第三章 『イマージュの残存について - 記憶と精神』 第三節「無意識について」 (上)

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは第三章第三節「無意識について」(p.201 14行目−p.214 9行目)の内容を解説したものです。今回の記事は長文のため、上、中、下の三つに分けています。テキストでは以下のようになります

上 : p.201 14行目-p.205 14行目
中 : p.205 15行目-p.210  3行目
下 : p.210  4行目-p.214  9行目

今回は

上 : p.201 14行目-p.205 14行目

に相当します

以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています

もともとは、ブログ版の記事を加筆修正したものとなります


この節は無意識を扱う。第二章でもこのことについて少し触れたのであるが、そのときは『注意』することによって、『純粋想起』に『イマージュ記憶』がおそらく再帰的に当てはめられていくのだろう、という内容だった。その第二章での『注意』に関しての説明の部分では無意識と明示されてはいないが、例えば、失語症に関する事例にもそのような部分があった。象徴的なものとして、アルファベットのうち'F'なら'F'のみを認識できない事例である。無意識のうちに'F'を認識できないのであればどうしてその文字だけが認識できないかという意味で特徴的な例である

では、この節の内容を見ていきたい


第一段落(p.201 15行目−p.203 10行目)は、こう始まる

『純粋想起のこの根本的な無力さは、どうして純粋想起が潜伏状態で保存されるのかということをわれわれが理解するのにまさに役立つであろう』(p.201 15行目−16行目)

取り付きがたい言葉が冒頭から並んでいるが、「ベルクソンさんは今回はきっと『純粋想起』を手がかりに無意識について話してくれるんだろうなあ」と考えてまずは先へ進んでいきたい

『問題の核心にさらに踏み込むことはしないで、われわれは次のことを指摘するにとどめたい』(p.201 16行目−p.202 1行目)

このあと少し先へ進むとわかるのだが、今回はまず、次のことをテーマとして上げて考えてみようという意味で言っているようだ

『すなわち、《無意識的な心理状態》を考えることへのわれわれの嫌悪は、とりわけわれわれが意識を心理状態の本質的な特性とみなすことに由来しており、そのため、心理状態は、意識的なものをやめると必ずや存在することをやめるだろうと思われているのだ』(p.202 1行目−4行目:《》内テキスト傍点付き)

続きもあるが、まず、少しだけ解説したい。文章の区切りとしては、

『すなわち、《無意識的な心理状態》を考えることへのわれわれの嫌悪は、とりわけわれわれが意識を心理状態の本質的な特性と見なすことに由来しており、』(《》内テキスト傍点付き)

までが一つのまとまりで、『意識』をわれわれの『本質的な心理状態』と普通は考えているから、『《無意識的な心理状態》を考えること』を『嫌悪』している、と書き直すこともできるだろう。

このことをわかっていただければ、あとは易しいので、説明は省略し、次へ進む

『しかし、意識が、現在の、言い換えるなら現実に生きられたものの、さらに言い換えるなら、要するに《行動するもの》の、特徴にすぎないとすれば、そのとき、行動しないものは、たとえそれが意識に属することをやめるとしても、必ずしも、何らかの仕方で存在することはやめずにいられるだろう』(p.202 4行目−7行目)(《》内テキスト中、傍点付き)

上記引用文の後半のにある、『行動しないもの』というものが何かということであるが、ここでは暗に『純粋想起』を指しているものと思われる

ここまでを今回のテーマとして考えてもいいと思う

続きを見よう。次の文も、文章が難しいこともあり引用して解説する。引用文は一文が長いのでわかりにくいと思い、二つに分けている

『言い換えれば、心理学的な領域において、意識(conscience)は現実存在(existance)の同義語ではなく、単に、現実的行動あるいは直接的効力の同義語であって、』(p.202 8行目−9行目)

『この語の外延がそのように制限されれば、無意識的な心理状態、言い換えるなら、結局のところ無力であるような心理状態を思い浮かべるのに、それほど苦労しないだろう』(p.202 9行目−10行目)

その上読んでいけば、前半は実は用語が難しいだけであるのがわかる。前節の主張の繰り返しだ

後半部分も実は難解な語句が並んでいるだけで、『この語の外延がそのように制限されるなら』、というのは、『意識』という曖昧な言葉を、『単に、現実的行動あるいは直接的効力の同義語』と『制限するなら』という意味で使ってるにすぎない。残りの部分であるが、つまりは、そう制限するなら、あとは前章の『注意』のところで述べた現代パソコンのCPUでいう、パイプラインに相当するような『無意識』と『根本的に無力』な『純粋想起』とを想定してると、ここでは考えられるだろう

