第三章 『イマージュの残存について - 記憶と精神』 第三節「無意識について」 (下)

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは第三章第三節「無意識について」(p.201 14行目−p.214 9行目)の内容を解説したものです。今回の記事は長文のため、上、中、下の三つに分けています。テキストでは以下のようになります

上 : p.201 14行目-p.205 14行目
中 : p.205 15行目-p.210  3行目
下 : p.210  4行目-p.214  9行目

今回は

下 : p.210  4行目-p.214  9行目

に相当します

以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています

もともとは、ブログ版の記事を加筆修正したものとなります



第六段落(p.210 4行目-p.212 11行目)をみよう

ここは、まず、こう始まる

『しかし、われわれはここで《現実存在(existence)》をめぐる主要な問題について触れている』(p.210 4行目:《》内はテキスト傍点付きとイタリック)

われわれ一般の人間にはなんだかよくわかりもしないような大変難しい問題に、ここにおいて触れているという。実際、ベルクソンは続けてこう言っている

『われわれはこの問題について軽く触れることだけしかできない。さもなければ、問題から問題へと連れ回された後で、形而上学の核心そのものに導かれることになろう』(p.210 4行目-6行目)

 と言っている。ここまで、『現実存在(existence)』、『形而上学の核心』とは何かが難しいが、要するに、なぜわれわれは生きているか、ということを考え出すと止まらないどころか、どこか遠くの方に行ってしまう。たとえば、生命とは何か、とか、魂とは、あるいは物事の本質とは、とか。そのようなことを言っているのであろう

では、ベルクソンはどのように考えて行こうとしているのか

『経験に係る諸事象 —ここでわれわれの関心を占めている唯一のもの— について、現実存在は二つの連結された条件を含意しているように思われるとだけ言っておこう』(p.210 6行目-8行目)

『経験に係わる諸事象』というところが難しい。『経験』ここまで、空間とその広がりの中で現在起っている物理的な現象と解釈してきた。『経験に係わる諸事象』もほぼ同様の意味であると考えることも可能である。しかし、ここでは、『直接的未来』と現在の状況に類似した『想起』そして、それらを結びつけるわれわれの『生き生きとしたイマージュ』も関係してくるという解釈も十分可能だと思われる。ここでは『連結された二つの条件』という言葉を含めてあとの文章を読まなければ、はっきりとしたことは言えないであろう

それでは、『連結された二つの条件』についてふれてあると思われる続きの文章を見てみよう

『第一の条件は意識への現前化、第二の条件は、そのように呈示されたものと、それに先行するものならびにそれに後続するものとの論理的あるいは因果的結合である』(p.210 8行目-10行目)

この行も、なかなか難解でこの行だけではよく分からない部分も多い。そこで、この行の解釈も、しばらく置いておいて、次へ進んで行きたい。この行は、これからベルクソンが展開して行くであろう『二つの条件』のそれぞれのタイトルと現在は捕らえておくことにする

次の行(p.210 10行目-13行目)は、少し要約したい。難しくはないが、日本語で訳した場合、文の構造が複雑になってしまう、そのようなことが起きてると思われるからだ

従ってこのように要約する。「われわれのいまの心のあり方、あるいは、ベルクソンの仮説ではその対称をなす物理的存在をわれわれがいままさにそれを感じているという『実在性』というものは、『われわれの意識がそれらを知覚していること』、と、それらが『物理的空間』における物理法則による因果関係によって『時間的あるいは空間的系列』の『一部をなしている』、という『二重の事実』の内にある」。もっと簡単に言うと、われわれが、いまそこにある、と感じられるのには、じつは、われわれが『知覚』しているから、ということと、物質が物理法則に従って『物質空間』に存在してるという、『二重の事実』がある、とベルクソンは言っているのである

つまり、これは先の

『経験に係る諸事象 —ここでわれわれの関心を占めている唯一のもの— について、現実存在は二つの連結された条件を含意しているように思われるとだけ言っておこう。第一の条件は意識への現前化、第二の条件は、そのように呈示されたものと、それに先行するものならびにそれに後続するものとの論理的あるいは因果的結合である』(p.210 6行目-10行目)

