第二章「イマージュの再認について ― 記憶と脳」 第三節「想起と運動」 (上)

テキストは「物資と記憶」(ちくま文芸文庫 合田正人 松本 力 訳)を使用しています

今回の記事は、『第二章 イマージュの再認について - 記憶と脳』の第三節『想起と運動』についてまとめています。この節の内容は次節『想起の現実化』まで続いています。テキストでは、p.131 13行目からp.177 2行目に相当する部分です。この部分でこの第二章は終わりとなります

また、今回の記事は2万5千字を超える長文になったので、上、中、下の三つに分けています。テキストでは以下のようになります

上 : p.131 14行目-p.138 13行目
中 : p.138 14行目-p.156 5行目
下 : 第四節『想起の現実化』(p.156 6行目-p.177 2行目)


以下、一続きの文章も読みやすさを考えて適宜、別個の引用文として紹介していますのでご了承下さい。また、引用文は引用文中に「」があることを配慮して『』を用いて示しています

もともとは、ブログ版の記事を加筆修正したものとなります


はじめに、あらかじめ、この節『想起と運動』と次節『想起の現実化』について、どういう構成になっているかについて少し説明しておきたい

まず、この節の内容をベルクソン自身がどの様に要約していたかを振り返ってみる

この章の冒頭部分(p.102 13-15行目)では、次のように述べられる

『III - 《時間に沿って並べられた数々の想起から、空間内でのそれらの生まれつつある行動もしくは可能的な行動を描く諸運動へと、感じ取れないほど徐々に移行がなされる。脳の損傷はこれらの行動を傷つけることはできるが、これらの想起を損なうことができない。》』 (《》内は傍点付き)

また、この節の始め(p.131 14行目)では次のように書いている。

『III - 《想起から運動への漸進的な移行。再認と注意。》』(《》内は傍点付き)

これらが、今回の内容の主題となって展開されていく


さて、私見では、今回の内容は、大きく三つに分かれている

まず最初に、記憶が脳の中に蓄積されているのか、それとも脳にあるのかについての議論が行われ、従来からのベルクソンの主張通り、脳にあるのは想起し再認する為の機構だけなのか、という問題が提起される(p.131 14行目-p.146 3行目)。その主張を詳細に検討するために、ベルクソンは言葉を聞き取るということの研究を詳しく行ったと言う。そのことを、大きく二つに分けて説明している。 引用すると、

『そこでわれわれは、語の聴覚的再認の中で、第一に自動的な感覚-運動過程、第二にイマージュ想起の能動的でいわば離心的な投影を示さなければならないだろう』(p.146 1行目-3行目)

このように、ある程度の概要を述べた後、『第一に自動的な感覚-運動過程』の部分がテキストではp.146 4行目からp.156 5行目で語られ、『第二にイマージュ想起の能動的でいわば離心的な投影』についての内容が次節『想起の現実化』(p.156 6行目-p.177 2行目)にて詳細に語られるという構成になっている

ここまでが今回の解説の概要となる


はじめにベルクソンは、こう問いかける

『われわれはここで論争の本質的な部分に触れている。再認が注意深いものである場合、すなわちイマージュ想起が規則正しく現在の知覚に加わる場合、知覚が機械的に想起の出現の原因になっているのだろうか、それとも、想起が自発的に知覚に向かって進むのだろうか。この問いに対する答えに、脳と記憶のあいだに打ち立てられるだろう諸関係の本性が懸かっている。』(p.131 14行目-p.132 3行目)

最初の『論争』については、この後の段落(p.132 2行目-p.133 6行目)にある、

『実際どんな知覚のうちにも、神経を経て知覚中枢へと伝えられる震動がある。大脳皮質の別の諸中枢へのこの運動の流布が、そこにイマージュを出現させることを真の効果としているとすれば、百歩譲って、記憶は脳の働きにすぎないだろう』(p.132 3行目-5行目)

という記憶は脳に存在するという考え方と、以下の引用文にあるような

『しかし、ほかの場所と同様に、ここでも運動は運動しか生み出すことができないということ、また、知覚的震動の役割は、想起がそこに差し込まれるになるある態度を身体に刻み込むものだということをわれわれが確証するとするなら、そのときには、物質的運動の効果は、運動性適応の働きの中ですべて使い尽くされるので、それ以外の場所で想起を探さなければならないだろう』 (p.132 6行目-10行目)

