われわれの意識がどこかで分割を止めるならば、同様に、可分性もそこで止まる』(p.294 17行目-p.295 3行目)

『われわれの想像力がそのまま進み続け、今度は究極的諸部分を分割し、われわれの内的諸現象のいわば循環を促進しようと努めても無駄である。われわれの持続の分割をもっと先まで推し進めようとする同じ努力が、その分だけこの持続を長くするだろう』(p.295 3行目-6行目)

これらの二つの引用の一つ目は、要するに第二章で少し説明したように注意によってわれわれの知覚と記憶の結びつきが何処までも細かくなりうることと同様のことがわれわれの『持続』に起きうること(これは『持続』自体がそのように扱われているから当然でもあるのだが)、二つ目は、そうして、何処までも細かくした『持続』というものは、その分割のための俯瞰が、結局は同じ『持続』を辿ることであるから『われわれの持続の分割をもっと先まで推し進めようとする同じ努力が、その分だけこの持続を長くするだろう』と言っているのではないだろうか

しかし、このような『内的諸現象』である諸『持続』とは違った、『遙かに急速な連続を自然の中に感じ取っている』、そのような『持続』がまた存在することを、この段落の最後にベルクソンは提議する。残りの部分を見てみよう。

『にもかかわらず、われわれは知っている。われわれがかろうじてその現象をいくつか数えている間にも、無数の現象が継起していると言うことを。そのことをわれわれに語ってくれるのは、物理学だけだけではない。諸間隔の肌理〈キメ、フリガナ筆者〉の粗い経験もすでにそのことを見抜かせている。われわれは、われわれの内的な諸状態の連続より遙かに急速な連続を自然の中に感じ取っている。どのようにその連続を考えるのか。また、その容量があらゆる想像を超えているこの持続とは何なのか』(p.295 6行目−11行目)

では第六段落(p.295 13行目-p.296 16行目)を見てみよう。ここでは、前段落の最後の部分を受けて文中の言葉で言えば『真の持続』というものが説明される。それは第四段落までで説明したような生体のリズムとは違う形の持続であると言う

段落のはじめではベルクソンはその『真の持続』とはわれわれの生体の『持続』とも、一般的に考えられているような等質的な『時間』とも違うと述べる。その部分はの内容は、これまでも見てきたことであるから省略して、より核心近いこの部分から引用し解説を始めたい

『実際、持続の唯一のリズムは存在しない。相異なる多くのリズムを想像することができる。より緩慢なものであれ、より急速なものであれ、それらのリズムは、意識の緊張あるいは弛緩の程度を測り示しており、それによって諸存在の系列におけるそれら各々の場所を固定するだろう』(p.295 16行目-p.296 3行目)

ここでは、われわれ個々の意識というものにしても、実際には感覚から受容するときのリズムは、それぞれの感覚器官においても集中の度合いによっても違うだろう、ということを言っているのだろう。さらには

『等しからざる柔軟性を持つ持続をこのように表象することは、われわれの精神にとっておそらく骨の折れることであって、それはわれわれの精神が、意識によって生きられた真の持続を、等質的で独立した時間に置き換える有益な習慣を身につけてしまっているからだ』(p.296 4行目-6行目)

と述べ、この『等しからざる柔軟性を持つ持続』がまた、『意識によって生きられた真の持続』というようにも言い換えている。この段落ではあまりこのことについて強調はされていないが、例えば第二章では

『注意的再認は紛れもない《回路》であり、そこにおいて、外的対象は、それと対照的におかれた記憶が、その数々の想起を外的対象に投影するためにより高い緊張を採用するにつれて、対象そのもののますます深い部分をわれわれに引き渡す』(p.156 8行目-10行目、《》内はテキスト傍点付き)

とあることからも、またこの章でもすで例を上げた、第三章における記憶における『緊張』と『弛緩』の関係があり、『緊張』においては枝葉の部分を切り落として記憶を照合・照会するということがあったこと考えても非常に重要なことであるということを強調しておきたい

