第四章 『イマージュの残存について - 記憶と精神』 第二節『従うべき方法』

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは第二節「従うべき方法」(p.264 5行目−p.268 9行目)の内容を解説したものです。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています

もともとは、ブログ版の記事を加筆修正したものとなります


まず、第一段落(p.264 6行目−17行目)を見よう

前節の終わりと同様に、ここでは、ベルクソンの哲学的認識論について述べられる

初めは、この新しい方法の困難さについて触れられる。その困難は『新しい問題をそれぞれ解決するために、全く新しい努力を要求するから 』(p.264 7行目−8行目)であり、習慣を変える場合何でもそうであるが、われわれの『思考習慣』および『知覚の習慣』を変えることを要求される場合、『著しく、耐えず蘇るような困難を呈する』からである

しかし、このことは、『消極的な部分でしかない』(p.264 9行目)

これからベルグソンの提唱する方法というのは、実際には、前節で見たような『経験論』や『独断論』のような、ある種、断片的な『ばらばらになった諸項』(p.263 9行目−14行目)をどのようにつなぎ合わせるのかということについての方法論である。以下、引用すると

『われわれが経験の《曲がり角》と呼ぶものに身を置いたとき、《直接的なもの》から《有用なもの》へのわれわれの移行を照らしながら、我々の人間的経験の黎明に位置する生まれつつある微光が利用された時、この時にも、そのようにわれわれが現実〈レエル〉の曲線に見出す無限小の諸要素を用いて、それらの後ろ、暗闇の中に広がる曲線そのものの形を再構成する課題が残される』(p.264 9行目−14行目、筆者注:《》内はテキスト傍点付き、〈〉内はテキスト フリガナ)

私なりの理解では、『経験の《曲がり角》』において、『微分(différentielle)から出発して関数を決定する数学者』(p.264 15行目)のように『哲学的探求の極限の手続きは紛れもない積分(intégration)の作業なのである』(p.263 16行目)と例えられているように、『現実〈レエル〉の曲線に見出す無限小の諸要素を用いて』、直感のもたらす『曲線そのものの形を再構成する』作業となるということであろう。ここで、『無限小の諸要素』というのは、上の引用では、『《直接的なもの》から《有用なもの》へのわれわれの移行を照らしながら、我々の人間的経験の黎明に位置する生まれつつある微光』と記述されている部分が該当すると思われる

以上、第一段落について解説した


次に第二段落(p.265 1行目−p.266 15行目)を見てみよう

ここでは、以前(「意識に直接与えられたものについての試論」と思われる)、『この方法を意識の問題へと適用することを試みた』( p.245 1行目)ときの事がまず述べられる

そのとき

『精神の実利的な働き』を検討したことがまず示されている。この『精神の実利的な働きとは』、前節第八段落において哲学的認識論を検討した時に、まず

『通常《事実》と呼ばれているものは、直接的直感に現れるままの現実〈レエル〉ではなく、実践の利益や社会生活の欲求への現実の適用である』(p.261 13行目−14行目、筆者注、《》内はテキスト傍点付き、〈〉内はテキスト フリガナ)

ということが段落の最初に述べられていただろう。これは具体的には一続きである『直感』を断片化し、それらを『経験論』や『独断論』のような考え方で再構成して『現実』として述べられる、そのとき精神の働きのことをここでは『精神の実利的な働き』と述べていると思われる

それは、『内的生の知覚に関しては、空間を介しての純粋持続の一種の屈折(réfraction)のうちに存するようにわれわれには思われた』(p.265 1行目−3行目)

そして、その『屈折』とは、まず『われわれの心理状態を分離し』、『益々人格的なものとなる形式へと導き』、『それらに名称[名詞]を』与え(『押し付け』)、最後には『社会生活の流れの中にそれらを参入させることをわれわれに可能ならしめる、そのような屈折である』とここでは言い換えている

以下、再び『経験論』と『独断論』の批判がされ、そこから、『自由の問いについての相対立する二つの観点が生じる』(p.265 11行目)としている。少しずつ見て行きたい

まず、『決定論にとって、行為は諸要素間の力学的な合成による合力である』(p.265 11行目−12行目)。一方で『その反対論者』(厳密な非決定論者)にとっては、『自由な決定は恣意的な《決断(fiat)》、紛れもない《無からの》創造でなければならないだろう』(p.265 12行目−14行目、《》内はテキスト傍点付きとイタリック)と述べる

