第四章 『イマージュの残存について - 記憶と精神』 第三節『知覚と物質』

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは第四章第三節「知覚と物質」(p.268 10行目−p.287 8行目)の内容を解説したものです。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています

もともとは、ブログ版の記事を加筆修正したものとなります


ここでは前節の最後に書いたように、後の段落に含めることにしました。これは単なる解説の都合上ですのでよろしくご理解のほどお願い致します
『物質』の『直接的な認識』をするための四つの定式化のうち三つが書かれていいます。この節の解説でも、段落を基準に解説していきたいと思っていますが、しかし、そのやり方だと、定式化のための方法ごとのくくりがわかりにくくなる可能性があります。そこで、まず、各定式化の方法の三つのまとまりの部分の目次を示し、そのあと、段落ごとの解説を行っていきたいと思います。注意点としては、各定式化方法の主題の記述については、テキストでは段落と同じ扱いになっていますが、一行を段落として扱うよりは直

【第三節『知覚と物質』における物質の直接的認識のための定式化方法目次】

 Ⅰ-どんな運動も、静止から静止への移行である限りで、完全に不可分である 
    …… 第一段落から第五段落:p.268 10行目-p.275 10行目

 Ⅱ-数々の現実的運動が存在する
    …… 第六段落から第十段落:p.275 11行目-p.280 15行目

 Ⅲ-絶対的に決定された輪郭を持つ独立した諸物体へと物質を分割することはすべてまがいの人為的な分割である 
    …… 第十一段落から第十四段落:p.280 16行目-p.287 8行目


【解説】
第一段落(p.268 10行目-8行目)を見よう

まず、物質についての『直接的な認識』のための第一番目の方法が示される。

 Ⅰ-《どんな運動も、静止から静止への移行である限りで、完全に不可分である》  (p.268 10行目、《》内はテキスト傍点付き)

このことについてベルクソンはすぐにこう述べている

『これは仮説ではなく、仮説なるものが総じて覆い隠してしまう一つの事実である』(p.268 11行目)

ここからその詳しい説明が始まる

例として挙がっているのは、われわれが手を動かす運動である。われわれが何気なく手をある場所からある場所に動かす、物理学的に言えば点Aから点Bに動かすとき、われわれの意識はそれをひとつの運動として認識しているのに対し、一方、それを見ている視覚という知覚では空間を無限に分割するように運動を無限に分割して考えてしまう

この例のように、われわれは、運動について上に見たような二つの立場、すなわち、『不可分』と見なすか、『無限に分解可能』な立場かで、運動をとらえようとするだろう、というのが第一段落の主旨であろう


第二段落(p.269 8行目-p.270 12行目)を見よう

しかし、よく反省すれば、実際は視覚的にもある運動は単純にひとまとまりの運動として認識されている。実際にはそこで分割可能だと思われていたことは、運動の軌跡であり、視覚的に見た場合にも運動そのものではないだろう

例えば、静止から運動へ、もしくは、その運動の軌跡が大幅に変わる点については、瞬間の『無限に短い静止』があるように思われるかもしれない。しかしそれは、われわれが運動を再構成するときに必要となる錯覚であろう。運動が運動である限り静止とはまったく違った状態である。そのように運動を分割するのは『想像力の活動』であり、われわれは『運動を知覚する諸感官の所与と、運動を再び組み立てる精神の策略とを取り違えてはならないだろう』(p.270 7行目-9行目)


第三段落(p.270 13行目-p.271 8行目)を見よう

まず、こう始まる

『われわれはここで、現実的運動の知覚に伴い、それを覆い隠している錯覚を、その原理において把握する』(p.270 13行目-14行目)

すなわち、ベルクソンが前節で述べた『運動』に対する『直接的な認識』(p.267 16行目)について『知覚に伴』う『錯覚』についての『原理』を、第二段落で述べたところから考えて次のように述べることができる、と言っていると思われる

まず、『運動は、ある点から他の点へ移ること、したがって空間を通過することに明らかに存している』(p.270 14行目-15行目)。一方で空間は無限に分割可能であり、『通過された空間』は『運動』が『踏破する線』に沿っていわば無限に分割可能な形で貼り付けられている。そのために『運動』もその軌跡である『線』と同様に無限に分割可能だと思われている(p.270 14行目-p.270 17行目)

このようにわれわれは、そのままの『運動』をその軌跡である『線』と混同する傾向があることをベルクソンは指摘する。そのことを

『そもそも、当の運動がこの線を描いたのではなかったか。運動は、その線上に継起的に併置されている諸点を代わる代わる通過したのではなかったか』(p.270 17行目-p.271 2行目)

と述べ、こう続ける

『おそらく、その通りである。しかし、これらの点は、描かれた線、すなわち不動の線の中でしか実在性を持たず、これら相異なる点の各々で運動を表象することによってだけ、あなたは運動をそこに停止させるのだ』(p.271 2行目-p.271 4行目)

これが『錯覚』の『原理』(p.270 13行目)ということになるだろうか。すなわち、その『原理』とは、「『運動』も『無限に分割可能』であるとする『錯覚』は、すでに『不動』のものとなっている『運動』の軌跡が描いた『線』の上でしか『実在性を持た』ない『点』によって『運動を表象すること』で『運動をそこに静止させ』把握しようとすることによる」、ということであろう。以下、ベルクソンの述べるところをこの段落最後まで引用したい

『あなたが相次いで身をおく位置は結局のところ想像上の停止でしかない。あなたは、道のり(trajet)の代わりに、軌道(trajectoire)を用いている。そして、道のりの下には軌道が張られているので、あなたは道のりが軌道と一致していると思うのである。しかし、どうして、《進展(progre's)》が《事物(chose)》と、運動が不動と一致するというのか』(p.271 4行目- 9行目、《》内はテキスト傍点つきとイタリック)


第四段落(p.271 9行目-p.273 2行目)を見ていこう

第四段落は、『持続』という概念の他、『瞬間《モマン》』という概念によって、いかにして、『運動』が分割可能であるという『錯覚』が『容易』に導かれるのか、そして、日本語では同じ「持続」と訳されているが、『持続《アンスタン》』として述べられている概念によってのみ、実際の『知覚』は『運動』把握していないことが説明され、『直接的な知覚』は本来どのようにあるべきものかについて説明される。この段落は内容もやや難しいので、少しずつ見ていくことにしたい

まず、ベルクソンはこのように言う

『ここで錯覚を容易にしているのは、われわれが、運動体の道のり上に複数の位置を見分けるのと同様に、持続の流れのうちに複数の瞬間《モマン》を見分けることである』(p.271 9行目-10行目、《》内はテキストフリガナ)

まず、『持続』について簡単に説明しよう。これはわれわれが考えているいわゆる「時間」のことであるが、ベルクソンは、われわれが一般に考える「時間」と『持続』を区別しており、「時間」は『持続』を「空間」に射影したものと考えている。逆に言うと、『持続』とはわれわれにとって直感的な時間の流れであると言えよう。すなわち、『直接的な認識』による時間の把持を『持続』と言っていると思えばいいだろう。そもそもにおいて『持続』が存在し、「時間」はその空間的射影であるから、『持続』と「時間」の定義が自己言及的なことにはならないことは注意されたい。また、さらにその『持続』の中に『諸感官』による『知覚』を反映させたものが、ベルクソンの言う『運動』の『直接的な認識』と言えるかもしれない