を言葉を換えて言い直したものであろう

『われわれの意識がそれらを知覚している』の部分はいっそ、観測している、という計量化を目的とする物理学で使われる常套句を用いたいように思うが、しかし、『意識』が『知覚』する限りに置いて、『純粋想起』がここに関連しているのではないか、と考える方が普通であろう。(もちろん、すでに第一章などで述べられた知覚の本質的な不完全性もあるかもしれない)

さて、ここからの文章は少しまとめて呈示してみたい

まず

『しかし、この二つの条件は程度の多寡を容認するもので、どちらも必要条件でありながら、等しからざる仕方で満たされだろうと考えられる』(p.210 13行目-15行目)

とある。この部分は、言葉はこれまでに比べて比較的平易だが、内容がが非常に難解だ。それで、『この二つの条件』が

『第一の条件は意識への現前化、第二の条件は、そのように呈示されたものと、それに先行するものならびにそれに後続するものとの論理的あるいは因果的結合である』(p.210 8行目-10行目)

言い換えれば、「『われわれの意識がそれらを知覚していること』」と、「『物理的空間』における物理法則による因果関係によって『時間的あるいは空間的系列』の『一部をなしている』」という「『二重の事実』」

であったことを思い出して頂き、以下、一文ごとに難しい語句についてのみ少々解説し、あとでまとめの解説を行いたい

『例えば、現在の内的状態の場合には、結合はそれほど緊密ではなく、過去による現在の決定は偶然性(contingence)大きな余地を残しており、数学的導出の特徴を持っていない』(p.210 15行目-17行目)

『 —それに引き換え、意識の現前化は完璧であって、現在の心理学的状態は、われわれがそれを目にしている行為そのもののなかで、その内容の全体をわれわれに引き渡す』(p.210 17行目-p.211 2行目)

ここまでは、われわれの過去(ここでは『純粋想起』)から、『知覚』によって現在の行動が決定されるまでのわれわれの内的な状況を説明しているのだろう。つまり、知覚されたことで最終的に行動が決定されるまでは、記憶の結びつきというのは、ある程度、予測されているとはいえ、決定されたものではない。『知覚』よって、ここではわかりやすく、外的なイベントと言い換えても良いだろうが、それによってはじめて『感覚』として決定され、それらすべてが、われわれは、自分の内的なこととして『意識』によって把握されている、ということが言いたいのであろう

『反対に、外的諸対象に関しては、これらの対象は、必然的な諸法則に従っているのだから、完全なのは結合の方である』(p.211 2行目-3行目)

『しかし、そのときもう一方の条件である意識への現前化のほうは、部分的に満たされているにすぎない』(p.211 3行目-4行目)

外的な『物質空間』においては、物理的法則に支配され曖昧なところはない。しかし、受け取るわれわれにとって、『知覚』している部分だけでも十分すぎる情報量によって、あるいは、逆に知覚されうるものは全体の一部に限られてしまってるが為に、『感覚』という内的状態のようにすべてを把握しきれる物ではない、ということを言いたいのだろう。次の行はそのようなことが書かれているのだが、あまり難しくないので省略したい

結論として

『 —われわれはそれゆえ、経験的な意味での現実存在は、意識的な把握と規則的な結合をつねに同時に、しかし様々に異なる程度で含意していると言わなければならないだろう』(p.210 7行目-9行目)

ここまで来れば、前出『二つの条件』が『知覚』として説明された内的状態と物理的な外部の状態の対照的な把握の仕方であり、『どちらも必要条件でありながら、等しからざる仕方で満たされている』(p.210 13行目-14行目)ということも理解していただけたはずである

次へ進もう

『われわれの悟性は、明確な区別を打ち立てることを機能としており、そのため、少しもこのような仕方で事態を把握していない』(p.211 9行目-10行目)

