第三章 『イマージュの残存について - 記憶と精神』 第二節「現在は何に存するか」

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは第三章第二節 「現在は何に存するか」の内容を解説したものです。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています

もともとは、ブログ版の記事を加筆修正したものとなります


今回は、第三章第二節『現在は何に存するか』(p.198 2行目-­p.201 13行目)について、段落ごとに解説します。


第一段落(p.198 3行目-p.199 7行目)は、前節の終わり『私の現在は本質からして感覚-運動的なものである』(p.198 1行目)を受けて、こう始まる。

『ということはつまり、私の現在は、私が私の身体に有している意識のうちに存するということだ』(p.198 3行目-4行目)

以下、数行要約すると、われわれの肉体の直接直近の過去に相当する『感覚』と同じく直接直近の未来の『運動』を結びつけているのはわれわれの肉体であるので、『ある決まった瞬間には、運動と感覚のただ一つの体系〈システム〉だけしか存在できない』(p.198 6行目、〈〉内はテキストフリガナ)

『そういうわけで、私の現在は、私には、完全に規定されたもの、私の過去と際だった対比をなすものとして私に現れる』(p.198 7行目-8行目)

ということになる。以下、数行要約すると、あくまでも物理的な法則に従う世界におかれた『私の身体』は、われわれの一人一人の『行動の中心であり』、『受け取られた諸印象』は、われわれ一人一人が適切だと考えて選択する『運動』を統合したものである『行動』へ、と変化していく

まさに、『私の身体』という現存在こそがわれわれの現在であり、より一般的には時間の流れのなかでの現在という切断面である。以下、若干難しい表現もあるので、解説の必要もあるために引用すると

『私の身体は、(中略)まさに私の生成の現在の状態、私の持続のなかで形成途中を表している』(p.198 10行目­-11行目)

これは、単純に考えて、『私の身体』は、『私』という過去から未来においてある一定の期間存在し続けるものにおいて、まさに、現在を表す、という意味にとって良いと思う

ここで、少し遡って見てみよう。『感覚』が過去、特に、現在の『知覚』受けて『イマージュ想起』から引き起こされ、そのまま『イマージュ想起』となりそれはさらには『純粋想起』へと変わって行くものものと考えても良いだろう。というのは、前節の最後の段落において、直接過去は『感覚』とほぼ等しいと説明している(『直接過去とは、知覚されたものである限り、われわれがやがて見るように、感覚である』(p.197 11行目-12行目)

このことが、さきほどの引用の『私の身体』が『私の生成の現在の状態』とか『私の持続のなかで途中形成のもの』を表している、と言う表現につながっているのだろう。もっと大胆に言えば、『私』は私の記憶そのものだ、ということになるかもしれない。しかし、いま、そこまで考えずとも、現段階でベルクソンの言いたいことはお判りいただけたのではないかと思う

さて、このあとの行を見てみよう

『より一般的には、実在そのものである生成のこの連続性において、現在の瞬間は、流れつつある塊のなかにわれわれの知覚が作り出すほとんど瞬間的な切断面において構成されており、この切断面こそがまさにわれわれが物質界と呼ぶものである』(p.198 11行目-14行目)

『われわれの身体はこの切断面の中心を占めている』(p.198 14行目-15行目)

以上の引用は、まず、言葉で説明するより下図4を見てもらう方がわかりやすいだろう。これは光円錐の未来側とよく似ているが円錐の部分は現時点の『知覚』から将来に起こることが予想される『想起』となっている


図4


ここで平面Pが『われわれの知覚が作り出すほとんど瞬間的な切断面』に相当し、点Sが『この切断面の中心』である『われわれの身体』となるだろう

物理学では理論的に大きさ0の時間である現在を想定し考慮することが可能であるが、ここでは、どうしても微少の反応時間が必要な『われわれの知覚』が時間の切断面を作り出すわけであるから、必然的に表現としては『ほとんど瞬間的な切断面』という、やや曖昧な表現になる、ということだけを注意していただければ良いと思う

以下数行、われわれの肉体こそが、われわれに物質世界においての現在をまさに示している、ということが叙述される

『物質は、空間の延長である限り、われわれによれば、絶えず繰り返される現在と定義されなければならない』(p.199 1行目-2行目)

(筆者注 このことに関しての具体的な考察はこのあとの第三節で行われる)

『逆にわれわれの現在は、われわれの現実存在(existstence)の物質性そのもの、すなわち感覚と運動の全体であり、それ以外の何者でもないのだ』(p.199 2行目-4行目)