しかしながら『—われわれは取るべき第三の解決策があるだろうと考えた』(p.265 14行目)と主張する。それを端的に言うなら『純粋持続に身を置き直すこと』だと言う

『純粋持続』に関しては、ベルクソン哲学のこれこそもっとも基礎をなす考え方だ。『純粋持続』とは、単純に言えば時間のことだが、この言葉に込められている意味は、ある種の行為は連続でありそして一度きりのものである、ということであろうか。更に言えば、後の著作『創造的進化』にはインフレーション宇宙論(『ボルツマンの計算によれば』という記述が同書第3章(参考文献番号89)に見られる)を参考文献としてあげているところから考えても、宇宙におけるある瞬間は繰り返さないというこの考えは、ベルクソンにとっての基本的原理である。ただし、このことに関してベルクソンの精神の内的時間における『純粋持続』の絶対性の説明は、アインシュタインの相対性理論によって一部修正を行う必要がある。しかしながら、基本的な主張(ある『持続』は二度と繰り返さない)は、われわれの体験から来る直感と全く一致するものであろう

テキストに戻れば、先に引用した部分も含めて引用すると、次のような記述が見られる

『それは純粋持続に身を置き直すことであって、純粋持続の流れは連続的で、そこで、感知できないほど少しずつある状態から他の状態への移行がなされる』(p.265 15行目−16行目)

『ここにいう連続性は現実に生きられた連続性ではあるけれども、それは日用的認識の最大の便宜を図って人為的にされている』(p.265 16行目−p.266 1行目)

ここで、『日用的認識の最大の便宜を図って人為的にされている』ということについては、われわれの意志によるものとわれわれの身体が自然に行うもの(例えば、「何かを食べる」という行為を考えた時に人為的ではあるが意識的ではない口や舌、喉などの動きを含んでいるだろう)の二つの種類の考えを含んでいることには注意しておく必要がある

このあと、このときに、『行動』が『先行条件から《独特》な進展によって生じるのを見ているのだと思った』と記述されている(p.266 1行目-2行目、《》内はテキスト傍点つき)

この部分は、この時点では次の二種類の解釈ができるだろう

1.これはすなわち、ある『行動』の『人為的』な『連続性』が『日常生活の最大の便宜を図って』成立しているのは、ある行動におけるそれ以前の行動が、何らかの『独特な進展』によって生じるように思われた、と言っているのだという解釈
2.『先行条件』とは第二章、第三章で見てきたような『感覚-運動的』と説明されているわれわれの行動のうち、『感覚』であり、『特殊なイマージュ』(p.10 3行目)である『私の身体』が物理的に受け止める信号や情報などを指すだろう、という解釈

しかし、現在考察しているものは『純粋持続に身を置き直すこと』であったはずだ。したがって上記の2種類の解釈にも当てはまらない可能もまた否定できない。それで、ここでは厳密な解釈を後回しにし、これから読み進んでいくこの著作に対するわれわれの将来的な『純粋持続』にしばらく身を置いてから判断してみたい

では、この後、少し長く引用することで、われわれの判断の材料を少し提供してみたい

『その結果、この行動のうちにはそれを説明する先行条件が見出されることになるのだが、それでもこの行動は、果物が花から進展するように、先行条件からから進展したまったく新しい何かをこれらの現象に付け加えている。自由は、言われてきたように、それによって感性的自発性へ連れ戻されることは少しもない』(p.266 4行目-6行目)

このあと、動物であるならば、その行動はこのような『感性的自発性』によるもの(『動物の心理学的生はとりわけ感情的』(p.266 6行目))であろうけれども

『しかし、思考する存在たる人間においては、自由な行為は諸感情と諸観念の総合と呼ばれることができ、そこへと導く進展は理性的な進展と呼ばれる』(p.266 7行目-8行目)

とあることから、上記解釈のどちらかといえば2番目の解釈であろうが、1番目の解釈もまったく関係ないわけではなさそうである、と思われる

というのも、さらに読み進めていけば

『この方法の策略はようするに、日用的もしくは有用的認識の観点と真の認識を見分けることに単に存している。《そこでわれわれが自分で自分の行動を見るところの》持続、自分自身を見るのが有益であるような持続は、その諸要素が分離され併置されている持続である。しかし、《われわれがそこで行動しているところの》持続は、われわれの諸状態が互いに解け合っている持続であって、』(p.266 8行目−13行目、《》内テキスト傍点付き)