ベルクソンたちの考える、脳では『物質的運動の効果は、運動性適応の働きの中ですべて使い尽くされるので、それ以外の場所で想起を探さなければならない』という、二つの仮説の論争である

非常にわかりにくいのだが、もう少し後の文章を読むと、例えがある(p.132 10行目-p.133 1行目)。ここは要約しよう

『第一の仮説』として述べられているのはわかりやすく言うと、知覚からベルクソンの言う『震動』が、脳の別の記憶を司る中枢へ伝えられると、脳のその部分に蓄えられていた『想起』がイマージュとして出現する。したがって、脳のその部分が損傷してしまうならば、記憶(『想起』)も同時に損傷し、消失するだろう

『第二の仮説』として述べられているのは、脳が司るのは、『想起』の操作を司るのであり、それはイコール『運動』である。そして、その場合、『想起』自体は別の場所に蓄積されていなければならない。なぜなら、この『第二の仮説』ならば、脳が損傷を受けたとしても、『想起』自体は傷つかず、われわれの行動だけに関係するだろう。この場合、大きく分けて二つのパターンがある。一つは『対象を前にして身体がイマージュを喚起するのに相応しい態度をとるのを妨げるだろうし』(p.132 14行目-15行目)、あるいは、もう一つの場合『この想起からそれと現存する実在との接触を遮断するだろう』(p.132 15-16行目)


第二段落(p.133 2行目−6行目)に入る

まず、『この第二の仮説がわれわれの仮説になるだろう』(p.133 2行目)と、ベルクソンは述べる

ところで、これらのことを詳細に検討する前に、先取りして少し説明することがあると言う

『その実証を探し求める前に、どのようにして、われわれが、知覚、注意、記憶の一般的な関係を表象するかについて簡潔に述べておこう』(p.133 2行目-4行目)

それは、『どのようにして一つの想起が徐々に態度または運動の中に差し込まれるようになるかを示すために、』(p.133 4行目-5行目)であり、そのために、『次の章でのわれわれの諸結論を少々先取りしなければならないだろう』(p.133 5行目-6行目)、とある


こうして、第三段落(p.133 7行目-p.134 2行目)に続く。この段落の最初にはこうある

『注意(attention)とは何だろうか』

注意についても、今回取り上げた部分には、興味深い記述がたくさんあるのだが、ここでは簡単に触れておきたい

まず、ベルクソンは、われわれの持つ一般的な注意についての概念を哲学者らしい難解な言葉で説明し、かつ、その一般的な概念の問題点を指摘している

その部分をまとめればこうなるだろう

『一面で注意は、知覚をより強烈なものにして、その細部を明らかにするという本質的な効果をもたらす。それゆえ、(中略)注意は知的状態のある程度の拡充に還元されるだろう』(p.133 7行目-9行目)。しかし、われわれの意識は、あきらかに、このような『注意』によるわれわれの内側から起こる刺激の強さの増加と、外界の刺激の強さが増すことによる知覚の増加を違うものと見なしている。つまり、『注意』は、何らかの知的な作用によるある種の『態度』見なすことができるのだが、この『知的態度』ということがうまく定義できない。ベルクソンの言葉を借りれば、『明晰な観念ではないからだ』ということになる。それで、『「精神の集中」』あるいは『「統覚的」努力』などという曖昧な言葉で説明しようとする向きもあるが、それにはベルクソンは否定的である

では、ベルクソンはどのように考えているか。それが、次の第四段落(p.134 3行目-p.135 2行目)に述べられている。ここも要約しよう

テオデュール・リボー〈前出 p.124 15行目 - 筆者註〉の説では、 『注意を、精神よりむしろ身体の一般的な適応によって定義し、(中略)何よりもまず、態度についての意識を見るような傾向が徐々に出てくるだろう』(p.134 7行目-9行目)と、ベルクソンはまず先駆者の考えを説明する。しかし、ベルクソンは、それだけでなく、実は、『現象の否定的条件だけを見ることが不可欠』だと主張する。『実際、意識的注意と同時的に生じる諸運動は何よりも停止の運動であると想定するなら、残るは、その運動に対応する精神の働きを説明することであろう』というように指摘している。しかしそのあと、さらに論を進めて、『しかし、もっと先に進み、抑制の諸現象は意志的注意の実行的諸運動を準備することでしかないと主張できる』と続く。つまり、集中している時には、よけいな物音など聞こえなくなるだろう、というようなことを言っているのである(p.134 3行目-p.134 13行目)


