第二章「イマージュの再認について ― 記憶と脳」 第三節「想起と運動」 (下)

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

ここでは第二章第四節「想起の現実化」をまとめています。この節の内容は前節「想起と運動」から続く内容ですので節は違えどもひとまとまりとしてあつかっています。テキストでは、p.131 13行目からp.177 2行目に相当する部分です。今回は、このうち、p.156 6行目からp.177 2行目の内容を解説したものです。以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています

もともとは、ブログ版の記事を加筆修正したものとなります


さて、節が変わる。ここまでも長かったが、もう少しお付き合いいただきたい

節名は上述したように、『想起の現実化』(p.156 6行目-p.177 2行目)である。節の始めをまず紹介したい

『二、われわれはこの研究の第二の部分に取りかかる。運動からわれわれは想起へ移る』(p.156 7行目)

それでは、段落ごとに見ていくことにしよう

この節の最初の段落(p.156 7行目-p.157 6行目)は、先ほど引用文のあと、まず、『注意的再認は紛れもない回路』であるということの主張が繰り返される

続く言葉はこうなる

『そこにおいて、外的対象は、それと対称的におかれた記憶が、その数々の想起を外的対象に投影するためにより高い緊張を採用するにつれて、対象そのものの益々深い部分をわれわれに引き渡す』(p.156 8行目­-10行目)

上記引用文についての内容は、前節の第九段落と第十段落の解説に詳しいためここでは省略したい

ところで、例えば、知らない言語を学んでいるような場合、外的対象は学習中の言語であり、学習者においてはまずその『諸観念は彼の意識の中で聴覚的表象へと開花し、次いで、発音された語として物質化される』(p.156 11行目­-12行目)ということになるはずだ

ごくわかりやすい例を挙げるなら、多くの日本人がなじみのある「This is a pen.」という英文において、まず、「pen」という『観念』を先の英文の中からこの単語を教わり聞き分け区別できるようになったとする。そのことがすなわち『聴覚的表象へと開花』することに相当するだろう。そして、そのことが繰り返しの学習のなかで、意識されることなく認識できるようになると、すなわち『物質化される』わけである

このような学習済みの言語を聞き取るときに起こる過程を、ベルクソンは独特の表現方法でこう説明している

『われわれが正しければ、《聞き手は一挙に対応する諸観念の中に身を置き》、それらの観念を、聴覚的表象へ展開させ、それらの表象が、運動図式の中へ自力ではまりこむことで、知覚された生の音を覆うのではなければならないだろう』 (p.156 12行目­-15行目、《》内はテキスト傍点付き)

以前にも指摘しておいたが、この考え方は、例えばニューラルネットワークによる手書き文字の認識の概念によく似ている。もっとも、ベルクソンの例はもっと高等な処理がされているとは思われる。しかし、ここでは、一見奇妙に見える『表象が、運動図式に自力ではまりこむ』という表現も、現代、われわれが知っている理論や技術でもある程度であれば十分説明可能であるということを指摘しておきたいのだ

この段落の前半は、以上のように、これまで展開された論のまとめだと言える

後半は、これから展開される意識的な知的活動について、まず簡単に触れてある

『計算を辿ることは、自分自身で計算をやり直すことである。(中略)より一般的には、注意すること、知的に再認すること、解釈することは互いに混じり合って同じ一つの操作と化すだろうが』 しかし、『その操作によって精神は、みずからの水準を定めた後で、また、生の知覚との関連で、知覚の多少とも直接的な原因と対になる点を精神そのもののうちで選んだ後で、数々の想起を知覚に向けて流出させ、これらの想起がやがて知覚をおおうことになるだろう』 (p.156 15行目-­p.157 6行目)

これが、これからベルクソンが展開させる自身の仮説のテーマとなっている。『精神がみずからの水準を定めた後で』、『知覚の多少とも直接的な原因と対になる点』、など、いくつか難解な点があるが、これらはこれから徐々に述べられるはずである

第二段落(p.157 7行目­-16行目)から数段落のあいだしばらくは、ベルクソンと違うタイプの仮説に対する批判が続く(『急いで言っておくが、通常はこのような仕方で自体が思い描かれることは全くない。ここにはわれわれの連合主義的習慣があって、(以下略)』云々)

