第三章 『イマージュの残存について - 記憶と精神』 第三章第四節『過去と現在の関係』 (下)

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは第三章第四節『過去と現在の関係』(p.214  10行目-p.223 1行目)の内容を解説したものです。今回もやや長くなったため、上、下の二つに分かれています

テキストでは以下のようになります

上 : p.214 10行目-p.218 8行目
下 : p.218  9行目-p.223 1行目

今回は

下 : p.218  9行目-p.223 1行目

に相当します

以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています

もともとは、ブログ版の記事を加筆修正したものとなります


第三段落(p.218 9行目‐p.219 5行目)に入ろう。

前の段落の終わりを受けて、こう始まる。

『習慣が組織した感覚-運動系の全体によって構成される身体の記憶は、それゆえ、ほとんど瞬間的な記憶であり、』(p.218 9行目-10行目)

『過去の真の記憶は、身体のほとんど瞬間的な記憶の土台として役立っている』(p.218 10行目-11行目)

この部分はほとんど説明もいらないであろうが、あえて行うとすれば、前半部分が『純粋想起』、後半部分が『イマージュ想起』について述べており、この場合、『イマージュ記憶』は『(純粋)知覚』から派生し『純粋記憶』と結びつくときに『感覚』となるべくしてあるという意味だろう。ここではいよいよその関係性、ベルクソンが以前に言った『密接に接合されて一つになる』(p.217 6行目-7行目)ということを説明し始めたということなのだろうか。見ていこう

『それらの記憶は二つの切り離された事物を構成しているのではないから、第一の記憶は、動く平面のなかに第二の記憶によって差し込まれた動的先端(pointe mobile)でしかないのだから、これら二つの機能が相互に支え合っているのは当然である』(p.218 11行目-14行目)

この記述は、あくまで図4を念頭に置いたものであろう。この中で、やはり、『第一の記憶』とは『純粋想起』であり、『第二の記憶』とは『イマージュ想起』のことである。『動く平面』とは現在という時間の断面Pであり、『動的先端(pointe mobile)』とは、『身体のイマージュ』が絶えず行う『感覚-運動的』な動作のための『純粋想起』であるに違いないだろう。この前の引用文で、『イマージュ記憶』が、習慣でもあり瞬間的な『純粋記憶』の『土台』と表現され、この引用文では、『第一の記憶は、動く平面の中に第二の記憶によって差し込まれ』ると記述されていることをどう解釈するかという問題が、しかしここで残る




次の文がやや意味が取りづらい書き方だが、『瞬間的』と表現された『純粋想起』と対照的に意味がとれるから『イマージュ想起』のことを説明しているのだろう。実際に文章をみよう

『一方では実際、過去の記憶は感覚-運動的諸機構に対して、それらの機構を導いて任務を果たさせ、過去の教訓によって示唆された方向へと運動性反応を差し向けうるすべての想起を現前する』(p.218 14行目-16行目)

上記引用文で、『過去の記憶』とはベルクソンの言うところの真の記憶、すなわち『イマージュ想起』であろう。また、『感覚-運動的諸機能』とは『純粋想起』をもとにするものである。つまりは、『瞬間的な記憶』である『純粋想起』は、ある程度は連続しているとは言っても、記憶された順番や時刻と無関係に『知覚』と照合・照会されるものであるから、『知覚』から生じる『イマージュ想起』の長さに比べて相対的に遙かに短い『記憶』だろう。すなわち『純粋想起』を統括しているのは、われわれのいわゆる経験であり、それは、『イマージュ想起』であろう。そうでなければ、われわれのいわゆる『無意識』のうちに『知覚』と照合・照会されるところのものである『瞬間的な記憶』つまり『純粋想起』がどうして統合的に作用するであろうか、と言っているのであろう

このあと、『まさに、そこに隣接と相似による連合が存するのだ』(p.218 16行目)という記述がある。これは、このあとの段落でも少し述べられるが、後に説明される第五節『一般観念と記憶』で論じられる部分の前置きとなっている。そこでは、『純粋想起』と『イマージュ想起』とがバランスをとりながら組織化され統合されていることが示されているとだけ述べて、ここでの説明は省略したい

このように統合的作用をする記憶として『イマージュ想起』が作用する一方、『純粋想起』は、われわれの意識的な現在、言い換えれば『感覚-運動的』な活動を担当している、ということが、次の文からこの段落の最後までに書いてあるのだがここは、上の説明ですでに述べたところも含んでいるので、最後の文だけを引用して残りは省略したい

