第二章「イマージュの再認について ― 記憶と脳」 第一節「記憶の二つの形式」

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは第二章第一節「記憶の二つの形式」(p.100 1行目−p.118 13行目)に書かれている内容のうち、冒頭(p.100-p.102)にあるこの節の概要に相当する部分以外の部分を抜き出し、解説したものです。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています

もともとは、ブログ版の記事を加筆修正したものとなります

記憶の二つの形式が今回の記事のテーマである。今回の説明は、テキストのこの部分から始まる

『I - 記憶の二つの形式。 - 私はある暗唱用課題を勉強する。そして、それを暗唱するために、最初に、音節を区切りながら課題を一行一行読む。それから何度かそれを繰り返す。新たに読むごとに、進歩が成し遂げられ、語は互いにより緊密に結びつき、最後には一つにまとまるようになる。まさにこのとき、私は私の課題を暗記してしまっているのであり、「それは想起と化した」「それは私の記憶の中に刻み込まれた」と言われる。』 (p.103 1行目-5行目)

次に思い出すとき、ベルクソンの言い方では想起を行ったときの状況を叙述し、それからこう説明している

『要するに、それぞれの朗読は、私の歴史のある特定の出来事(evenement)として私の前を通過する。これらのイマージュは想起であり、これらのイマージュが私の中に刻み込まれたのだ、と再び言われるだろう。二つの事例について同じ言葉が用いられている。まさに同じことが問題なのだろうか。』 (p.103 11-14行目)

この二種類の記憶は明らかに違うと言う

『課題の想起は、暗記されたものである限り、習慣(habitude)のすべての特徴を持っている』(p.103 15行目)

これに対し、

『その他の朗読は、定義そのものからして、異なる想起を構成しているからだ。それは私の人生の出来事のようなものである。それは日付を持ち、従って、繰り返され得ないことを本質としている』(p.104 6行目-8行目)

二つが混合している場合もあるかもしれない。しかし、ある朗読という『人生の出来事』の方は、

『益々よく覚えられていく課題としてではなく、絶えず更新される朗読として考察されれば、完全に自足しており、それが生じたままに存続し、同時に起こっていたすべての知覚と共に、私の歴史の還元できない瞬間を構成すると言うこと、これもまた確かである』(p.105 1行目-4行目)

と、指摘されている

ここで、このあとの十数行(p.105 4行目-p.106 3行目)を簡単にまとめると、上の例でいう朗読の『出来事』の記憶の方は、ベルクソンの言い方によると、『ある一定の朗読の想起は表象であり、また表象にすぎな』く『それは、私が私の好きなように延ばしたり縮めたりできる精神の直感の中に収まっている』(p.105 6行目-7行目)のに対し、暗記されてしまった課題の方については、 『それは、歩いたり書いたりする私の習慣と同じ資格で、私の現在の一部をなしている。それは表象されると言うよりむしろ生きられ「作用される」のである』(p.105 14行目-16行目)となるだろう。その特徴を拾い上げるなら、『この課題を内的に繰り返すに留まるときでさえ、まさに一定の時間を必要とする』(p.105 9行目−10行目)他に、『課題が一旦覚えられると、それらの表象なしで済ますことも出来る』(p.106 2行目−3行目)と指摘されている

この考えは推し進められ、ベルクソンは記憶を次の二つに分類する

『第一の記憶は、われわれの日常すべての出来事を、それが展開するにつれて、イマージュ想起(images-souvenirs)の形で記録するだろう』(p.106 5行目-6行目) この記憶には、位置と日付が付加される。そして、日付が与えられるということは本質的に繰り返し得ない。というのがこの記憶の特徴となる。

第二の記憶については、『しかし、あらゆる知覚は、生まれつつある行動へと引き継がれる』(p.106 12行目) 『この機構は、外的刺激に対する益々多種多様なものと化す反応、普段に漸増する可能的な呼びかけに対するすっかり用意した応答を伴っている』(p.106 16行目-p.107 1行目)と述べられる。つまり、運動や習慣と同じ形で記憶され想起される。そして、そこにはすでに意識的な表象は存在していない