さて、上の引用文では、そのことは『等質的で独立した時間に置き換える有益な習慣』のために普段は困難であるが、指摘しながらも、ベルクソンが示した『運動』を『直接的認識』の方法が暗示されているほか、眠っている自分が夢を見ている夢をみたなどという経験は誰にでもあるだろう、という例が挙げられている(p.296 6行目-10行目をまとめた)

この段落の解説の最後はこの段落を締めるベルクソンの文章をすべてを引用してこの段落を終わりたい。なお、この部分の説明はこの後の第七段落で行われる。ここで表現されていることは、前にもすこし触れたが、ここまで、第二章や第三章の例で述べたように『緊張』が高まれば、あるいは照合・照会される範囲が狭まり、あるいは、記憶において枝葉の部分が切り落とされるようなことと同様のこと、引用文では、『歴史全体、われわれの意識よりも緊張したある意識にとっては非常に短い時間のうちに収まるだろうし、この意識は人類の発展に立ち会う際にしても、それを人類の進展の主要な諸状態へといわば収縮させてしまう』ということが、『意識によって生きられた真の持続』によって起こると説明されている。そのあとの『知覚』についてもその議論が及んでいるがやはり『緊張』高まれば記憶に於いて枝葉の部分を切り落とすということと同様のことが書かれ『知覚することは不動化することを意味しているのである』と結論付けられている。そこに至るまでの議論の部分はあまり長くはないこともあるので読者ご自身で確認していただければと思う

『歴史全体、われわれの意識よりも緊張したある意識にとっては非常に短い時間のうちに収まるだろうし、この意識は人類の発展に立ち会う際にしても、それを人類の進展の主要な諸状態へといわば収縮させてしまうのではないか。それゆえ、知覚することは、結局のところ、無限に希釈されたある実在の莫大な諸期間を、より強い生のより分化された諸瞬間へと凝縮させること、こうして非常に長い歴史を要約することとに存する。知覚することは不動化することを意味しているのである』(p.296 11行目-16行目)


では第七段落(p.296 17行目-p.298 17行目)を見てみよう。この段落はこの第四節の最後の段落であり、これまでのまとめとなっている。内容としては、前段落の最後に書いたことである。長かったこの節の解説もこれで終わる。せっかくなのですべてを見てみよう

まず、前段落の最後を受けてこう始まる

『ということはつまり、われわれは知覚の行為のうちで知覚そのものを越える何かを捕らえるのだが、だからといって、物質的宇宙は、それについてわれわれが有している表象と本質的に異なっているのでも、それと本質的に区別されるのでもないのだ』(p.296 17行目-p.297 2行目)

『ある意味では私の知覚はまさに私の内部にある。というのは、私の知覚は、私の持続の一瞬のうちに、それ自体では無数の瞬間に分割されるようなものを凝縮しているからだ。しかし、あなたが私の意識を消滅させるとしても、物質的宇宙はそれがあったままに存続する』(p.297 2行目-5行目)

『物質的宇宙』は、われわれやわれわれの『意識』とは関係なく存在し続ける。しかし、『われわれは知覚の行為のうちで知覚そのものを越える何かを捕らえる』。それは、このあとのベルクソンの説明をすこし先回りして、例を挙げて説明すれば、身近な芸術活動一般においても、たとえば、オリンピックでは各競技をアイコン化したシンボルを見るだろう。あれらのシンボルは各競技の連続した行動をそれこそ象徴的な『知覚』とするようにわれわれを説得する。その様なことを『私の知覚は、私の持続の一瞬のうちに、それ自体では無数の瞬間に分割されるようなものを凝縮しているからだ』とベルクソンは説明し、それを『ある意味では私の知覚はまさに私の内部にある』といっていると考えられるのではないだろうか

このあと、われわれの生体のリズムによる『持続』と『物質的宇宙』は常に交じり合い、ベルクソンのいう『真の持続』へと変わっていく過程が美しく描写される

『あなたは、諸事物に対する私の行動の条件であった持続のこの特殊なリズムを捨象したのだから、これらの事物はそれら自身へと戻り〈筆者注:つまり、物質自体の科学的、客観的な定義へと戻り〉、科学が区別するのと同じだけ多くの瞬間へと区切られるのだが、感性的諸性質はというと、消え去ることなく、比較にならないほど多くの分割された持続の中に広がり溶かされる』(p.297 5行目-9行目)