つまりは、知覚と想起などの連合中枢主義的な考え方の批判であるが、第四段落(p.159 14行目)まで一旦省略したい。


その次の第五段落(p.159 15行目­p.163 7行目)に入ろう。

この段落においては、まず、脳のある部分に想起が蓄積されているかが論じられ、そのような考え方に対する、反証として感覚性失語症の例が挙げられている

『皮質の諸細胞の中に置かれた想起が本当にあるとすれば、たとえば感覚的失語症においては、ある決まった語の取り返しのつかない喪失と、他の語の全面的な保存が確認されるだろう』(p.159 15行目­-17行目)

しかし実際はそうはならないとベルクソンは言う

『ある時は、消え去るのは想起の全体であり、精神の聴覚機能が完全に消滅させられるが、ある時はこの機能の全体的な低下が見られるのだ。しかし、弱められるのは通常、機能であって想起の数量ではない』『患者は、聴覚的想起を取り戻す力をもはや持っておらず、言語的イマージュの周りを回転しつつも、イマージュそれ自体とは接触することができずにいるように思われる』(p.159 17行目-p.160 ­5行目)

上記引用文の例を挙げれば、われわれが、ものの名前を思い出せなくて、「あれだよ、あれ。ねじを回すやつってなんてったっけ?」などという会話をよくするだろう。この場合、答えは、ドライバーなのであるが、『患者に語を再び見つけさせるためには、しばしば、その人に手がかりを与えること、患者に最初の音節を示し(53)、あるいは単に患者を励ます(54)ことだけで十分である』(p.160 5行目­-6行目)

『感情の高ぶりも同じ効果をもたらしうるだろう』(p.160 6行目-­7行目)これは外国で何か問題が起こったときに、片言しかはなせないような当国の言葉が急に良くしゃべれるようになることを経験した人もいるだろう

このような卑近な例に似た多様な症状を、ベルクソンは検討の結果、二つのカテゴリーに分類したと述べている

『第一のカテゴリーでは、想起の喪失は総じて突然である。第二のカテゴリーでは、それは漸進的である』(p.160 10行目­-11行目)

ここで、第一のカテゴリーとは、われわれがよく経験するようないわゆるド忘れが、長く続いてたり、程度がひどくなっていることとほぼ同じと思って良い

『第二のカテゴリーでは、言葉は消失するにあたって体系的で文法規則にかなった順序を辿るのだが、この順序はまさにリボーの法則が示しているもので、最初に固有名詞が消え、次いで普通名詞が消え、最後に動詞が消えるのだ(56)』(p.160 14行目­-16行目)

さらに、ベルクソンは詳しい症例を説明しているのだが、ここではごく簡単に触れたい

第一の種類の記憶消失は、何らかの激しい衝撃の結果として起こったものがほとんどで、実際は記憶は存在しているにもかかわらず、障害が起こってるように見えるという

例えば、『ウィンズロウからしばしば借用された一つの例(57)、即ち、文字F、しかも文字Fだけを忘れてしまった患者を取り上げるならば』(p.161 4行目­5行目)、Fという文字は認識していながら、忘れていると言わざるを得ないだろう。この他いくつかの例が挙げられているが、ここでは省略する

ただ、このような症例の場合、『(前略)消滅した想起の全面的回復がしばしば見受けられる』と言う(p.161 10行目­-11行目)

それらの例以外、『すべて第二の種類の失語症、真の失語症である』(p.161 17行目)

『これらの失語症は、われわれがまもなく示そうとつとめるように、はっきり局所化された一機能、語についての想起の現実化の能力が徐々に弱まることに起因する』(p.161 17行目­p.162 2行目)

さて、ここで、記憶が脳細胞の一部分に蓄積されているのはおかしいのではないかとベルクソンは指摘する

『記憶喪失がここでは、固有名詞から始まり動詞で終わる体系的な経過を辿ることをどのように説明すればいいのだろうか』(p.162 2行目­4行目)

『言語的イマージュが本当に皮質の諸細胞のうちに置かれているとすれば、説明の方法はほとんどないだろう。実際、疾患がつねに同じ順序でこれらの細胞を損なうなどということは奇妙ではないだろうか(61)』(p.162 4行目­-6行目)