『実際、ある想起が、意識に対して再び現れるためには、その想起は、純粋な記憶の高みから、《行動》が成し遂げられるまさにその点まで降りてこなければならない。言葉を換えれば、想起を応答するところの呼びかけが出てくるのは現在からであり、生命を与える熱気、それを想起が借りるのは現在の行動の感覚-運動的要素からなのである』(p.210 3行目-5行目)


では、第四段落(p.218 6行目-p.219 3行目)をみよう。

この段落は、ほとんどがあまり難しくない。最初の行と最後の行以外はほとんど要約しようと思う

まず、最初の行をみよう。

『この一致の揺るぎなさ、これら二つの相補的な記憶が互いに挿入される際の精確さに、われわれは「見事に一致のとれた」(bien équilibrés)精神、つまり、結局は完璧に生に適応した人間たちを見るのではないだろうか』(p.219 6行目-8行目)

とベルクソンは言う。以下このことの説明である。要約しよう

ベルクソンはまず、『行動の人(homme d'action)』を説明する。この人はもっぱら、『純粋想起』と『イマージュ想起』のバランスにおいて、『純粋想起』の方に偏った人である。瞬間的な状況判断は優れているけれども、役に立たない『純粋想起』も『識閾〈しきいき〉(seuil)』つまり、意識と無意識の境界線にたくさん出現するし、そのためか、いわゆる行き当たりばったりになりやすい。このことが極端になってくると、下等な動物と同様に反射的な行動だけをとる、いわゆる『《衝動的な人》(un 《impulsif》)』となる。(p.219 8行目-14行目を要約、《》内はテキスト傍点付きとイタリック、〈〉内は読み仮名)

しかし、一方、もはや過去のなかだけを楽しみ行動よりも過去のなかに生きる人もいる。そこに至っては想起も現実の知覚や行動とかけ離れ、行動が伴わなくなる。そういう人は、『《夢見る人》(un 《rêveur》)』である(p.219 14行目-17行目を要約、《》はテキスト傍点付きとイタリック)

ここから、段落の最後までも同様に難しくはない。次の段落へのつながりを示すためにもここは引用したい

『これら二つの極端な状態のあいだには、現在の状態の輪郭を正確に辿るのに十分な従順さと、他のすべての呼びかけに抵抗するのに十分な力強さを兼備した、記憶の幸運な配置[構え]が存している。良識(bon sens)あるいは実践感覚(sens pratique)はおそらくこれ以外何ものでもない。』(p.219 17行目-p.220 3行目)


では、第五段落(p.220 4行目-16行目)を見ていこう。

ここでは、未発達な子供の例などを挙げて、二つの記憶について考察している。ここも難しくないので、同じようにこの段落も、最初と最後だけを引用して、後は要約したい

まず、最初の文は

『大部分の子供における自然発生的な記憶の並外れた発達は、子供たちがまだ自分の記憶を自分の振る舞いと連帯させていなかったことにまさに起因する』(p.220 4行目-5行目)

とある

以下、要約すると、子供は単に自分の目の前に起こる事象の印象だけをたどっていて、行動(ここでは『純粋想起』による『感覚-行動的な』自律行動)と記憶(『イマージュ想起』)が一致していない。つまり、『彼らにおいて行動が想起の指示に従わないのと同様に、逆に彼らの想起も行動の必要性に制限されない』(p.220 5行目-7行目を要約)

従って、子供の記憶力が良いというのも、行動の必要性に制限されていないからで、その知覚によっていろいろなものごとを分けて認識しないことによる。このため、誰もが大人になる過程で知能が発達していくにつれて、言い方を変えれば『想起が次第に行為と組織されていく』につれて、見かけ上、記憶力が衰えていくように見える(p.220 7行目-10行目を要約)このことを、ベルクソンは一言で、

『このように意識的な記憶は、洞察力において獲得するものを、延長において喪失する』(p.220 10行目-11行目)

と言っているが、このことは、『洞察力』を、『イマージュ想起』と『純粋想起』のバランスのとれた一致、言い換えればうまく組織化された『感覚-運動的』な一連の行動、と考え(『洞察力により獲得する』)、その『洞察力』が発達するにつれ、逆に、未成熟な子ども持つような非常に良い記憶力、—ただし、それは単に一連の『知覚』を二重化しただけの『イマージュ想起』をそのまま表現していただけなのであるが—、 それを失う(『延長において喪失する』)ということを述べていると思われる

ここまでのことは、前段落の『純粋想起』と『イマージュ想起』のバランスにおいて『純粋想起』が強くでる人の逆のことを言っているのであろう。つまり、『イマージュ想起』が『純粋想起』とはあまり関係性を持たない、あるいは、社会的に必要とされ発達するところの『純粋想起』が未発達な人のことを言っているのだと思われる

