第三章 『イマージュの残存について - 記憶と精神』 第五節 「一般観念と記憶」 (上)

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは第三章第五節「一般観念と記憶」(p.223 2行目-p.232 12行目)の内容を解説したものです。今回もやや長くなったため、上、下の二つに分かれています

テキストでは以下のようになります

上 : p.223 2行目-p.226 16行目
下 : p.226  17行目-p.232 12行目

今回は

上 : p.223 2行目-p.226 16行目

に相当します

以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています

もともとは、ブログ版の記事を加筆修正したものとなります



まず、ごく簡単に前節までの内容をもう一度振り返りたいと思います。第一節、第二節の内容は簡単に言えば、記憶には二種類あり知覚はイマージュ想起から純粋想起へゆっくりと変わります(図2)。ほかに純粋想起と知覚には本質的な違いがあるという内容でした。そして、無意識は、生き生きとしたイマージュであるわれわれの肉体の『感覚-運動的諸現象』を司っており、言い替えれば『私の現在は本質からして感覚-運動的なものなのである』(p.198 1行目)ということがあり、その他では繰り返しになりますが特に第二節の後半で、知覚と純粋想起が本質的に異なるものである、ということを詳しく見たのでした




第三節では、無意識について検討されています。ここでの内容は主なところで、意識が思弁に向いたものとされる錯覚や、そこから生じる現実的な現実存在についての考察、無意識について考えることへの嫌悪感、記憶が脳に保存されているという思いこみについてなどが指摘されていました

続く第四節では、こうして再び二種類の記憶、純粋想起とイマージュ想起について考察が始められました。まず、知覚も厳密に言えば、肉体という現在から見たときにすべて過去であり記憶であること、そのことによってイマージュ想起と純粋想起は結びつけられること、イマージュ想起はわれわれという人間の一貫性を保ち、習慣である純粋想起やその現実的な活動である『感覚-行動的』な『意識』の活動は、普遍的な物質世界の行動を司っていると主張されていました。さらに、イマージュ想起は差異を、純粋想起は類似をその記憶と知覚、もしくは記憶と記憶から見分けるという特徴があり、その合流点がこれが『一般観念』の現れるところであるということでした

以上、第四節まで振り返ってみました



では、本文にもどり、この節の最初の段落(p.223 2行目−10行目)を見よう

その前に、前置きと重複する部分もあるが、もう一度簡単に前節の『一般観念』についての記述を振り返っておこう

前節の最後の段落から、『一般観念』についての話が少しずつ出てきていた。それは、普通の人は『イマージュ想起』と『純粋想起』の両方の使って物事を考えており、それらがもたらす『数々の差異(différence)』と『数々の類似(ressemblance)』という二つの特徴、いわば、『二つの流れ』の、その『合流点に一般観念は現れる』、とベルクソンは主張しているのであった

この段落はこう始まる

『ここでは、一般観念の問題の全体を一度に解決するのが重要でなのではない 』(p.223 3行目)

どういうことか。まず

『知覚を唯一の起源とすることなく、遠隔的にしか物質対象と関係しないもの』を『脇に置き』、『われわれが類似の知覚と呼ぶものに基づいた一般観念だけを考察するつもりである』と言う。さらに、このことに関しての方法論として、『われわれは、純粋記憶、成全的記憶を、その記憶が運動習慣の中に挿入されるために行う努力を通じて辿るつもりである』と言う(p.223 3行目-6行目を要約)

ここで、少し注意しないといけないのは、『成全的記憶』が『純粋記憶』と同じものであるということ、それが『運動習慣の中に挿入される』ということから考えて、それらは『運動習慣』に包含される関係にあるのであろう。さらに、これまでは、『純粋想起』と呼ばれていたものが、ここではおそらく『純粋記憶』と呼ばれるようになったということだ。この『純粋記憶』と『純粋想起』はおそらくは等しいと思われるが、しかし、『運動習慣』との包含関係を考えると、『感覚‐運動的』である『意識』の働きのうち、『知覚』から『感覚』へと移行する場合に使用される記憶だけを『純粋記憶』と呼び、『感覚』と『運動』が結びついた形での記憶、ここで言えば『運動習慣』と言えるだろうが、これを『純粋想起』と呼んでいるのかもしれない。このことに関しては、これから先の文章を読んでいく上での注意事項になるだろう。一般的には、『純粋想起』と『純粋記憶』は非常に似た意味を持つため、専門家ではないわれわれにとって、同じものかどうかの区別と、違う場合においてのその区別は非常にややこしいものとなるだろう