とあるからである。このあと、この行がこの段落の最後まで続くのであるが、いったんここまでにすこし解説を付け加えたい

まず、『日用的もしくは有用的認識の観点』というのは『《そこでわれわれが自分で自分の行動を見るところの》持続』であり、『真の認識』とは『《われわれがそこで行動しているところの》持続』であるだろう。『日用的もしくは有用的認識の観点』を、『自分自身を見るのが有益であるような持続』とも言っているが、これは、『その要素が分離され併置されている持続である』とも言っている。言わば要素分解主義の科学的方法であると言って良いだろう。あるいは、『経験論』や『独断論』の言うところの分析手法を意味しているということ、とも考えられる。一方、『《われわれがそこで行動しているところの》持続は、われわれの諸状態が互いに解け合っている持続』であるのだからして、これが、まさしく、ベルクソンの提唱する方法であり、また、「さきに『行動』が『先行条件から《独特》な進展によって生じるのを見ているのだと思った』」というところ、2種類の解釈ができる、と言った部分の初めの解釈相当すると言えるだろう

では、この段落の最後の部分を上記引用を含んだ形で、全て引用してみたい。後半部分では、『行動の本性についてわれわれが思弁する例外的な唯一の立場、すなわち自由の理論の中へと思考によって身を置き直す』ということが記されている。この『自由』とは、反射的な行動としての『感覚-運動的諸機能』の単なる感情的な選択ではなく、この第二段落ですでに述べられたように『自由な行為は諸感情と諸観念の総合』であったことをもう一度思い返していただければお分かりになると思う

『この方法の策略はようするに、日用的もしくは有用的認識の観点と真の認識を見分けることに単に存している。《そこでわれわれが自分で自分の行動を見るところの》持続、自分自身を見るのが有益であるような持続は、その要素が分離され併置されている持続である。しかし、《われわれがそこで行動しているところの》持続は、われわれの諸状態が互いに解け合っている持続であって、まさにこのような持続において、われわれは、行動の本性についてわれわれが思弁する例外的な唯一の立場、すなわち自由の理論の中へと思考によって身を置き直すための努力をしなければならない』(p.266 8行目−13行目、《》内テキスト傍点付き)


では、第三段落(p.266 16行目−p.268 9行目)を見よう

この段落は、この節『従うべき方法』の結論から、実際にベルクソンの言う『定式化』が書かれている次節『知覚と物質』さらにその次の節『持続と緊張』へと続いていく事となるつなぎの役割を果たしている

この節をここまで振り返れば、前節のp.261 13行目の『通常事実と呼ばれているものは、』という事から始まった認識論について、ベルクソンの新たな方法が提案された。それは、一言で言えば『直感』を積分的に再構成する方法と言えるだろう

この段落では、『物質』の問題に触れこう始まる

『この種の方法は物質の問題に適用できるだろうか』(p.266 16行目)

ここからしばらく哲学的な問題について専門用語を用いて記述されているので、私自身も全てを事細かに説明することに困難を感じる。だが、基本的なベルクソンの立場は『物質に不思議はない』と言うことであっただろう。ベルクソンは、『たしかに、外的知覚の根本的な諸条件から解放されようとする企ては荒唐無稽な妄想であろう』(p.267 3行目−4行目)としながらも、デカルトに始まった、いわゆる「大陸合理主義哲学」から、カント哲学に続く物質の認識論において一部、異を唱えている。該当部分を引用すると

『なかでも、具体的で連続的で、多様化されると同時に組織化された延長〈筆者註:延長とはデカルト哲学用語で物質の性質のうち測量できる属性のこと〉については、その延長が、その基礎に横たわる無定型で不活性な空間と連帯しているという点に異議を唱える』(p.267 7行目−9行目)

となる。以下

『この空間とは、われわれが無際限分割する空間で、その空間において、われわれは恣意的に数々の図形を切り抜くのだが、運動そのものは、われわれがほかの場所で言ったように、多数の瞬時的位置としてしかそこでは現れえない。というのも、そこで過去と現在の結合を保障しうるものは何もないからだ。したがって、延長から抜け出ることなしにある程度は空間から開放されうるだろうし、そこには直接的なものへの回帰があるだろう。というのもわれわれは空間を図式《シェーム》のごときものとして思い描くだけなのに対して、延長についてはそれを本当に知覚しているのだから』(p.267 9行目-16行目、《》内テキストフリガナ)

