第三章 『イマージュの残存について - 記憶と精神』 第三節「無意識について」 (中)

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは第三章第三節「無意識について」(p.201 14行目−p.214 9行目)の内容を解説したものです。今回の記事は長文のため、上、中、下の三つに分けています。テキストでは以下のようになります

上 : p.201 14行目-p.205 14行目
中 : p.205 15行目-p.210  3行目
下 : p.210  4行目-p.214  9行目

今回は

中 : p.205 15行目-p.210  3行目

に相当します


以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています

もともとは、ブログ版の記事を加筆修正したものとなります


第三段落(p.205 15行目-p.206 9行目)に進もう。

最初の数行は、もう一度、ケーキを装飾するクリーム絞り器のたとえを使って説明したい

口金の出口の部分が意識だとしたときに、飾られる側のケーキは、『われわれがこれから知覚するものを表象している』(p.205 16行目−17行目)と考えられる

一方で、クリーム絞り器の中にあるクリームは、『すでに知覚されたものだけ』(p.205 17行目−p.206 1行目)のはずである

『ところで、過去はわれわれにとってもはや利害を有していない』(p.206 1行目)

少し省略して、

『反対に、直接的未来は、差し迫った行動のうちに、まだ費やされていないエネルギーのうちに存する』(p.206 3行目−4行目)

蛇足ながら、この文の解釈は、『直接的未来は』、『行動』と『エネルギー』のどちらかかどちらか両方のうちにあるというのが正しいと思う

この段落は、ここからあとの文章が、一文が長くかつ難解である

まず

『物質的宇宙の知覚されていない部分は、数々の見込みと脅威に満ちていて、それゆえ、われわれの過去の生存のうち現下には認知されざる諸期間が有しえず、また有することがあってはならない実在性をわれわれに対して有している』(p.206 4行目−7行目)

とある部分は、とりあえず

『物質的宇宙の知覚されていない部分は、数々の見込みと脅威に満ちていて、』(p.206 4行目−5行目)

『それゆえ、われわれの過去の生存のうち現下には認知されざる諸期間が有しえず、また有することがあってはならない実在性をわれわれに対して有している』(p.206 5行目−7行目)

とに分けてみたい。そうすると前半分の方は特に難しくはないのが分かる

後半部分、特に

『われわれの過去の生存のうち現下には認知されざる諸期間が有しえず、また有することがあってはならない実在性』(p.206 5行目−7行目)

の解釈が難しい。ひとまずこの部分をおいといて、最後の

『われわれに対して有している』(p.206 7行目)

の主語を考えよう。そうすると、これは明らかに

『物質的宇宙の知覚されていない部分は』(p.206 4行目)

であろう

残るは

『われわれの過去の生存のうち現下には認知されざる諸期間が有しえず、また有することがあってはならない実在性』(p.206 5行目−7行目)

の部分の解釈だが

『われわれの過去の生存のうち現下には認知されざる諸期間が有しえず、また有することがあってはならない』(p.206 5行目−6行目)

が、『実在性』(p.206 6行目−7行目)を修飾し、引用文の主な骨格としては

『物質的宇宙の知覚されていない部分は(主語)、(中略)実在性を(目的語)われわれに対して(目的語)有している(述語)』(p.206 4行目−7行目)

と考えていいのではないかと思う

さて、残るは、『実在性』を修飾している

『われわれの過去の生存のうち現下には認知されざる諸期間が有しえず、また有することがあってはならない』(p.206 5行目−6行目)

の部分であるが、これも非常に難解である。しかし、これは、ざっくりと『純粋想起』と捕らえて良いのではないかと思う。つまり、意識が認識できるのは、先に挙げたたとえで言うと、口金にあるクリームであろうから、それより奥にあるクリームは認識できない。そのことを『現下には認識されざる』と言っているのだと考えると『過去の生存のうち』も『(純粋)想起』のことを言っているのだな、と見当がつくだろう。したがって、『過去の生存のうち』を『(純粋)想起』全体の中で、と捕らえることができ、『現下には捕らえることができない諸期間』というのは、意識に捕らえられていない部分、言い方を変えれば、思い出すことによって『イマージュ』となっていない『(純粋)想起』を言っているのだろう

そうすると、『有しえず、また有することがあってはならない』というのも、『(純粋)想起』はただの情報でしかないというこれまでの主張と何ら変わらないということが分かる