『悟性』という難しげな哲学用語が出てきた。小林秀雄さんによるとベルクソンの『悟性』には、常識という物が深く係わっている、あるいは、常識と同じ意味にとって良いと言っているのだが、小林さんの言う常識もなかなか難しいものがあって、一言には説明しきれない。詳しくは小林秀雄さんの講演を文章に直したものに「常識について」というものがあるので、そちらを読んでいただきたい。ここでは、「理性的、論理的に考える能力」ぐらいに採っておけばいいと思う

次の一文(p.211 10行目-15行目)は長いのだが

『現実存在は二つの連結された条件を含意しているように思われるとだけ言っておこう』(p.210 7行目-8行目)

という部分を思い出していただきさえすれば、書いてある内容は難しくないため、次のように要約したい

「前行にもあるように『悟性』は、内的な状態と外的な状態の二つの条件がどのような割合かという度合いを、いちいち把握して考えるということはせず、この二つの条件を『外的諸対象』(p.211 12行目)と『内的諸対象』(p.211 13行目)とにそれぞれに分離させ、『外的諸対象』が支配的な場合は内的な状態を従属的にし、『内的諸対象』が支配的な場合は外的な状態を従属的に割り当てて物事を把握しようとする」

『そのとき、心理学的諸状態の現実存在は、意識によるそれらの状態の把握のうちに全面的に存するだろうし、外的諸状態の現実存在も同じく、それらの同時性ならびにそれらの継起との厳密な秩序のうちに全面的に存するだろう』(p.211 15行目-17行目)

と続く。この引用文は若干言葉が難しいところがあるだけで内容は難しくないが、念のために『外的諸状態の現実存在も同じく、それらの同時性ならびにそれらの継起との厳密な秩序のうちに』の部分だけ解説しておこうと思う。ここでは『外的諸状態』についてのみ考えているので、同時性、というのは、『現実空間』に同時に存在する、ということであり、『それらの継起との厳密な秩序』とは、物理法則に支配されている因果律に従う、というこれまでどおりの説明が繰り返されているだけだろう

ここまでの『悟性』についての記述をまとめると『二つの条件』として挙げられたものの、支配的な方によって物事を把握しようとする、とごく簡単にまとめられるだろう

ごくわかりやすく例を挙げて説明すれば、ものごとの捉え方を「冷えたジュースが机の上にある」とか、「運が悪かった」とか、主語になる名詞(もしくは代名詞)が、具象的か抽象的かということで、われわれ(の『悟性』)は『内的諸状態』もしくは『外的諸状態』の『現実存在』のうち支配的な方を表現している、と思えばいいのではないかと思う。続きを見れば

『このことから、現実存在しているが、知覚されざる物質的対象には意識への関与を少しも残すことができなくなり、意識的ならざる内的状態には、現実存在への関与を少しも残すことができなくなるのだ』(p.211 17行目-p.212 3行目)

とある。すなわち、上記のようなことが行われる結果、内的な状態が優勢な場合、『知覚されざる物質的対象』、つまり、把握しきれていない『現実存在』に対しては「運」という抽象的な名詞を割り当て、『意識の関与を少しも残すことができなくなり』、外的状態が優勢な場合、「冷えたジュース」という表現を使うことによって『意識的ならざる内的状態』の『現実存在への関与を少しも残すことができなくなるのだ』、とベルクソンは主張しているのであろう

さて、これから先この段落の最後のまとめにはいるわけだが、まず、次の引用文にある『この著作の冒頭』と『第一の錯覚』なにか、どこを指すかが難しい

『われわれは、この著作の冒頭で、第一の錯覚の諸帰結を示した。この錯覚は、物質についてのわれわれの表象を歪曲するに至ったのだ』(p.212 3行目-4行目)

『第一の錯覚』とは、何であろうか

第一章は『知覚』に関することであり、ここでも触れている『物質空間』あるいは『外的諸条件』に対する認識についてであろう。われわれは、これらに対して、すべてを知り得ない、あるいは情報が多すぎる、などの『知覚』の条件と、未来は心理的に脅威に満ちているということから、『形而学上』のたとえば「運」という言葉で表現していると理解してきたはずだ。つまりは、『この錯覚は、物質についてのわれわれの表象を歪曲するに至ったのだ』という解釈は上の引用文を説明することには十分である。しかし、具体的に『この著作の冒頭』での、『第一の錯覚の諸帰結』が何かと言うことを具体的に示すのは難しい