また、『瞬間《モマン》』とあるのは、概念的な瞬間すなわち、われわれが点や線についてその面積が0と考えるような、そのような瞬間の概念なのに対して、『瞬間《アンスタン》』とは、現実の点や線が実際には面積を持つように、いくらでも短くできる時間も実際にはその長さは0ではあり得ない、という考えである。注記しておくと、物理学においては、マクロ物理学でもブラックホールの大きさは0と理論だけでなく現実の宇宙での存在においてもそう考えられているし、素粒子物理学においても、例えば、光子など大きさがない素粒子も存在する。しかし、われわれのような生物がもつ、各々の『持続』、あるいは、少なくてもわれわれの『知覚』においては、大きさを持たないような瞬間というのは、本来的にあり得ない。そのことについては、後に説明がなされるであろう。ただしばらくは、先回りしたり、早急に結論を求めることなく、ベルクソンの述べるところを少しずつ見て行きたい

さて、ベルクソンは、まず、一連の『不可分』な運動があるとして、そこから、運動体がある瞬間にある位置を占め、それがほかのすべての位置から切り離さすことを考えるときに『この持続から、不可分な瞬間《アンスタン》を分離するだけで十分である』(p.271 13行目-14行目、《》内はテキストフリガナ)という言い方をしている。この続きを見ていくと

『運動の不可分性はそれゆえ瞬間の不可分性を含意しているのだが、持続の観念を非常に簡単に分析することで実際、なぜわれわれは持続に複数の瞬間を割り当てるのか、どうして持続は諸瞬間を持つことができないのかがまったく同時にわれわれに示されるだろう』(p.271 14行目-17行目)

と、ベルクソンは言う。上の『この持続から、不可分な瞬間《アンスタン》を分離するだけで十分である』(p.271 13行目-14行目)の部分からこの問題提起の部分まで、非常にややこしいのだが、『なぜわれわれは持続に複数の瞬間を割り当てるのか』という問題と、『どうして持続は諸瞬間を持つことができないのか』という二つのことをこれから説明すると言っている、と考えていいのであろう。言い換えれば、『持続』は複数の『諸瞬間』として分離できない、しかし、われわれは『持続に複数の瞬間を割り当てる』ことを行ないがちである。これらのことを以下、『持続の観念を非常に簡単に分析することで』、『まったく同時に』示される、と言っていると解釈できるだろう。ところで、上の引用文中のふたつの『瞬間』とは『瞬間《モマン》』なのか『瞬間《アンスタン》』なのかはテキストを見る限り不明だが、前者を『瞬間《モマン》』、後者を『瞬間《アンスタン》』と解釈し、以下『瞬間《モマン》』と考えられる時のみ、『瞬間』を『瞬間《モマン》』と記すことにしたい

さて、以下やや長いが、ベルクソンの名文を引用するのが一番良いと考えて引用することにした。分割して解説するのが不可能であるくらいだが、ややもすると名文というのはわかりづらいものでもある。適宜解説を入れながら見てみたいと思う

『私の手がAからBへと移動する時の道のりのような単純な運動があるとしよう。この道のりは私の意識に不可分な全体として与えられる。この道のりはおそらく持続する。が、この持続は、そもそもこの道のりが私の意識に対してとる内的様相と一致していて、この道のりと同じく稠密なものだ』(p.271 17行目-p.272 3行目)

『ところで、この道のりは運動である限り一つの単純な事実として現れているのに、それに対して、この道のりは空間においてはひとつの軌道を描き、私は事態を単純化するためにこの軌道を幾何学的な線と見なすことができる。そして、この線の端は抽象的な限界である限り、もはや線でなく不可分な点である』(p.272 3行目-7行目)

もう少し引用するつもりだが、ここまでを簡単にまとめるとわれわれの手を点Aから点Bに動かすとき、それはひとつの持続として現れ、動かすわれわれの『意識』の『内的様相』もそれに一致するだろう。しかし、この運動の軌跡を見ると幾何学的な線で表され、その終端は点として捉えられる。そのような、混同されやすい二つの事実が、この簡単な運動に含まれている、とベルクソンは言いたいのだ

続きを見ていこう

『ところで、運動体が描いた線がわたしにとって、運動体の運動の持続を測り示しているとすれば、線が達する点はこの持続の端を象徴化しているのではないだろうか。この点が長さとして不可分なものであるとすれば、この道のりの終端も、持続として不可分なものにならざるをえないだろう。線全体が持続全体を表象しているならば、この線の諸部分は持続の諸部分に対応し、線の諸点は時間の諸瞬間に対応せねばならないように思われる』(p.272 7行目-10行目)

『持続として不可分な数々のもの、あるいは時間の諸瞬間はそれゆえ、対称性《シンメトリー》への欲求から生じている。空間に対して持続の全面的表象を要請するや否や、人はおのずとそこに至る。しかしそれがまさに誤りなのである』(p.272 10行目-14行目、《》内はテキストフリガナ)

ここまでで、二つ目の引用文がやや難解だと思われる。その部分を解説すると、『持続として不可分な数々のもの、あるいは時間の諸瞬間』とは、一つ目の引用文に出てくる『持続の終端』について考えることから演繹できるだろう。つまり、『持続として不可分な数々のもの、あるいは時間の諸瞬間』とは、

1.『運動体が描いた線がわたしにとって、運動体の運動の持続を測り示しているとすれば、線が達する点はこの持続の端を象徴化している』
2.『この点が長さとして不可分なものであるとすれば、この道のりの終端も、持続として不可分なものにならざるをえない』
3.『線全体が持続全体を表象しているならば、この線の諸部分は持続の諸部分に対応し、線の諸点は時間の諸瞬間に対応せねばならないように思われる』

という、三つの順番でわれわれは自然と演繹し『持続として不可分な数々のもの』、『あるいは時間の諸瞬間』を、それぞれ、上の3.の『線全体が持続全体を表象しているならば、この線の諸部分は持続の諸部分に対応』させ、『線の諸点は時間の諸瞬間に対応』(この場合の『瞬間』は『時間の』とついていることからも『瞬間《モマン》』)させるということだろう

このようなものをベルクソンは『対称性《シンメトリー》への欲求』と読んでおり、また、このように『終端の端』も『持続において不可分』であることから、それら持続を象徴する『線』や『線が達する点』の性質、すなわち線は無限の点より構成されているという性質だといっていいと思うが、によって、今度は『持続』を象徴する『線諸部分が持続の諸部分に対応し』のであるから、『線の諸点』も『持続の諸瞬間』(この場合は『瞬間《アンスタン》』、『持続の』ということから)に相当するのだと思うことにもなってくる、ということも含意されているだろう

では、この段落の最後の部分を引用し、第四段落の解説の終わりに代えたいと思う。蛇足ではあると思うが、下引用文での『点』が象徴する『瞬間』とは『瞬間《モマン》』のことである。大変ややこしく読者におかれては混乱されることもあると思うので申し訳ない気持ちもする。ぜひ、ご注意願いたい