さて、ここまで来れば、非常に難解だったこの一文も、単に、『物質的宇宙の知覚されていない部分は』、『(純粋)想起』にはない『実在性をわれわれに対して有している』。というのが、大まかな意味だろういうのが分かっていただけるのではないだろうか。そして、そこには『数々の見込みと脅威に満ちている』ためという、ある種の非常に情緒的な理由が挙げられている

この段落最後の文を見よう

『しかし、この実利的な有用性や生活の物質的欲求とまったく相対的なこの区別は、われわれの精神の中では、ますますはっきりした形而上学的な区別の形を取るのである』(p.206 7行目−9行目)

『区別』ということさえはっきりさせれば、一見難解と思えるこの文も意味がはっきりする。つまり『区別』とは、前文における『物質宇宙の知覚されていない部分』と『われわれの過去の生存のうち現下には認知されざる諸期間』の区別であり、少し遡れば、『過去』(p.206 1行目−2行目)と『直接的未来』(p.206 3行目)の『区別』であるということが分かる。蛇足ながら『過去』はここでは『純粋想起』に置き換えられることは、賢明な読者には自明のことであろう

『区別』が何かがはっきりしたので、この文の解釈を簡単にまとめると、『直接的未来』は、『数々の見込みと脅威に満ちている』ために、『実在性』をもち、われわれの『過去』、ここでは、ただの情報である『(純粋)想起』は、その『実在性』を『有しえず、また有することがあってはならない』ということを、一つ前の引用文でベルクソンが書いているのを見たが、それらの『区別』は、『実利的な有用性や生活の物質的欲求とまったく相対的』な『区別』であるにもかかわらず、『われわれの精神のなかでは、益々はっきりした形而学的な区別の形をとる』とベルクソンは指摘している、ということになるだろう

そして、このことが前の段落でベルクソンが述べていた

『その際、時間は、時間において継起する諸《状態》を次第に破壊していくのに対して、空間はそこに、並置されている諸《事物》を限りなく保存するように思われる』(p.205 7行目−10行目:《》内はテキスト傍点付き)

という『錯覚』の『いくつかの本質的な点を指摘する』(p.205 14行目)と述べていたものののうち、少なくても一つの『指摘』ということになるだろう


では、次の第四段落(p.206 10行目−p.208 3行目)を見てみよう。ここでは前段落で示された『指摘』の詳しい説明となる。まず、はじめの部分を引用する

『実際、すでに示したように、われわれの周りに置かれた諸対象は、われわれが諸事物に対して実行できる作用、あるいはわれわれが諸事物から被らなければならいだろう作用を、様々な程度で表象している』(p.206 10行目−11行目)

最初の、『実際、すでに示したように』とは、二つ前の段落にもあった『この著作の第一章のなかで、われわれが客観性(objectivité)を扱ったときに行われた』(p.205 10行目−12行目)と同じことを言っているのであろうと思う。引用のその後の部分はあまり難しくはないだろう。内容のより具体的記述はこのあとに述べられているので、順次説明していきたい

このあとの数行を簡単に要約すると、先の段落で述べていた『直接的未来』の『脅威』ということについて、『未来』と『空間』との直接的つながりを陳べ、わかりやすく説明している。たとえば

『空間における距離は、時間における脅威あるいはその見込みの近さを測り示している』(p.206 13行目−14行目)

『それゆえ空間は、われわれの次なる未来の図式をわれわれに、このように一挙に与えている』(p.206 14行目−15行目)

というように

そして、われわれ人間にとって時間は無限に未来方向に続くわけと考えてもよいわけだから、『未来を象徴化している空間は』(p.206 16行目)、時間と同様に無限に広がっている(テキストでは、『その不動性において、無制限に開かれたままである』(p.206 16行目−17行目))ことを『特性としている』(p.206 17行目)

ということになるために、われわれは、知覚できる範囲という『圏(circle)』、それを含む、知覚できないが存在しているであろう『圏』、されには、それを含むであろう『圏』というような想定を無際限に繰り返し、そのことを矛盾のないことと見なす(p.206 17行目−p.207 3行目)

『したがって、それが延長である限り、われわれの現在の知覚は、それを内包するより広大で、無際限でさえある経験に比してつねに《含まれるもの=内容(contenu)》でしかないことを本質としている』(p.207 3行目−5行目、《》内は傍点付きとイタリック)

この引用において、『経験』というのが何を示すか具体的には難しい。いわゆる科学を、哲学では、「科学的経験論」と呼んだりするが、このような、いわゆる、無限の内包関係をもち広がる圏のなかで現在という瞬間に生じている物理学的な法則に支配されて起るようなな事象のことを『経験』と言っているのではないかと思われる。あとの部分を見ても

