第三章 『イマージュの残存について - 記憶と精神』 第一節「純粋想起」

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは第三章第一節「純粋想起」(p.190 13行目−p.198 1行目)の内容を解説したものです。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています

もともとは、ブログ版の記事を加筆修正したものとなります

第一段落(p.190 14行目−p.191 13行目)は、重要なので詳しく見てみたい

まず前置きで、(純粋)知覚とイマージュ想起、純粋想起の三つの区別について説明され、その三つの境界は非常に曖昧なものであるということを説明した

この節は次のような文章から始まる

『このことはそもそも、記憶を分析するために、意識が、活動しつつある記憶の運動そのものを辿るそのたびに、その意識が苦もなく確認していることである』(p.190 14行目−15行目)

このあと、こう問いかける

『では、想起を再び見いだすこと、われわれの歴史の一時期を想起することはどうだろうか』(p.190 15行目−16行目)

ベルクソンは、このことを『写真機の焦点合わせに類似』(p.191 2行目)しているという。テキストではこの前の部分に、こうある

『われわれは、最初に過去一般のなかに身を置き、次いで過去のある領域のなかに身を置くために、われわれが現在から身を引き離すための独特な行為を意識する』(p.190 16行目−p.191 2行目)

注意すべきは、このとき『われわれの想起は依然として潜在的な状態のままである』(p.191 3行目)ということである。言い方を変えれば、まだ、はっきりとは意識できず、うすぼんやりとなんとなく、という状態であると言っていいだろう。脳を現代のコンピュータに例えればパイプラインに相当する、無意識の自動的な処理に、外部のメモリ(これにはコンピューターでは、キャッシュメモリ、主記憶装置、あるいは、SDDやHDDなどの外部記憶装置などがある)から適切なデータを探し出してきて、データを並べようとしている、そんな状態に相当すると言えるだろう

ベルクソンの言い方では

『われわれはそのようにして、適切な態度を採りながら、単にわれわれの想起を受け入れようとしているだけである』(p.191 5行目−6行目)

やがて

『すこしずつ、われわれの想起は濃縮する靄(もや)のように現れる』(p.191 5行目)

この段階に及ぶと、ようやく、『潜勢態から現勢的な状態へ移る』(p.191 5行目−6行目)と言う。易しく言えば、「何となく」から「ああ、あれかなぁ」、という状態になってきたということだろう

『そして、輪郭が明確化され、表面が色づいてくるにつれて、われわれの想起は知覚と次第に相似していく』(p.191 6行目−7行目)

コンピュータならばここに置いてCPUのパイプラインに命令と共にデータが並べられ、処理が始まってきたということに当たるだろうか

このあとの文章(p.191 7行目−13行目)が一つの文であり、一文としてはかなり長いのでその分やや難解になっている。わかりやすくするために、分けて少し手を入れてみれば、こうなる

まず、『しかし、われわれの想起は深く張られたその根によって過去につながれたままで、』(p.191 7行目−9行目)の部分でいったん区切ることができ、最後を『つながれたままであるので、』としても同じ意味の文章になる。このあと、『われわれの想起がひとたび現実化されると、その本源的潜在性の跡が見えなくなるのだとすれば、また、想起が現在の状態であると同時に現在と際だった対比をなす何かでないのだとすれば、』(p.191 9行目−12行目)と続く部分を一つ独立したものと考える。そう見るとき、この部分は、先に述べた『想起が過去につながれたまま』ということの正反対の仮定をくわしく述べて、もし、そういう正反対の状態にあるとすれば、『われわれはその想起を想起として再認する事は決してないであろう』(p.191 12行目−13行目)といったん結論づけているということになる

このことはまた、最初の想起が過去との強く結びついているという『深く張られたその根』(p.191 8行目)という曖昧な比喩表現を反語的に説明する効果を狙っていると、理解すべきであろう。

以上を要約すると、再認された想起というものは過去のものである(本源的潜在性)とはっきり我々にはわかる、ということであり、同時にそれはまた、『現在と際だった対比をなす』ものであろう、ということになるだろう


次の第二段落(p.191 14行目−p.193 15行目)では、前半三分の二(p.191 14行目−p.193 6行目)は、当時あった『観念連合論』への批判に割かれている。ここは、概略だけ述べて省略したい

