第三章 『イマージュの残存について - 記憶と精神』 第十節「心的均衡」

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは第三章第十節「心的均衡」(p.249 16行目−p.251 3行目)の内容を解説したものです。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています

もともとは、ブログ版の記事を加筆修正したものとなります

まず、最初の部分を引用する。ここでは、精神異常、とくに人格分裂(現在で言う統合失調症)について、前節に引き続き議論されている

※注:解説では、『人格分裂』のかわりに、『統合失調症』という言葉を使うが、テキストの引用では、そのまま『人格分裂』という言葉を用いる

『更にここには、単に精神異常の様々な形態のあいだでだけでなく、本来の意味での精神異常と最近の心理学がかくも緻密に精神異常に近づけた人格分裂とのあいだでなすべき多くの区別が存在するだろう(8)。これらの人格疾患においては、想起のいくつかの集合は中心的記憶から離れ、想起のほかの諸集合との連携を放棄しているように思われる』(p.249 16行目−p.250 3行目)

『しかし、それに付随して感覚性と運動性の分離が観察されないのは稀である』(p.251 3行目−4行目)

引用文は連続した文章であるが、読みやすさと解説のための便宜上二つに分けた。ベルクソンは『統合失調症』を『精神異常』として捕えていないので、本来ならば、前節の『精神異常』との区別を述べて、様々な違いを議論すべきであろうが、現代では『統合失調症』は精神異常の一種であると認められていることもあり、その議論をせず、『統合失調症』についての症状のみを見ていくことにしたい。ここでは、『統合失調症』では、その患者のでたらめな言動のうちに記憶の連携というものが無くなっていることを観察の結果として得られる、ということだけではなく、知覚として受け取ったあとの感覚(『感覚性』)と運動(『運動性』)の連携が分離しているとベルクソンは言いたいのだろう

実際、このあとを見ていくと

『われわれは後者の現象のうちに前者の現象の真の物質的基盤を見ないわけにはいかない。われわれの知的生の全体が、その尖端、つまりわれわれの知的生を現在の現実に挿入させる感覚-運動的諸機能に依拠しているということが正しいとすれば、知的均衡は、これらの機能が損なわれるその仕方に応じて様々に乱されるだろう』(p.250 4行目−8行目)

と続いている

さらにこのあと、別の『機械的な減少』(p.250 11行目)とも表現される原因による異なった精神疾患の例を挙げ、これも、ベルクソンの仮説、すなわち、脳では『純粋想起』という『感覚-運動的』なわれわれの生を司る記憶によって、現実・現在の周辺物理世界(感覚器官からの『震動』あるいはそこからもたらされる情報と言い換えて良いかもしれない)と想起の一致するものだけが行動の選択のために無意識や意識として処理されるという仮説と言って良いと思うが、それが正しければ、脳の損傷と、そのほかの原因での精神疾患では大いなる違いを見せるだろうと言う。ただし、その症例が具体的に示されることはなく、当時としては自明とも言えるほど一般的な症例だったのであろうが、どのような症例かはわからない。したがって、以降は症例自体が抽象的であるのでわれわれにはかなり理解しがたい文章となっている。一応全文を分けながら紹介し解説することにするが、そこでは、これまで以上に私の主観が多く入ることになるだろう

『ところで、感覚-運動的機能の全般的な活力を損なう数々の損傷、われわれが現実感覚と呼んだものを弱め、廃棄するところの損傷の他に、あたかもいくつかの感覚-運動連結がただ単に他の諸連結から切り離されるかのように、もはや動的でなく機械的な減少によって表わされるような別の諸現象がある。われわれの仮説に根拠があるならば、記憶はこれら二つの場合で大いに異なった仕方で損なわれるだろう』(p.250 8行目−11行目)

まず、ここまでで出てくる『動的でなく機械的な減少』というのが難しい。神経系の損傷以外の障害を言っているのであろうということしか分からない。『現実感覚を弱め、廃棄する損傷』に対(つい)するもので『機械的な減少』あることから推測し、おそらく、何らかの身体的欠損などで物事が正しく認識できないような問題であろう。そこから考えれば、たとえば、近視であるとか、難聴、あるいは、身体のどこかが損傷して、感覚はもちろん運動するための部位を失う、などが考えられるのではないだろうか。問題はこの考えが、『感覚-運動連結がただ単に他の諸連結から切り離されるかのように』との表現に合致するかどうかである。しかるに、感覚器官の物理的な損傷と考えて、下二つの引用文を読んでも一応筋は通っているように思われるのでこの考えを紹介した

『前者〈筆者註:感覚-運動的機能の全般的な活力を損なう数々の損傷〉においては、どんな想起も乖離させられはしないだろうが、すべての想起に付けられた錘はより軽くなり、それが現実へと導かれる着実さも低下し、その結果として、心的均衡の紛れもない破綻が生じる』(p.250 13行目−15行目)

『後者〈筆者註:動的でなく機械的な減少によって表わされるような別の諸現象〉においては、均衡は乱されないだろうが、均衡はその複雑性を失うだろう。数々の想起は、それらの通常の様相は保存するだろうが、相互の連帯を部分的に放棄するだろう。なぜなら、これらの想起の感覚-運動的基盤はいわば化学的〈筆者註:ベルクソンが毒物と精神異常の関係に触れていたことを思い出していただきたい〉に変質させられるのではなく、その代わりに機械的に減弱させられるだろうからだ。』(p.250 15行目−p.251 3行目)

この『後者』の『機械的に減弱させられる』事による異常は、あるいは老化による異常かもしれないが、老化の異常も様々であろうから、感覚器官の神経系以外の部分の物理的な損傷ということを想定して解説させていただいている

それでは、この節の最後の部分を引用してこの節の解説を終えよう。ごく簡単な一文の引用である。下の引用文の『想起』とは、ここまでのことを考えればもちろん『純粋想起』であろう。『純粋想起』自体の本来の仕組みは保存されているが、『化学的』あるいは感覚器官の神経の損傷以外の物理的な損傷ということを言っているのであろう。もちろん、『純粋想起』は『イマージュ想起』からもたらされると考えて『イマージュ想起』と『純粋想起』の双方と考えることも十分可能だ

『ただし、どちらの場合にも、想起は直接的に損なわれたり傷つけられたりするのではないだろう』(p.251 2行目−3行目)
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