ところでこの節の最初にこういう記述があったのを覚えておいでであろうか

『しかし、われわれはここに、われわれがこの著作の冒頭から追求しているような錯覚、絶えず甦ってくるような錯覚を再び見いだす。意識は、たとえ身体の諸機能と結合されていても、たまたま実践的であるだけで、本質的には思弁の方を向いた能力であるというのだ』(p.202 16行目−p.203 2行目)

この節では、意識と無意識を扱っているのでこの『錯覚』もまた有力な候補である。『このことから、現実存在しているが、知覚されざる物質的対象には意識への関与を少しも残すことができなくなり、意識的ならざる内的状態には、現実存在への関与を少しも残すことができなくなるのだ』(p.211 17行目-p.212 3行目)ということも十分説明可能だ

ほかに、第三の候補として、ベルクソンが主張している「本当の記憶は脳の中に存在しない」ということも記憶について扱っているこの章での『錯覚』の有力な候補として挙げられるがこれはこのあとの段落でも触れられているため候補から外したい

さらに第四の候補としては、第一章で挙げられている有力な『錯覚』には、『想起』は弱められた『知覚』本質的には同じものであるという考え方があった

しかし『この著作の冒頭で、第一の錯覚の諸帰結を示した』とあるのは、やはり、意識についての錯覚だろう

このあと、『第一の錯覚の補足たる第二の錯覚は、無意識を偽りの難解さで覆うことで、精神についてのわれわれの概念を汚染している』(p.212 4行目-6行目)

と『第二の錯覚』として無意識について触れてこともまた有力な手がかりであると思われる

具体的な例としては、第一章第四節「イマージュの選択」では

『意識 ―外的知覚の場合― はまさしくこのような選択のうちに存する。しかし、われわれの意識的知覚に必然的なこの貧しさのうちには、何か積極的なもの、すでに精神的〈エスプリ〉を告げる何かがある。それは、この語の語源的な意味での、識別=分離(discernement)のことである』(p.39 12行目−15行目、〈〉内はテキストフリガナ)

と述べたあと

『われわれが専念している問題の困難は、知覚を諸事物の風景写真のようなものと表象することからことごとく生じている』(p.39 16行目−17行目)

として、ライプニッツのモナドや唯物論的な『意識-付随現象』について触れていたのを思い出していただきたい。たとえば、

『最後にモナドではどうか。ライプニッツ〔Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646-1716, ドイツの哲学者、数学者、物理学者〕が主張するようなモナドは、その各々が宇宙の鏡である。それゆえ、すべての人がこの点で一致している。ただし、宇宙の任意の場所を考察するならば、物質全体の作用はそこでは抵抗も消耗もなく通過するし、全体の写真はそこでは半透明であるということができる。感光板の裏にあって、イマージュを浮かび上がらせる黒いフィルターが欠けているのである』(p.40 9行目−14行目)


『単に可能なだけの物質総体の中から、私が私の身体と呼ぶ特殊な対象が切り離され、この身体の中から知覚諸中枢が切り離されるだろう。空間の任意の点から生じ、諸繊維に沿って広まり諸中枢に達するような震動が私に示されるだろう。しかし、ここでどんでん返し(coup de théatre)が起こる。身体を取り巻くこの物質界、脳を保護するこの身体、その中に諸中枢が見分けられるところのこの脳、これらのものが突然追い払われてしまい、まるで魔法杖が振られたかのように、最初に想定されていたものの表象が、全く新しいものとして生起させられるのである』(p.41 4行目−11行目)

を挙げることができるのではないかと思う。ここでは引用しないが、ほかにも『唯心論的観念論』の『帰結』について触れた部分もあった。是非もう一度ご自分でも確認して頂きたい

さて、やや第一章を振り返った部分長くなったが、第三章に戻る。続く文は下の引用文であった

『第一の錯覚の補足たる第二の錯覚は、無意識を偽りの難解さで覆うことで、精神についてのわれわれの概念を汚染している』(p.212 4行目-6行目)