さて、この段落の続きに戻ると、そのことは、『この記憶の役割と性質をよりよく知らしめる』(p.223 8行目)だけではなく

『しかし、それによってまた、われわれは、《類似》と《一般性》という等しく不分明な二つの概念を全く独特の見地から考察しながら、それらをおそらく解明するだろう』(p.223 9行目−10行目《》内はテキスト傍点付き)

と述べて、この段落を終えている


では、第二段落(p.223 11行目-p.225 15行目)をみよう

ここでは、まずこう始まる

『一般観念の問題について提起された心理学的な次元での数々の困難をできるだけ仔細に検討するなら、それらの困難を次のような循環のなかに閉じこめるに至るだろうとわれわれは思っている』(p.223 11行目-13行目)

『すなわち、一般化するためにはまず抽象化しなければならないが、有効に抽象しうるためには、すでに一般化しうるのでなければならない』(p.223 13行目-14行目)

たとえば、大きい、小さいというような一般観念を考えれば、人は、「大きい」と言うときとは何を持って大きいと言うのか、「小さい」とは何をもって小さいというのか、というような堂々巡り、これが『一般観念の問題で提起された心理学的次元での数々の問題』でのいわば卵が先か鶏が先かという問題となり、つきつめれば『数々の困難も』結局はそこへたどり着くというのだ

更に、こう批判する

『意識的であれ無意識的であれ、唯名論(nonminalisme)と概念論(conceptualisme)が堂々巡りしているのはこの循環の周りであって、これらの二つの学説の各々が他方にかけているものを他方に有しているのだ。』(p.223 14行目-p.224 1行目)

この後は非常に難解なので、ほとんどを引用しながら解説しなければならない

批判はまず、『唯名論者』たちに向けられる

『唯名論者たちは、一般観念から、その外延だけを取り出して、一般観念のうちに、個的対象の開かれた無制限な系列だけをみる』(p.234 1行目-2行目)

つまり、普通に大きいと考えれられるものを並べて、「大きい」という概念を説明しようとする。ぞう、くじら、あるいは、地球、宇宙などなど、大きいものはたくさんあるから、列挙し比較してその「大きい」という概念を説明するのには困らない

『観念の統一性はそれゆえ、唯名論者たちにとってはわれわれがこれらの判明な対象すべてを無差別的に指し示す際の象徴の同一性のうちにしか存していない』(p.224 2行目-4行目)

上引用文は用語が難しいだけで内容は難しくないだろう。『判明な対象』とは具体性を持った対象、と言い換えて良いだろうし、それらのなかでもっとも明らかな象徴的なもの、つまり「ぞうは大きい」、「くじらは大きい」、「地球は大きい」、「宇宙は大きい」という事柄から、大きいという言葉を定義しようとする

『この点について彼らの言うことを信用しなければならないとすれば、われわれはある事物を知覚することからはじめ、次いでその事物にある語をつけて加える』(p.224 4行目-6行目)

このことは、『彼ら』すなわち『唯名論者』たちは、例えば、一般的に大きいと思われるもの(『事物』)を指し示し、(それを『知覚』したのち)、「大きい」ということを『付け加える』で、その概念を説明しようとする、ということを言っているのだろう。例えば、「象は大きい」、「鯨は大きい」、「山は大きい」などだ

『この語は、他の無際限に多くの諸事物にまで及ぶという能力または習慣によって補強され、そのとき一般観念へ仕立て上げられる』(p.224 6行目-7行目)

ここは、例えば、「大きい」という観念が最初は単にわれわれが直感的に「大きい」ということを表す言葉だったとして、だんだんと、われわれにとっては「小さい」ものである虫のなかでも大きな物を「大きな虫」と言うようになり、ついには「大金」とか「大物」というようなお金の高や人物評にまで一般化が展開されていくだろう、と言っているのだろう