『線ABが、AからBへと成し遂げられた運動の過ぎ去った持続を象徴化するとすれば、この線は不動であるので、成し遂げられつつある運動、流れている持続を決して表象することはできない。そして、この線が諸部分へと分割できることからできることから、またこの線が点で終わることから、結論として、それに対応する持続が分離された諸部分によって構成されているということも、この持続が諸瞬間によって限定されているということも導いてはならない』(p.272 10行目-p.273 2行目)


この節の第五段落(p.273 3行目-p.275 10行目)は、有名なゼノンの亀とアキレスのパラドックスを初めとする4つのパラドックスについて、この分割不可能な持続(あるいは『瞬間《アンスタン》』)と分割可能な時間(『瞬間《モマン》』)、それは空間と同じように任意に分割可能であるわけであるが、これら二つを混同しているために起こるということを説明している。知的興味のある方は、Wikipediaのほうと併せてお読みになると良いと思う。大変に興味深いのではあるが、ここでは特に、ベルクソンの思想について書かれているわけではないので、省略したい

ここまでで、物質についての『直接的な認識』のための第一番目の方法

 Ⅰ-《どんな運動も、静止から静止への移行である限りで、完全に不可分である》  (p.268 10行目、《》内はテキスト傍点付き)

の説明が終わる


次に、第六段落(p.275 11行目-p.276 2行目)を見てみよう

ここから、

 Ⅱ-《数々の現実的運動が存在する》  (p.275 11行目、《》内はテキスト傍点付き)

の説明に入る

第六段落はごく短い段落だが、簡単に内容を要約すると次の部分に尽きるといえるだろう

『数学者は、常識の考えをより明確に表現することで、目印あるいは軸線までの距離によって位置を定義し、距離の変化によって運動を定義する。それゆえ、数学者は運動について長さの変化しか知らない』(p.275 12行目-p.275 14行目)

要するに、科学や数学にとって、運動は相対的であり、『絶対的な運動は存在しない』(p.276 2行目)

以上が第六段落の説明になる。ここで、もう少しだけ補足したい。要するに科学というのは物事の関係性だけを記述しており、それが法則と呼ばれる。このことは、小林秀雄さんの講演録音を聞いて、大変分かりやすい説明だと思ったので付け加えさせていただいた


第七段落(p.276 3行目-p.277 10行目)から数段落は物理学の進展の話になる。デカルトから始まった物理学が、ニュートンによって絶対的なユークリッド空間での物理法則へと発展していく。これが第八段落(p.277 11行目-p.278 7行目)、第九段落(p.288 8行目-p.279 6行目)と続いていく

この部分は相対性理論が確立される以前に書かれたものであることと、第六段落での説明で科学法則は関係性だけを記述していると小林秀雄の言葉を引いて説明したことを考慮し、第七段落、第八段落の説明は簡略にしたい。第九段落は、それからあとの文章の説明にも関わるのでやや詳しく解説する

概要だけ述べると、デカルトは直交空間(ユークリッド空間)を想定し、その直交空間における運動についての法則を表した(デカルトは現代でいう運動量が保存されると考えてたようだった)。これはライプニッツによりエネルギー保存則として発展するのであるが、その記述(テキスト参考文献番号(3)「哲学原理」)のなかで、すべての『運動』を含めすべての存在は相対的であるとしたのに対して、『運動があたかも絶対的なものであるかのように、運動の諸法則を定式化した』(p.276 13行目-14行目)。以下しばらく引用すると

『この矛盾は単に、デカルトが運動を幾何学者として定義したあとで、物理学者として運動を論じていることに由来している。あらゆる運動は幾何学的である。われわれの考えでは、このことは単に、《動いているのは、運動が関係づけられる軸や点であるよりむしろ運動体であるということを表現できる数学的象徴は存在しない》ということを意味している』(p.276 15行目-p.277 3行目、《》内はテキスト傍点付き)

と続いている。この辺りの議論を、相対性理論が確立し、あるいは、コンピューターシミュレーションがさかん盛んに行われている現代にそのまま持ってくることはできないが、ベルクソンの言いたいことは、いかにして、『直感』により様々な象徴化や概念抜きに『知覚』を『直接的な認識』を行うかであったことを思い起こしていただきたいと思う。つまり、『現実的運動が存在するということに誰も本気で異議をとなれることはできない』(p.277 4行目-5行目)

以上が第七段落の要旨になるだろう


このあと、第八段落(p.277 11行目-p.278 7行目)に入ると、ニュートン力学における絶対座標系の概念について説明される。この段落はこう始まる

『しかし、絶対的な運動があるとすれば、運動のうちに場所の変化しか見ないでいることに固執できるだろうか。その場合には、場所の多様性を絶対的な差異へと昇格させ、絶対的な空間の中に絶対的な位置を見分けなければならないだろう』(p.277 11行目-p.277 13行目)

ここでは、『絶対的な運動』があり、その『絶対的な運動』に『位置の変化しか見ない』とすれば、それには、『絶対空間』、すなわち、『場所の多様性を絶対の差異へ昇格させるような』基準を持つ空間、を想定し、その中で『絶対的な位置』を定めることが必要だろうと言う

つまり、質点などの幾何学的考え方と、実際のものが動いているという考え方を結び付けようとするならば、絶対座標系による、絶対的位置座標を持ち、なおかつ等質的な空間である『絶対空間』という概念が必要になる、ということだ。これが、第八段落の要旨になる

第八段落は短いことと、これからの説明の都合もあり、この『絶対空間』に対して、ベルクソンが批判をしている段落後半部分を引用しておこうと思う。

『ある場所が、他の場所から 絶対的に区別されるのは、その性質によって、あるいはまた、空間全体との関係によってでしかないだろう。その結果、空間はこの仮説において、異質的な諸部分から合成されたものと化すか、有限のものと化すかいずれかである』(p.277 17行目-p.278 2行目)

『しかし、有限な空間に、われわれは障壁としてもう一つ別の空間を与え、また、空間の異質的諸部分の下にわれわれはそれらの支えとして一つの等質的な空間を想像するだろう』(p.277 17行目-p.278 行目)

『絶対空間』のような、特殊な空間を想像しようとすると、異なる『性質』、すなわち、空間全体が『異質的な諸部分から合成されたものと化す』か、『空間全体とのその関係によって』でしか区別できないために『有限なものとと化すかいずれかである』

しかし、『有限な空間』においては、それを閉じている『障壁』が当然存在する。『障壁』は『有限の空間』とは当然、異なるある種の『空間』であり、また、『空間の異質的諸部分』によって合成されている空間のを想定するときに、われわれは、当然、その背景、基礎となるある『一つの等質的な空間』を想像する

こうして、『絶対空間』を想定するためには、結局のところ等質的で無制限な空間を想定せざるを得なくなる。絶対座標系(=絶対静止空間)は、存在自体がその等質的で無制限な空間の、相対的な一部として与えられるだろう。この結果、絶対的な運動というものを想定せざるを得なくなるだろう