『無意識を偽りの難解さで覆う』とは、この段落でも見てきた『内的(諸)状態』が時間と無関係に『知覚』と照合・照会される、ということがあたかも想起が突然幽霊のようによみがえって来ることを指しているのだろう。このことは、たとえば、この段落では物質についての記述に『冷えたジュース』というように、主観的な形容をあたかも客観的であるように表現する傾向として説明してきた

以降の文章では、ベルクソンはこれらについてこのように説明している

『われわれの過去の心的生はその全体がわれわれの現在の状態を条件付けるのだが、それを必然的な仕方で決定することはない』(p.212 6行目-7行目)

『われわれの過去の心的生は同じくその全体がわれわれの性格の中であらわになるのだが、にもかかわらず、過去のどんな状態も明白にわれわれの意識に現れることはない』(p.212 7行目-9行目)

そして、この段落では一旦こう結論づける

『結びつけられることで、これら二つの条件は、過去の心理学的諸状態の各々に、無意識的ではあるが真に現実的な現実的存在を保証しているのである』(p.212 9行目-11行目)

このことは、言い換えれば、この段落のはじめ、『《現実存在(existense)》』(p.210 4行目)について触れて言うときに

『現実存在は二つの連結された条件を含意しているように思われる』(p.210 7行目-8行目)

『第一の条件は意識への現前化、第二の条件は、そのように呈示されたものと、それに先行するものならびにそれに後続するものとの論理的あるいは因果的結合である』(p.210 8行目-10行目)

とあったところの繰り返しであり、かつこの段落の説明の結論である

長くなったこの段落のまとめとして、もう一度説明を繰り返すならば、『現実的な現実存在』を『保証』しているのは、『外的(諸)条件』と『内的(諸)状態』の結びつきをその量的なバランスによって、『無意識的』に『外的条件』へ『内的状態』が埋没したり、あるいはその逆であったりすることだ、とベルクソンは結論づけている、と言って良いのではないかと思う。そして、このことが、この段落最初にあった『経験に関する諸現象』と解釈しても良いだろう

これはまた、第四段落最後

『実際、この想起がわれわれの現在の状態に貼り付くことは、気づかれていない諸対象に貼り付くことに完全に比較することができる。そして《無意識》は、二つの場合いずれにおいても、同様の役割を果たしているのである』(p.208 17行目-p.208 3行目、《》内はテキスト傍点付き)

とあった部分の具体的説明に相当すると思われる


では、続いて第七段落(p.212 12行目-p.214 9行目)を見ていこう。長くなったこの節の説明ももこの段落が最後の部分となる

この段落の最初の部分は、われわれの脳にどうして記憶が(脳のある部分と知覚される物体が対応する形で)蓄積されていると思うのか、という錯覚について述べられている。あまり難しい内容ではないが、ここは、たくさんの人が関心を持つであろうから、引用していこう

『しかし、われわれは、実践の最大の利益を得るために諸事実の現実的な順序を逆転させることにとても慣れており』(p.212 12行目-13行目)

『空間から引き出されたイマージュの脅迫(obsession)をあまりにも強く蒙〈こうむ〉っているので、われわれは、どこに想起が保存されているのかを問わずにはいられない』(p.212 13行目-15行目、〈〉内は筆者によるふりがな)

一文を二つに分けたのは、前半部分を少し解説したいと思ったからである。この『諸事象の現実的な順序を逆転させることにとても慣れており』というのは、以前見た、われわれが何かしようと思うときには、『物質空間』においては因果律に従わざるをえないために、『(純粋)想起』はそれがいつ起こったか、ということとは無関係になる必要がある、と説明したことに相当する(テキストp.209 10行目-14行目、もしくは、p.206  10行目-p.208  6行目など)

(筆者注:上段落については、現段階で自信のあるものではないことを告白しておく。というのは、『逆転させることに慣れて』いるのは確かに想起であろうが、それが、以下に続く文のように、『物理-化学的な現象は脳《のなかで》起こり、脳は身体《のなかに》あり、………』と、接続するには少々無理がある。その間には少し説明が必要であるように思う。しかし、どのような解釈が可能かというとかなり恣意的にならざるを得ない。従ってあくまで個人的な解釈として次のような解釈を試みる