ここから第五段落であるのだが、文章が非常に難解なので要約すると、注意というのは、集中している部分以外の脳の運動を停止している様に見えて、実は、様々な『微細な運動が接ぎ木される』のだが、これは、前節「記憶の二つの形式」の最後で説明したところの『認知された対象の輪郭』に、『繰り返し立ち戻ることにある』と言っているのであろう。そうなると『この運動とともに、注意のもはや単に消極的なではなく積極的な働きが始まる。この働きは想起によって継続される』、と主張している(p.134 14行目-p.135 2行目)


第六段落(p.135 3行目-p.136 1行目)は、この働きについて、もう少し詳しく説明している。しばらく引用したい

『実際、外的知覚が、その大まかな輪郭線を素描する諸運動をわれわれの側に引き起こすとすれば、われわれの記憶は、受け取られた知覚に類似し、われわれの運動によってすでにその素描が描かれたところの古いイマージュをこの知覚へと差し向ける』『われわれの記憶はこうして新たに現在の知覚を創造する、というよりむしろ、われわれの記憶は、現在の知覚そのもののイマージュか、または何らかの同種のイマージュ想起を現在の知覚に送り返すことで、この知覚を二重化するのだ』 (p.135 3行目-8行目、意味のまとまりがわかりやすいように『』を使って分割した)

蛇足かもしれないが、上の引用文を私の言葉でまとめるとこうなる

『注意』によって、知覚は制限され『大まかな輪郭線を素描する諸運動』は『われわれの記憶』を行使して、『知覚』されたイマージュをそれそのものか、それと同様の『古いイマージュ』(=『イマージュ想起』)によって二重化する

以上、ここまでの『注意』についての記述を簡単にまとめると、知覚されたイマージュとまったく同様の『イマージュ想起』がない場合は、細部を再帰的に分割していき、合致する各『イマージュ想起』もしくはもとのイマージュそのものを割り当て知覚から受けるイマージュを二重化する。こうして、『記憶は知覚を強め、知覚を豊かにし、今度は知覚が、益々発展させられながら、漸増する補足的な想起を記憶へと引き寄せるのである』 (p.135 11-13行目)

この後ベルクソンは、この『注意』の基本的な働きについて『電信技手』の例えを使って説明すると述べ、次の第七段落へと続けていく

『重要な電報を受け取ると、その正確さを調べるために、発信地に対して同じ語を返信する電信技手に。』 (p.135 16行目-p.136 1行目)


第七段落(p.136 2行目-14行目)からは、『注意』を『電信技手』の比喩を用いてさらに詳しく説明される

ここからは、記憶を二重化されるための仕組み、ベルクソンの言葉で言い換えれば、記憶の『照会』についてさらに詳しく述べられてると言っても良いだろう

『しかし、照会のために電報を返送するには機械装置を操作できなければならない。同様に、知覚に対して、そこからかつて受け取られたイマージュを反射するためには、イマージュを再現しうる、つまり総合の努力によってイマージュを再構成しうるのでなければならない』 (p.136 2行目-5行目)

と、ベルクソンは『注意』の働きが、単に分析だけではないことを指摘する。というのも、それまでは、『どうしてこの種の分析が可能であるかということも、どんな過程によって、われわれは知覚の中に、最初はそこに現れていなかったものを発見できるかということも、十分に説明されなかった』(p.136 6行目-8行目)為である

ところで、この段落では最終的に、この知覚の二重化の仕組み、すなわち、再帰的に記憶を照会し組み立てる仕組みは、『模倣(imitation)の運動であり、それによって知覚は継続され、これが知覚と思い出されたイマージュとに共通の仕組みとして役立つことになるのだ』(p.136 12行目-14行目)と述べている

ちなみに、先取りして言うと、ベルクソンは後で、言語の忘却に関して、まず固有名詞、次に普通名詞、最後に動詞の順番で忘れやすい。これは、動詞が模倣可能な運動を示すからだ、という指摘をするのであるが(p.162 2行目-p.163 終わり)、これも知覚の二重化に密接に関連しているというのが、ベルクソンの主張であると思われる