『この経験は、認知された地平をはみ出しているのだからわれわれの意識にとっては不在なのだが、それでも現実に与えられているように見える』(p.207 6行目−7行目)

と続く。『認知された地平をはみ出して』いるような『経験』ということだから、この『経験』をわれわれが感知することがない場所で発生しているはずの物理現象と捉えても矛盾しないと思う

さて、このように『物質的対象』(p.207 7行目−8行目)は、われわれの『知覚』できない部分であっても、強大な影響力を持っているとわれわれは感じる(ベルクソンの言葉で言えばわれわれはそれらに『引っかかってるように感じる』)ために、われわれは『それらを現存する実在と仕立て上げる』のに対し(p.207 7行目−9行目を要約)、

『反対にわれわれの想起は、過去のものである限り、われわれが自分と一緒に引きずっている足手まといであり』(p.207 9行目−10行目)

つまりは、なかったものとして考えたい、ベルクソンの言葉で言うと『解放されたふりをする方を好む』(p.207 10行目−11行目)

次の一文は『それによって』が難しいが、文の内容はこれまでの繰り返しなので、詳しい説明は省き、『それによって』は『本能』と等しいことだけを指摘しておく。

『われわれがそれによって自分の前に空間を無制限に開くところの本能とおなじ本能ゆえに、われわれはわれわれの後ろで、時間が過ぎ去るにつれて時間を閉め出す』(p.207 11行目−12行目)

次の行をみよう。そこには同じ内容の繰り返しがあり、ここまでのまとめが書かれている

『実在は、延長である限り、無限にわれわれの知覚をはみ出しているようにわれわれには見えるのだが、反対に、われわれの内的生のなかでは、現在の瞬間と共に始まるものだけが実在的であるようにわれわれには思われ、その他のものは事実上消滅させられている』(p.207 12行目−15行目)

長い一文であるが、内容、構成は難しくはないだろう。一応、説明をしておくと、『実在』すなわち、『空間』に広がる『物質的存在』は、無限の内包関係のなかにあるようにわれわれには思われる。そのために、『無限にわれわれの知覚をはみ出しているようにわれわれには見える』。一方、『内的生』における『実在性』は、われわれには未来方向へ無限に続くと思える『現在の瞬間』において『知覚』しうる『経験』(p.207 5行目)だけが、『共に始まる』ものだけだ。その他、つまり、『直接的未来』(p.206 3行目)に関係しない 『われわれの想起』(p.207 9行目)などは『事実上消滅させられている』、と言い換えることができるだろう

だから、われわれには、『想起が意識に再び現れるとすれば、幽霊のような印象』となり、そのことを、さまざまな『特殊な要因』をもって説明する(p.207 15行目−17行目を要約)

さて、この段落の残りは、次の段落への投げかけになっているので、単に引用だけして、一応、この段落の説明を終わりたい

『実際、この想起がわれわれの現在に貼り付くことは、気づかれていない諸対象がわれわれの知覚している諸対象に貼り付くことに、完全に比較することができる。そして《無意識》は、二つの場合いずれにおいても、同種の役割を演じているのである』(p.207 17行目−p.208 3行目、《》内はテキスト傍点付き)


第五段落(p.208 4行目−p.210 3行目)をみよう

この段落は、こう始まる

『しかし、われわれはそのように事象を表象することに非常に苦労を感じる』(p.208 4行目)

これは、まず、われわれの『錯覚』(p.205 10行目)についてまた一つ述べる、ということであり、その『錯覚』を述べることによって前段落の終わり(p.207 17行目−p.208 3行目)で述べられたことを説明する、ぐらいの意味だと取っておいて良いだろう

さて、実際は、前段落の終わり(p.207 17行目−p.208 3行目)で述べられたようにあることを、『苦労に感じる』のか。それは、先に要約して言うと、知覚できる空間において、短い時間で変化するものは、『差異を強調し』、ゆっくりとしか変化しないつまり『類似』は『目立たなくする習慣を付けてしまったからだ』とベルクソンは言う。引用しよう

『空間の中に同時的に並べられた諸《対象》と、時間のなかで継起的に展開された諸《状態》との差異を強調し、反対に類似を目立たなくする習慣を付けてしまっているからだ』(p.208 4行目−6行目:《》内はテキスト傍点付き)