まず、上記引用の後半部分

『空間から引き出されたイマージュの脅迫(obsession)をあまりにも強く蒙〈こうむ〉っているので』(p.212 13行目-15行目、〈〉内は筆者によるふりがな)

ということから、『想起』も因果律に従って当然であると考えがちである。そうして、想起が一見無秩序に現れるように見えるということも、『想起』も因果律に従っている以上コントロールできて当然だと考える。従って、『どこに保存されているかを問わずにはいられない』という結果になる

そして、先に出た、『実践の最大の利益を得るために諸事実の現実的な順序を逆転させることにとても慣れており、』の部分は、例えば、こういうことだろう。以前にも例があったが、われわれが、いま居る部屋から出るには入ってきた時と逆の順序で道をたどるだろう。それは、『想起』の時間の流れを逆転させることに他ならないだろう。それは『想起』が物理的な因果関係とは無関係であり得るからである。そのように、われわれは物理的な因果関係や時間による順序を逆転させることにあまりにも慣れている、ということではないかと思われる)

続きをみよう

『物理-化学的な現象は脳《のなかで》起こり、脳は身体《のなかに》あり、身体は身体を浸している空気の中にある等々と、われわれは思い描いている』(p.212 15行目-16行目:《》内はテキスト傍点付き)

『しかし、ひとたび成就された過去が保存されているとすれば、この過去はどこにあるのか』

と続く。これから先の内容は、はじめに述べた通りなのだが、結構な長さがある。簡単に要点だけを見たい

まず、われわれは記憶を、『脳の《なかで》』起こる『物理-化学的』な『分子変化(modification mole'culaire)』として、『脳実質に置く』と考えるだろう。(p.212 17行目-p.213 2行目)

『脳』という『現実に与えられた貯蔵庫』に過去に起きたこと、その『知覚』を『イマージュ』(ここでは物理-科学的な分子変化の状態)として保存しておけば、いつでも取り出せると思うだろう(p.213 2行目-4行目)

しかし、ベルクソンは、このことによって様々な錯覚が生み出される、ということをここから主張し始める。ここから先のこの段落の構成はかなり複雑だ

『忘れられているのは、容器と中身の関係が、その見かけ上の明晰さと普遍性を、前方ではつねに空間を開き、後方ではつねに持続を閉ざさなければならないというわれわれの陥った必然性から借りていることだ』(p.213 5行目-8行目)

ここでは、要するに、『脳』にすべての記憶が保存されているという考え方は、わかりやすくて普遍性もあるように思えるけれども、その考え方は、前にも述べた、何かをするときには『(物質)空間』を順を追って動く必要があり、『(純粋)想起』は、その起こった順番や時間とは切り離される必要がある、ということを言っているのだろう

ここでは、いったん意味的にここで区切られ、このあと指摘されるのは

『ある事物が別の事物のなかにあるのを示したからといって、それによって、前者の事物の保存という現象を明らかにしたことには少しもならない』(p.213 8行目-10行目)

『それだけではない。さしあたりは、過去が脳に蓄えられた想起の状態で生き続けてると認めておこう。そのとき、脳は想起を保存するためには、少なくても脳そのものが保存されていなければならないだろう』(p.213 10行目-12行目)

ということを言い出す

このあとの文(p.213 12行目-p.214 1行目)はベルクソンの書き方がやや煩雑なので要約し解説する

われわれの人生において脳が連続してこの『物理空間』上に存在するとすれば、われわれの記憶も、少なくてもわれわれが生きてる間はわれわれの脳に保存されているとしても良いだろう。しかし、すでにこの節の冒頭(p.202 2行目-8行目)で見たように、一般的にわれわれは、意識をわれわれの『心理状態の本質的な特性』と考えており、『心理状態は、意識的なものをやめると必ず存在することをやめるだろう』と考えている