次の行もやや難しいが、こう要約するならば、理解していただけるだろう。ベルクソンの主張では『意識が、現在の(中略)、要するに行動するものの特徴にすぎない』(p.202 4行目−6行目)のであった。従って、たとえ、ここでわれわれが意識について『どのような観念を作り上げるにせよ』(p.202 12行目)、肉体(『身体的諸機能を遂行している存在』)を持っている以上、『意識』の役割は、『行動』と『選択』である

『意識はそれゆえ、決断の直接的前件ならびに、過去の数々の想起とともに有益に組織されうるこれら想起の前件のすべてに光を投げかけ、残りのものは闇の中にとどまる』(p.202 14行目−16行目)

ここでの『前件』という初めて現れた言葉がなにを指すのかが難しい

『純粋想起』、肉体の論理によって曖昧さのないところまで細分化されている一連の行動である、ということはすでに第二章で説明した

そこで、まず、ある二つのコンピュータサイエンスでの用語を解説すれば、厳密には一致しなくてもわかりやすくなるかもしれないと思う。「タスク」と「プロセス」の違いである。一般に「タスク」とは、人間がコンピュータにさせたい仕事のまとまり、「プロセス」はコンピュータの内部処理上での意味のまとまりのことだ。たとえば、パソコンであるネット動画を再生させる。これはわれわれ人間にとってマウスのワンクリックで済むひとつの「タスク」だ。一方で、コンピューターにとって、動画のデータを読み込み、内容を表示させるまでの様々な仕事が存在するであろう。そういうものを「プロセス」という。(他に似たような言葉で「スレッド」というものもある。「スレッド」は、「プロセス」がさらに分解された微少な行動のまとまり、あるいはコンピュータのプログラムで言えば関数やクラスに相当すると思っても頂いても良いだろう)

ところで、この『前件』は「タスク」なのか「プロセス」なのか?「タスク」と考える人もいるだろう。しかし、ベルクソンの言う『意識』の現在性というものを考えると、ここでベルクソンの言っている『前件』とは、ある一つの「プロセス」に相当するものだ、言っていると思われる。

つまり、上記引用は、『意識』はわれわれの行動に直結する直接の『前件』(プロセス)及び、その直後に起こるであろう一続きの『(純粋)想起』に属する『前件』だけに『光を当て』、言い換えればそれらだけを意識し、ほかのものに関しては『闇の中にとどめる』と解釈できるだろう。

こう書くと、混乱する人もいるだろう。一般的な『意識』の観念とは違うことを言われている気がするからだ。われわれの読者側の納得できないような複雑な気持ち察してか、ベルクソンは次の行にこう書いている

『しかし、われわれはここに、われわれがこの著作の冒頭から追求しているような錯覚、絶えず甦ってくるような錯覚を再び見いだす。意識は、たとえ身体の諸機能と結合されていても、たまたま実践的であるだけで、本質的には思弁の方を向いた能力であるというのだ』(p.202 16行目−p.203 2行目)

これは、ベルクソンは錯覚というが、われわれほとんどの人間は、大いに納得できるベルクソンの主張に対する反論だろう

ここからあと、しばらく書かかれていることは、この段落だけ見ても理解が難しい。まず、次の第二段落(p.203 11行目‐p.206 9行目)に詳細があるということをその段落初めの部分を引用して示し、この段落の残りの部分は要約だけを示し、必要があれば、戻って解説することにしたい

『この最後の点を強調しておこう。というのもそれが無意識の領域を問題を取り巻く諸困難の中心であり、それを取り巻く曖昧さの源泉であるのだから』(p.203 11行目−12行目)

この文章の解釈は、次の段落の説明するとして、いまは、次の段落で要点を詳しく説明するのだな、とだけ了解していただければと思う。では、この段落の残りの部分の要約を示そう

『意識は、(中略)本質的に思弁の方を向いた能力である』(p.202 17行目−p.203 2行目)

というのが、有力なベルクソンへの反論ではないか、と述べた。それに対して、ベルクソンは

『意識は純粋な認識にゆだねられているので、意識が保持している諸知識を取り落とされることで意識が利益を得るなどという理屈が通らないのと同様、意識が意識にとって完全には失われていないものを明らかにするのを断念しているということも納得されない』(p.203 2行目−5行目)

と言う。非常に難解な上引用文をまずは詳察してみたい

はじめの『意識が純粋な認識にゆだねられているので』というのは、哲学でいうところの独断論的な純粋認識を想定していると思われる。その様な場合、『意識が保持している諸知識を取り落とす』ことというのは、意識と理性が一致するということであり、その場合、(ベルクソンが考えているような)本来的な意識のもつ知識すなわち経験が取り落とされ、結果(独断論的な)『意識(=理性)が得をする』というのは、つまり、『独断論』の根底的な欠陥を批判していると思われる。つまり、『理性』を無批判にブラックボックス化することに対する批判と思って良いのではないか