『しかし、語が拡張されると共に、このように、それが指し示す諸対象に制限されるためには、これらの対象は、それらを互いに近づけながらも、この語が適用されないすべての対象からそれらを区別するような類似をわれわれに呈示しなければならない』(p.224 7行目-10行目)

つまり、「大きい」なら「大きい」でどこまでを「大きい」と言うのか、ということをはっきりさせないと、むやみやたらに「大きい」と使っても、今度は一般化されたその「大きい」という観念も、『一般』というより、「特殊な」使い方に分化されてしまうのではないのか、と言っているわけだろう

『一般化は、共通性質についての抽象的な考察なしには進展しないように思われるが、こうして、徐々に、唯名論は一般観念を、最初は外延によって定義するのを望んでいたにもかかわらず、内包によって定義するように仕向けられる』(p.224 10行目-12行目)

つまりは、はじめは、「大きい」なら「大きい」はわれわれが、普通に「大きい」と思う物をならべて、「大きい」を説明していた。しかし「大きい」の概念をを一般化し、さらには、「大金」や「大物」というようにその観念を物以外の物にも使うようになる。そのように一般化していくうちに、次第にどこからどこまでを大きいというのか、それは、結局、その事物のあるカテゴリーのなか、ここではいわゆる大小関係のなかで、相対化された共通認識へ移っていく、と言いたいのであろう

さて、『唯名論』が一般観念を『外延』から定義し一般化のなかで『内包によって定義』するようになってきたのに対し

『概念論が出発するのはこの内包からである』(p.234 13行目)

『概念論によると、知性は個体の表面的な統一性・単一性を多様な性質へと分解するのだが、各々の性質は、まさにそれを限定していた個体から切り離されることで、一つの類(ジャンル)を表象するものとなる』(p.224 13行目-15行目:(ジャンル)はテキスト中ふりがな)

上記引用で、知性による『多様な性質への分解』とは、要するにジャンル分けがどんどん緻密になっていくことを示しているのだろう。例えば、リンゴがあるとする。果物というジャンル分けもできるし、食すれば甘酸っぱいだろう。あるいは植物の実でもあるし、大体丸い形をしている。あるいは見た目に赤いという性質もあるだろう。そういうように、さまざまな性質は、リンゴというものから切り離されたひとつの『類(ジャンル)』ということになるだろう。言い換えれば、リンゴはそれらさまざまな『類(ジャンル)』の集合概念だといえる

次の文はまた難解だ

『各々の類が多数の対象を《現実態で(en acte)》含んでると見なす代わりに、反対に今では、各々の対象が多数の類を《潜在態で(en puissance)》含み、そのいずれもが対象にとらわれた性質であると主張されている』(p.224 15行目-p.225 1行目、《》内はテキスト傍点付きとイタリック)

たとえば、先ほども挙げた「大きい」がわれわれよりも小さな虫の中にもあてはまるのは、もともと虫や果物のなかにも『多数の類を《潜在態で(en puissance)》』含むからこそ、「大きい」とか「赤い」とか分類できるのである。「大きい」という『類(ジャンル)』があって『《現実態で(en acte)》』、「大きい虫」などと言うのは、もともと、虫はわれわれにとって小さな物であるはずなのだから、本来なら当てはまるはずがないではないか、当てはまるとすれば、潜在的にそのような性質を持っていたからであると『概念論』は主張しているのだ、と言っているのだと思われる

『しかし、問題は、個体的諸性質が抽象の努力によって切り離されたものであっても、最初にそうであったような個体的なものにとどまるかをまさに知ることであり、それらを類へと仕立て上げるためには各々の性質にある名前を押しつけ、次いでこの名前の元に多数の個体的対象を寄せ集める精神の新たな振る舞いが必要なのかどうかを知ることでなのである』(p.225 1行目-5行目)

長い文を引用し読者諸氏にはご面倒をおかけしたかもしれない。この文の説明はしかし、ベルクソン自身がこのあと解説しているので、そちらをご紹介したい

『百合の白さは、一面の雪の白さではない。それらは百合や雪の白さから切り離されたとしても、百合の白さや雪の白さのままである』(p.225 5行目-6行目)

『これらの白さがその個体性を捨てるのは、われわれが、それらに共通の名前を与えるためにそれらの類似を考慮に入れる場合だけである』(p.225 4行目-6行目)

