第三章 『イマージュの残存について - 記憶と精神』 第七節『夢の平面と行動の平面』

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは第三章第七節『夢の平面と行動の平面』(p.238 14行目-p.241 14行目)の内容を解説したものです。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています

もともとは、ブログ版の記事を加筆修正したものとなります


早速、第一段落(p.238 15行目-p.239 17行目)を見てみたい

まず、 これまでのように導入部分を引用する。ここでは前段落の『われわれの心的生の最大限の単純化』(p.237 16行目)と対照的ないわゆる『夢見る人』(p.219 17行目)についてまず簡単に語られる

『それでは、われわれの心的生のもうひとつの極端へとひと跳びで身を移そう。単に「演じられている」だけの心理手学的実存在から、ひたすら「夢見られている」心理学的現実存在へと、われわれの方法に即して移行してみよう』(p.238 15行目-p.239 1行目)

以下少しまとめると、図5の平面AB、すなわち『過ぎ去った人生のすべての出来事がその最小部分まで描かれるような記憶の底面AB』に身をおいて考えようというのだ。そのとき『意識』は『行動から解き放たれ、過去全体をそのまなざしの元に保持している』。そのような『意識』は、過去全体を見渡すが故に過去のある部分に執着することはまったくないだろう(ここまでp.239 1行目-5行目を抜粋して解説)



このように、『ひたすら「夢見られている」心理学的現実存在』がどのようなものかを簡単に述べた後、ここから更なる考察が展開されていく。少しずつ見ていこう

『ある意味で、こうした意識のすべての想起はその現在の知覚とは異なっているだろう。というのは、その細部の多様性と共に、それらの想起を取り出すとすれば、二つの想起は決して同一のものではないからだ』(p.239 5行目-6行目)

ここは『現在の知覚』は過去のどの似たような『想起』とも細部まで見ればまったく違うものだ、という解釈でいいだろう。続けよう

『しかし、別の意味では、《任意の》想起が現在の状態に関連付けられうるであろう』(p.239 7行目-9行目、《》内はテキスト傍点つき)

ここは『現在の知覚』がどの想起とも違うのなら、逆の意味で、どの想起とも結びつけることが可能になってしまうだろう、ということだろう。つまり、暗に『現在の知覚』と『想起』を『細部の多様性』を無視した形で一致させないと『現在の知覚』と『想起』は結びつくことはないだろう、と言っているのだ

このようにして、この部分のベルクソンの論理の展開の結末は、次のようになる

『そのためには、この知覚とこの想起から、類似だけが現れるようにするのに十分なだけ、細部を無視するだけでよいだろう』(p.239 8行目-9行目)

さらに続きを見ていこう。そこには、まず、ひとたび『知覚』と『想起』が結び付けられると『ひたすら「夢見られている」心理学的現実存在』ではどのようになるかが述べられる

『そのうえ、ひとたび想起が知覚に結び付けられると、その想起に隣接している多くの出来事が、同時にその知覚に結びつくだろう。 -それらの出来事は無制限に多く、意図的に打ち切りを選択しなければ決して制限されることはないだろう。類似の、ひいては隣接の効果を規制するための生の必要性はそこにはもうない』(p.239 9行目-13行目)

つまり、そこでは、『生の必要性』、即ち、生きるために何かしなくてはならないということがまったくない状態になると、まさに夢を見るように、あるひとつの『知覚』と『想起』の結びつきを起点にして際限なく『類似』と『隣接』の連鎖がとまらなくなるだろう。なぜなら、『知覚』と『想起』は、細部においてどこまでも違うものであるから、『知覚』がある『想起』と結びつくという事が一度起きるならば、それは他のいかなる想起とも無差別に結びつくという事になるからである。すなわち

『そして、結局、すべてが類似しているのだから、すべてが連合できることになる』(p.239 13行目-14行目)

以上を、前節で見た『われわれの心的生の可能な限り最大の単純化に対応する点S』と対照させると

『少し前までは、現在の知覚は決まった諸運動へと引き継がれていたのだったが、今では、この知覚は等しく可能な無数の想起へと解消される』(p.239 14行目-15行目)

この段落の結論として『ひたすら「夢見られている」心理学的現実存在』では、こうして次のようなことが起こるだろうとベルクソンは述べる

『それゆえ、ABにおいては連合は、Sにおいて運命的な動きが惹起されるように、気まぐれな選択を惹起するだろう』(p.239 15行目-17行目)
(図5参照)