以上が、第八段落における絶対座標系という概念へのベルクソンの批判である

以上により、物質そのものによる(いわゆる絶対的な)運動そのものが幾何学的に表現され、相対的な位置関係を等質な空間においてそれぞれの物質が持つという古典力学(=ニュートン力学)的な考え方が確立した側面が説明された、とまとめることもできるだろう

ここで、古典力学とも言われるニュートン力学に対する、現代物理学の相対性理論にも簡単に触れておくことにしたい。Wikipediaの相対性理論の項では、はじめにこのように書かれている(http://ja.wikipedia.org/wiki/相対性理論)

『相対性理論(そうたいせいりろん, 独: Relativitatstheorie)または相対論(英: relativity)は、1905年に発表された特殊相対性理論と1916年に発表された一般相対性理論のことである

両者はいずれもアルベルト・アインシュタインの創始した理論で、互いに、等速運動する座標系の間では物理学の法則が不変な形を保つという原理(相対性原理)と、光速度不変の原理を仮定したときの物体の運動を記述する。前者は慣性系についてのみ記述し、後者は加速運動する系や重力場の効果を含めて一般化した理論である』

また、同じく、特殊相対性理論の項(http://ja.wikipedia.org/wiki/特殊相対性理論)を見ると、この相対性原理と、光速度不変の原理を用いることにより、次のような結論が得られるようになった。(以下、同項目の相対性と光速度の不変の節を引用)


【相対性と光速度の不変】

特殊相対論が力学の法則を再構成することにより、従来無条件に受け入れられていた基本的な概念が大きく様変わりする。

長さや時間は、もはや絶対的なものではなく、どのような慣性系から観察するかによって異なる、相対的なものとなる。

また、絶対静止空間の存在は否定される。この帰結によってマイケルソン・モーリーの実験においてエーテルに対する相対運動が検出されなかった結果をうまく説明することができる。

(引用終わり)

つまりは、相対性理論によって『絶対(静止)空間』の存在が否定されることになった。と、同時に、空間と時間も同様に相対化されることなり、時空という4つの次元が存在することになり、真空中の光の速度だけが絶対的なものとなる。これが慣性系のみならず加速度系や重力の関係する運動全体に言及されるのが一般相対性理論というわけである

さて、簡単に相対性理論に触れたが、これは、観測者に対して光速に近い速さで動いているような物体は時間の進み方が違うという結論が得られることになる。このことから物質の固有時という概念が生じ哲学的問題にもなるのである。ここで、あくまで私見であるが、例えば、宇宙全体の警戒して行く時間とわれわれの各々の時間、それらを観測する慣性系、その整合性をどう捉えるか(ローレンツ変換というものもあるけれども)という相対性理論の本来的な原理から生じる問題を抜きにすれば、のちに紹介する小林秀雄さんが本居宣長の補論で書いたこととあわせて考えて、われわれの体験(持続)は、やはり宇宙の時間の中でそれぞれ唯一無二のものであり、あくまで時間は物理法則の中で空間的に投影された発明(相対性理論では4つの次元として存在すると考えられていようが)であるということには変わりがないと思われる。というのも、われわれは、やはり、等質的で無制限の空間というものを膨張する宇宙の背景、あるいは基礎的な空間として用い、均一な時間が流れて行くような、空間と時間の表現方法の中にに含まれる宇宙というものを想定せずに宇宙全体を把握しようとすることができないように思われるからである

また、ちなみに、重力という力を量子として統一する、量子相対性理論では、ブラックホールのような特異点では相対性理論は成立しないと考えられており、静的な時空というものが再び登場している

(以上、Wikipediaの「一般相対性理論」(http://ja.wikipedia.org/wiki/一般相対性理論)の項の節「曲がった時空上の場の理論」と「量子重力理論」(http://ja.wikipedia.org/wiki/量子重力理論)の項を参考にした)


さて、テキストに戻り、第九段落(p.278 8行目-p.279 6行目)の説明を始めたいと思う

物理学における物質の運動と空間の関係を、概念的にどのように発展してきたかということを簡単に見てきた。ベルクソンの主張は、ニュートン力学における絶対座標系の概念は、一般的な常識とは若干異なった、言わば物理学の運動を説明するための、われわれの生活空間とは切り離されたある種特殊な空間を想定しているようにわれわれには思われる、ということであろう。さらに、この第九段落では、それまでの哲学で考えられてきた形而上学的(あるいは神秘的)な『力(force)』について検討、批判されている他、物理学的な『力』関しても『絶対(静止)空間』に基づいているとの評論がなされている

『その際、現実的運動は現実的原因を持ち、ある力(force)に由来しているという点で相対的運動から区別されるといわれるだろうか』(p.278 8行目-p.279 6行目)

ここで、ベルクソンは『力(force)』について考察する

『自然科学において、力は質量と速度の関数に過ぎない。力は加速度で測られる。力は、それが空間に生ぜしめるとみなされる運動によってしか知られないし、推測されない。これらの運動と連動しているので、力はこれらの運動の相対性を共有している』(p.278 10行目-p.278 13行目)

要するに、結論として力も『これらの運動の相対性を共有』するわけであるから、運動が相対的であるならば力も相対的であり、そこでは最終的に絶対座標系の概念を持ち出す必要がある

それを避けようとするならば、ということで次のような形而上学的な考えが持ち出されており、それに対するベルクソンの批判があるので、以下、段落の最後まで引用して解説する

『それゆえ、[力という]語の形而上学的な意味に頼らざるを得ないだろうし、空間の中で認知された運動の支えとして、数々の深い原因 ―われわれの意識が努力の感情のなかで捕らえていると思っている原因に類似した諸原因― を持ち出さなければならないだろう。しかし、努力の感情はまさにひとつの深い原因の感情ではないだろうか。数々の決定的な分析[24]は、すでに行われた運動あるいは身体の表面で始められた運動についての意識以外の何ものも、この感情の中には存在しないということを示さなかっただろうか。それゆえ、われわれが、運動から区別されている原因に、運動の現実性を根拠付けようと欲しても無駄だろう。分析はわれわれを常に運動そのものへ引き戻すのである』(p.278 15行目-p.279 6行目、[24]は訳注、『ウイリアムジェームスの分析であろう(以下略)』とある)

当時の『力』という言葉についての神秘的(あるいは、形而上的)なイメージやわれわれの『努力の感情』(おそらくは、「コナトゥス」という哲学用語で、ここでは専らデカルトのこの語の使用の仕方を指していると思われる)からくる『諸原因』などから、『力』が生じることに反論していることは明白であろう。物理的な力は物理的な現象によって生じるという非常に現代的、合理的な指摘をベルクソンがしているということをここで改めて示されている

(ちなみに現代物理学では、物理学的な『力』は力学的な力のほかに、4種類の力(強い力、弱い力、電磁力、重力)があると説明され、それぞれの力を媒介するのは4つの量子であり、これら4つの力も統一した理論で説明できると考えられ研究されている(参考、http://ja.wikipedia.org/wiki/基本相互作用)。 なお、相対性理論を構築したアインシュタインは有名なエレベーターの思考実験により加速度と重力を区別がつかない以上同じだと考えた(等価原理、参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/等価原理))