このように、われわれの現在とは『純粋想起』によって引き出されるわれわれの身体の物質性にほかならない、とベルクソンは断定していると言えるだろう

このあとの数行は、大事ではあるが、表現には難しいところがないので簡単に要約すると、われわれの現在は、われわれの身体が規定する『感覚-運動』のシステムに基づいて行動する。しかし、その結びつきは、一度きりのものであり、途中出てくるベルクソンの言葉で言えば『唯一無二』のものである

『それはまさに、感覚と運動が空間の場所を占めていて、同じ場所に同時にいくつもの事物が存在することはできないからだ』(p.199 5行目-6行目)

これも、ベルクソンのこれまでの主張から論理的に導き出される、ベルクソンの哲学のもっとも大切な考えの一つであろう

この段落は、次の問いかけを持って終わる

『—どうして、結局は常識に属する考えにほかならないこれほど単純でこれほど明らかな真理を、見誤ることができたのだろうか』(p.199 6行目-7行目)


第二段落(p.199 8行目-p.201 3行目)に入ろう

先の段落の最後にあった疑問を受けて、この段落は次のように始まる

『その理由はまさしく、現在の感覚と純粋想起のあいだに、本性の相違ではなく程度の相違しか認めないことにある。この相違はわれわれによれば根本的である』(p.199 8行目-9行目)

『相違』が三つ出てきたので、念のために最後の『相違』解説しよう。これは、もちろん、ベルクソンが少しシャレているのであって、『本性の相違』をみるのか、結果的に『程度の相違』しかみないのか、二つの間の『相違』である

ここから、ベルクソンは『相違』が『根本的』である理由の解説を始める

『私の現在の感覚は、私の身体の表面のある決まった部分を占めるものだ』(p.199 9行目-10行目)

『純粋想起は逆に、私の身体のどんな部分にも関与することがない』(p.199 10行目-11行目)

『純粋想起』について、再び遡って見てみよう。この章の前置きにこのような記述があったのを覚えておられるだろうか

『最後に、純粋想起は、権利的にはおそらく独立しているのだが、純粋想起を現像する色鮮やかで生き生きとしたイマージュのなかでしか、通常は現れることはない』(p.190 7行目-9行目)

これも、『純粋想起』は独立して存在する。なぜなら、それは、おそらく、ニューロンの結びつきにより情報がわれわれの脳のなかで物質となったものであろう。しかし、それは、本質的に情報であり、独立してはいるけれども、その存在自体に意味を持たせるのは、『色鮮やかで生き生きとしたイマージュ』の中であり、それは、すなわちわれわれの肉体と言っても良いだろう、と述べた

続きを見よう

『おそらく、純粋想起は物質化されることで感覚を生み出すのだろう。しかし、ちょうどそのときに純粋想起は、想起であることをやめ、現実に生きられた現在の事物の状態へと移るだろう』(p.199 11行目-13行目)

これも、同じ意味で言っているのだろう。この『物質化』とは『身体』による物理的な行動に伴っておこることと同義であろう。一方で

『私が、純粋想起に想起としての性質を取り戻させるためには、私が過去の奥底から、潜在的なものたるこの想起を呼び起こす操作に立ち戻るしかない』(p.199 13行目-15行目)

つまり、『純粋想起』は呼び覚まされるとすぐに『物質化』した『現在』となってしまうので、『想起』としては、『その性質を取り戻させるためには』、もう一度、「思い出す」ということ、ベルクソンの言葉を借りれば『過去の奥底から、潜在的たるこの想起を呼び起こす操作に立ち戻る』ということになる

つまり『純粋想起』を『活動的で能動的な』ものにすることは、『現在的なもの』すなわち『運動を引き起こす感覚』に化すことである。(p.199 15行目-17行目を要約)

これは非常に重要な指摘であり、これまで、『純粋想起』を想定しそれに対し実際の知覚はそれを土台として『イマージュ想起』が結びついているものと考えられてきた(第三章前置き『知覚にはそれを解釈しながら補完する数々のイマージュ想起が結びついている』(p.190 3行目−4行目)参照)。一方で、第二章第二節では、『実に規則正しい運動の随伴、組織化された運動性反応の意識』が『なじみ深さの感情の基盤』となっている推測されると述べられていた(p.124 2行目−p.124 4行目)

ここでは、『感覚』とは『知覚』が『純粋想起』と結びつくことで『現在的なもの』となるとき『運動を引き起こす感覚』となるということから考えて、『知覚』と『純粋想起』との結びつきこそが『感覚』であると改めて定義されていると解釈できるのではないだろうか