しかし、ベルクソンの主張する仮説のように、『想起が現実化するためには、運動の随伴を必要とすること、また、呼び起こされるためには、想起は、身体的態度のうちにおのずと挿入される一種の精神的態度を要請するということをわれわれとともに認めるならば、事実は解明するだろう』(p.162 6行目-­9行目)

上述の引用は、言葉は難しいが、要するに前節で説明されたように想起が『運動図式』へおのずから入り込むということを認めれば説明がつくのではないか、と主張しているのである

『そのとき、動詞、­その本質は模倣可能な行動を表現することにある­とはまさに、言語の機能がいまにもわれわれから脱落しようとしているときに、身体の努力によってわれわれから取り戻しうる語である。反対に固有名詞は、すべての語の中でも、われわれの身体が素描することのできる非人格的行動からもっとも隔たっているので、機能低下が最初に損なうところの語である』(p.162 9行目­-13行目)というように

テキストは、ここからしばらく少し難解であるが、内容としては『奇妙な事実』(p.162 12行目)として周期的にいわゆるド忘れに似たことに陥る患者の例が書いてある。『実詞』というのは、実際のものを指す言葉で、この患者の場合『自分の探している実詞を見つけることが決してできない状態に周期的に陥り、適当な遠回しの表現を用いるようになるのだが』(p.162 14行目­-15行目)、それには別の場合思い出すことのできなかった実詞が用いられたりもする。『正しい語を考えることができないので、この患者はそれに対応する行動のことを考えた』(p.162 17行目­p.163 1行目)というわけであり、このことが、この患者が思い出す出そうとするために説明をするための文章を話すための運動を規定した、とベルクソンは述べている。また、われわれが、単語のはじめの音を繰り返すことでその単語を思い出す例も述べられている

つまり、ふたたび、ド忘れと似た第一場合の例を挙げて、第二の場合の様な『機能の全体が損なわれる』例と比較することにより、『第一の種類では、忘却は外見的に顕著であるとはいえ、実際には決して決定的なものであるはずがない』(p.163 4行目­5行目)、と主張し、また、『どちらの場合にも、われわれは、脳実質の特定の諸細胞の中に局所化され、これらの細胞によって消滅させられるような想起を見出すことはない』(p.163  5行目­7行目)と結論づけている

さて、長かったこの段落も、以上の引用で終わるのであるが、ここではベルクソンの『運動図式』仮説と仮にここで呼んでいるもの仕組み全体の検証ではないところには注意してほしい。ここでは、脳のある部分に想起が蓄積されているか、それともベルクソンの唱える仮説のように、想起自体は別のところにあるかということを、比較的わかりやすい例を引いて述べているのだ


さて、第六段落(p.163 8行目-­p.163 最終行)に入りたい。ここは短い段落である

『そうではなく、われわれの意識に問いかけてみよう。われわれが他人の発語(parole d'autrui)を、それを理解しようと考えながら聞いているとき、何が起こっているかを意識に尋ねてみよう』と始まる

このとき、『諸印象がみずからイマージュを探しに行く』というような状態でなく、われわれ自身何かを、しかし無意識のうちに機械的に、ベルクソンの言う『運動図式』を予測し用意しながらながら聞いているだろう。段落の終わり、ベルクソンの言葉引くと

『運動図式は、対話者の抑揚を際だたせながら、対話者の思考の曲線を曲がり角から曲がり角へと辿りながら、われわれの思考に道を示す。それは空っぽの容器であり、この容器に流れ込む流体的塊が目指してる形を、みずからの形によって規定する』 (p.163 14行目-17行目)

また、そうでなければ、人によって、話の受け止め方や深みが微妙に違うということが生じるだろうか


しかしながら、次の第七段落(p.164 1行目­p.166 2行目)の始めに、このことがなかなか認めがたい考え方だ、ということもベルクソン自身が述べている。この段落から数段落(p.164 1行目­p.169 7行目)は、分析から分析へ向かう科学的思想を哲学者の観点から批判している部分で、記述の仕方が非常に難解でもあるし、ベルクソンの記憶についての仮説には直接関係ないため、省略したい