第十段落(p.279 7行目-p.280 15行目)の説明に入ろう

ここで、ベルクソンは、ベルクソンたちの言うところの『運動の絶対性』をそのまま受け入れるべきだという


※筆者注:ここでは相対論的時空の考え方をどう扱うかについては議論せずに、ベルクソンの言うことのみ紹介する。現代物理学の相対性理論と量子物理学理論を統一した理論はまだ完成しておらず、また、古典力学(=ニュートン力学)を包含し、すでに述べたようにマクロスケールにおける物理現象を説明する相対性理論においても、宇宙は空間的に有限であり、一方でわれわれの『空間』の概念は、相対性理論にも関わりなく、その理論の背景である幾何学においては『等質的』で『無際限』と考える。かつ、われわれの宇宙自体がその中でほぼ一定の「時間」の軸に沿って拡大していく、という考え方には、変わりがないということから、ここでは、一応ベルクソンのいうように、われわれの『持続』のなかで『運動』を『直接的認識』による一度きりの絶対的なものと考えることを是として良いように思ったからである。あとで述べられるが、生物の『持続』とそれに基づく知覚というのは3次元の直交空間+持続であり、それは『無際限』であるということに他ならない。ただし、物理学の物質や時間の説明とは乖離している。しかし、物理学の説明(法則)は物質の関連性だけを示しており、われわれの物質の認識、質感(=強度とベルクソンは説明する)とはまた異なることも間違いない。この質感についての理論は、あとでも説明をするが、ベルクソン『意識に直接与えられるものについての試論(英題:時間と自由)』にさらに詳しい


今までに、見てきたようにわれわれは、現実の物体の運動と、物理学(力学)的な運動を混同する。しかし、ベルクソンの主張によれば現実的な物体の運動はそのまま存在する。引用しよう

『あなたが運動からその本質たる動性を抽出するとすれば、事情はもはや同じでない。私の目が私に運動の感覚を与えるとき、この感覚はひとつの実在であって、ある物体が私の目に対して移動するにせよ、私の目がその物体の前で動くにせよ、何かが実際に起こっている』(p.279 9行目-12行目)

『私が運動を生じさせることを望んだ後で運動を引き起こす時や、筋肉感覚が運動の意識を私にもたらす時にはなおさらのこと私は運動の現実性について確信している。したがって、運動が《状態》あるいは《性質》の変化のように私の内部で私に現れる時、私は運動の実在に触れていることになる。しかし、それでは、私が諸事物の中に性質の変化を知覚するとき、どうして事情は同じでないのだろうか』(p.279 13行目-p.279 17行目、《》内はテキスト傍点つき)

まず、ここまでを説明しよう。『運動の本質たる動性』とは、われわれが、運動をたとえば映画のフィルムのように分解して理解するのとは違う、われわれが直感的に見る運動そのもののことを示している。ふたつの引用文のうち一つ目のの引用文では、『運動』を目で追った場合に与えられる『運動の感覚』、あるいは逆に物体が目に対して運動する場合にせよ、『運動の現実性について確信している』と述べ、このようなことを『運動の実在』としてそこに『触れている』とベルクソンは説明している。つまり『何かが実際に起こっている』。さらに、二番目の引用では、実際にわれわれが欲して運動を引き起こしたり、『意識』に『運動』の『筋肉感覚』がもたらされているとき、『なおのこと運動の現実性について確信している』。このようなことを『運動の実在』として、それに『触れている』という言い方でベルクソンは説明している

このあと

『音は、ある音が他の音と異なっているのと同様、静寂とも絶対的に異なっている。光と闇のあいだ、色と色のあいだ、濃淡のあいだの差異は絶対的なものである。一方から他方への移行もまた絶対的な現象である』(p.279 17行目-p.280 3行目)

と続く。こうして、われわれは『運動』を、『筋肉感覚』が『意識としてもたらす』すなわち、『実在として触れる』ような『運動』と、もう一つ、先に下の引用文の言葉を借りれば『感覚性質』の『絶対的』な『差異』またはその『一方から他方への移行』の絶対性、の二種類から総合して『運動』を絶対的なものと見なす。しかし、『真の意味での外的物体の運動』はこの両端の間にある。下の引用には、そのようなことが書かれている

『それゆえ私は、私の筋肉感覚と、私の外なる物質の感覚性質という鎖の両端を掴んでおり、どちらにおいても、私は運動を、運動があるとしてだが、単なる関係とは捉えていない。運動は絶対的なものなのだ ―この両端の間に、真の意味での外的《物体》の運動が位置することになる』(p.280 2行目-6行目、《》内はテキスト傍点つき)

この後の記述は、非常に難解なので、順を追ってみていこう

まず、このあと段落の最後まで引用する。その際、大意より三つに分割し、その後で解説をしたいと思う。三つに分けた文章は意味的には、まず、ベルクソンのいう『運動の絶対性』を区別するのは、『常識』であるということ、次に、その区別に対しての物理学(力学)的な考え方について述べてある(ここが特にに難解な記述になっている)。また、最後は一文ではあるが、この解釈も難しく、この三つの部分の説明全体から意味を取らないとまったく逆の意味にも受け取れるだろう

『ここでは、どうやって見かけだけの運動を現実の運動から区別するのか。外的に認知されたどの対象について、それは動いているということができ、ほかのどの対象について、それは不動のままであるということができるのか。同様の問いを提出することそれは、互いに自存的でおのおのが個体性を有し、諸種の人格にも比しうる諸対象のあいだに常識によって確立された不連続性を根拠ある区別とみなすことである』(p.280 6行目-10行目)

『実際、反対の仮説においては、物質のある特定の《部分》に、いかにして位置の変化が生じるかを知ることはもはや重要ではないだろう。そうではなく、いかにして《全体》のなかで様相の変化が成し遂げられるかを知ることが重要であって、そのうえ、様相の変化の本性を究明するという課題がわれわれには残されるだろう』(p.280 10行目-15行目、《》内はテキスト傍点つき)

『そこで、われわれの第三の命題をすぐに定式化しておこう』(p.280 14行目-15行目)

まず、第一番目の引用(p.280 6行目-10行目の部分)は、『ここでは、』と始まっていることから、前の文章を受け継ぎ、ベルクソンの言う『運動の絶対性』をそのまま直感で受け止める方法が書かれていると考える。『外的物体の運動』(p.280 5行目-6行目)において、それぞれを『互いに自存的でおのおのが個体性を有し、諸種の人格にも比しうる諸対象』と見なすこと、そのために、『常識によって確立された不連続性を根拠ある区別とみなす』とある。つまりは、われわれが、これまで生きてきたところの総合的な感覚と知識で『諸対象』やその『運動』を一つ一つの区別されたものとして判別すると考えるべきだろう。(筆者註:このように『常識』において『諸対象』や『運動の絶対性』を処断し、判別されることについては、このあとIII.で説明される)

一方で、二番目の引用(p.280 10行目-15行目)は、『反対の仮説』つまり、物理学(力学)的な考え方について述べていると考えるべきだろう。『物質のある特定の《部分》に、いかにして位置の変化が生じるかを知ることはもはや重要ではないだろう。そうではなく、いかにして《全体》のなかで様相の変化が成し遂げられるかを知ることが重要』との部分は、つまりは、ひとつひとつの事柄よりも、むしろそれらの関係性が問題であるということだろう。『様相の変化の本性を究明する』とは、関係性のみが重要になれば、個別の事象を一般論化し、帰納して得られる法則性と法則、それらを『究明する』こと、と考える