まず、ここでの観念連合論とは、前節『第二章 第三節「想起と運動」 (下)』で概略だけ述べた、『科学的思考』への批判(p.164 12行目−p.171 12行目)とほぼ同じだと言っていいだろう

すなわち、できるだけ単純化した要素の組み合わせだけで、人間の記憶について説明しようとするけれども、結局は、どのようにそれらが連携して記憶を構成しているかは説明できない、前章での説明は簡単にはこうだった

まず、この段落でも同じ批判が繰り返される

『観念連合論の恒常的な誤りは、生きた実存であるこの生成の連続を、惰性的で並外れた多数の不連続の諸要素と置き換えていることである』(p.191 14行目−16行目)

さて、今回の批判の焦点は

『かくして、心理学的生はその全体が、感覚とイマージュの二つの要素に帰着する』(p.192 17行目)

ということになる(筆者注:観念連合論ではこの『感覚』と『イマージュ』の二つしかないことに注意しなければならない)

このことについて、この節の本来の目的は批判にあるのではないため、すでに述べたようにこの段落における議論の詳細は省略したい。参考として、先の文章の続きにおいて、ベルクソンはこれまでの議論を以下のようにまとめているので引用しておきたい

『一方では、イマージュのなかに、イマージュの始原的状態をなしていた純粋想起を埋め込み、他方では、知覚のなかに、イマージュそれ自体に属する何かを置くことでイマージュをさらに知覚に近づけたのだから、これらはもはや程度の相違や強度の相違しか見いだせられないだろう』(p.193 3行目−6行目)

これに、もう少しだけ説明を加えた部分を引用すると

『観念連合論の恒常的な誤りは、生きた実存であるこの生成の連続を、惰性的で並外れた多数の不連続の諸要素と置き換えていることである』(p.191 14行目−16行目)

とある。この部分とそのあと記述されているベルクソンの説明を要約し説明するならば、以下のようになるだろう

まず、諸要素は、基本単位であるが故に記憶の連続性や他の要素に対する連続性を確保するための時間的、位置座標も構成要素を属性として持つだろう。また、そこには、視覚の要素であれば、われわれが、単に黄色という以上の、たとえば、RGBのデータがあるだろう。それだけならともかく、観念的にものを受け取るための要素の最小の要素であるからには、上の例で言えば「黄色」という色の名前や、そのほか、われわれの「熱い」、「寒い」といった感覚や、「そのときの気持ち」を引き起こすためのすべての要素が用意されているに違いない。というのも、観念論においては、すべてがわれわれが先天的に持つ科学的存在論の原子の様な観念こそが諸事物を認識する最小の基礎単位なのであるから

外界が(本質的にはそれもわれわれの中であらかじめ用意されているものに過ぎないのだが)、そのようなもので構成されている以上、外部のイマージュから受け取る知覚も当然そのように構成されているに違いない

また、記憶は知覚されたものに対して用意されたものを限定して脳のなかという限定された外界に記憶されているだけなので、結局、われわれの知覚と記憶には程度の違いしかないだろう

ということになると考える

以上、要約であるが、観念論において、基本的諸要素を想定し、それを用いて、外界、知覚、記憶が構成されているという、観念連合論の主張を大まかに説明し、本質的にそこでは、知覚と記憶は、程度の違いしかないということを説明した

では、観念連合と対する、ベルクソンの主張はどうなのか、残りの部分を少しくわしく解説してみよう

『しかし、本当のことはわれわれが一挙に過去に身を置くのでないならば、われわれは決して過去に到着しないのだ』(p.193 6行目−8行目)

このことに違和感を覚える方もあるかもしれない。しかし、われわれは、すでに、第二章『想起の現実化』という節での聴覚の再認の説明で、似たような主張をしているのを見ている。そこを再び引用しよう

『われわれが正しければ、《聞き手は一挙に対応する諸観念の中に身を置き》、それらの観念を、聴覚的表象へ展開させ、それらの表象が、運動図式の中へ自力ではまりこむことで、知覚された生の音を覆うのではなければならないだろう。』 (p.156 12行目−15行目:《》内はテキスト傍点付き)