結局、子供の頃の記憶力の確かさが、われわれの『夢』のような確かさを持っていたのは、子供が現実に起きたまま『夢』を見ていたからだ、とベルクソンは言う(p.220 11行目-12行目)

ここからのテキストの記述がやや差別的な表現になっているので、表現を変えて言うと、昔、宣教師がアフリカの未開のところへ入って行ったときに、宣教師が行った説教を、あるその土地の人が

『一字一句間違えずに同じ身振りで端から端まで間違えずに繰り返して言うのを目撃した』(p.220 14行目-16行目)

ということも、著しく異なる社会、およびその社会的な概念のもとで、おおらかに暮らしている人たちの独特な記憶の仕方として説明できる


さて、第六段落(p.220 17行目-p.221 15行目)に進もう

まず、この段落は、こう始まる

『しかし、われわれの過去は、現在の行動の必要性に抑制されているため、ほとんどその全体が隠されたままであるのだとすれば、いわば夢の生活のなかに戻るためにわれわれが有効な行動に関心を持たないすべての場合に、われわれの過去は意識の識閾(seuil)を飛び越える力を取り戻すだろう』(p.220 17行目-p.221 3行目)

以下、次の行も併せて解説すると、われわれだって、就寝しているときのように行動の必要性がないときには、『イマージュ想起』というものがそのまま『夢』として現れてくるだろう、と言っているのだ

『睡眠中に感覚神経要素と運動神経要素のあいだの連絡が中断されること、このことが最近われわれに示された(2)』(p.221 4行目-5行目、(2)は章末の文献番号)

とベルクソンは続ける。さらに、このような仮説を立てずとも、寝ているときには誰もが起きているときに使う神経をゆるめているというのは誰の目にも明らかだろう、とも言う(p.221 5行目-8行目を要約)

『ところで、いくつかの夢や夢遊症状態における記憶の「高揚」は、決して珍しくもない観察事実である。消滅させられたと思われていた数々の想起がそのとき驚くほど正確に現れる』(p.221 8行目-10行目)

以下、とうに忘れていたはずのことを細部まで思い出したりするだろう、と続く。さらに、この類の話において、いわゆる生命の危機に直面したときの臨死体験の話以上に有益なものは何もないとベルクソンは主張する(p.221 10行目-13行目を要約)

この段落の最後の行を引用しよう

『自分の歴史の忘れられていたすべての出来事が、それらのこのうえもなく微細な事情を伴い、しかも、そのことが起こったまさにその順序で、わずかな時間に自分の前に次々と現れるのを見た、と蘇生した患者は明言している(3)』(p.221 13行目-15行目、(3)は章末の文献番号)


第七段落(p.221 16行目-p.223 1行目)をみよう。この段落でこの第四章第四節は終わりになる

この段落はこう始まる

『自分の存在を生きる代わりに《夢見るような》人間存在は、おそらく、このように、自分の過去の歴史の限りなく多くの細部をあらゆる瞬間に自分の眼差しの元に留めておくだろう』(p.221 16行目-17行目、《》内はテキスト傍点付き)

と、前段落からの内容を続けるのだが、この後が興味深い

『反対に、この記憶を、それが生み出すすべてのものと一緒に捨てる人は、自分の現実存在を実際に表象する代わりに、自分の現実存在を絶えず《演じる》だろう。』(p.222 1行目-2行目、《》内はテキスト傍点付き)

これまでもある程度語られてきたことではあるが、さらに、どういうことか、そしてそこから、どのようなことが述べられていくのか、これからのこの段落において、『最初の人』、『他方の人』などと対照的にベルクソンが述べていくのでそれを見ていけばわかるのであろう

まず、『演じる』方の人の続きだが、この人は、『意識を有した自動人形のよう』な人と形容され、『そのようなひとは、刺激を適切な反応へと引き継ぐ有益な諸習慣の傾向に従うだろう』(p.222 2行目-4行目を要約)

そして、『《夢見るような》人間存在』(p.221 16行目)と形容された『最初の人』は

『特殊なものから、そして個体的なものからさえも決して抜け出ることはないだろう』(p.222 4行目-5行目)

このように『最初の人』は、『各々のイマージュに時間内の日付と空間内の場所とを残しながら』、他のイマージュの類似でとではなく『何によって他の諸イマージュとの《異なる》のかに気づくだろう』(p.222 5行目-7行目を要約:《》内はテキスト傍点付き)、とベルクソンは言う