以上のように解釈し、このあと始まる説明の内容も考慮すれば、三つ目の引用文は、『そこで、』と始まっているけれども、これは二番目の引用文の仮説(物理学の仮説)を受けてということではなく、ここまで主題となっている(特にこの節では『運動』の)『直接的な認識』のためにベルクソンの考えにおける物体、もしくは『絶対的な運動』そのものの捕らえ方をこの後すぐに述べよう、という意味だと考えるべきであろう

以上、第十段落を説明した

また、ここまでで、物質についての『直接的な認識』のための第二番目の方法、

Ⅱ-《数々の現実的運動が存在する》  (p.275 11行目、《》内はテキスト傍点付き)

の説明が終わる


次に、第十一段落(p.280 16行目-p.282 9行目)を見てみよう

ここから、

 Ⅲ-《絶対的に決定された輪郭を持つ独立した諸物体へと物質を分割することはすべて紛いの人為的行為である》  (p.280 16行目-p.281 1行目、《》内はテキスト傍点付き)

の説明に入る

前半部分は難しくないので要点だけをまとめよう。われわれは五感のうち特に視覚と触覚を主に用いて、『物質的対象』(p.280 2行目)を知覚しているだろう。それは、ほかの感覚に比べて、『空間』の広がりを直接的に把握できるからだろう。ベルクソンの優雅な表現を借りれば、『視覚と触覚の所与は、空間の中でもっとも明白に広がる所与であり、空間の本質的な特徴は連続性である』(p.281 3行目-4行目)ということになる

一方、ほかの聴覚、味覚、嗅覚のそれぞれは信号と信号の間には間隙が必要だ。というのも、聴覚は、入力があってから働くようにできており、同様にと言っていいと思うが、『香りと香りの間、味と味との間には、あたかも嗅覚と味覚が偶発的にしか機能しないかのように感覚が見出される』(p.281 6行目-7行目)

さて、視覚は空間の情報を一度に把握できるが、触覚はそうではない。しかも、触覚は聴覚などとは違い、物の形を把握しようとしたら、空間的に連続した情報としての信号を得ないといけないであろう。その意味でも、視覚とは違う形で触覚は空間を把握しようとする感覚であるといえるだろう

さて、このような、視覚や触覚は『物質的対象』から得られた情報を空間的に連続したものとして把握するわけであるが、これらの知覚から得られた『物質的延長』(物質の属性のうち計量できる性質のもの)、言い換えれば物の形や色あるいは手触りや固さなどから、『最初に見出された連続性をその各々が、実体と個体性を有しているような諸物体へと分割するのであろうか』(p.281 10行目-11行目)という疑問がベルクソンから示される

以下、この段落はこの疑問について深化させていくことが記述の目的となっている。少しずつ分けてみていこう

『おそらくこの連続性は刻々と様相を変える。しかし、なぜわれわれは、あたかも万華鏡が回されたかのように全体が変化したのだということを端的に認めないのか。要するに、なぜわれわれは、全体の動性の中に、運動している物体によってたどられた足跡を探すのか。一つの《動的連続性(continuité mouvante)》がわれわれに与えられているのであり、そこにおいては、すべてが変化すると同時に留まっている』(p.281 11行目-12行目、《》内はテキスト傍点つきとイタリック)
少々無理矢理ではあるが、一旦ここまでで区切って解説したい。この部分ベルクソンの文章は日本語に直してもこの部分は非常に美しい文章で、分けて説明するのが非常に惜しまれるとだけは註記しておく。解説に戻ると、この宇宙の中の物体は常に物理学の法則によって支配されているわけであるので、以前、第三章でも見たように、物質はそこに留まって在るのではなく、物理学の示す法則に従ってそのように成っているものである。例えば、無限の精度をもつような極端に正確な計測器で測定すれば、いかなる不変と見られるような物質もわずかの間も同じ値を示すことはなく、結果として違うものとして指し示すであろう。あるいは、『運動』について考えれば、静的な点の集合の軌跡を運動とみなしがちであるが、本来は『一つの《動的連続性(continuité mouvante)》』であるはずで、そのとき宇宙『全体』が『万華鏡が回されたかのように』、『すべてが変化すると同時に留まっている』。つまり、おのおのはおのおのの関係性の中で物理法則にしたがって変化していると同時に、それらは、過去と、現在と、未来の因果関係にある以上、質量保全の法則、あるいは、エネルギー保全の法則といわれる法則で表されるように、この宇宙の中にすべてが『留まっている』

しかし、われわれはそのように感じない。変化するものとしないものに分けて考えるのが普通である。では

『どうしてわれわれは不変性と変化という二つの項目を切り離し、《物体》によって普遍性を、空間において《等質的な運動》によって変化を象徴するのか』(p.281 17行目-p.282 2行目、《》内はテキスト傍点つきとイタリック)

という疑問が次に示される。この疑問は、考察をより深められていき、この段落の最後には、意識と科学の一致した傾向として示される。引用しよう

『それは直接的な直感の所与ではない。しかし、だからといって科学の要請でもない。というのは、科学は反対に、われわれが人工的に切り分けた宇宙の自然の諸関節を再び見出すつもりであるからだ。それどころか、すべての質点の相互作用を次第に明確化することで、科学は、その見かけにもかかわらず、われわれがこれから見るように、宇宙の連続性という考えに回帰するのだ。科学と意識は、結局、意識をそのもっとも直接的な所与において考察し、科学をそのもっともはるかな希求において考察すれば相一致するのである』(p.282 2行目-p.282 7行目)

疑問は、『直接的直感の所与』でも『科学の要請』でもないと結論付ける。では何なのか。結局は、われわれは『常識』でしか判断していないだろう。『科学』は要素分解主義であるので、すべてのものを最小の単位を構成するものの関係、言い換えれば、『質点の相互作用』においてすべて再構成されるだろう。これが、『科学の最もはるかなる希求』であるとするなら、そこでは何が行われるか。等質的な空間と時間の中において宇宙の全物質の動きを再構成することにほかあるまい。だとすれば、そこにおいては、その中で起こるすべての事象は各々絶対に一度切りしか生じない『絶対的な運動』でしかないのではないのか。こうして、われわれの意識が、『直接的な所与において考察』するところと一致する。われわれの意識に『直接的』に『所与』されるものと、物理学の法則に支配されたこの宇宙で生じるそれぞれの事象は、それを俯瞰できる空間と時間のなかにおいてはすべては一度切りでしかなく、すなわち『運動の絶対性』においてまさに一致する、というように私は解釈する

さて、この段落の最後に、ベルクソンはもうひとつ問いを呈しているのでそれを紹介して、第十一段落の解説を終わる

『そのとき、場所すなわち互いの関係を変え、きちんと分けられた縁〈へり〉を持つ諸物体によって不連続な物質的宇宙を構築しようとする抗しがたい傾向はどこから来るのか』(p.282 7行目-p.282 9行目、〈〉内はテキストふりがな)