では、次の段落(p.240 1行目-p.241 4行目)を見よう

まず、これまでのように始まりの部分を引用する

『しかし、それらは二つの極限でしかなく、心理学者は研究の便宜上代わる代わるそこに身をおかなければならないのだが、それらが実際に到達されることは決してない。少なくとも人間においては、漠然とした活動の基盤なしには今以上の営みが存在しないのと同様に、純粋に感覚-運動的状態も存在しない』(p.240 1行目-4行目)

と述べ、次に

『われわれの通常の心理学的生はこれら二つのあいだを揺れ動いていると、われわれは言った』(p.240 4行目-5行目)

とあるのは、以前の図5の説明では、例えば、『良識(bon sens)あるいは実践感覚(sens pratiqze)はおそらくこれ以外の何者でもない』(p.220 2行目-3行目)とあったり、『実際、正常な自我はこれら極端な位置の一つには決して固定されず、それらのあいだを動き、中間的諸断面によって表象される数々の位置を代わる代わる採用する』(p.232 7行目-10行目)とあったりした部分が相当するだろう

本文でも少し説明があるので引用すると

『一方では、感覚‐運動状態Sが記憶を方向付けているが、この状態は結局、記憶における現在的で活動的な極限でしかない。他方、この記憶そのものは、われわれの過去全体と共に、記憶それ自身のできるだけ大きな部分を現在の行動に差し入れるために、前方への推力を行使している。これら二重の努力から、記憶の無数の可能的な《諸状態》、われわれの図式の断面A'B'、A''B''などによって描かれた諸状態があらゆる瞬間に生じるのである』(p.240 5行目-10行目:《》内テキスト傍点つき)

念のために、これに少しだけ解説を加えると、まず、『感覚‐運動状態S』は『記憶』の『方向付け』をする。つまり、『知覚』と『運動』を『記憶』を使って結びつける。言い換えれば、われわれの肉体は現実の物質世界との関わり合いを絶え間なく続けるという事になるだろう。これがすぐ後でベルクソンが、われわれが行っている記憶の操作における『感覚-運動状態S』における『これら二重の努力』と述べているところの『記憶における現在的で活動的な極限』に相当するだろう。これが、『これら二重の努力』の一つ目であろう

二つ目は『過去全体』、言い換えれば、すなわち、図5でいう平面ABからみた時の『記憶』は、『類似』の働きを使って、『記憶それ自身のできるだけ大きな部分を現在の行動に差し入れるため』の『前方への推力を働かせている』、と言っているのだろう。ここで、この『前方への推力』というのは、『一般観念』を説明した第五節では、以下のように解説していたように、悟性の働きであろう

「『精神がそこから出発するところの類似は、感じられ、生きられた、あるいはお望みなら自動的に演じられた類似である。精神がそこへと戻るところの類似は、知的に認知され思考された類似である』(p.229 11行目−13行目)

以下、このような、二つの仕組みによる『一般観念』について考察されていく

ベルクソンはこう言う

『悟性と記憶の二重の努力によって、個体の知覚と類の概念が構成されるのは、まさにこの進展の途中に於いてなのである』(p.229 13行目-15行目)

以下、ベルクソンの言葉をそのまま引用する。ここでの『悟性』はあまり難しく考えず「理性」もしくは『知性』と考えれば良し、『抽象』はこの前の文(p.229 7行目-9行目)に『抽象[抽出]』とあるように『抽出』と置き換えてもかまないだろう

『 —記憶は自然発生的に抽象された類似に区別を付け加え、悟性は数々の類似についての習慣から一般性についての明晰な観念を引き出す』(p.229 15行目-16行目)

言い換えれば、『記憶』は『類似』を『抽出』し、『悟性』は『知的』に『個体』を『類(カテゴリ)』に分ける、としても良いと思う」

『これら二重の努力から、記憶の無数の可能的な《諸状態》、われわれの図式の断面A'B'、A''B''などによって描かれた諸状態があらゆる瞬間に生じるのである』(p.240 5行目-10行目、《》内テキスト傍点つき)ということになるとベルクソンは言う

ここから、この段落の最後、つまり、この節の最後まで、ここまでの二つの記憶についての繰り返し変奏され説明されてきた事柄について若干のまとめに入る。また少しずつ見ていこう