以上を、端的にまとめるとこうなるだろう

『一方は想像し・イマージュ化し(imaginer)、他方は反復する(repeter)』(p.107 13行目)

さて、人間と動物を分けているのはなんであろうか。ベルクソンは、テキストp.108において、動物が基本的に後者の想起しか利用できないと指摘している。取り返しのつかない、従って繰り返すことのない一度きりの思い出を持つことのできるのはおそらく人間だけなのだと。下に関係するところを一部抜粋して引用したい

『確かに動物自身においても、過去の漠たるイマージュはおそらく現在の知覚をはみ出している。動物の過去の全体がその意識のうちで潜在的に描かれていると考えられさえするだろうが、この過去は動物を虜にしている現在から、動物を引き離すほど十分にはその興味をかき立てることはなく、動物による再認は、思考されている(pensée)というよりはむしろ生きられている(vécue)にちがいない。イマージュの形で過去を喚起するためには、現在の行動から気を逸らすことができなければならないし、役にたたないものに価値を与えることができなければならず、夢見ようと欲する(vouloir rêver)のでなければならない。人間だけがおそらくこの種の努力をすることができる』(p.108 4行目−15行目)

以上がこの節の主要な内容であるが、いくつか、興味深い部分などを指摘しておきたい。

まず、イマージュ記憶があるということで夢を見るのではないかという指摘をしている。つまり、意識の注意がゆるむことで、勝手にイマージュ記憶が知覚として現れるという指摘である。(p.111 13行目-p.111 17行目)この指摘から、イマージュ記憶を運動の働きに関する記憶で必要に応じて制御しているという。そこから『観念連合の諸法則が導き出される』としている(p.112 3行目)

このことについては、ベルクソンは痴呆症や失語症の患者についての研究を紹介している。 (p.113 4行目-p.116 3行目) それは、ある種の痴呆症の患者たちが、会話の内容は全く理解していないにも関わらず一連の質問に返事をしている目撃例や、失語症の患者たちが、自発的に言葉を発することができないにも関わらず、歌を歌ったり、あるいはお祈り言葉を述べたり、連続した数字などを暗唱したりする例などが挙げられている

このあと、

『このように、極度に複雑で、知性を彷彿させるに足るほど精緻な諸機構も、ひとたび構築されれば、おのずから作動することができ、したがって、通常は意志の最初の衝動にだけ従うことが出来る。しかし、われわれがそれらの機構を構築しているあいだは何が行われているだろうか。例えば、われわれが課題を覚える訓練をしているとき、われわれが諸運動によって再構成しようとしている視覚的もしくは聴覚的イマージュは、われわれの精神のうちに、目には見えないが、すでに存在しているのではないだろうか』(p.113 15行目−p.114 5行目)

という指摘がされる。このことはこのあと、『複合観念(idée complexe)』(p.115 1行目)や『心的写真撮影の能力』(p.115 12行目)などと述べられているのだが、これは運動的な記憶が抑制されたときに、『隠れている自然発生的な想起を前景に連れ出す』ことによって生じると説明されている

さて、以上のような記憶に関してこれから詳しく述べられるだろうが、つまりは、イマージュの記憶のことなのである

問題は、運動の記憶とイマージュの記憶が混同されることだとこの節最後の段落で指摘されている指摘されている(p.116 5行目-p.117 3行目)なぜこのようなことが起こるかというと、イマージュの記憶から運動の記憶が生まれるために、中間の状態が発生するというのがベルクソンの論である。この後、

『われわれは後で、これらの中間的な状態を考察し、各状態のなかで《生まれつつある行動》、つまり脳に属するものと、独立した記憶、つまりイマージュ想起の記憶とを考慮に入れるつもりである。これらの状態はどのようなものなのか。一面では運動性のものであるから、これらの状態はわれわれの仮説によれば現在の知覚を引き継いでいなければならない。しかし他方では、イマージュである限り、これらは過去の知覚を再現している』(p.118 6行目−11行目)

と述べられ、

ベルクソンは、自説の立証のためにこのような中間状態を検証するのに『再認』について検討しなければならないと述べる。それは、『われわれが過去を現在のうちで改めて把持する具体的な行為とは再認である』からだと言う。(p.118 11-13行目)

Comments