では、第十二段落(p.282 10行目-p.283 15行目)を見てみよう

この段落は、内容は難しくはないが、ベルクソンの文章があまりに美しいのであまり長くないこともありほぼすべてを引用しながら説明をしたい。ここでは、後に『創造的進化』として結実される考察の兆しが見える。内容は、生命が身体を持つことと、その外界における生命活動において有益だったり逆に有害だったりする物質を見分ける必要性が、前段落の最後にあった疑問への答えとして述べられている

では、最初の部分を見てみよう

『意識と科学のほかに生というものがある。哲学者たちによって非常に念入りに分析された思弁の諸原理の下には、その研究が疎かにされてきた諸傾向が隠れていて、これらの傾向はわれわれが生きること、すなわち実際に実際に行動することの必要性によってだけ説明される』(p.282 10行目-13行目)

『個体的意識に授けられた諸行為によって現出する権能はすでにして、互いに区別された物質的領域〈領域にゾーンというフリガナ〉の形成を強いていて、かかる領域の各々が生命体に対応している』(p.282 13行目-14行目)

まず、最初の引用文は、『生』ということを考えないと説明できない問題があり、その事は、『すなわち実際に実際に行動することの必要性』を考慮することであると要約できるだろう

次の引用文にある『個体的意識に授けられた諸行為によって現出する権能』の部分は、それぞれの生命を『実際に行動することの必要性』の観点から見た場合(それはベルクソンのもっとも基本的な立場なのだが)、その『諸行為』のために、物質界には肉体(『互いに区別された物質的領域』)が必要不可欠になってくるわけだが、『すでにして』という記述より、『意識』は、そのような肉体がすでに存在しており、その肉体がもともと持つ可用性と可能性を『諸行為の権能』と考えるときに、肉体に遅れて生じる、と記述されている考えられる

数行略して、

『しかし、この身体がひとたび構成され区別されると、この身体が感じる諸欲求は他の身体・物体を区別し、それらを構成するようこの身体・物体を仕向ける。最下等な生物において、栄養摂取は、探索、ついで接触、最後に中心へ向かう一連の努力を必要とする。この中心は、まさに食物として役に立つに違いない独立した対象になるだろう』(p.282 16行目-p.283 3行目)

この部分は最後の一文がやや分かりにくいが、個体(ここでは自ら栄養を作り出すことのできないような動物的個体が問題になっているだろう)が栄養を得るためには、まとまった栄養がありかつ摂取可能な『物』を探しいかにとらえるかが、最大の問題であろう、と言っているのであろう

この生命がその肉体維持に必要な根元的な活動は、『生』をして、『欲求と欲求を満たすものの二元性』(p.283 4行目)、つまり欲求するところの自分の身体とその欲求を満たすその他の物体に物質世界を分けるだろう

さらに、こう続ける

『ほかの諸欲求がこの欲求の周りに組織されており、それらの欲求のすべては個体あるいは種の保存を目的としている。ところで、それらの欲求の各々は、われわれ自身の身体とは別に、われわれ自身の身体から独立しており、われわれが探求あるいは回避せねばならない諸身体・物体を区別するようわれわれを仕向ける。それゆえ、われわれの諸欲求はいずれも、感性的諸性質の連続性に向けられることで、その連続性のうちに個々別々の諸身体・物体を描く光の束なのである』(p.283 3行目-11行目)

『われわれの諸欲求は、この連続性から一つの身体を自分のために切り取り、次いで、この連続性のなかで、この身体があたかも人々と交際するかのように関係を持つほかの諸身体・物体を画定するという条件でのみ満足させる』(p.283 11行目-14行目)

『感性的実在からこのように切り取られた諸部分の間にまったく特殊な諸関係を築くこと、それこそまさにわれわれが《生きる》と呼んでいることである』(p.283 14行目-15行目、《》内テキスト傍点付き)

引用文は一続きで段落の最後まで続いているものを三つに分けた。まず、一つ目の引用文だが、なかなか難解である。さまざまな解釈が可能となるだろうが、ここではこう考えてみることにする。まず、『種』という観点からものから考えれば、われわれの生殖活動はまさに個々別々のものというよりもむしろ、『種』自体の保存を目的としているものであるは誰の目にも明らかだろう。そう考えると、たとえば、われわれ人間が個人としての欲求を満たすような生命維持活動も、また、『種』という『連続性』の中で生じている共通のものであると言えるだろう

このよう考えていけば、『われわれの諸欲求はいずれも、感性的諸性質の連続性に向けられることで、その連続性のうちに個々別々の諸身体・物体を描く光の束なのである』という部分の難解さも徐々に解(ほど)けて、『諸欲求』のそれぞれをある種の『光』、そしてその『感性的諸性質の連続性』をその『光』の『束』と呼んでいるのは、次のような意味であろう

1.『光の束』の『束』という意味について
生命全体(この場合、特に動物的生命体について述べられているのだろうが)の連続性を、『諸欲求』の『感性的諸性質の連続性』と考えることによって、生命体の分類を可能にする項目とみなすことができるという意味

2.『光の束』の『光』の部分の意味について
諸『感性的性質』により分類された生命体の共通事項が、逆にわれわれ個々の個体の行動原理を照らし出す『光』となるという意味

(筆者註:この段落が

『意識と科学のほかに生というものがある。哲学者たちによって非常に念入りに分析された思弁の諸原理の下には、その研究が疎かにされてきた諸傾向が隠れていて、これらの傾向はわれわれが生きること、すなわち実際に実際に行動することの必要性によってだけ説明される。』(p.282 10行目-13行目)

と始まっていたことにも関係し、哲学の『思弁の諸原理の下』に『隠れて』いるものを照らしだす『光』という解釈も可能かもしれない)

以上のように、欲求は物質世界を自己と自己の欲求を満たすものという原始的な『二元性』を確立するだけでなく、われわれ生命の行動原理を、『感性的性質』によって分類し『その連続性のうちに個々別々の諸身体・物体を描く光の束』として考えることができるとベルクソンは述べているのであろうと考えられる

二つ目の引用文は、こうした数々の欲求を満たすところからもまた身体の機能は決まってきて、そうするならば、われわれは、たとえば、有性生殖というところからも、栄養の摂取、その他欲求においても、あるいは、探求、摂取、消化という行動の必要性から生じる肉体の大きさとその骨格の強度、あるいはそのほか熱量などの物理学的関係からも、生命としての肉体の構成を限られた範囲で選択せざるを得ないだろう。言い換えれば、『生』としては欲求を満たすためにも、物質界の法則にしたがって、『一つの身体』を『切り取』る必要があるだろう。さらには、必要とするものとされるものが、あたかも隣人同士のような深い関係いわば『交際』をするような、そんな関係を持ち得るように『他の諸身体・物体』を『画定』しなければ、『諸欲求』は満足されえず、たとえば『種』は保存されないだろう。このようなことを説明しているのだと思われる

そして最後の三つ目の分であるが、『感性的実在』つまり生命の生存のための欲求から見た側面の各々が、『まったく特殊な関係性』言い換えれば一種の深い『交際』を結んでいくことこそが『《生きる》』ということだろう、とベルクソンは述べているのである