今回は、ベルクソンは、続けて以下のように説明している

『本質的に潜在的なものたる過去が、われわれによって過去として捉えられうるのは、過去が暗闇から白日の下に現れることで現在のイマージュへと開花する運動をわれわれが辿り、採用する場合だけである』(p.193 8行目−10行目)

このあと観念連合論への批判が続いて段落は終わる

たとえば

『何か現在的ですでに現実化されたもののなかに過去の痕跡を探しても無駄だろう』(p.193 10行目−11行目)

つまり、観念連合論において、すべては現在のわれわれのなかで展開されているので、時間的な要素が基本要素にあったとしても、知覚と記憶に本質的な違いはないし、そうである以上、実際の時間とは関係なしに記憶を連続性してたどれるかについても説明できていない、という批判として置き換えられるのではないだろうか

それゆえに、

『現在的なもののなかに置かれた観念連合論は、現実化された現在の状態のうちに、その過去の起源の痕跡を発見し、』(p.193 12行目−13行目)あるいは、『あらかじめ大きさの相違でしかないことを余儀なくされたものを、本性の違いへ仕立て上げようと』(p.193 13行目−14行目)

したのではあるが、結局は、

『無駄な努力をして力つきたのである』(p.193 14行目−15行目)


第三段落(p.193 16行目−p.195 13行目)からは、しばらく、当時の心理学の通説を批判している。まずそれを見てみたい

最初にこの段落のテーマが呈示される

『《イマージュ化すること[想像すること](imaginer)》は、《想起すること(se souvenir》)ではない。おそらく想起は、現実化するにつれて、イマージュのなかで生きるようになる』(p.193 16行目−17行目:《》内は傍点付きとイタリック)

『しかし逆は真でなく、純然たるイマージュが私を過去に連れ戻すのは私が実際に過去のなかにそのイマージュを探しに行き、そうすることで、このイマージュを闇から光へ連れて来た連続的進展を辿る場合だけであろう』(p.194 1行目−3行目)

このあと、観念連合論批判と同様に、今度は現在の『感覚』と現在の『想起した感覚』を同じものだと見なす心理学者への批判が展開される

『これこそが、心理学者たちがあまりにもしばしば失念していることであって、それを失念しつつ彼らは、思い出された感覚はそれと深く関与するときより現実的になるということから、感覚についての想起は生まれつつあるこの感覚そのものであったというのである』(p.194 3行目−6行目)

これは、観念連合論批判と逆の構図の問題が心理学者たちに起こっている、というのを指摘している。『深く関与するときより現実的になる』、といういう程度の差によって、『感覚についての想起』と『生まれつつある感覚』の違いがあるだけで本質的に相違点はない、と、今度は、その起源を無視し、すなわち、現在起こっていることと区別がないということから、『感覚についての想起』と『生まれつつある感覚』を同じものだと見なしている

このあと、『心理学者が引き合いに出す事実はおそらく正しい』(p.194 6行目−7行目)と認めながらも、

『問題なのは、苦痛の想起が真に当初の苦痛であったのかどうかを知ることである』(p.194 10行目)

と指摘してる

たとえば

『催眠術をかけられた被験者が、熱い熱いと執拗に繰り返し言われたとき、最後には熱さを感じるようになったからといって、暗示の言葉それ自体がすでに熱いということにはならない』(p.194 11行目−13行目)

『これと同様に、ある感覚の想起がこの感覚そのものへ引き継がれるからといって、そこから、想起は生まれつつある感覚であったと結論してはならない』(p.194 13行目−14行目)

こう考えると、ベルクソンが批判する『心理学者たち』の論がおかしいかもしれない、というのはわれわれにもわかってくる

しかし

『それでもこの推論は間違ってはいない。なぜなら、この推論は、想起が現実化するにつれて変化するという異論の余地なき真実の恩恵を受けているからだ』(p.194 17行目−p.195 2行目)

この段落の最初を思い出して頂きたい。そこにはこう記されていた

『《イマージュ化すること[想像すること](imaginer)》は、《想起すること(se souvenir)》ではない。おそらく想起は、現実化するにつれて、イマージュのなかで生きるようになる』(p.193 16行目−17行目:《》内は傍点付きとイタリック)