さて以下、p.199 17行目からp.200 17行目は、『大部分の心理学者たち』(p.199 17行目)に対するベルクソンの批判である。ここは、要約する

問題点としてまず、

『純粋想起のうちに、より微弱な知覚、生まれつつある諸感覚の一つの総体しか見ていない』(p.199 17行目-p.200 1行目)

ということが再び指摘される。『本性の相違ではなく程度の相違しか認めていない』(p.199 8行目-9行目)という部分の繰り返しだ

それは、つまりは、『想起を物質化し、感覚を理念化する』(p.200 3行目)ということになる、という指摘だろう

結果、『心理学者たち』は、『想起』を『イマージュの形でしか認識しない』(p.200 4行目)

そして、『感覚の大部分を想起に移し替えたので、また、この想起の理念性のうちに感覚そのものとは対照的で異なった何かを見ようととしないのだから』(p.200 5行目-7行目)、『純粋な感覚』に対しては、想起の性質を残すことになる(p.200 7行目-9行目)

これらのことが、次にこのような表現でまとめられているので、ここは少し解説したい

『実際、仮説からしてもはや働きかけることなき過去が、微弱な感覚で存続することができるとすれば、それはつまり無力な感覚が存在するということである』(p.200 9行目-11行目)

『仮説からしてもはや働きかける事なき過去』とは何か、ということをまず説明すべきだろう。これは、第一節の説明ではこの部分、少し不十分なところもあったため、念のために、再び入念に繰り返し説明したい

まず、『心理学者』たちの『仮説』とは、

『思い出された感覚はそれとより深く関与するときより現実的なものとなることから、感覚についての想起は生まれつつある感覚そのものであった』(p.194 4行目-6行目)

ということであろう

ところで、この仮説を検証するために、ベルクソンは、『催眠術をかけられた被験者が、熱い、熱い、と言われて最後には熱さを感じるようになるからと言って暗示の言葉それ自体がすでに熱いということにはならない。同様に(中略)想起は生まれつつある感覚であったと結論してもならない』(p.194 11行目-14行目)と言っていた。しかしこの指摘にもかかわらず、『心理学者たち』の『仮説』は、おそらく怪しいながらも、『想起が現実化するにつれて変化するという異論の余地なき真実の恩恵を受けている』(p.195 1行目-2行目)とも続けていた

そのため、そのあと今度は

『これとは逆の歩み - とはいえ、ここで身を置いている仮説のなかでは、逆の歩みも同じく正当なものであるはずだ - を辿りながら推論するとき、つまり、純粋想起の強度を増加させる代わりに感覚の強度を減少させるとき、この種の推論の不合理が発覚する』(p.195 2行目-5行目)

と、ベルクソンは陳べていた。前節の解説で端的に「しかし、微弱な感覚が、はっきりと思い出せる強い想起であるということは、おかしいではないか」と述べたところでもある

以上、延々と繰り返して説明したわけだが、先ほどの

『実際、仮説からしてもはや働きかけることなき過去が、微弱な感覚で存続することができるとすれば、それはつまり無力な感覚が存在するということである』(p.200 9行目-11行目)

ということも、今度は簡単に理解していただけるのではないかと思う

まず、『もはや働きかけることのなき過去』は、心理学者達の説を批判している部分での

『思い出された感覚はそれとより深く関与するときより現実的なものとなること』(p.194 4行目-5行目)

に相当し

また、つぎの『微弱な感覚で存続する』は、『感覚についての想起は生まれつつある感覚そのものであった』(p.194 5行目-6行目)、すなわち言い換えれば、「微弱な感覚が、はっきりと思い出せる強い想起である」と等しく、つまりは

『無力な感覚が存在すると言うことである』

ということになる

以下の数行をまとめると、同様に、この仮説においては、『純粋想起』は身体のどこにも関与しないし、それが『生まれつつある感覚』であるとするならば、それは身体のどこにも関与しない『生まれつつある感覚であろう』となるはずである

『ここからある錯覚が生じる』(p.200 13行目)とベルクソンは切り出す

『この錯覚は感覚のうちに流動的で非伸張的な状態しか見ることがなく、この状態が伸張性を獲得し、身体のなかで固定されるのは偶然によってでしかない』(p.200 13行目-16行目)