簡単に解説すると、『百合』も『一面の雪』も『潜勢態で《enpuissance》』、『白さ』という一般概念を持ってるのではなく、『百合の白さ』、『雪の白さ』から『その個体性を捨てるのは、われわれが、それらに共通の名前を与えるために、その類似性を考慮に入れる場合だけである』と言っているのだ

以下、少しまとめて書くと、このことは、結果として『最初に放棄された外延の観点に戻ることではないか』(p.225 10行目-11行目)と指摘している。それは、結局は『個体』を『個体的諸性質』へと分解していったあと、はじめに考えた『唯名論』と同じように、具体的な対象の類似性あるいは、相対的な比較のなかから共通点を抽出する作業により一般概念を抽出するという過程をたどっている。すなわち、『ある名前を相似た対象に適用する』という「唯名論」の最初の一般概念の抽出過程へと戻ってしまうということが起こっていると指摘している(p.225 8行目-11行目)

『それゆえ、われわれはまさに実際に循環に陥っているのであって、唯名論はわれわれを概念論へと導き、概念論はわれわれを唯名論へと連れ戻すのだ』(p.225 11行目-13行目)

このベルクソンの記述に何も付け加えることはないように思う。あとは、この段落の最後のまとめを紹介して終わろう

『一般化は共通の諸性質の抽出によってしか行われえない。しかし、諸性質は、それが共通なものと見えるためには、すでに一般化の動きを蒙《こうむ》っているはずなのだ』(p.225 13行目-15行目、《》内は筆者による読み仮名)


第三段落(p.225 16行目-p.226 4行目)を見よう

この段落は短い。他の部分と比較すればあまり難しくはないので、最初と最後だけを引用したい

『これら相反する二つの理論を次に掘り下げることで、それらに共通の公準が見いだせるだろう』(p.225 16行目-17行目)

以降の内容をまとめると、こうなるだろう。『唯名論』は『類(ジャンル)を枚挙によって構成し』、『概念論』は『分析によって構成する』。しかし、どちらも、『数々の個体』をそれぞれの対象の『知覚』から『直接的な直感に与えられた存在』として扱う、ということをベルクソンは『共通の公準』と表現している(p.225 17行目-p.226 3行目を要約)

この段落は、以下の引用文を最後の文として終わる

『その見かけ上の明証性にもかかわらず、その公準は真実味のあるものでもなければ、諸事実に適合してもいない』(p.226 3行目-4行目)


第四段落(p.226 3行目-16行目)をみよう

この段落もさほど長くはないのであるが、はじめから難解である。しかし、最初の三つの文は流れるように連なっているので、まずは引用させて頂き、後に説明をさせて頂きたい

『実際、一般観念の明晰な表象が知性の極みであるのと同様に、個体的諸対象の判明な区別は贅沢な印象であるようにア・プリオリ〈先天的〉に思われる』(p.226 5行目-6行目:〈先天的〉の部分は筆者が挿入)

『数々の類〈ジャンル〉を完璧に構想することはおそらく人間の思考に固有である』(p.226 6行目-7行目:〈〉内はテキストフリガナ)

『この構想は反省の努力を必要とし、この努力によってわれわれ、表象から時間と場所の特殊性を消し去るのだ』(p.226 7行目-8行目)

最初に難解だと申し上げたが、最初の文を除けばあとは、読者諸氏も比較的簡単に理解されるに違いない。したがって、最初の文を詳細に解説して、そのあとは、簡単にまとめたい

まず、『一般観念の明晰な表象が知性の極み』とはどういうことだろう。一般観念とはごく簡単に言うと、われわれが知覚できるものに対する性質・形状を表す言葉だろう。この形容をはっきりと区別してうまく他人に伝えることができることこそが、『知性の極み』とベルクソンは言っているのだと思われる。言い方を変えれば、一般化された観念をよく使うためには、その観念の使われ方をよく知らなければならない。そのためには、さらにその一般観念を使う対象一般のこともよく知っておかなければならない。それ故ベルクソンは『知性の極み』と表現しているのではないだろうか