さらに、『意識が意識にとって完全には失われていないもの』という部分はおそらくここまでのべた『無意識』あるいは、現在は無力であるような『(純粋)想起』を想定しているのだろう。そして、絶えず進行していく現在において、その『純粋想起』の『感覚‐運動』の仕組みが次々に変化していく、従って、『光をなげかけ』る『想起』も次々に変わっていく、その仕組みに対しての説明も必要なのだが、それについて『明らかにすることを断念している』仮説についても『納得』できないと批判していると解釈できる

したがって、われわれの考えるようなベルクソンに対する反論は

『意識が事実的に所有してるものだけが権利的に意識に属しており、また、意識の領域において実在的なものはすべて現在性を有していることになる』(p.203 5行目-7行目)

端的に言えば、本来ならば存在しないはずの「メタ意識」というべきものと『諸知識』を保持しているはずのその『意識』とを、現在性ということのみに着眼しすることで混同して、その区別が付いていないのではないか、と指摘している、と考えられる

『しかし、意識にその真の役割を返してみなさい。そうすれば、私が物質的対象を知覚するのをやめるとき物質的対象は存在するのをやめるのだと想定する理由がなくなるのと同様、過去はひとたび知覚されれば消えてしまうと言う理由も存在しなくなるだろう』(p.203 7行目−10行目)

上引用文はこの段落最後になる。要約すると現在性ということを考えるとき、物質は確かにイマージュとして外界に存在し、過去はそれだけでは無力なものとしてわれわれの中に存在するのだから、われわれの意識は『感覚-運動的』なものであったはずだ

結論として、われわれが『本質的に思弁の方を向いた能力である』と考えているような『意識』、一般に『意識』と思われているものは、実は「メタ意識」、あるいは『注意』という心の働きの揺れと言った方が適切であり、本来存在しないはずだ、と指摘しているとも考えてはよいのではないだろうか


さて、第二段落(p.203 11行目−p.205 14行目)はベルクソンの詳細なる解説であるはずだ。一度引用した部分であるが、再度提示しよう

『この最後の点を強調しておこう。というのもそれが無意識の領域を問題を取り巻く諸困難の中心であり、それを取り巻く曖昧さの源泉であるのだから』(p.203 11行目−12行目)

『この最後の点』ということを明らかにするためにすこし戻って再引用しよう

『しかし、意識にその真の役割を返してみなさい。そうすれば、私が物質的対象を知覚するのをやめるとき物質的対象は存在するのをやめるのだと想定する理由がなくなるのと同様、過去はひとたび知覚されれば消えてしまうと言う理由も存在しなくなるだろう』(p.203 7行目−10行目)

この引用で、要点を指摘すれば当然『しかし、意識にその真の役割を返してみなさい』であろう。そうしたときに、今度は無意識についても、その役割がはっきりしてくる

『《無意識的表象》の観念は、流布されている偏見にも関わらず明白なものである』(p.203 12行目−13行目、《》内はテキスト傍点付き)

ここから、少しだけ要約して続けると、われわれは、現在、知覚してる『イマージュ』だけが『物質の全体ではないということは誰もが認めている』(p.203 14行目−16行目)

『しかし他方、知覚されない物質的対象、イマージュ化されないイマージュは、一種の無意識的な精神状態でないとすれば、いったい何であろうか』(p.203 16行目−17行目)

ここで、『イマージュ化されないイマージュ』とは、『注意』によって『イマージュ中枢』に『イマージュ化されない』と解釈していいだろう

さて、以上のように『無意識的な精神状態』を考えるとき、『実在論者であれ観念論者であれ』(p.204 3行目)、何かの対象、たとえば『町や通りや家の他の部屋について話しているとき』(p.204 4行目)、

『それだけ多くの知覚、あなたの意識のうちにはないが、それでもあなたの意識の外に与えられているような知覚に思いを馳せている』(p.204 4行目−6行目)

ここでの文を分けたのは、見やすさのためだけなのだが、ここで『知覚』に『思いを馳せている』という言い方には注意して頂きたい。『知覚』は、もちろん『想起』ではないのであるが、『思いを馳せている』ということが、いわゆる、「思い出す」とわれわれが考えることに相当している。つまり、無力な『想起』を『イマージュ化』しているわけだ。少しややこしいが、ベルクソンの主張の大事な部分であるので、あえて注釈を加えた

さて、ここからさらにややこしくなる

『それらの知覚は、あなたの意識がそれらを受け入れるにつれて生み出されるのではない。それゆえこれらの知覚はいわばすでに存在していたのだ』(p.204 6行目−7行目)