言い方を変えれば、単位時間において、空間内の変化が急であるもの(『差異』)に対しては、われわれの知覚は敏感に反応するのに対し、わずかしか変化しないもの、ベルクソンの言葉で言うと『類似』のものに対してはあまり反応しようとしない

このことは、ベルクソンによると『習慣づけている』という表現になっている。われわれの視覚はすでにそのようなメカニズムになっているというのが、現代では分かっているが、しかし、訓練しだいでは逆のことができるので『習慣づけている』と言っているのであろう。

このような見方をすると、逆に、なぜ、訓練次第では、視覚のメカニズムに対して、逆のこともできるようになるか、という疑問も当然出てくるだろう。つまりわれわれは、目のメカニズムに従うことを『習慣づけている』わけである

続きをみよう

『前者において、諸項は完全に決まった仕方でお互いを条件付けており』(p.208 7行目)

とあるが、これは、『前者』と『諸項』が何を指すかが問題であるだろう。

『前者』は『空間の中に同時的に並べられた諸《対象》』(p.208 5行目−6行目)であり、『諸項』は、『諸《対象》』と同じである。なぜ、『諸項』という言い方かというと、ここでは、このあとの文で

『その結果、各々の新たな項の出現は予測されることができた』(p.208 7行目−8行目)

と続くことから、やや深読みすると、以下のようになる。まず、『予測されることができる』のは、一般に、科学の法則に従う場合である。この科学の法則は、再現性という誰がいつやっても同じ結果になる、ということが検証されたものである。『空間の中に同時的に並べられた諸《対象》』(p.208 5行目−6行目)、『完全に決まった仕方でお互いを条件付けて』(p.208 6行目)などの言い方から判断すると、当然『諸《対象》』は、一般に、物質全般であり、いわゆる「物」である。それは物理学の法則で支配されているために予測可能だ。物理学の世界は、「物」は計量できる『諸項』の関係性で表現可能であるから、特に、物理学の法則で支配されていると言うことを強調するために『諸《対象》』を『諸項』と言ったり、われわれが普通に「物」と言ってるものを『項』と言っているのであろう。たとえば、われわれは、どこかへ行こうとするときに思い浮かべた道を通ればいい。直接知覚できなくても物理的に質量の大きい道が急になくなったりはしないというのはその性質上分かっている

しかし

『反対に、私の想起は見たところ気まぐれな順序で現れる』(p.208 9行目−10行目)

このあと

『それゆえ、表象の順序は一方では必然的であり、他方では偶然的であって、(以下文末まで略)』(p.208 10行目−12行目)

と続く

以下、このことの詳細な説明となる

『知覚せざる諸対象の全体が与えられていると想定することに私が何の不都合も覚えないのは』(p.208 12行目−13行目)

要するに、それらが物理法則に従うと考えているからで、物理法則は完全に原因があって結果があるという因果律であるため

『これらの対象の厳密に定められた順序がそれらにさらに一つの連鎖の様相を与えており』(p.208 13行目−14行目)

『私の現在の知覚はもはやその連鎖の一つの環でしかないからだろう』(p.208 14行目−15行目)

ここまでをまとめると、われわれは、現在知覚していることは因果律である物理法則が支配することが当然と一般に考えられている無限の内包関係もつ空間の一部の作用である、ということを常識としてわきまえている。このことは、つまり、物理世界は因果律に支配されていることはわかりきったことであるから、知覚はその一部しか受け取らずとも、『知覚せざる諸対象の全体が与えられていると想定することに』、われわれは、『なんの不都合も覚えない』

『しかし、仔細に眺めるならば、われわれの想起も同種の鎖を形成しており、われわれのあらゆる決定につねに随伴するわれわれの《性格》なるものも、まさにわれわれの過去の状態すべての現実的総合であるのが分かるだろう』(p.208 15行目−17行目:《》内はテキスト傍点付き)、とベルクソンは指摘する

この、われわれの想起及び性格の記述は、特に、性格については、納得できない人もいるだろう。ベルクソンの主張においては、われわれの『意識』が『知覚』を受け取ったときの行動は、もっぱら『純粋想起』に従って行われる、というのはこの章でも見てきたとおりである。そして、前章によると、『純粋想起』は『身体の論理』によって曖昧さを許さないところまで分解され、レコードの溝のように記録されているのであり、意識は、無意識が、現代コンピュータのようにパイプラインに並べた、『純粋想起』を現在の瞬間において処理し続けていく、ということであったことを思い出して頂きたい。そこに性格というものがあるとベルクソンは考えている解釈できるのではないだろうか