つまり、われわれの中の『真の持続』の中で震えている生体のリズム、『純粋震動』の『数限りない震動』(p.297 9行目)と変わっていく

『これらの震動はすべて、絶え間ない連続性の中でつながれ互いに連帯しており、いずれもがざわつく震えとして全方位にいきわたる』(p.297 9行目-11行目)

おそらくこれは、ベルクソンの言う『真の持続』の変動するリズムであり、一連の『持続』である『知覚』が記憶となったあとの相互の繋がりというものであろう。ここからは、これまでの『直接的認識』として物質を捉える方法のまとめとなる

『要するに、あなたの日々の経験の不連続な諸対象を互いに繋いでみなさい。次に、それらの性質の不動の連続性を現場での諸震動へ分解してみなさい。これらの運動を下支えする分割可能な空間から身を引き離しつつ、これらの運動に専念し、そうすることで、これらの運動の動性、あなた自身が行う諸運動の中であなたの意識が捉える不可分な行為しかもはや考察しないようにしてみなさい。そうすれば、あなたは、物質について、おそらくあなたの想像力を疲れさせるひとつのヴィジョンを手に入れるだろう』(p.297 9行目-17行目)

『ただし、そのヴィジョンは純粋で、生命の諸欲求が外的知覚の中であなたによって物質に付け加えさせたものから解き放たれている』(p.297 17行目-p.298 1行目)

また、その様なビジョンを得られたあとのこととして次のようなことを述べている

『—それでは、わたしの意識を復元してみなさい。わたしの意識と共に生の欲求を復元してみなさい。非常に間遠に、そしてそのつど、諸事象の内的歴史の莫大な諸期間を飛び越えながらほとんど瞬間的な長めが得られるだろうが、この眺めは今度は生き生きとして色彩に富んで折り、そのより顕著な色彩は無数の反復と要素的変化を凝縮させている』(p.298 1行目-5行目を)

『意識によって生きられた真の持続』というもの、あるいはそれからえられた物体や『運動』の『直接的認識』、これらを反転させて『復元』・再構成させるときに、われわれは歴史を振り返るときのように瞬間的で断片的ではあるが、『この眺めは今度は生き生きとして色彩に富んでおり、そのより顕著な色彩は無数の反復と要素的変化を凝縮させている』ような、『眺め』を手に入れるだろう。これが、先に説明したような芸術一般に言えることであり、身近な例で言えばオリンピックの各競技のシンボルであったりするわけであるが、そのことはこのあとで触れられている

残りの部分は少々長いが、あまり難しいところもないので、この第四節を締めくくるベルクソンの言葉をそのまま引用したい。それは、芸術の始源とも読めるし、われわれの精神の巧妙さに関しての記述だとも読めるだろう。なお、途中『発展の帰結』という言葉が出てくるがそれは、芸術家によって選ばれたような象徴的な表現と考えていただければいいだろう。すなわち、われわれは一般に何かを表象しようとする前に、創造による表現によってその象徴的な意味を教育されているわけである。そして、成熟していくにつれ物事の意味を深く理解していくだろう。そのようなことが書かれていると思って良い

『かくして、ある走者の多数の連続した位置は、象徴的なただひとつの姿勢へと凝縮させられ、われわれの目はその象徴的な姿勢を知覚し、芸術はそれを再現し、この姿勢は万人にとって走る人間のイマージュとなる。それゆえ、われわれが自分の周囲に時々投げかけている眼差しは多数の内的反復と発展の帰結だけを把持しているのだが、これらの帰結はまさにそれによって不連続で、われわれは、空間内の「諸対象」にわれわれが割り当てている相対的な諸運動によってかかる帰結の連続性を復元するのだ』(p.298 6行目-11行目)

『変化は至る所にあるが、それは深みでのことである。われわれは、その性質に関しては安定しているが、と同時にその位置に関しては動的なる諸物体を構成する。われわれの見るところ、単なる場所の変化もそのうちで宇宙の変化を凝縮させているのである』(p.298 11行目-16行目)

以上、第七段落の解説を終わると同時に長かった第四節の解説も終わる

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