やや難しいが、まず、『この錯覚』とは、先に述べていた『もはや働きかけることのなき過去が微弱な状態で存続』したり、「身体のどこにも関与しない『生まれつつある感覚であろう』」ということであろう

また、その『錯覚』とは、『感覚のなかに流動的で非伸張な状態しか見ることはなく』、つまり、感覚はごく抽象的でまるで数式のようにきちんと定義されたものであると主張しているわけであり、『この状態が伸張性を獲得し、身体のうちで固定されるのは』というのは、上に見たように抽象的で数式のようにきちんと定義されたものであるはずの感覚が、なんらかの特定された身体の感覚として具体化されるのは、『偶然によってでしかない』と、ベルクソンが批判する『心理学者たち』の説を指している

具体的に「痛み」という感覚を考えてみよう。『心理学者たち』の説によると、「痛み」は何らかのきちんと定義されている数学の変数xのようなものだ。これが、われわれのからだの「痛み」として具体化するのは、いったいどうやってか。われわれの身体に、何かものが当たったり刺さったりあるいはその他の方法で傷ついたりすると、抽象的な「痛み」xは、その定義に従って微少の痛みという感覚の何倍かの具体的な痛みに変わる、ということになるだろう

別の言い方で繰り返すならば、何らかの定義された「痛み」なら「痛み」の感覚が元々定義されている。それは、仮説からして、はっきりと知覚されるごく弱い感覚で、しかし、それは、あくまで観念であり、『非伸張』であるわけであるから、なんらかの偶然によってでしか『伸張性』をもち『固定化』されることはできないだろう、と言い換えることもできるだろう

しかし、ベルクソンによると、一見正しいようにも思えるこの考え方は、すでに指摘されているようにそれらは『錯覚』であり

『この錯覚は、われわれが見たように外的知覚の理論を深く汚染しており、物質についての様々な形而学上のあいだで係争中の実に多数の問題を惹起している』(p.200 15行目-17行目)

と批判されている

そうして、ベルクソンは、自分たちの考えを受け入れなさい、これは『避けがたいこと』なのだと言う

『感覚は、本質からして伸張的で局所化されている、それは運動の一つの源泉であるが - 純粋想起はというと、非伸張的で無力であるので、どうやっても感覚の性質を帯びることはない』(p.200 17行目-p.201 3行目)

つまり、『感覚』と『純粋想起』は本質からして違う。それはこの段落のはじめを思い出してもらえば十分であろう(p.199 9行目-17行目)


さて、図らずも、『純粋想起』であれ、書かれた文章でれ、情報は過去であり、それを現在に生かすには、『色鮮やかで生き生きとしたイマージュ』が必要だと体験していただいたところで、この節最後の第三段落(p.201 4行目-13行目)を見てみたい

まず、一般に『私の現在』は『感覚-運動的』であるという説明からはいる(p.201 4行目-8行目)。要約すると、『感覚-運動的』な私の現在には、過去のイマージュのうち、『役に立ちうるものだけ』(p.201 8行目)が、この『感覚-運動的』なものに組み入れられる。つまりは、『純粋想起』になると言っていいだろう

『しかし、それがイマージュとなるや否や、過去は純粋想起の状態を離れ、私の現在と混じり合う』
(p.201 8行目-9行目)。

解説はもう不要だろうが、ここで『イマージュとなる』ということは『物質化する』ということと同義である

残りは、最後のまとめであり、難しいところもなく、ここは全文を引用しようかと思う(p.201 9行目-13行目)。

『イマージュへと現実化された想起は、それゆえ、この純粋想起とは根底的に異なっている。イマージュとは一つの現在の状態であり、その出所である想起によってしか、過去の性質を帯びることはできない』(p.201 9行目-11行目)

『逆に想起は、それに役に立たないままであり、感覚との一切の混合がまったくできないままであり、現在との繋がりを持たず、従って非伸張なものである限り、無力なのである』(p.201 11行目-13行目)

後半部分の、『逆に想起は』というところの説明が少しわかりにくいかかもしれないので、簡単に解説すると、この『想起』(ここでは、『純粋想起』と等しい)は、単なる情報であり、まえに催眠術師の「熱い」という言葉がすなわち、熱いわけではない、という説明にほぼ等しい

この情報(=想起)が、たとえば腕に熱湯がかかるというようなきっかけで思い出される、という経緯をたどって現在のわれわれの生き生きした生命(肉体)よって辿られることでしか、それは『感覚』としての現在にはならない。当然、『想起』はそのままであり続け、一方で、『感覚』は現在の『私』というイマージュと同一になる

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