繰り返しになるだろうが、『おそらく想起は、現実化するにつれて、イマージュのなかで生きるようになる』わけであるから、現実化したときに区別は付かない、という心理学者の主張は否定できない、と言っているのだろう

ところで、その引用の続きには、こうあった

『しかし逆は真でなく、純然たるイマージュが私を過去に連れ戻すのは私が実際に過去のなかにそのイマージュを探しに行き、そうすることで、このイマージュを闇から光へ連れて来た連続的進展を辿る場合だけであろう』(p.194 1行目−3行目)

このことを念頭に、続きの部分を見てみたい

『しかし、これとは逆の歩み —とはいえ、ここで身をおいている仮説のなかでは、逆の歩みも同じく正当なものであるはずだ— を辿りながら推論するとき、つまり、純粋想起の強度を増加させる代わりに感覚の強度を減少させるときにこの種の推論の不合理が生じる』(p.195 2行目−5行目)

ここからの文章は比較的易しいので私の言葉でまとめさせていただきたいのだが、つまりは、感覚の強度を減少させたときに想起と区別が付かない、ベルクソンの言葉で言えば、『ある瞬間に感覚が想起に変身する』(p.195 6行目)はずである

たとえば、心理学者の言う通りならば、想起が催眠術の暗示と違いある種の感覚に等しいとすれば、熱いという感覚は、いつか熱いという想起に置き換わって、その区別は付かないだろう。しかし、微弱な感覚が、はっきりと思い出せる強い想起であるということは、おかしいではないか。はっきりと思い出せる微少の熱さ、それがなければ、非常に熱いという感覚が徐々に想起に置き換わるというような現象が起こりうるだろうか

われわれは、知覚されたある時の感覚をそのまま覚えており(イマージュ想起)それが脳でわれわれの曖昧さを許さない肉体理論によりの物質化されることが純粋想起である。そしてその区別をつけることは難しい(図2)、というのがベルクソンの主張だった。そして、『想起』するとは、催眠術者の言葉のようにそれ自体が熱いということではなく、ある種のきっかけで、熱いという体験自体をもう一度辿ることによって起こる(現代風にいうと神経回路の興奮が暗示によって起こる)のであり、熱いという言葉が熱いのでないように、はっきり思い出せる微少な感覚が、現実の強い感覚に置き換わるのではない


純粋想起<=>イマージュ想起<=>知覚


このように、『心理学者たち』も再び、観念連合論とほぼ同じ結論、つまり、『感覚』と『想起』は程度の差でしかない、という結論に、別の方向から陥ったといっていいだろう。これは次の段落から展開される批判に続いていく


では、次の第四段落(p.195 14行目−p.196 9行目)を見てみたい

ここではこう始まる

『しかし、想起と知覚のあいだに程度の相違しか確立しないことに存する錯覚は、観念連合論の単なる一帰結以上のものがあり、哲学史における一偶発事以上のものである。この錯覚は深い根を有している。それは、結局のところ、外的知覚の本性ならびに対象についての誤った観念に立脚している』(p.195 14行目−17行目)

ここは非常に大事であるので、ベルクソンの指摘を、もう一度私なりに解釈して繰り返すならば、こうなるだろう

『想起と知覚との間に程度の相違しか確立しないことに存する錯覚』というのは、これまで見てきた『観念連合論』と『心理学者たち』の説のことで、これらの説は二つの説は本質を見極めていくとともに『想起と知覚の間に程度の違いしか』見ていない

しかも、このことは、単に『観念連合論』や『哲学史の一偶発事』と済ますには、『この錯覚は深い根を有している』と指摘している

この『深い根を有』する『錯覚』の本質的な問題は、『結局のところ、外的知覚の本性ならびに対象についての誤った観念に立脚している』という、ここまでで見てきた、ベルクソンの批判に帰着するわけだ。それをここでは、

『純粋精神に差し向けられる、全く思弁的な関心を持った教えしか知覚のなかに見ないつもりなのだ』(p.195 17行目−p.196 1行目)

という言い方で批判している。これは、観念論的な、もしくは唯心論的なものの見方に結局は汚染されているではないか、という批判であると言い換えられるだろう。数行省略して、