そのことは、この最初の文をもう一度と見る分かるように、一般観念をうまく使うことが『知性の極み』であるということと、『個体的諸対象の判明な区別が贅沢である』が『同様』として表現されていることでもより深く理解できる。すなわち、『個体的諸対象の判明な区別』というのは、あるものがどのような一般観念から構成されているか、ということを逐一説明する、ということであろう。そのことをここではある種『贅沢』なことであると表現している。『個別対象』を単に(『判明』であるというほどではなくとも区別することは)、一般観念を『贅沢』には使わなくてもできるであろうという反語であろう。そして、そのことは暗に、一般観念を正しく使うこと、すなわちその『明晰な表現』が貴重なことであり、『知性の極み』であるということを示しているという


ことだろう

ところで、もう少し深読みすれば『一般観念の明晰な表象が知性の極み』というのは、『唯名論』の『外延』から一般観念を抽出するのに相当し、『個体的諸対象の判明な区別は贅沢』であるというのは、『概念論』の『内包』関係からその物質を表象することに相当するようにも思われる。

このあとの文章は、ほぼおわかりいただけると思うが、念のために三番目の文の『表象から時間と場所の特殊性を消し去る』という部分を解説しておくと、この部分の『表象』というのは、われわれがわれわれの『知覚』から受け取るものをその『表象』と呼んでいるので、そこから、『時間と場所の特殊性を消し去』れば、『数々の類《ジャンル》を完璧に構想すること』につながってくるのだと思われる

文章は更に続く

『ところで、これらの特殊性についての反省 -それなしでは対象の個体性はわれわれにとって理解できないものとなる- は、差異に注目する能力、まさにそれによって、イマージュの記憶を前提としており、この種の記憶は間違いなく人類と高等動物の特性であろう』(p.226 8行目-11行目)

個体性を識別するのは、実は、『人類と高等動物の特性』であり、それは、『イマージュの記憶』を持つからである、と述べている点は注目すべきだ。(ここでも、『純粋想起』と『純粋記憶』を同一視するのと同様に『イマージュ想起』と『イマージュ(の)記憶』を同一視している。)この段落の最初を思い出して欲しい。改めて引用すれば、

『実際、一般観念の明晰な表象が知性の極みであるのと同様に、個体的諸対象の判明な区別は贅沢な印象』(p.226 5行目-6行目)

とあった。『個体的諸対象の判明な区別は贅沢』というのは、『人間や高等生物』だからこそ許される贅沢といいたいのだろうか。しかし、『イマージュ記憶』とは、前節『過去と現在の関係』でも見たように、それは、確かに自己の同一性を保証するものである(p.218 10行目-11行目)と同時に、例えば、大人よりも未発達の子供に特に特徴的な能力(p.220 4行目-14行目)ではなかっただろうか。続きを見ていこうと思う。が、しかし、その前に、ここまで説明してこなかった『感情』という言葉が次の文に出てきているので、それを先に説明しておきたい

『感情』については、第一章 『表象に向けてのイマージュの選択について —身体の役割』に於いていくつかの節を割いて『知覚』とともに述べてある

このベルクソンの説においては、最終的に『知覚』は『感情』と切り離され、『感情』は『知覚』に於ける『不純物(impureté)』として扱われる(p.70 16行目-17行目)。一方、『感情』から切り離された『知覚』として『純粋知覚』が唱えられるという次第になっている

この『不純物』であるはずの『感情』がここでまた登場しているのには、何か理由があると考えると、その『知覚』と『感情』の未分化をここでは主張したいのであろう

では、以下の文を見ていただきたい

『それゆえ、個体の知覚からでも類(ジャンル)の概念からでもなく、中間的な認識から、《顕著な諸性質》もしくは類似についての漠たる感情から出発していたようにまさに思われる』(p.226 11行目-13行目)

つまりは、この段落では、まずは、『一般観念』について、われわれが『記憶』や『知覚』についての特別な考察なしで、どのように考え、扱っているかというのを考察するところから始めようとしているのではないだろうか

続く引用文でこの段落は終わりである。おそらく、私の拙い解説なしでもご理解いただけるだろう

『この感情は、十全に構想された一般観念からも、はっきりと知覚された個体性からも等しく隔てられていて、それら双方を分離によって生み出している。反省的分析はこの感情を一般観念へと純化し、識別的記憶はこの感情を個体的なものの知覚へと凝固させる』(p.226 13行目-16行目)


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