さて、第八段落(p.136 15行目-p.138 13行目)から数段落は、上の例を用いてるにも関わらず、かなり難解なので、要点だけを押さえていくことにしよう

まず、『しかし、その場合には、判明な知覚の機構を通常行うのとは別の仕方で表象しなければならないだろう』とベルクソンは言う

単なる知覚とは、ベルクソンの言葉を借りれば、『精神によって寄せ集められ、あるいは練り上げられする諸印象』(p.136 16行目−17行目)と言っていいだろう。しかしベルクソンはこれを否定して言う

『しかし、どんな注意的知覚も、語原的な意味での《反射(rélrexion)》、つまり対象と同一的かまたは類似的なものとして、対象の輪郭に相即するものとして能動的に生み出されたイマージュの、外部への投影をまさに前提としている』(p.137 2行目−4行目、《》内は原文中では傍点付きとイタリック)

次に具体的な例がある。じっとものを見ると輪郭の残像が残ることがあるが、これは、すでに脳の中でイマージュが用意されて、内側から外側へ『反射』されているためだという(p.137 4行目-6行目)。これは、現代の知識からすると、やや曖昧な表現であると思うので少し考察したい。

たとえば、赤いペンで白い紙に雲を描く。しばらく見続け、白い壁を見ると緑の雲が見える。これは、正確に言えば、ベルクソンの言う『反射』によるイマージュが残る残像とは言えないだろう。眼底の色に反応する視神経の化学反応がいわば一種の焼き付き状態から回復してないために補色が凝視していた物の形でのこる。つまりは素早く動くものと同じような残像現象とほとんど同じようなことが起こっているだけなのである。しかし、他方、目に焼き付けるというような表現が当てはまるような場合、即ち、何かをじっと見たあと、目をつぶってそのものの映像を目の中に残そうとするときに、その残像が見えることをこの場合のベルクソンの言う『反射』とすれば誰にでも納得できるのではないだろうか

ここでは、ベルクソンは後者の例をあげているのだろうと解釈して、続けてベルクソンの主張を追っていきたい

このあとすぐに、『遠心的知覚中枢』というものを持ち出し、ベルクソンたちの考え方と異なる部分を注意している

『最近発見された遠心的知覚中枢は、事態がそのように規則正しく行われ、中枢へと印象をもたらす求心的な過程のほかにもう一つ逆の過程があり、それがイマージュを(対象の)表面へと連れ戻していると考えるようわれわれをし向けるだろう。たしかに、ここで問題となっているのは、対象そのものについて写真撮影されたイマージュならびに、知覚に直接的に後続し、知覚のこだまでしかない想起である』 (p.137 7行目-11行目)

しかし、ベルクソンは、ここで記憶に蓄えられたイマージュと知覚されたイマージュはまったく同一であることはなく、『程度の差はあれかなり隔たった親縁性しかない』と問題点を指摘している。

ところで、ここで、ベルクソンの叙述は急激な転調を見せる。しかし、われわれがその表現をここで理解するには、余りに唐突で曖昧すぎるので後回しにして、この後、ベルクソンが挙げている研究の例をまずに簡単に紹介しよう。

ミュンスタバーク(35)〈()内の数字は、テキスト内の引用文献の番号 ― 筆者註〉Hugo Münsterberg,1863-1916,ドイツの心理学者]とキュルペ[Oswald Külpe, 1862-1915,ドイツの心理学者]による数々の実験は、知覚とイマージュ想起の区別が実質不可能であることを示している。(p.137 15行目-p.138 3行目)

さらに、これを補強しているのが、ゴルトシャイダー[Alfred H. Goltsheider,1858-1935,ドイツの医学者]とミュラーの研究であり、その研究は、『流れるような読書が真の予見の働きであるということを明らかにした』。それは、『イマージュ想起 ー紙の上に投影されると実際に印刷されている文字の代わりをし、そうした文字であるかの錯覚をわれわれに与えるー によって隙間の全体を埋める』、ということであった。 (p.138 3行目-10行目)

これらの例は、先に後回しにした、ベルクソン独特の表現を借りて説明すればこうなる

『これらのイマージュはいずれも知覚を出迎えに生き、知覚の実質に養われることで、知覚を用いて自己を外在化するための十分な力と生気を獲得す』る(p.137 14-15行目)

あるいは、『われわれの判明な知覚はまさに閉じた円環に比しうるもので、そこでは、精神に差し向けられたイマージュ知覚と、空間に投げられたイマージュ想起が互いに追いかけ合っているのである』(p.138 12行目-13行目)



Comments