『しかし、過去と現在のあいだには、程度の相違とは別のものがまさに存在している』(p.196 4行目−5行目)

と、ベルクソンは主張する。それは

『要するに、私の過去が本質的に無力であるのに対して、私の現在は私に行動をするように促すものなのだ』(p.196 6行目−7行目)

このあと、ベルクソンは

『この点について詳述しよう。われわれが「純粋想起」(souvenir pur)と呼ぶものを現在の知覚と対比させるだけでも、われわれはすぐに「純粋想起」の本性をよりよく理解できるだろう』(p.196 7行目−9行目)
(※筆者註:引用文はテキストでは『われわれはすでに「純粋想起」』となっているが、意味が通らないので『すでに』を『すぐに』に修正した)


次の第五段落(p.196 10行目−p.198 1行目)を見てみよう

『実際、意識によって受け入れられた、現在の実在についての具体的な特徴を定義することから始めるのでなければ、過去の状態の想起を特徴づけようとつとめても無駄であろう』(p.196 10行目−11行目)

で始まるこの文章が、この段落のテーマであると言い換えてもいいだろう。つまりは、『知覚』と『純粋想起』の対比である

さて、次の行はこう続く『私にとって現在の瞬間(moment)とは何なのか』(p.196 11行目−12行目)

哲学らしい問いかけである

このあと、ベルクソンはこのような話をする

『時間の本性は、過ぎ去ってゆくことだ』(p.196 12行目)

これは、なかなか興味深い。ベルクソンの処女作は「意識に直接与えられたものについての試論」であるが、英訳されたときに「時間と自由」というタイトルになっているし、後にアインシュタインが相対性理論を唱えたときベルクソンはそれを批判している。つまり、時間は本質的に過ぎ去って行くものだ、一般相対性理論の唱える時空とは全く違うものだ、と言っているに等しい。このことについては、第四章でも詳しく論じられるが、先回りしてもう少し解説しておけば、我々、生物にとっての時間というものは、物理学的時間あるいは時空という概念とは全く異なった扱いをされるべきものだという主張が、ベルクソンの哲学の根底にはある

さて、その物理的な理論と、われわれの認識論の隔たりは一応置いておこう。物理学の理論の説明するところと、われわれの直感が違うというのは、なにも相対性理論に限らず、量子力学などに於いても見られる、現代では珍しいことではないからだし、一般相対性理論に従ってみたとしても、(少なくとも現在は、)現実に人間は、物理的な肉体を保ったまま過去には戻れないからでもある。ここでは、純粋に時間に対する認識の問題として扱うことにする

続きを見てみよう。煩しく思われるかもしれないが、先の文章を入れた形で、続きを引用したい

『時間の本性は過ぎ去っていくことだ。すでに過ぎ去った時間が過去であり、われわれは、時間が過ぎ去るその瞬間を現在と呼ぶのである』(p.196 12行目−14行目)

『しかし、ここでは、数学的な瞬間(instant)が問題なのではない。(中略)実在的で具体的な生きられた現在、私が私の現在の知覚について話しているときにまさに話されているところの現在は、必然的にある持続(durée)を占めている。』(p.196 14行目−p.197 2行目)

これは、簡単に言うなら、私たちが何かしようとしている、動作であれ、知覚であれ、思考であれ、それはわれわれが瞬間と感じ取ってはいるものの、実際には、ある程度の時間(数ナノ秒なり数マイクロ秒なり、あるいは、ミリ秒単位なりの)が必要と言えるだろう

『それでは、この持続はどこに位置づけられるのか』(p.197 1行目−2行目)

と、ベルクソンは問いかけ、こう答えている

『この持続が全く同時にこちら側と向こう側にあるということ、私が「私の現在」と呼ぶものはまったく同時に私の過去と未来に食い込んでいることは、あまりにも明白である』(p.197 3行目−5行目)

私たちは、残念ながら、数学の観念である0というような瞬間を現実世界において感じることはできない。0という観念的な基準で現在を考えたとき、実際感じる瞬間は、過去と未来にまたがっている。言い替えれば、数学的な0の大きさを持つ現在という瞬間は、われわれの現実の生の過去と未来の中間にある、そのまま観念的な瞬間だ、と言い換えられるだろう