以上、第十二段落を説明した


では、第十三段落(p.283 15行- p.285 5行目)を見ていこう

第十二段落で見てきたように、『生』もしくは『生きる』ことが、われわれ生命の根源的な物質存在の認識の元となり、事物を分けて考えること、そして、それらが必然的で多様な混交(ベルクソンの言葉で言えば『交際』(p.283 13行)を生む

『しかし、現実的なもののこの最初の細分化が直接的な直感よりもはるかによく生の根源的な諸欲求に対応しているのであれば、分割をさらに推し進めたとしても、いかにして、所持物についてのより近似的な認識が獲得されるというのか。それによって生じるのは、《生の運動》の拡張であり、真なる認識からは目が背けられているのだ』(p.283 15行-p.284 2行目)

とベルクソンは分割だけに目を向ける要素還元主義を批判している。この段落もやや難解ではあるのだが、批判の部分に関してはもともと、これまでも多くの解説をしてこなかったので、ここも要点だけを抜き出して説明したい

要するに、この分割は、カントの言う『《純粋認識》の領域に移し変えられた《有用な行動》の日常的な形式を象徴している』(p.284 6行、《》内はテキスト傍点付き)。『それゆえ、微粒子―それがどのようなものであれ―によっては、物質の単純な特性は決して説明されないだろう』(p.284 6行-8行目)とベルクソンは言う。すなわち、物質の分割による最小粒子は、『《純粋認識》の領域に移し変えられた《有用な行動》の日常的な形式を象徴している』、と言い換えてもいいだろう。そのために、それによっては『物質の単純な特性は決して説明されないだろう』と言っているのである

以下、段落の内容を要約すれば、科学的要素還元主義の行く先は、粒子(ベルクソンは『原子』と言っているがここでは説明のために粒子ということにする。原子を量子としてもほぼ同様の批判内容で問題ないため原子からさらに細分化された量子も含めた形で粒子と言って問題ないと考えたからである)と力学的法則だろう。そこでは、粒子は固形物、すなわち固体を想定しており液体でも気体でもありえないだろう。また、『非常に単純ないくつかの実験は押し合っている二つの物体の間に現実的接触が決して存在しないことを示している(9)』(p.285 1行-2行目、(9)は文献番号)ということも述べられている

(筆者註:文献(9)が何かを章末から引用すれば、以下のものである『このテーマについては、マクスウェル「遠隔作用」(Maxwell, Action at a distance, Scientific papers, Cambrige, 1890,t. II, p.313-314)』)

以下、段落の最後まで引用しよう

『他方、固体性は物質の絶対的に決定された状態からは程遠いものなのだ。(10) それゆえ、固体性と衝突は、それらの見かけ上の明晰さを実生活の習慣や必要性から借りている。 -この種のイマージュは諸事物の根底にいかなる光も投げかけているないのである』(p.285 3行-5行目、(10)は文献番号)

(筆者註:文献(9)と同様に文献(10)が何かを章末から引用すれば、以下のものである『このテーマについては、マクスウェル「物体の分子構造」(Molecular constitution ob bodies, Scientific papers, t. II, p.618 ) -ファン・デル・ワースは、他方で、液体と気体の状態の連続性を示した』)

この部分は特に解説する必要もないだろう。力学で扱う『固体性と衝突』の観念は、『常識』からその『イマージュ』を借りてきているだけだというのがベルクソンの主張である


第十四段落(p.283 15行―p.285 5行目)を見よう

ここでベルクソンはさらに科学に対しての批判を強めていく。ここは難しいところもないので、前の段落に引き続き、基本的に概要だけを述べるにとどめたい。ここが第三節の最後の段落になっている

まず、科学が最も正確であるのはその物質間の相互作用を説明することであると言う。こうなってくると、ますます細分化された物質は『それはもはや物質でなく力であると言われるだろう』(p.285 9行-10行目)と述べる。これは以前に物理学には力学的な力のほかに4つの力がありそれはすなわち量子として現代物理学では説明されている、と述べたこととまったく軌を一にするだろう

以下、ベルクソンの言うところを引用すると

『諸原子の間に糸が張られていると想像されるが、これらの糸は次第により細きものにされ、ついにはそれらは目に見えないもの、さらには非物質とさえ思われるものになるだろう』(p.285 10行12行目)

と、やや穿った見方になっているが、ベルクソンの言いたいのは先の第十三段落でも述べたようなものであり、また、現在の量子物理学が、われわれの常識とは全くかけ離れた形で量子の性質を説明していることを考えれば、ベルクソンのこの穿った見方を笑うことは難しいだろう

しかも、哲学において、あるいは、身体・物質間に、ある『特殊な関係を築くこと』が『生きる』ことであるような『生の維持において』、『この粗雑なイマージュはなんの役に立つのだろうか』(p.285 12行目-13行目)

以下、ベルクソンの言葉をしばらく引用しよう

『生の維持はおそらく、われわれの日々の経験のなかに、惰性的な諸《事物》と空間内で諸事物によって及ぼされる諸《作用》とを見分けることを要求する。自分が事物に触ることのできるちょうどその点に《事物》の所在地を定めることは、われわれにとって有用であるから、事物の触知可能な輪郭がわれわれにとって事物の現実的境界となり、われわれはそのとき、事物の《作用》のうちに、その事物から切り離され、事物とは異なるなんだかわけのわからないもの(un je ne sais quoi)を見る』(p.285 13行-p.286 1行目、《》内はテキスト傍点付き)

まとめると、つまり、われわれの日常生活において有用であるような『諸事物』とは、われわれが『触知可能』つまり、感覚として触れて知ることのできうる範囲のものであり、その『輪郭』が『事物の現実的境界』なのであって、『作用』すなわち、科学の説明する物事の関係性は、『生の維持』ということにおいて、『なんだかわけのわからないもの』と言えるだろうと言っているのである

ベルクソンの言うところを以下抜粋して引用してみると

『そして、実際  われわれは、物理学者が力と物質の諸効果を究めるにつれて力と物質が接近し再び一つにになるのを目にする。われわれは、力が物質化し、原子が観念化し、これら2つの公が共通の境界へ収斂し、こうして宇宙がその連続性を再び見出すのを目にする』(p.286 4行- 6行目)

現代物理学とあまり変わらない考え方の部分を抜粋した。以下、このようなことが(特にこの時代議論されていた原子モデルについてのことが)詳しく説明されている。科学史に興味のある人には面白いかもしれないとは思うが、ここでの専門的なことを細かく説明することに意味があるとは思われず、その哲学的な意味はこの前ですでに言い尽くされていると思われるので省略する。この節の結論としてはこうなるであろう

『すでに、心理学的分析は、この不連続性がわれわれの諸欲求と関係していることをわれわれに明らかにした。どんな自然哲学も最後には、不連続性が物質の一般的な諸特性と相容れないのを見出すようになる』

以上、第十四段落を説明した。

これで、

 Ⅲ-《絶対的に決定された輪郭を持つ独立した諸物体へと物質を分割することはすべて紛いの人為的行為である》  (p.280 16行目-p.281 1行目、《》内はテキスト傍点付き)

の説明が終わると同時に第三節の説明も終わる



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