同様に、その次の第十一段落からの数段落(p.169 8行目­p.171 12行目)も説明を省略する。これは、上の批判に対して、ベルクソンの唱える仮説がいかに有用であるかということを主張することが繰り返されるということに、ほぼ相当するからだ

しかしこ、の部分の一部を、前節『ベルクソン 「物質と記憶」メモ 第二章「イマージュの再認について ― 記憶と脳」 第三節「想起と運動」(中)』でも引用している。それゆえ、ごく簡単に、概要だけ言っておくと、『科学的思考』に基づく、要素分解-再構成の考え方では、その時々において、例えば、聴覚から入る一連の文章を理解するのには、一旦、要素に分解し、後で再構成する。ところで、その要素に分解する過程はいくらでも細かく分解でき複雑にもできる。またそれを、例えば文法中枢において再構成するという考え方に基づくにしても、具体的にどのようなやり方で行われるのかは具体的に説明が難しいだろう。そうではなく、予め運動図式が、その時々において、無意識の中で機械的に用意されておいて、聴覚中枢などから入ってきた表象に従って、選ばれていくという方が自然だろう、という主張だと思っていただければいいだろう


ベルクソンの意識的な外的知覚理解の仮説のまとめとしては、第十三段落(p.171 13行目-­p.172 9行目)にある記述が、私には特に重要に思える

少し長くなるが、引用しよう

『一方では、完全な知覚は実際、われわれがその知覚の前に投げかけるイマージュ想起とその知覚の融合によってしか定義されないし、それと見分けられない。注意がかかる融合の条件であり、注意なしには機械的な反応を伴う諸感覚の受動的な並置があるだけだ』(p.171 13行目­-15行目)

『しかし他方では、われわれがもっと後で示すことになるように、イマージュ想起それ自体は、純粋想起の状態に還元されなければ無効なままだろう。潜在的なものとして、この想起は、それを引き寄せる知覚によってしか現実的なものとなり得ない。無力なものとして、この想起はその生命と効力を現在の感覚から借りていて、現在の感覚の中で物質化される』 (p.171 16行目­-p.172 2行目)

『ということはつまり、判明な知覚は、一方の外的対象から来る求心的な流れと、他方われわれが「純粋想起」と呼ぶものを出発点とする遠心的な流れという反対方向の二つの流れによって引き寄せられているということだろうか』 (p.172 3行目­5行目)

こう問いかけ、段落最後に、ベルクソンはこう答える

『第一の流れはそれだけでは、受動的な知覚とそれに伴う機械的な諸反応しか与えないだろう。第二の流れは自分だけでは、流れが強まるにつれてますます現実的になるような、現実化された想起を与えようとする。結びつけられることで、これら二つの流れは合流点において、判明でかつ再認された知覚を形成するのである。』(p.172 5行目­-9行目)


次の第十四段落からは、ベルクソン自身が意図しているよりは、やや早いが、この章のまとめと言えるだろう

まず第十四段落(p.172 10行目­-16行目)は、ごく短い段落で最初と最後の部分だけを見ればいいと思う

『以上は内的観察が語るとことである』 (p.172 10行目)

いろいろと考察をしてきたが、要点としては、

『脳を想起の保管者と見なすことをやめるとき、既知の諸事実がどうなるのかをわれわれは探求しなければならない』(p.172 14行目­-16行目) 、とベルクソンは指摘しているのである


次の第十五段落(p.172 17行目-­p.174 8行目)とその次の第十六段落(p.174 9行目­-15行目)は、ほぼこれまでの繰り返しだが、そこまでは解説したい。その後の最後2ページ少しは、ベルクソン自身がまとめている、そこは、少し難しいが、テキストを持っている方は、ご自分で読んでいただくことが理解を深めるためにも良いと思うので省略したい

では、この章、最後の解説に入る

『少しのあいだ、説明を簡単にするために、外からきた刺激は、大脳皮質であれ、ほかの諸中枢であれ、基礎的な諸感覚を引き起こしているとしておこう。われわれはそこではつねに基礎的な諸感覚しか持たない』(p.172 17行目-­p.173 2行目)