ここで、もう一度、注意しよう。『思いを馳せ』た対象の『知覚』は、思い出される過程によって、存在を新たにイマージュ化する。したがって

『仮説からして、あなたの意識はそれらを気にかけていなかったのだから、どうしてそれらは、無意識的な状態でなければ、それ自体として現実存在することができたのであろうか』(p.204 7行目−9行目)

ということになるだろう。さて

『その場合、諸対象が問題であるときには、《意識外の現実存在》はわれわれに明白であるように思われ、われわれが主体について話すときには漠然としているように思われるのはなぜなのであろうか』(p.204 9行目−12行目:《》はテキスト傍点付き)

さらにここからは、もう一つの疑問が提示されるのだが、少し要約して私なりにわかりやすく説明したい

以前紹介した、光円錐に近いイメージで具体的な例をあげるとすると、こういう例はどうだろう

ケーキを装飾するときのクリームを例に取ろう。クリームは先に星形の口が開いた金型の袋、つまりクリーム絞り器に入れられ後ろから押し出されてケーキを飾る。このクリームをわれわれの想起と考えてみよう。クリームの入った袋というのは、われわれの記憶全体に相当するだろう。そして、クリームが押し出されて袋から出るところ、星形の口のついた金型、この口金の部分がわれわれの「感覚ー運動」の主体であるわれわれという「生き生きとしたイマージュ」ということに相当するだろう。そうしたときに、ケーキは我々が生きているこの全世界として考えてみることができるだろう(図4参照)



こう置き換えてみると、現在クリーム絞り器の中にあるクリーム(すなわち想起)は、それ自体は無力である。将来役に立つだろうが、袋の出口の星型をした金型がなければ意味のないもの、成型のため後ろからの圧力がなければ、無力であるものとして存在している

クリームは、ケーキ作りの職人さんによって、袋に圧力をかけられ、瞬間的に成型され、ケーキの装飾となる。そのケーキの装飾となる瞬間は、厳密に言えばクリームとケーキがふれた瞬間からであろう。しかし、わかりやすく、クリームが袋の先の金型によって星形になる、そこが、想起の出口であり、われわれの意識ということにしよう

さて、われわれの空間認知は、現在という瞬間、仮想的には大きさ0の時間でも、物質の存在に関して疑うことはない。先ほど例では、クリームの入った袋の先にあるケーキ全体の存在を疑うことがないのと同様に。しかしながら、われわれの身体に相当するクリーム絞り器口金の部分はその瞬間にはケーキの一部としか接触することはない。言い換えれば、その瞬間には、世界のある一部分しか知覚していない。そして、われわれは、世界全体の存在を信じていながら、その瞬間に認識しているものだけが『真に存在しているようにわれわれに思われる唯一の点であるのはなぜだろう』(p.205 1行目−2行目)とベルクソンは問いかける

以下、ベルクソンはこう言う

『時間と空間の二つの列のあいだの根本的な区別の底には、実に多くの混乱した観念あるいは不明瞭な観念、(中略)、われわれはそれをすべて一挙に分析し尽くせないほどである』(p.205 2行目−4行目)

ここには何らかの錯覚があるのだが、その『錯覚を完全に暴くためには、その二重の運動を、錯覚の起源において探求し、その紆余曲折を通って辿らなければならいだろう』(p.205 4行目−6行目)

ただし、

『その二重の運動によって、われわれは、意識と関係のない客観的実在ならびに客観的実在のない意識状態を措定するに至る』(p.205 6行目−7行目)

という特徴がある。『措定に至る』という部分は、辞書ひけば「対象として規定するに至る」、だろうが、ここでは、勝手にそういう風に思い込んでしまう、ぐらいの意味で良いだろう

そのため

『その際、時間は、時間において継起する諸《状態》を次第に破壊していくのに対して、空間はそこに、並置されている諸《事物》を限りなく保存するように思われる』(p.205 7行目−10行目:《》内はテキスト傍点付き)

つまり、時間が止まっていれば何も変わらないはずだけど、時間が動くために状態が変化するような錯覚を持ってしまう。たとえ、われわれが直接的な知覚をするできえないようなものに対しても

さて、残りの部分(p.205 10行目−14行目)であるが、難しくないので簡単に紹介しよう

『錯覚を暴く』ことは、一部は第一章で『われわれが客観性(objectivité)一般を扱ったときに行われた』(第一章第十一節及び第十二節が相当すると思われる)し、もう一方は、『この著作の最後の箇所でわれわれが物質の観念について語るときに行われるだろう』

なので

『ここでは、いくつかの本質的な点を指摘するにとどめよう』(p.205 13行目−14行目)

(※ここで段落が終わっている)
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