余談だが、ベルクソンには笑いについて書いた著作がある。笑いについて、ベルクソンの主張は、それが、連続から不連続に移るときに起こると主張し、これこそが、人間の人間たる理由であると主張していると記憶している

さて、続きであるが

『このような凝縮されたかたちのもと、以前のわれわれの心的生はわれわれにとって外的世界より以上のものとして存在しさえする』(p.208 17行目−p.209 2行目)

なぜなら、知覚は光円錐の未来側として説明でき、そこではわれわれの受け取るものはごく限られているのに対し、われわれの無意識は知覚に対応して、それこそ、無意識のうちに、受け取った知覚に対するさまざまな純粋想起とのあいだの膨大な照会・照合の処理をしているわけであるから、すなわち、われわれの記憶(=過去)全部を使っている、と言い換えても良いだろう。(p.209 2行目−3行目を要約)

以下、このことについての詳しい説明がなされている。ここも特に難しいところはないようなので要約すると、われわれの記憶は、縮約された形で保存されていて、過去に知覚された部分については、すべて破棄されているか気まぐれに出現するようにわれわれには見える(p.209 3行目−7行目)

『しかし、この完全な破壊あるいは気まぐれな甦りの外見は、現在の意識が各瞬間に有益なものを受け取り、余計なものを一時的に閉め出すことに由来する』(p.209 7行目−8行目)

以下、先に要約して述べると、役に立つ記憶だけが『意識』によって活用される、ということを書いてあるのだが、そのために様々な現象も起きるために、上に述べたような『知覚』の記憶についての錯覚も起きると説明できる、と続く。やや、難しい表現もあるので、順を追って見て行きたい

『つねに行動へと向けられたわれわれの意識は、われわれの古い諸知覚のうち、最終決定に協力するために現在の知覚と一緒に組織されるものだけを物質化できる』(p.209 8行目−10行目)

上の文の『われわれの意識』についての『つねに行動へと向けられた』という修飾は、この章で見た『感覚‐運動的』な『現在』をあつかう『意識』の働きであろう。そう考えると、『われわれの古い諸知覚』は、『イマージュ想起』ではなく、これまでどおり『純粋想起』とすべきなのだろう。『知覚』の『物質化』も、いわゆる、「思い出す」という過程の中で神経回路の興奮によって『物質化』されると考えてきたのだから、つじつまは合う。従って『最終決定に協力するために一緒に組織される』という部分も、第二章で見た『注意』の働きではなく、『無意識』が、結果として『感覚‐運動的』な処理を司る『意識』のために用意したものなのだと考えられる

さて、続く次の行。ここも難しいが、上述したようにここでは、『感覚‐運動的』な『意識』についての記述であるとふまえておけば、少しはわかりやすいのではないか

『私の意志が空間の一定の点に現れるために、私の意識は、全体で《空間における距離》と呼ばれるものを構成している数々の中間物あるいは障害物を一つ一つ超えなければならないのだが、それに反して、この行動を照らし出すためには、現在の状況を以前の類似した状況から隔てている時間の隔たりを飛び越えることが私の意識にとって有益である』(p.209 10行目−14行目:《》内はテキスト傍点付き)

『私の意志が空間の一定の点に現れるために』が戸惑う表現だが、ごく簡単に、「われわれが何かをしようとすると」で良いだろう。いまは『感覚‐運動的』な『意識』を扱っているとだけ気をつけておけばいい。そうすると、あとはごく簡単で、「何か行動しようと思ったら、障害物は避けないといけないけれども、そのとき、われわれの『純粋想起』は、その記憶を経験した時期とは無関係に思い出されるようになっていないとわれわれは何もできないだろう」、という程度の意味だということがお判りいただけるだろう

このような、われわれにとってごく当たり前のことが、ベルクソンの指摘によって、重要な意味を持っているというとを改めて認識させられる。ここが、この段落のクライマックスである

『私の意識はこのように、以前の類似した状況にひと飛びで身を移すのだから、過去の中間部分はその全体が私の意識の手から逃れている』(p.209 14行目−16行目)

およそ意味はおわかりであろうが『過去の中間部分』というのは、『ひと飛び』で飛び越えられた部分ということで良いと思う。空
間内の行動と異なり、『感覚‐運動的』である『意識』は想起の順序を追わない、ということを強調しているのだ。

以下の行は、ここまで分かると難しくないと思うので解説を省略したい。内容も上記引用文とほぼ同じ内容である。あとで必要になった場合、また改めて引用することにしたい

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