『ところで実際、各々の知覚は、すべてが共存しつつ一定の順序で置かれているかなり多数の諸感覚を包み込んでいる』(p.173 2行目-­3行目)

ここからが問題なのだ、とベルクソンは言う

『どこからこの順序=秩序(ordre)は来るのだろうか、そして何がこの共存(coexistence)を保証するのだろうか』 (p.173 3行目­-5行目)

これに対して、まず、外的に存在する(第一章十四節参照)物質については、知覚によって『印象』が与えられるものであるのは間違いない、とベルクソンは言う。ここではこういう言い方をしている

『現存している物質的対象の場合、答えは疑いない。順序と共存は、外的対象によって印象を与えられた諸感覚器官(organe des sens)に由来する』(p.173 5-6行目)。これらの器官自体が、その平行に起きる刺激を、それなりの構成で脳に『振動』を伝えるだろう。これを、ベルクソンは『巨大な鍵盤』(p.173 9行目) と表現してこう述べている

『外的対象は、無数の音からなる和音を一挙に奏で、そうすることで、この対象と係わる感覚中枢のすべての点に対応する膨大な数の要素的感覚を一定の秩序で唯一の瞬間に惹起するのである』 (p.173 9行目­-11行目)

では、『次に外的対象か感覚器官、あるいはその両方を消して見なさい』 (p.173 11行目­-12行目)

『その場合にも先と同じ基礎的諸感覚は刺激を受けることができる。というのも、そこには同じ弦があって、この弦は同じ仕方で鳴り響く準備ができているからだ』 (p.173 12行目­-14行目)

ところで、ここで一つの疑問が生まれる

ところで、『しかし、同時に数千もの弦を鳴らし、かくも多くの単純な音を、同じ和音にまとめることを可能にするような鍵盤などどこにあるのだろうか。』(p.173 14行目­-16行目)

この問いに対して、ベルクソンはこう答える

『われわれの考えでは、「諸イマージュの領域」は、もしそれが実在するとすれば、この種の鍵盤でしかありえない』(p.173 16行目­-p.173 17行目)

これに対する、ベルクソンが反対する説においても『たしかに、純粋に心的な一つの原因が、関与する弦を直接的に振動させるとしても、それはまったく不可能なことではないだろう』 (p.173 16行目­-p.174 1行目)と言う

しかしながら、反証として挙げた感覚性失語症のこれまでの検証をまとめ、『側頭葉の一定の損傷が機能を消滅させているので、機能の局所性は確実である様に思われるが、他方でわれわれは、脳実質のある領域におかれたイマージュの残滓を認めることもできなくなるという数々の理由を呈示してきた』(p.174 2行目-3行目)と反論する

その結論として『運動図式』仮説とここでは呼んでいる、ベルクソンの主張する仮説がもっとも適当である、いや、それしか適当な仮説はここでは残っていない、と主張している

そうして、先に少しだけ触れていたが、『注意がかかる融合の条件であり、注意なしには機械的な反応を伴う諸感覚の受動的な並置があるだけだ』(p.171 13行目­-15行目) と指摘するいう意識的な行動において、『想起の現実化』が、特に重要になってくると指摘される

もうすこし詳しく説明を加えるなら、聴覚という知覚を担当する現実の器官を耳とすると、集中による意識した『想起の現実化』は、その部分について、ベルクソンが取り組んだ唯一のもので、『心的聴覚』(p.174 2行目)というべき対照的な知覚を発生させる。ベルクソンの言い方では、

『この領域が聴覚そのものの中枢との関係で、諸感覚器官 ―ここでは耳― と対照的な位置を占めているとする仮説で、ここでいう耳は心的な耳であるだろう。』(p.174 6行目­8行目)

ということになるだろう

次の段落(p.174 9行目­-15行目)では、例えば、これ以外の考え方で、この脳のこの部分が破壊されたとしても脳の機能は再生することもあり、ということはこの部分に想起が蓄積されている、ひいては、機能の中枢が想起を取り出してきて、ほかの関与する部分を機能させるというのは無理な考え方ではないだろうかのか、と言っている

読者各位には、いつにない長文の上、乱筆のほどお許し願いたい。

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