また、『この脳は空間内に広げられたイマージュである限り、もっぱら現在の瞬間を占めるにすぎない』(p.213 12行目-p.213 13行目)

では、われわれの『意識』は途切れる、ということを前提にしているのに、あなたは『物質空間』がとぎれないということをどうして保証するのか

そのためには次のような事を想定しなければならなくなるだろう。まず、意識が途切れ、また意識が戻る時に、すなわち、すべての人の意識にとってということになれば、『この宇宙が紛うことない奇跡によって、持続のあらゆる瞬間に滅びては甦るということ想定しなければならない』(p.213 14行目-p.213 16行目)ということになるか

もしくは、『あなたが意識に認めていない現実存在の連続性を宇宙に移し替え、宇宙の過去をも、その現在のなかで生き続け、そこへと引き延ばされる一つの実在たらしめなければならない』(p.213 16行目-p.214 1行目)。言い換えれば、意識には認めていないが、宇宙は現実存在しておりかつ持続のなかで連続であること、そして、意識を宇宙の物理的存在として移し替えたのであるから、われわれの過去も、宇宙の過去のなかに存在するということを認めないといけないではないのか

以上が、ベルクソンの批判であろう

一方で、ベルクソンは、自身の仮説で、

『意識が、《現在》の言い換えるなら現実に生きられたものの、更に言い換えるなら、要するに《行動するもの》の特徴にすぎないとするれば、そのとき、行動しないものは、たとえそれが意識に属することをやめるとしても、必ずしも、何らかの仕方で存在することはやめずにいられるだろう』(p.202 4行目-8行目、《》内テキスト傍点付き)

と言っているので、この節では明示してないがこのために、われわれの記憶も連続して存在するということを保証している、と考えているのであろう

元に戻ろう

ベルクソンが『意識』が存在しなくなることを前提としていて、どうして、『物質空間が』が連続した時間のなかでとぎれることなく存在することを保証できるのか(もしくは、誰かの意識がなくなると同時に無くなり、しかし、他の誰かの意識に上がると同時に奇跡的に復活するのか)、と疑問を呈しているということはすでに説明した

ベルクソン自身がこの後でまとめているので見てみよう

『それゆえあなたは、想起を物質のなかに蓄えても何の得にもならないだろうし、反対にあなたが心理学的状態に認めなかった過去の独立した全面的な残存を、物質界の諸状態へ拡張されるのを余儀なくされる』(p.214 1行目-4行目)

『想起を物質の中に蓄えても何の得にもならない』というのは、意識が途絶えれば物質界は消滅し、意識が戻ればまた復活生成されるという考え方をさし、もし、意識が途絶えても物質界が存在すると考えるならば、『あなたが心理学的状態に認めなかった過去の独立した全面的な残存を、物質界の諸状態へ拡張されるのを余儀なくされる』という事になるだろう


ここで一区切り付けられ、このあと、ベルクソンは先に

『忘れられているのは、容器と中身の関係が、その見かけ上の明晰さと普遍性を、前方ではつねに空間を開き、後方ではつねに持続を閉ざさなければならないというわれわれの陥った必然性から借りていることだ』(p.213 5行目-8行目)

の部分で一旦意味的に区切られた部分について、再び述べられ始める。見ていこう

『過去の《それ自体としての》残存は、それゆえ、どちらの形であれ不可欠のものとして課せられるのだが、あなたがこの残存を思い描くのに感じる困難さは、《含むことと含まれること》の必要性 -これは空間内で瞬時に見いだされる諸物体の全体にしかあてはまらない- をわれわれが時間のなかの想起の系列に付与することに由来している』(p.214 4行目-7行目:《》内はテキスト傍点付き)

つまり、『想起』が順番どおりに『脳』のなかに記憶されると考えてしまうことが問題だ、と指摘してるのであろう

こうして、やや曖昧な記述のまま、この節の最後の文章を迎える。つまりは、このことが、次の節のテーマになるのだろう

『根本的な錯覚はわれわれが持続に施す瞬間的な切断面の形を、過ぎゆく持続そのものへと移し替えることに存しているのだ』(p.214 8行目-9 行目)

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