『それらはいずれも、われわれの過去の生全体の繰り返しであるとわれわれは言った』(p.240 10行目-11行目)

ここに相当するのは、前節第六節の

『その時説明しなければならないのは、もはや内的な団結ではなく収縮と膨張という二重の運動であり、この運動によってその内容を展開したり、抑えたりしている』(p.237 8行目‐10行目)

『しかしこの運動は、われわれがこれから見るように、生の根本的必要性から演繹されるのであり、こうして、なぜわれわれが、この運動に沿って形成するように思われる諸「連合」が隣接と類似の継起的諸段階のすべてを使い尽くすのかも容易に分かるだろう』(p.237 10行目‐13行目)

というところであろう

あるいは、もっと遡って

『知覚されざる諸対象の全体が与えられていると想定することに私が何の不都合も覚えないのは、これらの対象の厳密に定められた順序がそれらに一つの連鎖の様相を与えており、私の現在の知覚はもはやその連鎖の一つの環出しかないからであろう。 —しかし、子細に眺めるならば、われわれの想起は同種の鎖を形成しており、われわれのあらゆる決定につねに随伴するわれわれの《性格》なるものも、まさにわれわれの過去の状態すべての現実的総合であるのが分かるだろう。』(p.208 12行目―17行目、《》内はテキスト傍点付き)

と記述されているところも相当するのではないかと思われる

第七節に戻ってみれば

『それらはいずれも、われわれの過去の生全体の繰り返しであるとわれわれは言った』(p.240 10行目-11行目)

のあと、たとえば、断面A'B'、A''B''でもそれぞれの面積は違い底面に近いほど面積は大きくなるだろう。また、それら過去も『感覚-運動的状態に嵌入〈筆者注:読み、かんにゅう。意味は、はめ込みいれる〉されうるもの、したがって成し遂げる行動の観点から見て現在の知覚に類似しているものだけを光に導く』とベルクソンは説明する。(p.240 11行目―15行目を適宜引用要約)

段落最後、すなわち、この節最後まで引用しようと思う

そこで、まず『いわば二つの運動』という言葉が出てくるのだが、これは、この節で引用した、『二重の努力』(p.240 5行目)等と同じであろう

あえて、これを少し振り返りながら説明すれば

『一方では、感覚‐運動状態Sが記憶を方向付けているが、この状態は結局、記憶における現在的で活動的な極限でしかない。他方、この記憶そのものは、われわれの過去全体と共に、記憶それ自身のできるだけ大きな部分を現在の行動に差し入れるために、前方への推力を行使している』(p.240 5行目―8行目)

の説明のところで、これらはそれぞれ、図5の記憶を表す円錐の『極限』(p.240 1行目)である頂点と底面の働きを示していると解説した

ここでは、一方の「底面」の働き、上の引用文でいえば、『過去全体と共に、記憶それ自身のできるだけ大きな部分を現在の行動に差し入れるために、前方への推力を行使している。』の部分は、『並進運動(translation)であり、それによって、記憶は全面的に経験に先んじ、行動することを目指して、分割されることなく多かれ少なかれ収縮する』と述べられている

そしてもう一方の「頂点」即ち上の引用文でいう『記憶における現在的で活動的な極限』の働きは、『他方は、自転運動(rotation sur elle-même)であり、それによって記憶はそのときの状況へ向かってもっとも有益な面をその状況に示す』と表現されている

そして、最後は、『これらの様々な収縮の段階に、類似による連合の多様な形態が対応している』とまとめられているのである。つまり、複合的な観念に必要なもっとも基本的な要素である『類似』やそれを発展させた形での『隣接』によるさまざまな観念の連合は、全体的な記憶の特徴的な部分を保持しながらも、その不必要に詳細な部分を保持しないようにした、それぞれの段階であると言い換えることができるだろう

では、実際に述べられている部分を見てみたい

『言い換えれば、記憶の全体が、同時に生じる二つの運動によって、現在の状態の呼び掛けに応えるのであるが、その運動の一方は並進運動(translation)であり、それによって、記憶は全面的に経験に先んじ、行動することを目指して、分割されることなく、多かれ少なかれ収縮する。他方は、自転運動(rotation sur elle-même)であり、それによって記憶はそのときの状況へ向かってもっとも有益な面をその状況に示す。これらの様々な収縮の段階に、類似による連合の多様な形態が対応している』(p.240 15行目―p.241 41行目)

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