このあとの文章はしばらく要約したい

ベルクソンは、時間は、(われわれの認識からして)不可分であり、一方通行である、ということを違う言い方で繰り返す。そして、われわれは、未来側に進んでいるのであるから

『それゆえ、私が、「私の現在」と呼ぶ心理学的状態は、直接的過去の知覚であると同時に、直接的未来の限定でなければならない』(p.197 10行目−11行目)

より具体的に、特殊相対性理論で説明される光円錐を思い浮かべる方もいるだろう。もちろん、ベルクソンが『純粋知覚』は物理現象そのものであり(第一章第四節『イマージュの選択』(p.29 1行目−p.46 14行目)もしくは第一章第十一節『イマージュ本来の伸張性』(p.74 9行目)から数節)、イマージュ記憶は『純粋知覚』を含めて物理現象として受け取ったものをそのまま覚えている(第二章『記憶の二つの形式』特にまとめてある部分としてp.116 4行目−p.117 4行目参照)、と言っているからには、未来方向には光円錐を思い出してもかまわない。先取りすれば、たとえば、p.218 図4には、光円錐の未来側だけを切り出した図とほぼ同じものが描かれている

『ところで、直接的過去とは、知覚されたものである限り、われわれがやがて見るように、感覚である。というのは、どの感覚も、非常に長い一連の基礎的な振動を翻訳しているからだ』(p.197 11行目−13行目)

ここで、『知覚』と『感覚』が分けられている。『やがてわれわれが見るように、感覚である』とあるので、『感覚』に関しては、ここでも後に詳細に説明されるであろう(註:『感情的感覚』については第一章第七節~第九節に詳しいが、ここではそれとは異なる)。『知覚』は、ここでは単にわれわれの感覚器官が対象となるイマージュから受け取ったもの、としておこう。例えるなら、目の網膜に写った画像ぐらいに思えばいいのではないか。もっと単純に、感覚器官による神経細胞への刺激に相当するが適当であるかもしれない。一方で『感覚』とは、感覚器官で『知覚』されたものが、人間の神経によって伝搬されるある種の信号(テキスト中では『震動』)となり、たとえば、赤い色を見たときに「赤い」と思うだけでなく、「暖かい」と思うような、様々な感情を自動的に引き起こしたりする、ということに相当するだろう

ややあいまいで中途半端な解説で申しわけなく思う。続きをみよう

『直接的未来はというと、みずからを限定して行くものである限り、行動もしくは運動である。』(p.197 13行目−14行目)

『私の現在はそれゆえ、感覚と同時に運動である』(p.197 14行目−15行目)

煩雑に思われる方もいらっしゃるだろうが、反復しておこう。『直接過去は、(中略)感覚である』(p.197 12行目−13行目)。一方で『直接的未来は、(中略)行動もしくは運動である』(p.197 13行目−14行目)。そのうえで

『私が、「私の現在」と呼ぶ心理学的状態は、直接的過去の知覚であると同時に、直接的未来の限定でなければならない』(p.197 10行目−11行目)

であったから

『私の現在はそれゆえ、感覚と同時に運動である』(p.197 14行目−15行目)

という論理的帰結に達すると、ベルクソンは主張している

『そして、私の現在は、不可分な全体を構成しているのだから、この運動はこの感覚に張り付き、この感覚を行動へと引き延ばすはずだ』(p.197 15行目−16行目)

この引用の部分は『この運動』が少しわかりにくい。私なりに、もうすこしわかりやすく言い換えれば

「『感覚』と『運動』はお互いに結びつき、お互いから見てお互いが付属しあう状態になる。(ベルクソンのこれまでの主張からみても、あるいはこれが記憶の最小単位と言っても良いかもしれない)そして、『直接的過去』である『感覚』は、『直接的未来』で『運動』となり、さらには、より総合的な『未来』の『行動』と『引き延ば』されることになるだろう」

ということになるだろうか

さて、以下、ベルクソンによる、この節の結論である。引用してこの節の解説を終わりたい

『このことから私は、私の現在が諸感覚と諸運動の組み合わされた体系《システム》からなるのだと結論する。私の現在は本質からして感覚-運動的なものなのである』(p.197 行目−p.198 1行目、《》内はテキストフリガナ)

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