もう少しここを解説すると、『《夢見るような》人間存在』と呼ばれるような人は、その記憶において『イマージュ想起』に偏っている特徴があり、そういう人の特長として、その記憶される『イマージュ』に時間と場所についての情報をつける。あたかも写真に日付とその写した場所を書き込むように。そして、たとえば、異なるときに写したいくつかの同じ場所の写真を比較して、違いを見つけるように『何によって他の諸イマージュと《異なる》のかに気づく』のだ

一方、『自分の現実存在を絶えず《演じる》』と表現された『他方の人』の方だが、この人たちは、『つねに習慣によって支えられており』、『ある状況が以前の諸状況に《類似している》側面だけを』を発見するだろう(p.222 7行目-9行目を要約)

つまり、『つねに習慣支えられている』ような『他方の人』は『純粋想起』がより強く発達して行動しているが為に、部分的な『《類似している》側面』を見分ける力が発達しており『感覚-運動的な』行動がより取りやすくなっているだろう、と言っているのだろう。つまり、同じような場面で、特に考えることなしで『自動人形』のように行動できる力が特に発達している、と言いたいのだ

これらことは、先述べた『まさに、そこに隣接と相似による連合が存するのだ』(p.218 16行目)の内容を一部説明している。おそらく、ここからは、その『隣接と相似による連合』について述べられることになるだろう

ところで、一般的に、次のようなことが言えるとベルクソンは言う

『一般観念は思い出された多数のイマージュの少なくとも潜在的な表象を前提としているので、普遍的なものを《考える》ことはできないが、にもかかわらず、習慣と行動との関係は一般性と思考の関係に等しいのだから、その人が動き回っているのは普遍的なもののなかである』(p.222 9行目-12行目)

あまりにも、抽象的な表現で手がかりがなさすぎる文章だが、しかし、少しずつ具体例を挙げながら考えていこう。まず、『一般観念』だが、これは、例えば、大きい、小さいなどの一見普遍的に思えるような形容詞を例に挙げれば分かる。まず、われわれが大きい、小さい、と言うときには何かに対して大きい、小さい、と思い浮かべ比較して言っているわけだ。「大きい車」といえば、普通はダンプカーや大型トレーラーなどを思い浮かべるだろう。そこでは『多数の潜在的な表象』の比較の対象として、われわれ一般人が乗る乗用車などを思い浮かべているからだ。ところが、たくさんのダンプカーが並んでるなかで、単に「大きい車」と指示するときには、普通は「大きい車」のダンプカーのなかでも特に大きいダンプカーをのことを言っているのが普通である。そういうわけで、このような、大きさを表すような一般観念は、『思い出された多数のイマージュの少なくても潜在的な表象』というものを『前提』としているわけなので、あくまで、それは比べるものとの相対的な『表象』となるだろう。従って、『一般観念』で『普遍的なものを《考える》』ということはできない

さらに、ここまで述べられてきたことを合わせて考えれば、この部分は、『潜在的表象』としての『イマージュ想起』と、イマージュ『知覚』もしくは別の『イマージュ想起』の差違を一般観念では表現している、ということを意味している。これはすなわち、この段落で言う『最初の人』つまり『イマージュ想起』に偏った人の特徴であるだろう

にもかかわらず、われわれは、普遍性をもつ物理法則が支配する物質宇宙で暮らしている。そのことを可能にしているのは、『習慣と行動の関係』、即ち、『純粋想起』に偏っている人の特徴である、類似に良く反応することを『一般性』と言い換え、実際の『感覚−運動』的な行動こそがベルクソンの言う『意識』の働きであったことを『思考』と表現した場合の、『一般性と思考』の関係と等しいということが言えるが、それらのことからである、と述べていると思われる

この後こうベルクソンは述べる

『しかし、一方はまったく観想的な記憶で、その《視野》のうち特異なものしか把握せず、もう一方はまったく運動的な記憶で、一般性の刻印をその行動に押しつけているのだが、』(p.222 12行目-14行目)

『これら二つの極端な状態は、例外的な場合にしか互いに孤立することはないし、十全に現出することもない』(p.222 14行目-15行目)

以上を簡単に要約すれば、一般的にわれわれは、『イマージュ想起』や『純粋想起』にのどちらかのみに偏ることはない、ということになるだろう

続いて、この段落の最後まで引用する。ここは、ここまでの説明から特に解説の必要はないと思われる。また、次の節は『一般観念と記憶』という名がついているというのも以下の引用文に因るのだろう

『通常の生においては、両者は緊密に混じり合っており、それゆえいずれもそれ本来の純粋さの何かを放棄しているのだ。前者は、数々の差異(différence)の想起によって表現され、後者は数々の類似(ressemblance)の知覚によって表現される。二つの合流点に一般観念は現れる』(p.222 15行目-p.223 1行目)

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