第三章 『イマージュの残存について - 記憶と精神』 前置き

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

これは、第三章の始めにベルクソン自身がこれまでのまとめとして簡単に記述している部分(p.190 1行目-12行目)を解説したものです。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています


まず、『われわれは、純粋想起、イマージュ想起、知覚という三つの項を区別した』と言っている。(図2(p.191)を参照)しかし、それぞれ孤立してはいない

純粋想起<=>イマージュ想起<=>(純粋)知覚


まず、知覚であるが、従って『知覚は、精神と現在の対象の単なる接触では決してない。』(p.190 3行目)それは、『イマージュ中枢』(あるとすればだが)においては、過去の記憶(イマージュ想起)によって再構成されるようなものである。これをベルクソンは『知覚には、それを解釈しながら補完する数々のイマージュ想起が全面的に浸透している』(p.190 3行目-4行目)という言い方をしている

次に、イマージュ想起であるが、これは二つの性質があるという

『イマージュ想起それ自体はというと、イマージュ想起が物質化し始めるところの「純粋想起」と、イマージュ想起がそこへ受肉するのを目指すところの知覚の双方の性質を帯びている』(p.190 4行目-6行目)

そして、この後者の方の性質から見ると、『イマージュ想起は生まれつつある知覚と定義されるだろう』(p.190 6行目−7行目)というベルクソン独特な解説をしている。これまでの論調からふつうに考えると、知覚がイマージュ想起になるのだが、ベルクソンは逆に、イマージュ想起はわれわれの脳の中では、『注意』することによって、『生まれつつある知覚』となる、と言っているのである

『最後に、純粋想起は、権利的にはおそらく独立しているのだが、純粋想起を現像する色鮮やかで生き生きとしたイマージュのなかでしか、通常は現れることはない』(p.190 7行目-9行目)

と、残る『純粋想起』について解説しているのだが、生き生きとしたイマージュのなか』という言い回しが難しい。このイマージュとは何か。これまでの説明の通り物質全体なのか、われわれの脳なのか、まぎらわしいが『イマージュ想起』ではない、すくなくても、『イマージュ想起』だけではないだろう。この『生き生きとしたイマージュ』という表現の中にはわれわれの脳にある『運動図式』つまりは『純粋想起』が中にあるイマージュということだろう。持って回った言い方をしたが、おそらくこの『生き生きとしたイマージュ』とは、われわれ生きている健康な人間を指していると考えたい

要するに、『純粋想起』は記憶が脳の中で物質化されたものであるが、それだけではなんの役にも立たない。健康な生きている人間という『生き生きとしたイマージュ』がないとなんの意味もないある種の記録にすぎない、また、そもそも、その『純粋想起』自体も発生しないだろう、という意味だいうことだ

さて、残りの部分であるが、『知覚』、『イマージュ想起』、『純粋想起』は厳密には区別できないということが述べられている。このことは特に取り上げて詳細に説明することもないと思う
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