と続く。やや難解なので、若干解説を加えると、ここでは、『空間』と『延長』(物質)が『連帯していることに異議を唱える』ということから考えて、『運動そのもの』が『多数の瞬時的位置としてしかそこに現れない』というのは、ある『延長』は静止していようが『運動』として現れようが、ある瞬間においてはひとつのまとまりであることに変わりはない。しかし、『そこで過去と現在の結合を保障しうるものは何もない』。つまり『運動』においても『延長』は『延長』であることには変わりはなく、『空間』の中に存在するとはいえ、『空間』とまったくおなじ性質とは言えないだろう。すなわち、『延長』は『運動』においても、『空間』を占めるということからくる『空間』と同一という性質だけしか持たないことはないだろう、ということを言っているのであろう

ここで

『この方法は直接的な認識に特権的価値を勝手に与えていると非難されるだろうか』(p.267 16行目)

と読者に問いかけている

以下、ベルクソンの意見が述べられているが、またも非常に難解なので少しずつ見ていくことにしたいです

まず

『しかし、われわれはある認識を疑ういかなる理由を持っているだろうか』(p.267 17行目)

と逆に読者に問いかけるように自問する。さらに

『ある認識を疑うという考えそれ自体、反省が告知する数々の困難や矛盾、哲学者が提出する諸問題なしに果たしてわれわれに思い浮かぶだろうか』(p.267 17行目-p.268 2行目)

と続け、このあとそれは、『何よりも、直接的な認識を覆い隠す象徴的形式化(finguraration symbolique)から生じるもの』(p.267 2行目-3行目)と結論付け、こう続ける

『この形象化が今度はわれわれにとって実在そのものと化しており、激しい例外的な努力だけがその厚みを突き通すことができるということ、この点が確証されうるなら、直接的な認識は自分自身のうちにその正当な根拠と証明を見出すであろう』(p.267 17行目-p.268 2行目)

と、上引用がベルクソンの結論となる

ここまでを簡単にまとめると、『直接的な認識に特権的価値を勝手に与えている』のではなく、われわれは、一般に『直接的な認識を覆い隠す象徴的形式化(finguraration symbolique)』によって、『ある認識を疑うという考えそれ自体、反省が告知する数々の困難や矛盾、哲学者が提出する諸問題なし』には不可能になってしまっている。つまり、『象徴的形式化』という『厚み』、これは、前の認識論では、『経験論』や『独断論』と呼ばれたものに相当するだろうが、これを突き破って本来の『延長』への『直接的な認識』をすることこそが本来的な『延長』を認識する上で非常に大事である(『直接的な認識は自分自身のうちにその正当な根拠と証明を見出すであろう』)と言いたい、ということであろう


次の第四段落(p.267 8行目-9行目)は、この節の結びとなっている。ごく短いのですべてを引用して、やはり、この節の説明の結びに代えたい。ちなみに、『最後に問題になりえない』と言っているが、それは『直接的な認識』をするからであることは言うまでもない

『この方法の適用がもたらしうる諸結果から、われわれの探求にかかわるものを選ぶことにしよう。もっとも、われわれはそれらを指示するだけにとどめる、物質についてのひとつの理論を構築することは問題になりえないからだ』(p.267 7行目-9行目)

さて、この説の説明は以上だが、これから続く二つの節で、ベルクソンが『延長』(物質)に対しての『直接認識』の方法を定式化しているか、それを主題部分だけ示しておきたいと思う。方法としては四つ挙げられている

第三節 『知覚と物質』
Ⅰ   -どんな運動も静止から静止の移行である限りで、完全に不可分である (p.268 10行目)
Ⅱ  -数々の現実的運動が存在する (p.275 11行目)
Ⅲ -絶対的に決定された輪郭を持つ独立した諸物体へと物質を分割することはすべてまがいの人為的行為である (p.280 16行目-p.281 1行目)

第四節 『持続と緊張』
Ⅳ -『現実的運動は一つの事実の移送というようりも一つの状態の移送である』 (p.288 7行目)

われわれの直感と違うのはⅣであろうが、それぞれが重要な意味を持ってベルクソンが主張していることは追々各節を読んでいくことでご理解いただけるものと思う

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